第二章 若き少将の冒険
第一節
海を西へ (3467字)
その日、お忙しい身の父君は午後からお出かけの予定があり、難題の具体的な話はまた日を改めて続けることになった。
「よくよく考えておきなさい。今までしてきたこと、これからしたいこと、いろいろとな」
虫姫は文机の前に座り、折に触れて父上からうかがっていたお仕事上の体験談を、ひとつひとつ思い出してみる。
私もできるだろうか。父上のなさったように。
今までは私の望むままに研究させてもらったけれど。『論衡』は、お仕事うんぬん以前に、面白い文献として読み込んでいる。「陰陽五行は迷信である」とか、初めて読んだときには、こういう考え方があるのかと驚いた箇所も多かった。でも父上は、「知識だけが必要なのではない」とおっしゃった。書に載っている知識ではなく、考え方の構えが重要だ、とは。うむむ。難題とやら、私に解けるだろうか。
疑問を抱きつつ机に向かう姫は、いつもの童水干に身をくるんでいる。この、コオロギ模様を散らした男童用衣類は、もっぱら動きやすいため作業着として愛用しているのだ。男装の麗人と言うよりはどう見ても男童そのままの姿で横座りし、虫姫は思い返す。蚕をはじめとして、多種多様な蝶や蛾の幼虫を集めて育てたこと。カマキリやカミキリ、トンボ、鈴虫や松虫、コオロギ、蝉、カブト虫やクワガタ、はてはホウネンエビについて、飼育経験を細かく思い出し、さまざまな記録を読み返す。
はあ、難題か。ため息をついて、姫はまた面を伏せてしまう。
◇ ◇ ◇
さて次の日。大納言は、今日なら一日家におられるので昨日の話を続けよう、とおっしゃった。ちなみに按察使の大納言はいささか晩婚で、奥方は虫姫の母上しかいらっしゃらない。お屋敷もこの一条邸だけお持ちで、いつも奥方、虫姫と共に暮らしておられる。一夫一婦を守るそのご様子に、少なくない女房たちが「おうらやましい」と申しているとか。
「姫は少し疲れておるかな?」
大納言は虫姫の表情にいくぶんかの陰りを感じたようだ。
「いえ、大丈夫でございます。少し寝違えましたので」
笑顔を見せて、姫は答える。実のところ昨夜は、とてつもなく巨大な蚕が都を蹂躙して東寺五重塔に繭を張り、その狼藉を双子の小柄な巫女が歌いながら退治するという、なんとも波瀾万丈な夢にうなされたのだけれど、とてもとても、そんな話を父上に申し上げるわけにもいかない。
「ふむ。まあ、いきなり難題を解けと言われても、驚きは大きいかな。どうやら、自らの体験を詳しく語り直すときが、ようやく訪れたようじゃな。これから話すことは、姫が幼きころから折に触れ要点をかいつまんでは聞かせたものだ。この大納言が、なにゆえ蜂飼いの大臣と呼ばれるようになったか。その経緯をいま一度、子細にふり返ってみようか」
◇ ◇ ◇
寛滋七年というから、今を去ることおよそ三十余年前。後に按察使の大納言と呼ばれる公達、
前年十一月、秋の
すでにいにしえより、
ときの
「私の代わりに備前へ赴き、山郷の殖産を見て回れ」
さすがに備前守も、公務に就きたての若者をかの地の盛業に触れさせようとはしない。備前には西国一とも称される産業がいくつもある。良き米を大量に生み出す農産、
そもそも備前国は、『延喜式』巻第二十四にて上糸国の一つに挙げられるほどの、上等な生糸を税として収めてきた養蚕地帯なのだった。それが、ごく限られた山郷においての話ではあるが、何らかの面でうまくいかない問題をはらんでいるらしい。
宗輔は考え込む。先日は兄上がこぼしておられた。
「政争に関わる疑いを持たれれば、まことに申し開きの方法がないのだよ」
……こたびの任務は、そんな流れのゆえなのだろうか。備前守の育ててやろうという親心ととるべきか、はたまた、都からの一時的追放ととるべきか……。昨年より、父上が臥せりがちとなってから、いろいろなことが起こりだした気がする。これもまた関係するのか。
いずれにせよ、若き権介殿は、ふるわぬ分野の税収を上げて見せなければならない。
◇ ◇ ◇
宗輔が出立のご挨拶に伺うと、父上はおっしゃった。
「努めよ。そなたならできよう」
枕もとには、あの金石薬の異臭が漂っている。
憎らしい、鉱物の薬方。このにおいは、飲んではならぬと強く感じさせる。
父上の病情には、今もって改善の気配さえない。
古き社の神官に祓わせ、密教僧に加持祈祷を行じさせても、あるいは名高き陰陽師に秘術を奮わせようとも、病魔は退散の様子を微塵もあらわさぬ。
頬が冷たいのは夜風のせいだ。涙なぞ、とうの昔に出なくなっている。
私は、どうなるのか。
……いや、そうではない。
どうするべきなのか。
少将、宗輔は月を見上げる。
◇ ◇ ◇
京の都から淡路まで、かの紀貫之が記した『土佐日記』をいちいち思い起こすようなありさまが続いた。すなわち、桂川淀川を早船でくだり、難波津より大船にて西へと下る旅路である。
太宰府へも渡れるという大船を、宗輔はそのとき初めて目にした。それはまるで、砦が海面に浮かんでいるかのようだ。そんな大船が、難波津には数えきれぬほど停泊していた。船だけではない。はるか唐土からの商船を乗り継いで来たのだろう、あまたの異国人の姿も見受けられる。
そして、船から塩俵や西国産物の数々があれよあれよと言う間に降ろされていくかと思えば、別の船では幾多の荷が厳重な包装にて積み込まれていく。聞けば、それは緻密な錦や家具調度など、畿内産の高級物品なのだそうな。
間近に眺めたのは世の仕組みのごく一端ではあるが、宗輔は目まいを感じる思いがした。都にも大勢の人が種々雑多な仕事をなしているけれど、日域の産物は日々このようにして運ばれているのか。これらの大船のうちいくつかが、遠くは駿河を越え、東国を過ぎ、奥州へまでも至るという。そして錦などは、太宰府から唐土へ、あるいは奥州から北へ、果ては渤海と呼ばれたあたりまでも流れていくらしい。
三月に吹く風はまだ身に染みる。沖に出て、
沖の海はその藍色を深め、空に浮かぶ雲はどこまでも高く白く、島々の影は遠く近くを過ぎてゆく。遙かな島影はおぼろにかすみ、仙界の景色もかくや、とまで感じるのだった。
天候にも恵まれ、昼は航行、夜は港に宿泊してを繰り返し、ようやく九日めに
「三日もすれば地に足が着きましょう」
◇ ◇ ◇
目代は何かを聞きたそうな顔をちらとはのぞかせたけれど、ただ淡々と新任受領を迎えるのだった。備前守、源国明の家臣である目代は、これより先、受領を補佐するという名目で監視怠らぬよう密命を受けている。無表情なまま、目代は国明からの下知を思い返す。
(この若き殿が山郷へ送りこまれるとな。受領が山奥に。はてさて、何がどうなるというのか)
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