激情ラ・ヴァルス
「えっ、お姉ちゃん知り合いだったの?」
反応を見てか佐野(妹?)先輩は姉に尋ねた。
「うん、ちょっと雨宿りにね。濡れた子犬のようだったから」
「子犬って……」
からかい気味に佐野(姉?)先輩は答えた。気さくな笑顔で。
「それにしてもここで再会できるなんてね! 私は一応ここの顧問をしてるの、これからよろしくね」
差し出される握手にとりあえず応じるものの、思わぬ形での再会がかなうこととなり、僕としては嬉しいような気恥しいような、そんな気分がしばらく続いて呆然とした。しばらくしてゴミ捨てから戻って来たらしい橘先輩とおだやか先輩(本人はなんだかんだでこの名前が気に入ってるらしい)、様子を見ていた谷沢さんがこちらに近づいてきた会話は賑やかになった。
「師匠! 師匠ではありませんか」
両手を挙げて崇拝するかのように大げさにお辞儀する橘先輩、もうやめてよと彼女は静するが橘先輩の顔をのぞき込んで察したのか
「ベルガマスク、私も聞きたかったわ。ごめんね、遅くなっちゃって」
と言って橘先輩の頭をポンポンと撫でた。
「改めまして、ピアノ同好会の顧問をしている佐野洋子です。この子の姉です。この学校の先生ではないんだけど、まあ同好会ということで特別に許可をもらっているの。だから先生というか……近所のお姉さん? みたいな」
「こちら私のお姉ちゃんです」
少しはにかんで佐野先輩が左手をひらひらと泳がせ紹介する。
「谷沢莉緒です。よろしくお願いします」
「こ、近衛廉太郎です。この前はありがとうございました」
「うん、よろしくね。新入生の皆さん。あまりこちらに顔を出せるわけじゃないのだけれど、それなりにアドバイスはできると思うから」
そうだ、と佐野先輩は手を叩いた。
「今後の活動について、まだ全然説明してなかったわよね。せっかくだからお姉ちゃん。軽く今後の目標を決めてよ」
「お、そういうことなら話が早い。実はね、次の演奏会のスケジュールが決まったのよ」
音楽室同好会のメンバー5人が再び音楽室に集まる。輪になるようにして立つ僕たちを前に彼女は切り出す。
「私のお店、カフェ・カンタービレの定期コンサートを行います。次の開催時期は7月20日。ちょうど終業式の次の日ですね。このコンサートには毎回1年生の子たちも演奏者として参加してもらいます。楽曲は私と相談して決めていきましょう。」
「コンサート、ですか……」
それまでの穏やかだったピアノ同好会の空気が少しだけ引き締まる。不安そうな表情をしたのは僕の隣にいた谷沢さんも同様だったらしく、佐野さんは
「そんなにこわばらなくても大丈夫よ」と付け加えてから、
「初心者からベテランまで、私たちの成果を見せるちょっとした機会っていうのかな。ほら、部活動的にはやっぱり学校側もきちんと成果を見なくてはいけないってことよ」
「そうそう、私もピアノ歴3ヵ月目でステージ立たされたし」
あっけらかんとした様子で橘先輩が口を開く。
「そういうこと。大丈夫! 私もできる限り顔を出すし、なんだったらまたお店に来てもいいわよ」
「お店……?」
「カフェ・カンタービレですね」
「知っていたのね近衛くん」
「ええ、まあ……同好会の顧問だったとは知りませんでしたが」
ベーゼンドルファーのフルコンが脳裏によぎる。本当にこの人は何者なんだろう。ただのピアノが得意なお姉さん、にしては恐ろしいほどのテクニックだったし。先ほどの橘先輩のベルガマスクもいい意味でピアノ歴3年目とは思えない演奏だった。それを知るにも今後もあのカフェにお邪魔してみるのもよいだろう。
音楽は好きだし、有名なピアニストのCDもそれなりに聞いているつもりだ。お気に入りはアリス=沙良・オットのショパン、それからバレンボイムのベートーヴェン。そういうプロとは一線を画しているものの、この人の演奏はどこか浮世離れした神秘さを感じられずにはいられない。
「……はぁ」
同好会の集会はひとまずその話をした後解散になり、僕は帰り支度を済ませて学校の玄関、昇降口に来た。
そういう風に、発表の機会があるというのはなんとなく察してはいたが、いざ口にされると少し僕には荷が重くて、一度考えだすと負の連鎖が止まらない。僕のピアノが、というか重苦しいクラシックの曲が周りに受け入れられるだろうか。近頃はクラシック音楽の人気は衰退していると聞いている。
頭の中をぐるぐると、レパートリに巡らせる。が、そうしている間に後ろから自分の名前を呼ぶ声がして我に返る。
「近衛くん」
「……え?」
振り返ると谷沢さんがそこに立っていた。
「どうしたの? ぼうっとしてたみたい」
「ああ、いや、コンサート、何を、弾こうかなって」
異性との会話がどうにも苦手だ。同性なら得意というわけでもないけれど。どうしよう、少し変な感じになったかな。
「もう考えてるんだ、すごいね」
「ああ、準備のいることだからね。とりわけ僕はあがり症だし」
「ピアノももうずっと弾いてるんだっけ?」
「そ、そうだね。谷沢さんは……」
「そっか、すごいね」
「……」
しばらくの沈黙の後、
「じゃあ私、もう行くね」とそっけなく言って彼女は帰っていった。
「……はぁ」
へんな奴だと思われた。第一印象は最悪かもしれない。
せめて同好会の仲間として、彼女とは仲良くやっていきたい(恋愛感情ではない)と思っていたのに、これは先が思いやられる気がしてきた。自分のコミュニケーション能力の無さにただただ後悔のため息を漏らし、僕もさっさと帰路につくことにした。
帰宅して、制服のままさっそく本棚から楽譜を漁り始める。大した量ではないが、一応経験年数相応にいろいろな曲には挑戦してきた。モーツァルトやショパンの有名どころはもはや飽きるぐらい弾いたし、カッコいいからという理由だけでラフマニノフやスクリャービンなどの大型な曲にも取り組んだりした。超絶技巧に憧れてリストなんかにも手を出したけど、これらは結局楽譜を積んだまま終わってしまった。
「……宿題するか」
やめたやめた。時間はまだたっぷりあるんだし、何とかなる。楽譜を再び本棚に戻そうとしてそれにしてもと再び別のことが頭に浮かんできた。
それにしても、たまたま出会ったのが佐野先生で、こうして彼女の指導の下でピアノが弾けるなんてなんていう幸運だろう。こちらからカフェに通う理由ができてしまったし、学校でも時々会える。思いがけない幸運に思わず気分が高揚する。
僕、近衛廉太郎は佐野洋子先生に一目ぼれした。思い人がいるというだけでこんなに気分が明るくなるものだろうか、恋はしてみるものだと僕の小学生の頃すこしだけ教わっていたピアノの先生は言ってたが、精神論もあながちバカにできないということだろうか。
結局今日も机の上に数学の課題を開いてしばらくは集中できなかった。
***
翌日、放課後のピアノ同好会の活動に行こうとして、音楽室に近づくと聞きなれない音楽が流れて来た。三拍子の優雅な旋律が流れてくる。ワルツだろう。
「あれ、この曲……」
音が多い。すぐに二台のピアノのための曲だと気が付いた。ピアノ曲の中には一台のピアノをふたりで共有して弾く「連弾」と、ふたりで一台ずつピアノをつかう形式の曲もある。二人とも恐ろしい手さばきで次から次へと鍵盤をたたきならしているのが目に浮かんでくる。誰かが練習しているらしい。
やがて聞き覚えのあるフレーズが流れて来た。「ラ・ヴァルス」か。フランスの作曲家ラヴェルが書いた曲。名前の通り「ワルツ」だ。ただし「花のワルツ」だとか「青く美しきドナウ」だとか、いわゆる一般的に連想されるワルツとは少し事情が異なる。
重々しい低音から始まる。この時点でワルツとしては少し異質。やがて黒々とした泥のようなそれは粘土をこねるように不規則な音を並べ、繋げ、繰り返し、フレーズに生まれ変わる。生まれたての生命が試すように美麗な声を発していく。ワルツとは社交界で踊るための曲だ。よってテンポは基本的には一定であるのが好ましい。ところがこれはそう一筋縄ではいかない。
生き物はやがて完全に美女の姿に成り代わった。社交界に紛れ込む化けの皮を被った生き物。時々本性を現しそうになるものの、そうした狂気も含めてワルツは強引に進められていく。
音楽室の小窓から中を覗いてみた。ラ・ヴァルスを弾いていたのは佐野先生とその妹の佐野先輩だった。すごい。姉妹だけあって息もぴったりだ。それにしても……
ピアノを弾いている佐野先輩を見たのは実はこのときが初めてだった。彼女はなぜが僕たちの前であまりピアノを弾きたがらなかったのだが。彼女の様子を盗み見て、僕はなんだかその理由を察してしまったような気がする。
「み~た~な~!」
「うわぁ!」
突然首筋に当たる冷たい手の感触。っていうか濡れてる。
「アハハハ、ごめんごめん」
「橘先輩!」
ハッとして音楽室の方を見る。良かった、気づかれていないようで二人はまだ演奏を続けている。本当に気づいていないのか、すごい集中力だ。
橘先輩は濡れた手をハンカチで拭うと、僕にこう言った。
「すごいよねぇ、聡子ちゃん。人は見かけによらないよ」
「見かけによらないというか、なんというかあれは……」
「別人みたいだよね。本気の表情っていうのかな。ああなった聡子ちゃんは誰にも止められないよ」
「なんだか、バトルマンガみたいな言い方ですね」
「だって、似たようなものだし!」
そう言いつつ僕は再び音楽室の小窓から二人の演奏を眺めていた。ピアノに向かい合う佐野(妹)先輩の表情はこれまでに見たことのないくらい真剣な表情をしている。それでいてどこか妖しさというか、魔性を感じるような顔をしていた。乱れた髪の毛が美しい。花魁のような艶を思わず感じてしまう。そんな風に意識していなかったのに、突然唇の下の黒子が妙にエロティックに思えてきた。
「姉妹なんだよねぇ。音楽に関する情熱とか、やっぱり私じゃかなわないというか」
「……すごいですね。二台ピアノで佐野先生と張り合うなんて」
「本当にね……私もビックリしちゃうわ。まあそういうところも含めて尊敬してるけどさ」
やがて舞踏会は終焉を迎える。このラ・ヴァルス最大の特徴、それは、突然訪れるたった二小節の終結である。これまでのドレス美女を思わせる優雅と狂気の葛藤が突然、雷に打たれたかのように力強い打鍵によって強制的に終了する。この歯切れの悪さが猟奇的な余韻を聞き手に与える、ラ・ヴァルスの醍醐味でもある。心のざわつきはいつまでも人の心に残り、そのスリルが次第に高揚感へ昇華されていく。
なるほど、佐野先輩はこんなふうに高揚感のある曲でもって自身をトリップさせちゃうタイプの弾き手らしい。僕はそんな風に彼女のことを分析した。
「……すごい」
思わず言葉が漏れる。その場から動けず、ただただ二人を見ている。激情に身を任せてピアノを弾く人間をこれほど美しいと感じるのもなんだか珍しい気がする。そしてすぐに原因に気が付く。いつもはCDだけで聞くことが多いから、なのかもしれない。近頃はコンサートにも通っていなかったし。
忘れていたことだが、CDと生の演奏は与える印象がまるで違う。ただ弾くだけではだめだとこのとき改めて痛感した。それと同時に、僕にもあんな演奏ができるのだろうかという焦りが表れた。
「……~!」
「あはは、そこいつも詰まるよねぇ。ほら、もう一回やるよ!」
奥のピアノで弾いていた佐野聡子の手が止まる。どうやらミスタッチしたらしい。
正直分からないレベルだったけど。
「もうなんでこの部分こんなに難しいの!」
「ワルツだよワルツ! ほら三拍子数えて」
「うぅ……はい」
演奏が止まると途端に素の聡子先輩になるのか。こういうスイッチが入る人ってやっぱすごいなぁ。思わずその変貌にニヤニヤしていると、脇腹を橘先輩にふいに小突かれて情けない声を出してしまった。ピアノの音が出てない時だったのだろうから、さすがに気づかれてしまった。
「おや、観客が来てたみたいだよ聡子ちゃん?」
「……え」
「どうも~!」
「ああ、ええと……ラ・ヴァルス、すごかったです!」
これでもかという具合に頬を赤らめて、それから数十分聡子先輩は僕たちに目を合わせてくれなかった。来てたのなら声をかけてくれとかぶつぶつ言いながら、ラ・ヴァルスの楽譜を握りしめている。まだ興奮冷めやらぬ様子だ。
「私ってこういうスリリングなノリの曲が大好きで……ついついスイッチが入るタイプなのよ」
「まあ、そういう人もいるよね。レースゲームで曲がる時、体まで一緒に動いちゃう感じの」
「うん、うん、そういう人はいます。恥ずかしがることじゃありませんって先輩!」
「ラ・ヴァルスっていうんでしたっけ? 結構激しい感じの曲でしたね」
聡子先輩の楽譜をポンと手に取って橘先輩が興味津々に眺める。やがてすぐに顔をしかめて戻してしまうが。頁が真っ黒だ。ベルガマスクの前奏曲とは比べ物にならない音符の密度だ。
「聡子ちゃんが今度のコンサートで弾きたいっていうから譜読みをね。今度は二台ピアノでやるわよ」
「あれ、でもカンタービレはベーゼンドルファーの一台しかありませんでしたよね?」
「ベーゼンドルファー?」
首をかしげる橘先輩をよそに佐野先生は急に得意げな表情になって答える。
「ほーう? ラ・ヴァルスを知っているあたり、君もそういうクチだと思っていたけれど」
顎に拳をあてて自慢げに佐野先輩は口を開いた。
「まあそれは今はともかく。ピアノは江津のコンサートホールからもう一台を借りる手はずになっているから、大丈夫よ」
「いつの間にそんな約束を……」
「こう見えてお姉ちゃんの顔は広いのよ、聡子ちゃん」
「とにかく楽器や楽曲の準備については私もある程度融通が利くから、近衛くんも一緒にどんな曲にしていくか考えていきましょうね」
腰に手を当てて得意げに佐野先生は微笑んだ。
「聡子ちゃん、今日詰まったところ、練習してきてね。全員集まったら『カンタービレ』へ行きましょう。よりよいコンサートにするために作戦会議をしにいくわよ」
「やった! ケーキバイキング!」
「食べた分カロリー消費はしっかりしてもらうわよ千代ちゃん」
「分かってますって!」
ピアノ同好会の活動。本日は選曲会議、と。
「みんなが来るまで何しようか」
「……私、近衛くんのピアノも聞いてみたいのだけど」
突然佐野先輩が口を開いた。あまりに不意を食らったので、その言葉が頭をぐるぐると回り始める。
「え、ええ、僕ですか?」
「そういえば私も気になってたんだけど、近衛くんも実はかなり弾けるクチなんでしょう?」
と、これは橘先輩。
「で、でも人前で弾くのは……」
「そうね、いい機会だし、部員の実力を知っておくのもいい機会だと思うわ。といっても楽譜が……」
「そ、そう、実は持っていないんですよ楽譜を」
「あら、残念」
よかった。とっさに言葉が出たけど、まあ楽譜を持ってきてないってのは本当だ。結局どれを引くべきか迷って本棚にそのままにしてきたんだから。
「じゃあ、カフェについてからね」
「……ええっ」
「楽譜なら何でもあるから、ベーゼンドルファーちゃんで、好きなの弾いていいから!」
どうしよう、とんでもないことになった。まだ音楽室で弾いた方が被害が少ない気がする。カフェで? あのピアノを使って弾くことになるなんて。
「あの、それってもしかして僕たち以外にもお客が……」
「ああ、確かに常連さんもいるだろうけど、あんまり気にしなくて大丈夫よ。いつものことだから」
墓穴を掘った。いや、この場合そもそも逃げ道もなかったけど。
こうして、僕の演奏デビューが思わぬ形で実行されることになる。カフェに向かう僕の顔色はドナウ川のように青かったと、あの谷沢さんでさえ冗談気味にからかうぐらいには。
魔法使いのカンタービレ 魚沼 @Sutaba
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