うたかたの国

九条晴弥

第1話

 張り詰めた空気を感じさせる主の居室へ、司馬懿は足を踏み入れた。

「御呼びで御座いますか、曹丕様」

 大方、今日の軍議での献策が受け入れられなかった事でも嘲うつもりなのだろうと思いつつも、司馬懿は拱手の礼を取った。そして顔を上げ、視線が合うと冷徹で傲岸な瞳が司馬懿を射止めた。

「父上への献策は退けられた様だな」

 想像した通り、曹丕は嗤った。

『益州さえ押さえてしまえば、劉備は拠るべき地を失います』

 ……嘲われても仕方ない。

 今となっては何の意味もない。そう、本当にどうでも良いのだ。

 ふと、曹丕と近しい自身を曹操が厭うていると云う噂が脳裏を去来した。曹操は曹丕の弟の曹植に目を掛けている事も事実だった。

 だが、司馬懿は不思議とこの八つも年下の主が嫌いではなかった。何故か曹操の臣下であると云うよりは、曹丕のそれであると云う意識を強く持っていた。

 しかし、いつからか彼の眼差しにどうしようもなく抗いたくなる衝動に駆られ始めた。子供じみた同族嫌悪か。それとも自らの気付かぬうちに、天下への野心でも芽生えたか……手にした爵の酒をじっと凝視した。

 しばしの沈黙。

 それを先に破ったのは曹丕だった。

「劉備が蜀を──曹、孫、劉氏が並び立つのか。誰がこの乱世を収束させるのだろうな」

 司馬懿はそれを聞くと、爵を卓に置いた。

「可笑しな事を仰せになる。何故曹家ではないのです」

「戦の世は未だ終わってはおらぬ。何が起きるか解らぬものだ。現に筵売りが蜀を得たではないか」

 だが、と一言置いて

「それを成し遂げるのは曹家ではあるまい。俺はその様な気がしてならぬ」

「確かに、曹植様が曹家を御継ぎになればあり得ませぬでしょうな」

 そう司馬懿が返すと、気の所為か曹丕の瞳から今迄の鋭さが消えた。

「その件も、どうなるやら解らぬ事だ」

 今、曹家では曹操の後継者に関する噂が絶える事が無かった。その中でも、曹丕と曹植が有力視されている。

「皆、父上の跡継ぎは俺か植かを気にしておる」

 どちらに媚び諂う方が利口か、とな。

 爵に残った酒を一飲みした後、曹丕は自嘲した。

「しかし、曹植様では他の方々も反対致しましょう」

「さあ……父上は植を可愛がっておるからな」

 曹操が曹植を気に入っているのは周知の事実だが、曹植には世継ぎの器に欠けているのも事実であり、長子である事も含めて古参の臣下達は曹丕を推す声が強い。

 司馬懿もまた、その一人だった。それに曹丕自身も表には出さないが、着実にその座を狙っている雰囲気がある。

「いや、世継ぎは貴方だ。貴方はどの様な手を使っても世継ぎ──帝位の座をも手中に収めましょう」

「ほう……面白い事を云う」

 分をわきまえぬ失言と司馬懿は思ったが、曹丕はいたく気に入った様でさらに続ける。

「もし俺が父上の後を継いで、この華北の地を滅ぼしたらどうする?三國統一の半ばで倒れたら、この地はどうなる?そして曹家に治世を任せられぬ者がおらぬ時は如何するのか!?」

 ここまで激した曹丕を司馬懿は眼にした事が無かった。余程酔うておられるのか。違う。酔いが回っているのは私──自然と口から言葉が溢れた。

「そうなれば華北、江南、巴蜀の地。総て我が司馬一族が戴いてもよろしゅう御座いますか?」

 一抹の静寂……その直後に待っていたのは、主の笑い声だった。何故笑うのか、司馬懿には理解出来なかった。造反とも取れる発言の何処がそこまで可笑しいのか。

 一頻り笑った後、曹丕は云った。

「仲達は本当に面白いな。解った。俺が死に、叡も死に、曹家にこの地を治められる人間が存在しない様であれば、お前の一族に華北はくれてやる」   

 そう云って、曹丕は牀の上に横になった。

「御戯れを……今の話は乱世に生きる人間の戯言と御思い下さい」

 そうだ。自分も主も酷く酔っているのだ。

 そろそろ帰路に着こうとして居室を辞そうとした瞬間、曹丕に呼び止められた。

「しかし、お前の一族が創り上げる国、この眼で見る事が叶わぬのが残念と言えば残念か……」

 思いがけない言葉だった。司馬懿は思わず牀の上の曹丕を振り返った。

「そうとう酔いが回ったな。俺は寝るぞ。酒に付き合うてくれて礼を云う」

「こちらこそ……それではお休みなさいませ」

 司馬懿は居室を後にし、回廊を歩く。

 吐息も白くなる程の冷たさを孕んだ夜気。澄み切った夜空は、星々がその輝きを 増すのに一役買っている様だった。

 先程の曹丕の言葉を思い返す。

 司馬一族の国、自分も見る事は無いはずだ。

 案ずるは古今の歴史上、生まれては消えていった数多の王朝の様に、砂上の楼閣の如く簡単に崩壊を招かないか……いや、乱世の無い時代が永久に訪れない限り難しいだろう。

 所詮は──うたかたの国。

 

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