第3話

 ダイニングルームの扉を押すと、ギイっと、古めかしい建物特有の音が鳴る。すっかりと耳に慣れたその音を聞きながら、アイオライトは静かに部屋の中へと入った。

 壁に掛けられた時計へ目をやると、所定の時間まではまだいくらか時間があった。時計の針が天辺で交わった時、それが“ヒトでないもの”の食事の時間だ。


「今日は何を読もうかな?」


 初めてここを訪れた時はがらんどうだったこの部屋も、アイオライトのリクエストで部屋の半分の壁はまるで図書室のようにかつての地球の文学書でぎっしりと埋まっていた。

 アイオライトは気まぐれにその中の一冊へと手を伸ばす。パラパラとめくりながら目を落とすと、それは随分と昔に読んだことのある一冊だった。主人公の青年が、自分が生まれてきた意味を問う、私小説に近い話だった。


「生まれてきた意味、ねえ」


 アイオライトは無感情にその文字列を追いながらぽつりと呟いた。確か幼い頃の自分はこの主人公に共感していたのではなかったか? まだ何か、例えばここから出ることが叶うような、そんなことに夢を見ていた頃だったのかもしれない。今は、そんな些末な記憶は忘れてしまって思い出せもしないけれど。


(ヒトは、“ヒトでないもの”の食料以外の意味で生まれてこない)


 アイオライトが生まれてくる随分と昔から、ヒトの出生にそれ以外の意味なんてなかった。だとすると、アイオライトの生まれてきた意味は、藍玉に食べられることなのだ。


(だから、食べられないで命を終えるなんて、そんなこと考えられないのに)


 先程の石黄の言葉を思い出し、アイオライトは無意識に本を持つ手に力を込めた。


(“食べ損なわれ”て、“オヤ”になるなんて、死んだ方がマシだよ)


 眉間にぐっと力が入ったところで、ギイっ、と先ほど自分が入ってくる時にも鳴った音が部屋に響いた。アイオライトはその音に素早く反応すると、反対側の壁へとすぐに視線をやる。


「こんばんは。藍玉」


 アイオライトはそう声をかけると、今しがた手にしていた本をパタンと閉じて元の場所へと戻す。反対側の扉の前で、アイオライトの声に反応した藍玉が小さく微笑んだのが分かった。


(今日も綺麗だ)


 初めてこの部屋で会ったあの夜、アイオライトは恐怖心の先に現れた少女に場違いにも恋に堕ちた。ボロボロと涙を流す美しい少女の姿に、アイオライトは自分の心の奥をぎゅっと締め付けられて以来、最悪であるはずのこの時間は、最愛の時間へと変わった。


(まあでも、泣かせたいわけじゃないんだと思うけど)


 泣き顔に反応した当時の自分の記憶に小首を傾げながら、アイオライトが藍玉に吸い寄せられるように部屋の中央へ向かい足を進めると、呼応したように藍玉もこちらへ向かい歩き始めた。歩くたびに藍玉の金糸が胸元で揺れ、室内の照明を反射してキラキラと光を生んだ。初めて出会った時からアイオライトを捉えて離さないアクアマリンの瞳が真っ直ぐにアイオライトだけを見て向かってくる、この瞬間が好きだった。


「……こんばんは。アイオライト」


 藍玉の柔らかなアクアマリンがアイオライトを見上げる。


(ああ、どうしてこのまま抱きしめられないのかな?)


 金の格子越しにしか掴めない藍玉の輪郭に、本能のままに伸ばせない腕に、自分達を隔てる金の檻が恨めしくてしかたがなかった。アイオライトは右手に憎しみを込めて檻を掴むと、身長差の為上目遣いになる藍玉を愛おしそうに見返す。オフホワイトのAラインのワンピースは初めて見るもので、藍玉が自分の為に着てくれたものだと思うと、アイオライトの胸の奥が幸せな気持ちで満たされる。


「今日も綺麗だね、藍玉」


 十数年の月日は、アイオライトだけでなく藍玉をもまた美しく成長させた。透き通るような肌に血色のよい唇、流れるようなサラサラの金髪に、零れ落ちそうなほど大きなアクアマリンの瞳。


(僕の世界の、一番美しいいきもの)


「……いつも言っているけど、それを言うならアイオライトの方だわ」


 少し拗ねたような口調で藍玉はそう言うと、金の格子の間からそっとアイオライトの骨ばった手へ触れた。ぎこちないその動きに思わず笑みを零すと、アイオライトはそれを静かに取って、ゆっくりと指を絡める。自分の手よりも随分と小さくはあるが、指の数も形も全く同じそれとの間には、だが、この金の檻と同じく絶対に越えられない壁があるのが、ずっと不思議だった。


(……昔はそんなことにも拘ってたっけ)


やっぱり夢見が良くなかったせいかな? アイオライトはもうとうの昔に忘れてしまったはずの感情を呼び戻されたような感覚に自嘲すると、藍玉が不思議そうに菫の瞳を覗き込んだ。


「アイオライト?」


「……ああ、ごめんごめん。きみといるのに他所事を考えてたなんて、僕も随分と失礼になったもんだね。許して欲しいな」


 アイオライトはそう言うと、繋いでいる手を引き上げて、藍玉の手の甲に許しを請うように唇を落とした。その瞬間、藍玉があからさまにびくりと体を反応させたものだから、アイオライトは驚いたように目を丸くして藍玉を見る。


「……ごめん。もしかして嫌だった?」


 元から大きいアクアマリンの瞳を皿のように丸くして固まっていたが、藍玉は否定するようにぶんぶんと頭を横に振ってみせた。


「嫌じゃないわ。だって、この胸の奥のモヤモヤを、ヒトはそうやって体に触れて伝えるんでしょう? だったら、私も同じだから。嫌なんかじゃないわ。ただ……」


「ただ?」


「ちょっと、心臓がびっくりしたみたい」


 藍玉はそう言うと、空いている手で自分の心臓を押さえてはにかんだように笑ってみせた。そして、アイオライトに応えるように繋いだ方の指先で、すり、とアイオライトの手の甲を撫でた仕草に、アイオライトは思わず息を呑んだ。


「……」


 “ヒトでないもの”は、生まれた時から好意に関する感情表現が欠落してしまっていたらしい。だからこそ祖先の悲劇が起こったわけだが、藍玉は、まだなぜアイオライトがそうするのかを本当に理解していないながらも、それでも、アイオライトヒトの方法で、その愛を伝えようとしてくれているのだ。


(ああ、本当に可愛いなあ)


 そのいじらしさが、アイオライトの心臓をぎゅっと締め付け、藍玉への愛おしさで胸の中を埋め尽くす。


「……あの、間違えた、かしら?」


 アイオライトが無言のまま固まってしまったことに、藍玉は不安そうにアイオライトを見上げた。アイオライトは慌てて否定する為に頭を横に振ると、両手で今繋いでいる藍玉の手を包み込んだ。


(こういう気持ちを、食べちゃいたい、って思ったのかな?)


 アイオライトは、今まさに自身の中に沸き起こった気持ちを好きだと表せられないのだとしたら、それは食べてしまいたいになるのかもしれない、と本能的に思った。だとしたらそれはやはり悲劇でしかないが、それでも、初めて“ヒトでないもの”の気持ちがわかったような気がした。


「合ってるよ。ちゃんと伝わってる……じゃあ、今日はどこを食べてくれる? そろそろ、僕のこと全部食べたくなった?」


(僕ならきっと、頭から丸ごと全部食べてしまいたい)


 アイオライトがそう切り出すと、藍玉の表情がさっと曇った。少し非難するような視線をアイオライトへ向けると、


「何度言ったらわかるの? 私はあなたを食べたくないの。あなたと、ずっと一緒にいたいだけなの。あなたもそうじゃないの? アイオライト」


そう言って空いていたもう片方の手をアイオライトの手に重ねた。伝わる体温が、まるで藍玉の心のように暖かかった。


「うん。僕も一緒の気持ちだよ、藍玉。でも、この部屋はきみの食事の為にある場所で、今この時間もそのためにある。この事実は変えることができないんだ。それは理解してるよね?」


「それは、わかっているけど……」


 幼い頃から食事が嫌いな藍玉は、いつだって消極的だった。だが、それでもアイオライトに会うと生まれてくる食欲のようなものの為に、必要最低限なだけこなすようにはしていた。だが、その食欲のようなものが実はアイオライトへの愛とか恋とかそういうものからきていると自覚してからは増々食事への拒否感を強くし、代わりにヒトの方法でそれを伝えようと試みていた。


(その気持ちはとても嬉しいけど、でも)


「それに、食べることがきみたちの愛だっていうのなら、僕はきみに愛されたいんだよ、藍玉」


 それがアイオライトの本心だった。いくら形骸的になってしまったとは言っても、根本では食べることでしか愛を表現できないのであれば、丸ごと食べられて藍玉の愛を感じて一生を終えたい。それが、アイオライトの生まれてきた意味だ。


(それが、食べ物として生まれて来たヒトの、最高の幸せなんじゃないのかな?)


 藍玉はアイオライトの言葉に悲しそうにアクアマリンを歪めると、だがアイオライトの手を引き寄せ、その甲に先ほどアイオライトがしたように唇を落とした。


「……だから、ヒトはこうやって伝えるんでしょう? あなたが教えてくれたことなのに、どうしてこれじゃあ伝わらないのかしら?」


 少し悔しそうな声音でそう言いながら、だが自分のした行為に恥ずかしそうに視線を逸らした藍玉を、アイオライトは思わず食い入るように見つめる。


(ああ、やっぱり足りないなあ)


 アイオライトは眼前にある金の檻を忌々し気に睨む。藍玉は知らないけれど、ヒトの方法で気持ちを伝えようとしたいなら、それではちっとも足りないのだ。


「伝わってるよ、藍玉……でもそれと食事は別だから。これは、僕ときみの義務だよ」


「……」


「僕はきみに死んでほしくないんだ」


 アイオライトの魔法の言葉に、藍玉は悲し気に表情を歪ませたが、仕方なさそうに小さく頷いた。


「……ええ、それはわかっているわ」


「そう。よかった。じゃあどこを食べる? 今日こそ腕を丸ごと一本持っていく?」


 おどけた調子でそう言うと、藍玉に無言のまま睨みつけられた。


「ごめんごめん。わかってるよ。血でしょ? じゃあ今日は何指がいい?」


 アイオライトは藍玉の手を握っていた両手を離すと、ぱっと10本広げてみせた。藍玉は、幼い頃からずっとそれが最大限の譲歩であると言わんばかりに、一番損傷が少なく、かつ、また生み出せる血液以外口にすることはなかった。その為、傷をつけたことのない指は残っていなかったが、都合よくすぐに治癒してしまう体は噛み跡の一つも残してくれず、アイオライトはそれをとても残念に思っていた。


 そんなアイオライトの考えをよそに、藍玉はしごく真面目な顔でこう言った。


「……唇の端を、少しだけ嚙み切ってほしいの」


「……え?」


 予想外のお願いにアイオライトがぽかんとした顔で見返すと、


「こうすれば、お互いの方法で、伝えられるんじゃないかしら? これで、あなたの要求も、少しは満たされるといいんだけど……」


 藍玉は言いながら自分の心臓の前で両手を重ね合わせた。


「あなたと一緒にいて、すごくドキドキしているのよ? アイオライト。これが、あなたに少しでも伝わるといいんだけれど」


 少し恥ずかしそうに見上げる藍玉の姿に、アイオライトは無意識に唇の端を噛み切った。きつく噛み過ぎて予想以上に口の中に鉄の味が広がったが、今はその味すらどうでもよかった。


「……きっとチョコレートケーキの味がするよ。きみの為にさっき食べてきたんだ」


「そう。じゃあさっそく味見をしなきゃいけないから、少し屈んでもらえるかしら?」


 気がつくと、檻の間からどちらからともなく両手を重ね、指を絡めて握り合っていた。アイオライトは言われるがままに背を屈めると、藍玉が少しだけ背伸びをしてぺろりと舌先でアイオライトの口端をなめた。


「ふふ。本当ね。なんだか甘い気がするわ」


(あ、だめだ)


 アイオライトは藍玉のその言葉を聞くやいなや、反射的に繋いでいた手をほどいて藍玉の顔を両手でつかんだ。勢いのままキスをしようとして、アイオライトは自分の顔を近づけた直前で金色の檻がその行く手を阻んでいる事実を目の当たりにし、思わず舌打ちをする。


(畜生っっ!!)


 ガンっ、と思わず行き場のない怒りの丈をぶつけるように金の檻を殴りつけた。だが、拳に伝わる痛みと音の割にびくともしないそれに、苛立ちが更に募る。


「アイオライト?」


 藍玉の声にはっと意識を戻すと、突然怒りを露わにしたアイオライトに驚きで目を丸くした藍玉が心配げに覗き込んでいた。


「いきなりどうしたの? 大丈夫?」


「!」


 だが、その藍玉の輪郭さえ、15センチの格子に阻まれ全貌を見ることすら叶わない現実に、アイオライトは悲痛に顔を歪ませる。


「どうしたの? やっぱり、手、痛いわよね?」


 藍玉はそう言いながら、心配げにアイオライトの右手をさすった。その心配はこの場に置いて全くの見当外れではあったが、その優しさがアイオライトの心に沁みる。 


(ああ、だから食べて欲しいのに)


 ヒトの方法で愛を伝えようとしても、この檻がある限り永遠にその全てを伝えることはできない。ましてや、今どうしてアイオライトが怒っているかも理解できていなさそうな藍玉には、一生この気持ちを伝えきることなど叶わないのだ。


(なんで“ヒトでないもの”はこんな檻を作ったのかな? 食べたいだけなら、見えない触れない方法なんかいくらでもあるのに。なんで、こんな一番傷つく方法で?……それが、やっぱり面と向かって気持ちを伝えたいって、ヒトと同じように思った結果だとしたら……)


 だとしたら、やはり食べられてしまいたいのだ。愛し愛されて、生まれてきたことに意味があったのだと、それを二人で分かち合う為に。


「……アイオライト?」


 不安気な瞳を向ける藍玉にごまかすように笑うと、アイオライトは藍玉の頬に添えていた両手を離し、代わりに、金の檻越しに力一杯抱きしめた。


(ほら。藍玉の体温すら全て僕にはくれないの)


 アイオライトと藍玉の間を阻む格子の金属特有の冷たさに、アイオライトは胸中で舌打ちをする。二人の体温で溶けたりしないだろうか? そんな馬鹿な考えに力を入れ過ぎたのか、


「……檻が顔に当たって痛いわ」


と、藍玉から苦情があがった。


「うん……ほんと、邪魔だよねえ」


 現実は体温が檻を溶かすこともなく、泣きそうになるのを誤魔化す為に、首筋に顔を埋めることすらもできない。二人の間にある距離はどれだけの月日が流れようと、永遠に縮まることはないのだ。

 

 やはり“ヒトでないもの”が作った世界は、ヒトには分が悪くできている。


(だから)


 この理不尽な檻を飛び越える為に。


(一日も早く僕のことを食べてよ、藍玉)


 緩めた腕の中の藍玉の体温に、アイオライトは祈るように目を瞑った。


(それが、ヒトが生まれてきたことの意味になるんだから)


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箱庭の恋 田中 @tanaka_m

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