(一話読み切り)機織り娘メグの焦燥
芝原岳彦
第1話 灼熱盆地とウナギ長屋
メグは、震える手で契約書に手形を付けた。
相手の男は、乱杭歯の間から黄色い息を吐き出しながら、
「これで、手続きは完了です。この契約があなたにとって人生の契機でありますように」
と言って、握手のために手を差し出した。
メグはその手を無視して、小屋の外に出た。
ロス・カバジョス特有の馬糞臭い風が彼女の頬に当たった。このイヤな風ともお別れできる、そう思いながらメグは何百という馬の蹄が巻き上げる埃の中を歩いた。彼女は胸の中に重い石が入ったような、強い息苦しさを感じて、両肩を両手で抱いた。
メグの家は、馬借と車借が多く住む長屋だった。父親は仕事で遠出をするため、家を開けがちだったが、母はその事を決して寂しがってはいない様子だった。
メグとその母が住む長屋は、馬と馬車が集まる大広間から離れた裏通りにあった。
そこには、ロス・カバジョスの乾いた大地の上には、粗末な長屋が幾重にも列を作って、不揃いに波打って立ち並んでいた。
その様子は、灼熱の日光に枯渇死した蛇が、お行儀よく並んでいる姿を見る者に連想させた。
盆地は寒暖差が激しい。
朝は骨に響くほど寒く、夏は土が焼けるほど暑かった。
そんな土地の上に、その長屋は列を作ってのたうっていた。長屋を作る木材は近隣の森から切り出され、ろくに加工もされずに柱と梁になった。その上に掛けられる屋根は、ただ平らく薄切りされた生の板だった。その板は昼の灼熱の太陽で反り上がり、夜の寒気でひび割れた。
そこに住む人々は、昼は熱くて家に入られず、夜は凍えて眠った。
そんな居住環境は、住む人々の心身に少なからず影響を与えた。
男たちは熱さに体を焼かれながら気絶寸前まで働き、夜になると質の悪い酒を飲んで倒れるように寝た。
女たちは木の下や井戸端に集まって、布を織り刺繍をした。そして帰って来るであろう酔った夫たちに怯えながら帰途についた。
夕日の当たる長屋の間を、メグはゆっくりと歩いた。夕餉の支度をする匂いが辺りに漂った。
――ああ、母の手伝いをしなければ――
そうメグは思った。
突然何かの破裂音がした。メグは驚きもせずに、溜息をついた。「またか」と思っただけだった。
長屋の一つから、顔を押さえた女が一人走り出すと、井戸端でしゃがみこんだ。メグはその女の下に走り寄ると声をかけた。
「だいじょうぶですか?」
その女は顔を上げた。母の親友のマーサおばさんだった。
その顔は、左半分が大きく腫れていた。左目の周りは眼球を覆い隠すように大きく腫れていた。
「ひどい!」
メグはそう言うと、井戸水を汲んで手ぬぐいを濡らして絞ると、マーサおばさんの顔に優しく当てた。
「マーサおばさん、いったいどうしたの。また殴られたの?」
「あまり、大ごとにしないでおくれ。しばらく休めばよくなるから……」
「マーサおばさん、これは大ケガよ。また旦那さんに殴られたんでしょう。放っておけないわよ」
メグはそう言って、足元の棒きれを拾うと、おばさんの出てきた長屋に向かって歩きだした。今日こそ、あの泥酔男を叩きのめしてやろうと思ったのだ。おばさんはメグの足にすがり付いて言った。
「やめておくれ。あの人はいま寝ちまっているから、もうだいじょうぶだよ」
メグは溜息をついて、棒きれを投げ捨てた。
「おばさん。今日は私の家に泊まって。私のお父さんは、遠出の仕事でいないから」
そう言っておばさんの脇を抱えると、砂埃の舞う通りを二人は歩き始めた。
「まあ、いったいどうしたっていうの! 何があったの!」
メグの母親は、家の奥から飛び出してきた。マーサおばさんとメグの母親は、小さい頃からの友達だった。
「また、あの男に殴られたのね。今日という今日は許しちゃおかない。あの才槌頭を叩き割ってやる!」
メグの母は、薪を一本取り上げると、素振りしながら怒鳴った。
メグはそんな母から薪を取り上げると、母の両頬を軽く叩いた。そして両肩を押して土間に座らせた。
「マーサおばさん、大ごとにしたくないんだって。さっき私も怒鳴り込んでやろうかと思ったんだけど」
それを聞くと、メグの母はマーサおばさんの両肩を掴みながら涙を流しながら言った。
「あんな男、もう別れなさいよ。何度も言ったでしょう。あの男は病気よ。あなた何回殴られたの? もう覚えていないでしょ。いまに殺されちまうよ」
マーサおばさんは、腫れた顔を手ぬぐいで冷やしながら行った。
「みんな、うちの旦那のことを悪く言うけどね、あの人はかわいそうな人なんだよ。貧乏農家の末っ子に生まれて、小さい頃から邪魔者扱いされて育ったんだ。ご飯は長男や次男が先に食べて、あの人は残飯を食わされて育ったんだよ。厄介者扱いされて、便所の横で、ぼろ布を巻かされて寝てたんだよ。いまでもきつくて若者でもやらない仕事を押し付けられているのよ。安い給金でね。あの人の楽しみは酒を飲むことしかないのよ。料理もできないし、洗濯もできない。私が側にいないとあの人は三日で死んじまうよ」
メグとメグの母は、お互いの顔を見て溜息をついた。
「マーサおばさん。そんなこと言ったってこのままじゃ殺されちゃうわよ。実家に帰ってもいいし、なんならこの家にいてもいいのよ。おばさんはお母さんの大事な友達だもの」
「あの人のことを悪く言わないでおくれ。あの人も優しいときがあるんだから。こないだはきれいな模様のカップをお土産にくれたし、野良犬なんかをすごくかわいがってね。ノミをきれいに取ってあげるんだよ。心の優しい男じゃないとそんなことしないでしょ。それに私に帰る所なんかありゃしない。実家に帰ったって、兄貴の夫婦に六人も子供がいて私の居場所なんかありゃしない。私に居場所なんかないんだよ。あの人の側しかないんだよ。優しいあの人の側以外にはね。」
「心が優しかったら大事な奥さんを殴ったりしないでしょ! いい加減に目を覚ましなさいよ!」
メグは声を荒げたが、メグの母がたしなめた。
「マーサ。とにかく今日はうちに泊まっていきなさいよ。旦那はとうぶん帰って来ないし、アロースのお粥もたくさんあるからね」
メグの母は、マーサおばさんを寝藁まで連れて行くと、横にして藁を書けた。泣きつかれたのかマーサおばさんは、すぐに寝息を立てて眠りに落ちた。
メグは母から、おばさんに貸した手ぬぐいを受け取った。それには、血と涙と鼻水が生暖かい湯気を上げていた。メグはその手ぬぐいを懐にしまった。
次の日の早朝、メグは家を出た。マーサおばさんはまだ眠っていた。
メグの母は何かを察したのか、もう起き上がって長屋の外に立っていた。
「あなた、やっぱり何か企んでいたね」
「……」
「あなたがここ一か月、何かやってるのは知ってたよ。どこかに行くつもりなんでしょう?」
「どうしてそう思うの?」
「人の口に戸は立てられないからね。しかも大人数で何かしようとなれば、どこからか漏れるものよ」
「お母さん、勝手なことしてごめんなさい。でもね、わたし必ず成功させるから」
「わかったよ。あなたは子供の頃から本当に頑固だったから。私が何を言っても聞きゃしないだろう。でもね、失敗したら帰って来なさい。私のところへね。あなたは私から離れられやしないんだから」
そう言った母の横を通ってメグは外へ出た。
早朝の冷たい風がメグの頬を切った。
メグは長屋の先にある広場まで走った。
そこには彼女が雇ったほろ付きの馬車が二台、悍馬を付けて停まっていた。
馬車の周りには若い娘たちが、手荷物を抱えて集まっていた。
「みんな、来てくれると信じてた!」
メグは喜びのあまり叫んだ。
「メグ! メグ!」
娘たちは、メグの周りに輪を作って彼女を迎えた。みな早朝の冷たい風のせいで頬っぺたを真っ赤に染めていた。
メグは娘たちを指さして数えた。合計十九人、全員集まった。
「みんな、よく家族を説得できたわね」
メグは笑顔で言った。
「それは、どこの家も貧乏なのに子供いっぱいだもん。一人くらいいなくなっても、気にしないわよ」
一番元気で、機織りの腕の良いセシリアが答えた。
娘たちはみんな笑った。
「さあ、みんな馬車に乗って! 一つの馬車に十人ずつよ!」
娘たちは、踏み台を使って次々と馬車に乗り込んだ。
「エル・デルタにつけば、新しい靴と服の支給があるわ。職場と下宿は同じ建物よ」
「どんな服?」
セシリアが真っ先に聞いた。
「白と黒の女中服よ。それに革の靴!」
娘たちがどよめいた。
「娘さん方、出発してもいいかい?」
御者の男が聞いた。
「行ってください」
メグが答えると、馬車の車輪は軋み音を上げて動き出した。馬車と馬に慣れ親しんだメグは、馬車の車体が重みでほんのわずかひしゃげるのを感じた。
――あまり、上等な馬車じゃないわね――
メグはそう思いながらも、これから始まる新しい生活への期待で胸を膨らませた。
ロス・カバジョスの街は大山脈の巍々たる山々に囲まれた盆地にある。
馬車がそこから出るためには、盆地を縁取る緩やかな斜面を昇らなければならなかった。その斜面は深い緑の木々に覆われていた。その間を縫って、つづら折りの街道が家畜の小腸のように整備されていた。道は馬車がすれ違えるほど広く、路面には割栗石を埋め込んで補強されていた。
その大工事を行ったのが、ロス・カバジョスの街に君臨する氏族だった。彼らは数千の馬車とその御者、そして数えきれない程の馬手と馬子を支配下に置いて、ロス・カバジョスの盆地から、このサン=ミゲル諸島を睥睨していた。
この島での物流を一手に担う彼らは『馬車族の王』と呼ばれた。この王の協力なしでは、誰も何も運ぶ事は出来なかった。また、王がその配下の馬手や馬子に武器を持たせればたちまち数千の軍隊が出来上がった。王はその流通という権力を持って莫大な富を手に入れた。
そして数多くの奴隷を買い付けた。
幸か不幸か、ロス・カバジョスの北にあるエリアールは先住民族ワクワクの故地だった。この痩せた土地では数年に一回、飢饉が起こり、その度に安価な奴隷が大量に輩出された。王は彼らに最低限度の衣食住を与える代わりに、大量の労働力を手に入れる事ができた。その「労働力」によってロス・カバジョスの街と道は整備された。山を崩し、森を切り開く作業は危険を伴った。たくさんの奴隷たちが、命を落とした。その代りに、ロス・カバジョスの街とその周囲には、頑健で機能的な街道網が整備された。
そのうちの一つの道を、メグたちを乗せた馬車は昇った。緩やかな斜面を登りきった岡の上で、馬車隊は休息を取った。娘たちは体を伸ばしながら馬車から降りた。メグはその様子を見届けると最後に馬車を降りた。
メグは息を飲んだ。
彼女は生まれて初めて、自らの生まれ故郷を俯瞰した。広い盆地の中には木製の小さな家が規則的に立ち並んでいた。そして中央には黄色味を帯びた水を湛えた湖があり、その側には王の砦が立っていた。
それはメグが子供の頃、長屋の間から見上げた砦だった。
メグは深呼吸をした。彼女の肺には清浄な空気が入って来た。ロス・カバジョスの盆地に溜まりうねっている、馬糞の臭いと乾いた埃の混じったあの淀んだ空気ではなかった。
その瞬間、盆地の底から突風が吹いて来て、メグたちが休んでいる岡に当たった。彼女のは、故郷の淀んだ空気を吸い込んだ。
――もう故郷には戻れない――
そう思うと、メグは喉の奥から嗚咽がこみ上げてくるのを感じた。
狭くて汚い長屋、黄色い埃と馬の臭い、馬のいななき、御者や馬子たちの騒ぎ声。
メグは故郷を憎んでいた。
だが、その憎しみも彼女の心の一部をかたち作っていたのかもしれない。
メグは決してこの街には戻らないと、もう一度心に誓うと、街とは反対側の風景に目を向けた。
そこには緩やかな丘の群れが遠くまで続き、大河が海に向かって流れ続けているはずだった。
「あっ」
メグは大声を上げた。
「どうしたの?」
近くにいたセシリアが聞いた。
「クシ……持って来るの忘れちゃった」
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