第32話 痺れた笑顔

 エルガンス・ミル・シュワルベ。年齢不詳、出自も不明な謎多き美女であり、エディティス・ペイ屈指の実力を誇る騎士。貴族を示すミドルネームはあるが、ミル系など彼女一人が名乗るのみだ。彼女と対峙し敗北を喫した騎士は皆こう言う。「姿を見た瞬間に負けていた」と。


「手出し無用だ、シュワルベ。これは私の職務であり、スペルビアの管轄では無い」


 不穏な動きを見せるエルガンスの正面に立ち、額が着かんばかりの距離でブラディジィオが凄んだ。


「あら? "弱者"を守るのは、スペルビアでなくとも、騎士であれば当然の責務じゃなくって? あなた、死ぬ気満々じゃない。うふふふふ」

「弱者、だと?」


 神経質そうなブラディジィオのこめかみに、血管が浮き出た。


「うわあ。なんだかいけ好かない女なのじゃ。偉そうじゃのう」

「……そうですか……」


 完全に自分の事は棚に上げるアーカスに、クーラエはとりあえず相槌を打った。確かにアーカスの尊大さとは少し違う、とクーラエも思った。その差は悪意の有る無しなのかも知れない、とも思う。


「もう、ブラディジィオったらそんな怖い顔をしないで。顔が近過ぎるってば。相変わらず冗談の通じない子ね」

「知っているならばそういう事を言わないように努力してくれ。ついでに言わせてもらえば、お前の冗談も相変わらずのつまらなさだ。もっとセンスを磨くんだな」

「あら、心外。結構酷いこと言うのね、ブラディジィオったら。でも私、あなたのそういう所が気に入ってるわ」

「心にも無いことを。私はお前のそういう所が大嫌いなのだがな」

「うふふ。嫌いは愛情の裏返し、ね。嬉しいわ。はい、じゃあこれはお礼ね」

「これは?」


 ブラディジィオはエルガンスから不意に差し出された封筒を反射的に受け取った。封筒がその豊満な胸の谷間から出てきたせいだ。エルガンスの匂い立つ香水が、少し温かくなった封筒からも漂っている。


「妖精の国首長、メディオクリス様からの封書よ。封は切ってあるから、読んでごらんなさい」

「なんだと?」


 ブラディジィオは言われるがままに手紙を取り出し目を通した。


「馬鹿な。これは、妖精の国の王女、アーカス様の来訪依頼! 日付は、一ヶ月前だと?」

「ええ。ほら、新しい郵政機構で、飛行船便が始まったでしょう? まだ試運転段階だから、少し手違いが生じたみたいね。おかげで、それが今朝届いていたの。私はね、それをあなたに伝えに来ただけなのよ。だから戦うつもりなんて微塵も無いから、安心してちょうだい」


 食い入るように手紙を見つめるブラディジィオに、エルガンスが微笑みかけた。


「なんじゃと? 父上がそんなものを出す暇など無いはずじゃが」


 アーカスがアルコンに会うと決めたのは、昨日の事だ。一ヶ月前に封書など出せるはずがない。


「な! シュワルベ、これは!」


 封筒の封緘と押印を確認したブラディジィオが明らかな齟齬を発見した。その押印は、妖精の国の物では無かった。それはまるで、子どもが工作で作ったような印影だ。誰が見ても、偽物だとすぐに分かる稚拙な押印だった。


「しっ。それね、サピエンティア提督から貰ったのよ」


 自分の唇に人差し指を当てたエルガンスは、ブラディジィオにウィンクした。ブラディジィオはそれで全て理解した。


「アーカス様、大変な失礼を致しました。知らぬ事とはいえ無礼を働きましたことを、平にご容赦いただきたい」

「ぬ?」

「え?」


 くるりと振り返ると、そのまま流れるように膝を折って傅くブラディジィオに、アーカスとクーラエは面食らった。


「この通り、先触れは出されておりました。そして、当方の元首サピエンティアの承諾も降りております。問題は何もございません。追って歓迎の使者がお伺いすると思いますので、それまではご自由に、エディティス・ペイでのひと時をご満喫下さい」

「ふぬぬ? では、ウチらはもう行っていいのじゃな?」

「もちろんでございます」


 平伏したまま、ブラディジィオが答えた。

 

「なんだか分かりませんが良かったですね、アーカスさん」

「ふぬ? うむ。うむうむ。まあ、良いのなら良いのじゃ。苦しゅう無い苦しゅう無い。おぬしの勤勉さは良く分かった。国に帰った暁には、おぬしの事は父上にも良く報告させてもらうのじゃ。では行くぞクーラエ」

「はい。よろしくお願いします、アーカスさん」


 上機嫌でブラディジィオを労ったアーカスは、クーラエを抱えると光と化して飛び去った。ブラディジィオはすっくと立ち上がると、アーカスの飛び去った光の軌跡を見上げ、後ろにいるエルガンスに問いかけた。


「サピエンティア提督は、何をお考えなのだシュワルベ?」

「さあ? そんなの、私にだって分からないわ。でも、まずはあなたを助けたかったんじゃないかしら? 文書偽造一つで有能な人材が守れるのなら安いものですものね。国際問題になるのも回避できたのだし、良かったじゃない? 提督は、常にこの都市を見ていらっしゃるのだわ」

「……提督は、常に見ている、か」


 呟くブラディジィオの背中を、エルガンスは柔らかな目で見つめていた。



「帰ったのじゃー」

「ただいま帰りました、アルコン様」


 すぐに、アーカスとクーラエは教会に帰り着いた。アーカスはまるで我が家のようにずかずかと上がり込み、クーラエを引き連れて食堂に向かう。


「ふむん? これはどうしたことなのじゃ?」

「わあっ! み、皆さん! どうしたんですか? 何があったんですかあっ!」


 食堂に入った二人は、アルコン、リルガレオ、ウィンクルムがテーブルに突っ伏しているのを発見した。三人とも、ぴくぴくと痙攣を起こしている。クーラエは、かなり危険な状態だと思い、真っ先にウィンクルムに駆け寄った。


「ウィンクルムさん! しっかり!」

「あ、ク、クーラエ……お、おか、えひ」


 ウィンクルムは呂律が回っていなかった。


「どうしたんです? 大丈夫ですか?」


 クーラエがウィンクルムの肩に手を置き急ぎ尋ねる。


「ら、らいじょぶ、らいじょぶ」

「ん? これは? カップが倒れて」


 クーラエはウィンクルムの突っ伏したテーブルの上に転がるカップに目を落とした。新品のテーブルに、もう茶色い染みが広がっている。


「それね、クーラエの帰りを待ち切れなくなったアルコンが、コーヒー淹れてくれたんだけど」

「なんだこれゲロか。どうやったらこんなに不味いコーヒーになるんだよ……」


 ウィンクルムの後を、泡を噴いたリルガレオが引き取った。


「む、むうう。おかしい。俺は、普通にコーヒーを淹れたつもりなのだが」


 アルコンは痙攣している。何かの毒を盛られたとしか思えない有様だ。治癒の専門家とも言われる聖魔法士が痺れている姿など、なかなか見られるものではない。


「なんという恐ろしい……! ウチ、クーラエを迎えに行って良かったのじゃ……」


 アーカスはクーラエの頭を抱き締めた。


「うーん……今回はまた、いつもに増して酷いですね……。口直しに僕がコーヒー淹れますけど、アルコン様? その前に、皆の治療を責任持ってお願いします。まずはご自身を」

「う、ううむ。もうやっているのだが、実は解毒は苦手でな。少々時間がかかりそうだ」


 言われて見れば、赤手甲は出現し、淡い光を放っている。片方はアルコンのお腹を、もう片方はなぜかウィンクルムの手を握っている。


「アルコン様。そうしていないと、ウィンクルムさんが危ないのですか?」


 言ってから、クーラエははっとしたように口を押さえた。


「そうだ。俺が赤手甲を使う時、必ずウィンクルムに触れていなければならなくなった。そうしなければ、最早抑え切れないのだ」


 だが、アルコンは事も無げに素直に答えた。困っても悩んでも迷ってもいないようなその言い方が、クーラエには理解出来ない。


「あは。それ、嬉しいかも」


 ウィンクルムは痺れながらも笑顔を見せた。体が自由であれば、アルコンに抱きついているところだ。


「ウィンクルム。おぬし、今、何の話をしているか、分かっておるのか?」


 聞いて良いのか一瞬迷ったアーカスだったが、大問題の源であるウィンクルム本人に危機感の薄さを感じ取り、思い切って切り込んだ。


「分かってるよ、アーカス。わたしの中の、魔獣王の事だよね。そんなの、小さい時にママから聞かされてるから知ってるもん」

「フロウスから? 直接、かの?」


 苦しそうに笑うウィンクルムは、のんびりと頷いた。


「どうしてそうなったのかも聞いてるよ。どうしても倒せなかったベスティアだけど、封印なら出来たんだよね。その時、ママのお腹の中にいたわたしを触媒にして。でも、凄く大変だったんだって」

「そ、そんなっ……、そんな、事、が」


 クーラエがふらりと後退った。顔色は増々白く、瞬きも忘れている。クーラエは想像した。


 征伐軍30万を皆殺しとした史上最悪の魔物の王、ベスティアを宿していると聞かされたウィンクルムは、どう思ったのか? 封印されていると教えられて、それを鵜呑みに安心して眠れるものか? 自分なら、恐ろしくて仕方が無くなるはずだ。いつ、どうやって、どこを食い破り魔獣王が這い出て来るとも知れない恐怖。その時、周りに大事な人たちがいたならどうなるのか? 自分が生きていていいのかさえ、きっと分からなくなる。なのに。


「でも、わたしはわたし。わたしは魔獣王じゃない。わたしは、ウィンクルム。剣聖グラディオのパパと魔導師フロウスのママから生まれた娘。人間、ウィンクルム・マギア・ドゥクスなの」


 こんな風には笑えない。こんなに屈託無く、誰も恨まずに笑う事など出来ない。クーラエはそう思った。

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