第7話 15年の融氷

「そうか。分かった」


 アルコンは樹上から足を踏み出した。下の枝、下の葉を伝い、法衣を翻してひらひらと木の葉よろしく舞い降りてゆく。


「お。加護無しでやるつもりかアルコン? あんな怪物と? こりゃあいい」


 見送るリルガレオはさも楽しそうに手を叩いた。彼にとって、こんなにいい余興は無い。なにしろ、どんな武術の達人だろうとも加護無しではあの魔獣に敵わない。鋼鉄の剣ですら受け付けない魔獣の甲殻がある以上、尋常な手段では傷ひとつつけることが出来ない事を、リルガレオは良く知っていた。


「ふ。俺もユールと同じだな。すまない、ユール。今ならばお前の気持ちが痛いほどに分かるよ……」


 ふわりと城壁の上に降り立ったアルコンは、眼下の魔獣と騎士たち、そしてクーラエとウィンクルムを眺めた。


「借りるぞ」

「あ? な、なんだ貴様? 神父、か?」


 そして、城壁から矢を射っていた兵士が背中に背負っていた小さめの盾をするりと奪うと、地上へと飛び降りた。


 魔獣はクーラエへとどめの一撃を振り下ろさんとしている。


「はや、く。早く逃げ、て」


 ウィンクルムへ向けて言っているのだろう。しかし、クーラエの目はもう焦点すら合っていない。あらぬ方向へと語りかけていた。


「ダメだよ! 死んじゃう! やめて! やめてぇ!」


 ウィンクルムは必死で叫ぶばかりで逃げようとはしなかった。クーラエに心動かされた騎士たちが盾を構えて割り込もうとしているが、間に合わない。クーラエの命は残り数瞬と、誰もが思った。が。


「む? 動きが鈍った?」


 ドリチアムが首を捻った。

 魔獣の動きががくがくと不自然に止まったのだ。心なしか苦しんでいるようにも見て取れる。


「今だ! 隊列を組み、一斉にかかれ!」

「おおおおおっ!」


 ドリチアムが手を振り払って号令した。騎士たちが前後左右から一斉に魔獣へと斬りかかる。ユールを含む3名の騎士は、クーラエの前で盾を構えた。


「しっかりしろ、クーラエ。全く、なんてやつなんだ、きみは……」

「あ? その声、ユール、さん? 良かった、無事、なんですね……」

「クーラエ? クーラエっていうのね? 死なないで、ね、クーラエ」


 ウィンクルムはクーラエを抱きかかえ、外套の長い袖を破ると、血に塗れた腕をそれでくるんだ。くるんだ布は、みるみる血を吸い赤く染まる。ウィンクルムの胸は、またしても激しく痛んだ。


「うわあああああ!」

「ぐああああっ!」


 斬りかかった騎士たちは、魔獣の振り回す腕にまとめて殴り飛ばされていた。魔獣の動きは戻っている。


「また来るぞ! お嬢ちゃん、クーラエを頼む! 連れて逃げろ!」


 ユールが盾を構え直した。


「でも!」


 ウィンクルムはいやいやと頭を振った。


「きみがここにいて、何が出来る? いいから行け! きみはきみの出来る事をすればいい! 我々は騎士として、やれるだけの事をするだけなのだから」

「そんなっ……」


 ウィンクルムは唇を噛んだ。苦しげに呻くクーラエと、盾をかざすユールの背中を交互に見つめ「そんなぁっ……」とまた泣いた。


 その時。


「いいや、ユールよ。お前も勘違いしているぞ。お前も逃げるべきなのだ」

「え?」


 ウィンクルムが顔を上げた。


「あ……、ア、アルコン様!」


 ユールは棒立ちしていた。目の前に現れたアルコンが意外過ぎたのだ。


「アルコン? え? この人が?」


 ウィンクルムは思っていたよりも逞しく大きな背中を開ききった瞳で見た。高鳴る鼓動。上昇する体温。捜し求めていた人が、今、目の前にいる。


「おい、そこの小娘。名は?」


 アルコンは振り返りもせずに訊ねた。


「ウ、ウィンクルム。わたしは、ウィンクルム・マギア・ドゥクス!」


 名乗りを聞いたアルコンは振り返り、大きく目を見開き、そして、細めた。


「ウィンクルム、か……。全く、酷い名前をつけやがったものだな、フロウスめ……」

「えっ? ひ、酷くなんかないよ。わたしの名前は、パパとママ、二人で決めた最高の名前なんだって、わたし教えてもらったもん」

「何? 二人で? グラディオも、か?」


 ウィンクルムは「そうだよ」と首肯した。


「はは。はははははは。ははははははは」

「アルコン?」


 アルコンはウィンクルムに顔を見られないよう踵を返すと、真っ青に広がる秋の空を仰ぎ見た。そうしなければ、15年間に渡って凍りついていた気持ちが融けて、アルコンの目から溢れてしまうからだ。


「俺を、俺を赦すというのか、グラディオ……。ならば……」


 アルコンはきっと魔獣を睨め付けた。


「ならば、守ろう! 俺達のウィンクルム(絆)を!」


 アルコンは城壁の兵士からはぎ取った小さな盾を手に構えた。


「う……? ア、ルコン、様……?」


 朦朧とする意識の中、クーラエはアルコンの背中らしきものを見た。瞼が重くてうっすらとしか開けられない。ぼんやりとしか見えない。人々の声や戦いの喧騒も、遥か遠くに聞こえている。


「アルコン様!」

「うおおお! アルコン様だ! アルコン様が!」


 漆黒の法衣をひるがえして進み出たアルコンの勇姿に、騎士たちは感激している。彼らは大征伐戦のことを伝え聞きている。アルコンは彼らにとって憧れであり、尊敬し羨望する対象なのだ。


 だが。


「グルオオオオ!」

「ぬううううっ!」


 魔獣オスティウム・ウルマの一撃を盾で受けたアルコンは、クーラエと同じくパワーを流し切れず、牛に尻尾で追い払われる蝿のように弾き飛ばされた。アルコンのブーツが砂煙を上げて地を滑る。


「なるほど。加護無し、というのは、これほどにキツいものなのだな」


 ようやくにして止まった所で、アルコンは膝をついた。鉄板を重ね張りした盾はべっこりとへこみ、それを構えていたアルコンの右腕も不自然に曲がっていた。骨折しているのは明らかだ。


「アルコンッ!」


 クーラエを抱いたウィンクルムが悲痛に叫んだ。他の騎士たちはそれを信じられず固まった。声すら出せなくなっている。


「おお? さすがのアルコンも、あの分けのわからねぇ体術だけじゃ無理そうだな。こりゃあ死んだな、あの野郎。いやぁ、惜しいやつを亡くしたぜ」

「わっ。リ、リルガレオ?」


 樹上観戦では不満になってきたのか、リルガレオは城壁上にまで降りてきていた。彼の表向きの役割は都市防衛だ。兵たちに傍観している事が知られては、あまりよろしくないのだが。


「何を呑気な! すぐにお前も戦えリルガレオ!」


 壁上の兵長がすぐにそこを突っ込んだ。当然の反応だ。


「あ? うるせぇな」

「ぎゃ」


 兵長はリルガレオからの軽い裏拳1発で沈黙した。リルガレオの1番嫌いな事は、命令されることだ。これも当然の反応だった。


「これが、痛み、か。腕1本折れただけでこの激痛……。そうか。あの戦いに参加していた戦士たちは、皆、凄いやつらだったのだな」


 アルコンは動かせなくなりぷらぷらと揺れる右腕を押さえ、納得した。額からぶわりと脂汗が浮き、顔はくしゃりと歪んでいる。少し動いただけで襲い来る苦痛に、体は小刻みな震えを刻んでいた。


 そんなアルコンに狙いを定めたオスティウム・ウルマが、ずしんずしんと体を揺らして迫っている。


「盾は……もう、使い物にならんな。あとで弁償しなければ。と、そんな心配は無用かな」


 アルコンは辺りを見回し、危機的状況を打開しうる可能性を探した。剣や槍も落ちているが、聖魔法士であるアルコンにとって、それらを使う事は殺生同様に禁忌だ。


 現在封印されている聖魔法は、禁忌を犯そうが犯すまいが使えない事に変わりは無い。それでも、聖魔法を失うわけにはいかないアルコンに、殺傷を目的とした武具を使用するという選択肢は選べなかった。


「アルコン! 腕、折れてるよお! 逃げて! 逃げてえ!」

「ん? ああ、折れたな。だが、俺はまだ生きている。もうすぐ死ぬかも知れないが」


 アルコンは魔獣から目を逸らさない。一歩も後退していない。


「死んじゃダメだよ! やっと! やっと会えたのに!」

「ダメと言われてもな。まぁ、お前が逃げてくれれば、俺もすぐに逃げられる。そうすれば、死なずに済むと思うがね」


 嘘だ。アルコンは動けない。

 騎士たちにも、策は無い。


 魔獣オスティウム・ウルマは、もうアルコンの目前にまで迫っていた。


「終わったな。英雄の最期ってやつも、意外とあっけないもんだ」


 リルガレオが退屈そうに肩を竦めた。


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