第6話 先輩の指先
「わたしも、先輩に会えて楽しかったです」
「――マナを助けてやれなくて、悪かったね」
先輩がぽつりと言った。
「そんな……」
「あれは正真正銘事故だった。ぼくがうつらうつらしながら適当な返事をしていないで、きちんとマナのことを見ていたら助けられたかもしれない。マナは、人間でもおいしく雲を食べられるような方法はないかって訊きに来たんだ」
「人間でも……」
「そう。でもぼくは、ぼく自身がおいしく食べる方法なら知っているしそれをマナにも教えたけれど、人間の場合どうすればいいのかなんてさすがにわからない。またこの子は莫迦なことを言ってるな、と思いながら放っていたんだけど……。ぱんだぱんつちゃんだって、マナが本当に雲や星を食べているとは思っていなかっただろう?」
「食べられたら素敵だって、ずっと思ってました」
「うん。マナもそれはわかっていた。だからこそ、だろうね。マナは言っていたよ。おいしい雲を友だちに食べさせてあげたいから、って。自分と仲良くしてくれる子にお礼がしたいんだって。お礼においしい雲を食べさせてあげるっていう発想に至るのは、マナのマナたるゆえんだよね」
先輩の瞳が、ゆらりと揺れたように見えた。
「あの雲おいしそう。その声がきこえたすぐあとに、短い悲鳴がしたんだ。驚いてぼくが目を開けた時には、もうマナの姿は屋上になかった。雲や星なんていうものを食料として長く生きてきたけれど、死んだ人間を生き返らせるような術をぼくは持たない。時を巻き戻すような能力もない。ぼくはただここにいるだけの、無力な存在だ。無力すぎて、いやになる」
伏せられた瞼が僅かに震えている。
マナのことを語る時、先輩の瞳に感情が浮かぶ。
先輩にとっても、マナは特別な存在だったのかもしれない。
結局、先輩はマナ以外の誰のことも、一度だって名前では呼ばなかった。
「先輩のせいじゃ、ないです。事故、なんですよね」
「ああ、そうだよ。あの時、ぼくにはどうすることもできなかった。もちろんあの場にいなかった君がどうこうできるわけもない。だから、君がこれまでやっていたことはてんで見当違いのことだったんだよ。君はわかっていなかったわけじゃない。マナのことを充分にわかっていた。わかっていたことがわからなくなっていただけなんだ。マナは、ぱんだぱんつちゃんが知っている通りの子だよ」
「先輩……」
せっかく止まっていた涙が、再びあふれ出す。
「謝るべきは、ぼくのほうだ。ぼくは、ぼくと同じようにマナの死を悼んでくれる君がいることに安堵していた。マナがとても大切に思われていたとわかって嬉しかったんだ。だから、マナの最期を話すことがずっとできなかった。話してしまえば、君が苦悩から解放されて、マナのことを忘れてしまうんじゃないかと怖かったからだ。さっきは偉そうなことを言ったけれど、なんのことはない。ぼくも君の猿真似に協力していたようなものさ」
「真実を知ったって、わたしはマナを忘れたりなんか絶対にしません」
先輩にそんな風に思われているのだとしたら心外だ。
「そうだね。君にはとても感謝している。だからこそ、そろそろ終わりにしなければならないと思ったんだ。手荒なことをしたのは謝る。けれどさっき言ったことは本当だよ。もし君が再びここに踏み入れるようなことがあれば、その時はぼくの縄張りを犯す者として君を排除する。さあ、もう話は済んだ。さよなら、ぱんだぱんつちゃん」
そう言うと、先輩はわたしにくるりと背を向けた。
これ以上話す言葉はないようだった。
「ゆい」
ショーゴの優しい手に促されて、わたしはうなずく。
わたしは、わたしの場所へ帰らなければならない。
わたしを心配してくれたみんなに、迷惑をかけてしまったみんなに、もう平気だからと伝えるために。
ごめんなさいとありがとうを伝えるために。
屋上を出る直前、先輩を振り返り、学ラン姿の背中に小さくさようなら、と告げ
る。
先輩の学ランは、何十年か前に男子の制服がブレザーに変わる時まで使われていたものらしい。
今も高校生に見える先輩がその姿でいったいどれくらいのあいだ生きているのか、わたしは知らない。
先輩はこれからも、ここでずっと雲と星を糧に生きていくのかな。
先輩はこちらを見ない。
天を見上げていた先輩が、ふいに右手を空へと伸ばした。
まさか、と思ってわたしはその指先に見入る。
先輩は指先を空へ――雲へ向けたまま、くるりと小さく円を描いた。
するとその動きに引っ張られるように、するすると空からその指先に向かって白いものが集まってくる。
指先に集まる雲が適当な大きさになった時、先輩は指を動かすのをやめて、雲の塊を無造作にぽいと口へ放りこんだようだった。
先輩が雲と星を食べることはマナからきいていた。
けれど見たのは初めてだった。
最後に、特別に見せてくれたのかもしれない。
マナとわたしが憧れた、おいしい雲の食べ方を。
――それが、わたしが先輩を見た最後になった。
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