第5話 十五センチほどの手のひら

「ゆいっ!!」


 ぐいっ、と身体が強い力でひっぱられる。

 フェンスを越えていた体ががくりと停止したかと思うと、ずるりと屋上へと引き戻された。


 抱きとめられたまま、げほげほ、うぇほっ、とむせる。

 背中を、大きな手がさすってくれるのがわかる。


「大丈夫?」


 耳元で聞き慣れた声がする。

 でもすぐには返事ができなくて、しばらく咳き込んで、なんとかおさまってから、わたしはようやく顔を上げた。


「ショーゴ……?」


 いつものように困ったような、泣き出しそうな顔をしていると思っていたのに、ショーゴは思いがけず険しい顔でわたしを見ていた。


 見慣れないその表情に、どきりとする。


「大丈夫? 怪我はない?」


 真顔で問われて、わたしはうなずくことしかできなかった。


 余計なことしないでよ。


 そう言ってやろうと、思っていたのに――。  


 わたしがうなずくのを確認してから、ショーゴはようやくほっとしたように息を吐いて、ネクタイをゆるめた。


 強張っていたその表情が、いつもの柔らかさを取り戻す。

 ショーゴが本当にわたしを心配してくれたのがわかる。


「下からゆいが見えた時、心臓が止まるかと思った……。間に合ってよかったよ、ほんと」


 ぽんぽん。


 わたしの頭をなでるショーゴの手が優しくて、思わず涙がこぼれ落ちる。


 ショーゴの気持ちには、ずっと気づいてた。

 本気で心配してくれてるってことも、知ってた。


 知ってて、わたしはショーゴにひどいことをいっぱい言った。

 それでも、ショーゴはわたしをずっと気にかけてくれていた。


 いつまで甘えているつもりなの、と先輩は言った。


 そうだ、わたしは甘えていたんだ。甘えでしか、なかったんだ。

 それをはっきりと自覚する。


 手の甲でぐいと涙をぬぐって、ぐるりと屋上を見渡す。

 先輩は少し離れた場所で、腕を組んでにやにやと笑っていた。

 その顔を見て、全てわかってしまった。


「先輩、悪趣味です」


 先輩は、ショーゴが気づいて駆けつけるってわかってたからあんなことをしたんだ。

 わたしを突き落すつもりなんてきっと最初からなかった。


「これに懲りたら、もうここには来ないことだね。この場所はもうずっと、ぼくの特等席なんだから。次は容赦しないよ?」


 最後の台詞だけ、声のトーンが下がった。

 本気だ、とわかる声。


「でも……」


「昨日、君が屋上にいる時、元天文部顧問のところに君の担任が相談に来ていたんだよ」

「ダルが……?」


 やっぱり、SHRのあとわたしを捕まえてなにか言おうとしていたのかもしれない。


「君、これ以上生物の授業をさぼると留年だってさ。潮時だよ、ぱんだぱんつちゃん。マナが死んで、天文部はもう廃部になってる。ここは本来、とっくに封鎖されているべき場所なんだ」


「でもここはマナにとっても特別な場所で……」


「元天文部顧問も、君のために随分とがんばってくれていたよ。事故の起きた屋上に生徒を立ち入らせるなんてどういうことだって風当たりも強い。これ以上無理を通すと、彼の立場が悪くなる。君の担任や元天文部顧問はぼくのことなんて知らないだろうけど、ずっとここにいるぼくは彼らのことをよく知っている。どちらも、いい教師だ」


 先輩が諭すように言う。


 そう、わかっていた。


 みんなが優しくしてくれていること。

 大人たちが見守ってくれていること。

 わかっていたけど、それでもわたしはまだマナの気持ちがわからなくて、いつまでもわからなくて、だからやめられなかった。


 それで、みんなに迷惑をかけた。

 ただの我が儘に、みんなを巻き込んだ。


「ごめんなさい、先輩。ごめんなさい……。ショーゴも、ごめん」

「いいよ、そんなの。俺は気にしてないから」


 ショーゴがなんでもないように言う。


「でも、おばさんやおじさんはすごく心配してた。だから、これからはあまり心配かけないようにしてあげてよ」


 ショーゴの家はうちの向かいだから、わたしの両親と顔を合わせることが少なくない。

 その時、いろいろ話を聞いたんだろう。


「うん」 


 帰ったら、きちんと謝って、お礼を言おう。 


「ぼくは別に謝ってもらう必要はないね。ぱんだぱんつちゃんにもマナにも感謝しているんだ。地学室をたまり場にしていた天文部員の三年生が引退して、自由に活動できるようになったマナは、もう何年も開かれることのなかったここへの扉を開いた。屋上を棲み処にしているぼくの真似をして自分も雲を食べるなんて言いだした時はなんだこいつ、って思ったけどね」


 先輩が、懐かしそうに目を細めている。


「マナは、空を見るのが本当に好きだったから」


「うん。彼女はいつも、十五センチほどの小さな白い手を精一杯広げて、空へと伸ばしてしたよ。届くわけなんてないのに。でも、マナはすごくいい子だったし、一緒にいて楽しかった」


 先輩が空に手をかざす。

 その手は、わたしたち女子の手よりも、骨ばっていて指が長くて、大きな手だった。

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