第4話 先輩と親友

「あれぱんだぱんつちゃん、いつからいたの?」


 突然声をかけられて、わたしはびくっと跳ね起きた。

 うたた寝をしてしまっていたらしい。

 いつの間に現れたのか、すぐ傍に先輩が立っていた。


「い、いつからって、六限の最初からですよ。先輩こそいつ戻って来たんですか」


 慌てて、スカートをぱんぱんと払いながら立ち上がる。


「今だよ。残念だけど、今日はいい風が吹かなかったなぁ」


 ちらりと先輩がわたしのスカートを見やるけど、それは一応そういうポーズをしておこうかなと思ってやっているだけのようで、目はやっぱり少しも残念そうじゃない。

 わたしをからかいたいだけなんだ、きっと。


「ところでぱんだぱんつちゃんは堂々とさぼるねぇ」

「違いますよ。わたしは六限が理科で、地学の授業を受けにきたんです。マモセン授業やる気ないみたいなんで、自習ですけど」


 わたしの答えをきいて、先輩がおかしそうに片方の眉を上げた。


「地学って人気ないんだよね。入試で使いにくいし。だから、地学を選ぶ生徒がひとりもいない枠ができたりする」

「……先輩?」


 理科の選択科目。

 他の学校がどうかはわからないけれどうちの学校は理系なら物理、文系なら生物が人気だ。

 化学も決して少ないわけじゃない。

 ただ、地学だけが飛びぬけて少ない。


 でも、そんなわかりきったことを、なんで今更言うの?


 希望者がひとりしかいない枠。

 ひとりもいない枠。


 そんな枠ができてしまうことは、わかりきったことなのに。


「あれ、あそこ。生物選択の授業は、外でなにかしてるみたいだね。ぱんだぱんつちゃんの彼氏もいるよ?」


 先輩が、フェンス越しに下を見ている。


 校門を入ったところには池や花壇がある。

 生物の担当教員は授業の進みが順調な時は、生徒を外に連れ出して気晴らしの機会を作ってくれるような先生だから、今日もきっとその流れで外にいるんだと思う。


 けれど、それがどうしたっていうの。


 生徒たちを見下ろす先輩の横顔はなにを考えているのかわからない無表情で、ふいに冷やっとしたものが背筋を撫でた。

 ショーゴは彼氏じゃない、と否定するいつものやりとりすら躊躇してしまう。


「せ、先輩? どうしたんですか? 今日、なんだか変ですよ?」


 先輩はいつもふざけたことをいいながら、わたしの相手をしてくれる。

 いつも屋上で、空を見ている。

 昼は雲を食べて、夜は星を食べる、わたしたちの先輩。


 なのに――。


「――ねえぱんだぱんつちゃん。あれからもう半年。もうそろそろ気が済んだんじゃない?」

「先……輩……?」


 ざああっと風が吹く。

 振り向いた先輩の瞳が、真っ直ぐにわたしの目を射抜く。


 ガラス玉のような冷たい瞳で見つめられて、わたしは息を呑む。


「ぱんだぱんつちゃんはマナにはなれないよ。マナとぱんだぱんつちゃんは違うんだから」

「なんで……なんで今日に限ってみんなそんなこと言うの?」


 わたしは装うのを忘れて、首を横に振りながら後ずさる。


「そろそろみんな限界だからじゃないかな」


 先輩がゆっくりとわたしに近づく。


「限界……?」


「君のことをずっと見守ってきた君の家族や彼氏くんも、君のことを容認してきた担任も、君のためにこの場所を守り続けてきた元天文部顧問も、そしてマナの猿真似を続けてきた君自身も、だよ」


「猿……真似、って……」


「そうでしょう。天文部員で、地学を選択していて、雲と星が大好きだった。クラスでは浮いていて、陰湿ないやがらせを受けていたけれど、感情を露わにするでもなく、ひとりでもなんてことないように飄々と生きていた。――そして一年生の終わり、三学期の最後の日、修了式のあと、このフェンスを越えて転落死した。それはマナのことだよね。君の友だちだった、マナだ」


「やめて先輩」


 暴かないで。知らないふりをしていて。

 今までみたいに。


 わたしはまだわかっていない。

 なにもわかっていないんだから。


 わかるまで、終わらせたくない。


『ゆいちゃん、あの雲おいしそうだよね』


 そう言って笑いかけてくれたマナの声が甦る。


 同じ中学から一緒にこの高校に進学したマナは、色白で染めていなくてももともと色素が薄くてふんわりとした栗色の髪をしていて、中身だけじゃなくて外見も可愛い子だった。


 そのせいでクラスでは最初から目立っていたんだと思う。


 けれどマナは自分の外見には無頓着で、やることはマイペース。

 わたしみたいな地味な子だったら誰も気に留めないような些細なことでも、マナがやれば際立って目につくことがあったのかもしれない。


 クラスでいやがらせが始まったのは、入学してからそれほど経たないころだったときいた。

 それでも、マナは言ってくれた。


『ゆいちゃんがそばにいてくれて、雲と星がそこにあれば、わたしは幸せ』


 それなのに。


 わたしは――わたしはあの時も、今も、マナのことがちっともわかっていない。


 だからわたしは、もう遅いかもしれないけど、今更かもしれないけど、マナと同じことを同じように感じたいって……、マナのことを少しでもわかりたいって、そう思った。


 だって、どうしても考えてしまう。

 わたしに、もっとなにかできることがあったんじゃないかって。


『ちょっと屋上に寄ってくから、ゆいちゃんは先に帰ってて』


 一緒に行くよ、と言ったわたしに『先輩に秘密の相談があるの』ってマナは応えた。


 じゃあ、あとでメールするね。

 そう言って手を振ったのが最後になった。


 マナは自殺なんてしないって信じてる。

 信じてるはずなのに、どこかで信じきれてない。


 マナが転落して、事故死だとされたあとも、学内はいじめが原因だという噂でもちきりだった。

 確かにマナはいじめにあっていた。

 けれどマナはそれに負けたりしなかった。していないはずだった。


『二年になったら同じクラスになれるといいね』 


 そう言って、ふたりで近所の神社に願掛けにだって行ったのに。

 あれは嘘だったの?

 本当は死にたいくらい、限界だったの?


 わたしにはなにもわからない。


「やめるのは君だよ。学校の備品である机に自分で落書きをしたり、お母さんがせっかく作ってくれた弁当をゴミ箱に捨てるなんて、どうかしている。いったい、いつまで甘えているつもりなの? いつまで続けるつもりなの?」


 一歩、二歩と迫ってくる先輩との距離を保とうと、じりじり後退していたわたしの背中が、フェンスにぶつかった。

 追い詰められたわたしには、もう逃げ場がない。


「わた、わたし……は……」


「やりたいなら勝手にやらせておけばいい。そのうち気が済むだろう。そう思っていたけれど、さすがにもうこれ以上つきあってられないな。どこまで続けるの? 最後まで続けるの? いいよ、それならぼくが手伝ってあげる。君をここから突き落としてあげるよ」


 先輩の手が、わたしの首に伸びる。

 フェンスはわたしの胸のあたりくらいまでの高さしかない。


 伸ばされた手がわたしの喉に絡みつく。

 上半身がフェンスの外に押し出される。


 ひゅぅぅ、と下から吹き上げる風に髪がさらわれる。


 怖いっ。やだっ!!


 やめてと言いたいのに、声が出ない。

 喉が痛い。息ができない。


 首をしめつける手をどけようとしても、先輩の手はわたしの力じゃどうすることもできない。


 目がちかちかする。  


「いいことを教えてあげよう。ぱんだぱんつちゃんがいくらがんばってマナの真似をしても、意味なんてないんだよ。それで得られるものなんてなにもない。断言するよ。彼女には死ぬつもりなんてこれっぽっちもなかった」


 手の力を緩めず、先輩は続ける。


「マナはいつものようにおいしそうな雲を探しながら能天気に話しかけてきた。本当は、雲も星も食べられないくせにさ。当たり前だよね。人間は空に浮く雲や星には手が届かないし、もちろん食べることはできない。よしんば標高の高い場所にいて雲を口に含むことができたとしても、もちろんそんなものでお腹がふくれるわけがないよね」


 くすり、と先輩が笑う。


 それなのにやっぱり目は笑っていない。

 すぐ傍にある先輩の瞳は、なにも映していないように見える。


 深い深い漆黒の闇に、まるで吸い込まれてしまいそうだ。


 せん、ぱい……。


 マナが自ら死を選んだわけじゃない。

 マナは嘘をついていたわけじゃない。

 先輩の言葉を信じたい。

 わたしがやってきたことが無意味だったとしてもそんなの構わない。


 でも、先輩はどうして真実を知っていたのに、わたしに教えてくれなかったの?


 訊きたいけれど、訊けない。

 上半身が完全にフェンスを越える。


「これでマナのところに行けるね」


 死にたくない。

 そう思ってたはずなのに、誘惑に負けそうになる。


 マナに会える? 

 マナに会いたい。

 マナの声が聞きたい。


 そうか、このまま落ちれば、わたしはマナのところに――。


 ふわっ、と足が浮く。


 わたしを突き飛ばすように、首から先輩の手が離れるのがわかった。


 目に映るのは一面の青。

 そして薄く広がる白い雲。


 ただマナの真似をしていただけじゃなくて、もともと空を見るのは好きだった。

 マナも好きだと知ってからは、もっと好きになった。


『好きなものがいつもそこにあれば、たとえ悲しいことがあってもがんばれるよね』


 昼は雲を、夜は星を見ながら、マナはいつも笑っていた。


 マナはいろんなことを気づかせてくれた。

 マナがいてくれたから、わたしは幸せだった。


 わたしは空と雲を目にやきつけてから、そっと瞼を閉じた。

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