第2話 屋上の先輩

 目的地は理科棟三階地学室。


 窓からの眺めが良好で更に屋上にも出られるから、思う存分雲を物色することができる。


 ついでにいえば、わたしは地学室を活動場所として使用している天文部員でもあるので、夜、観測会を称して屋上に天体望遠鏡を引っ張りだせば夜空に浮かぶ星の観察だってできてしまう。


 なんておいしい部活だろう。


 そう、天文部員のわたしが放課後部活に行ってなにが悪いの。


 ショーゴの残像を振り切るように勢いをつけて階段を三階まで上りきる。

 屋上へ出るための階段は、一階から三階まで上るものとは別に、地学室の奥にひっそりとある。

 つまり地学室を抜けないと屋上へは出られない。


 うちの高校は、基本的にどの校舎も屋上へ出るのは禁止されている。

 ただし天文部員は活動に必要な場合に限り、許可を得れば教務室で管理されている屋上へ続く扉の鍵を借りられることになっている。


 ――というのは建前で、鍵はだいたい地学準備室の地学教師兼天文部顧問であるマモセン(かつらまもる、二十八歳独身・護先生を略してマモセン)の机の引き出しに放り込まれているので、教務室まで行くことはめったにないんだけど。


 地学室も使用されていない時は鍵がかかっているから、わたしはまず隣の地学準備室のドアをノックした。


 今、うちの高校で地学を教えている教員はマモセンひとりだけだから、準備室ではマモセン以外の教員の姿を見たことがない。

 そしてマモセンは大抵、教務室じゃなくて準備室にいる。


「どうぞー」


 部屋の中からマモセンの声が聞こえた。

 やっぱり今日もマモセンはここにいる。


「失礼しますー。ども。先生、鍵くださーい」 

「どーも。鍵はあいてますよ」


 ドアを押し開けながら声をかけると、マモセンはPCのモニターから目を離さずにぼそぼそと聞き取りにくい声でいった。

 マモセンは生徒と目を合わせるのが苦手で、生徒の前でしゃべるのも苦手だとかで、いっつもこんな感じ。


 どうして教師になったんだろ?


「りょーかいです」


 地学準備室から地学室へと続くドアが半開きになっている。


 マモセンの後ろを通り過ぎる時、モニターにどこかの惑星が映っているのがちらりと見えた。

 マモセンは生徒相手に押し付けがましく天文的知識なんかを語ったりするタイプじゃないけど、わたしがなにか訊いたらさらりと、ただしぼそぼそとくぐもった声で答えてくれたりする。


 まあ、わたしは別に天文学とかに興味があるわけじゃなくて、ただおいしそうな星を見つけられればそれでいいわけだから、質問なんてめったにしないんだけど。

 



 狭い階段を上って扉を開いた途端、強く吹きつける風にスカートを煽られた。


「やあ、ぱんだぱんつちゃん」

「今日はちゃんとスパッツはいてます」

「それは残念」


 フェンス際に置かれたベンチに寝転がる学ラン姿の先輩が、目を閉じたまま、特に残念でもなさそうに言う。

 活動日じゃないのに屋上にくる生徒は今やわたしくらいのものだから、いちいち目を開けなくても誰が来たのかわかるんだろう。


 光の加減で時々藍色がかって見える、まるで夜空のような黒いさらさらの髪に、女の子顔負けの白い肌。

 時々なにを考えているのかわからなく感じる漆黒の瞳。

 整った造形のせいで、しゃべらなければまるで人形みたいだと思う。


「別に見るつもりなんかないくせに。それより、そのぱんだぱんつちゃんっていうのいい加減やめてくださいよ」


 一度だけ、初対面の日にたまたまはいていたぱんだのぱんつを見られてしまって、それ以来先輩はわたしのことをぱんだぱんつちゃんと呼ぶ。


 ぱんだプリントのぱんつは確かに可愛くてお気に入りだけど、ぱんだぱんつちゃんと呼ばれて嬉しいかと問われれば答えは否だ。


 というわけで先輩に呼ばれる度にやめてくれるようお願いするんだけど、先輩はどこ吹く風といった感じで一向にわたしの要望を受け入れてくれない。


「見そびれただけだよ。それよりいいの?」

「なにがですか?」

「彼氏」


 先輩がフェンスの向こう側、下方を指す。

 目でその指の先を追うと、猫背になったショーゴが校門を出てゆく姿が小さく見えた。


「彼氏なんかじゃないって言ったじゃないですか」

「だとしても、だよ。馴染みの深い子なんじゃないの? 放っておいてもいいの?」


「関係ないですから」

「ぱんだぱんつちゃん冷たいね」

「冷たくて結構です」


 ふん、とひとつ鼻から息を吐くと、わたしはごろんと屋上に寝転がった。

 屋上はそれほど広くなくて、教室ひとつ分くらいの面積しかない。

 でも天文学部だけが独占できる贅沢なスペースだし、わたしはここに満足してる。


 目の前には秋晴れの空が広がっている。

 日差しは強すぎず、吹き抜けてゆく風はまだ冷たくなくて、ちょうどいい心地よさ。


 床に直に寝転がっても、カバンを枕にしてしまえばコンクリートの硬さもそんなに気にならない。


 けど残念。

 お目当ての飛行機雲は既に空から消えてしまっていた。 


「あーあ。飛行機雲がぁ……。先輩、もしかして食べごろの飛行機雲、食べませんでした?」

「あー、食べたかもね」

「やっぱり!?」


「なーんてね。時間経過による自然消滅じゃないの? ぱんだぱんつちゃん、知ってる? 雲や霞や星じゃ、人間のお腹はふくれないんだよ」

「でも先輩は違うじゃないですか」


「やだなぁそんなに褒めないでよ」

「いえ別に褒めてはないですけどね」


 へらへらと笑う先輩の相手をするのに疲れて、わたしは深い深いため息を吐いた。


 先輩は、雲や星を食べている。


 空に滲み始めた飛行機雲が食べごろだと教えたのは、先輩なんだから。

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