人魚姫とJK
黒井みつ花
人魚姫とJK
刃渡り十五センチのナイフ。
月光を反射して銀色に光るそれは悲しげで、涙を一筋頬に残す私のことを僅かに映し出す。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
私の声は私にしか聞こえない。空気しか生み出さない喉は、声を出そうとする度に焼けるように痛む。
嗚咽混じりに吐き出して、彼の喉元にナイフを突きつけた。
*
私の喉には、生まれつき傷がある。
何か鋭い刃物で切り付けられたか、刺されたような傷跡は見るに堪えない。
とはいえ、痛々しい見た目とは裏腹に、痛みは全くない。病院で検査をしても異常は見当たらないし、傷に見える痣というのが、私の見解だ。
と、学校に行く前、毎日のように鏡の前で考えてしまう。直そうにも習慣付いてしまって、なかなか抜けそうにない癖だ。
両親も、女の子の身体にこんな醜い傷を与えてしまったことを悔いているらしく、年頃の娘に早く彼氏が出来ないかを心配している始末。
私だって、華の女子高生だ。二回折ったミニスカートに紺ハイソックス。ブラウスの第二ボタンまで外して、緩く締めたネクタイが許されるのは、たったの三年だけから、私だって青春を謳歌したいさ。
まあ、無理だろうけど。
何せ私の高校は、約八割が女子。残り二割の男子は……うん、あんまり考えたくない。
女を捨てているとか言うけれど、あいつらは男を捨てている。喪女ではなく、喪男。
「よし」
髪に櫛は通したし、ネクタイも締めた。いつもならスカートは内側に折った方がプリーツは乱れないけれど、今は夏。外側に折って出来た折り目の隙間にブラウスをねじ込めば、ほらちゃんとスカートのなかに閉まっているように見える。
洗面所の鏡の前でくるりと回って、後ろも確かめる。ちゃんと後ろもブラウスは仕舞われているし、髪の毛もはねていない。大丈夫だ。家を出られる。
「お母さん、行ってきまーす」
「いってらっしゃい」
お母さんは、まだリビングにいるみたいで、ドア越しに曇った声が聞こえた。
玄関に置いておいた、お弁当と筆箱しか入っていないリュックを背負い、玄関のドアを開ける。梅雨が明け切っていない、七月の朝はやけに眩しい。
青い自転車の鍵を外して跨る。スカートの下にはちゃんと黒いパンツを履いているから、一応見えても大丈夫だ。
自転車に乗って風を切る。
急に止まると、さっきまで涼しかったのが嘘のように暑くなるのだから、夏の自転車通学は嫌になる。まあ、この日差しのなかを歩いて通うほうが辛いか。
自宅から学校までは、自転車で約二十分。信号に捕まるとちょっと遅れる。
学校に着くころには、もう汗だくだ。背中の汗を見られたくないから、教室に着いたらすぐにベストを着ないと。
私の教室は三階にあるから、そこまでに上がる階段もハードだ。
「おはよう」
始業十分前の教室には、まだ生徒はチラホラしかいない。このクラスは大体五分前から、チャイムが鳴っている間に入ってくる子が多いのだ。一応チャイムが鳴り終わるまでに席に着けばセーフだから、それを狙っている人が多すぎる。
「おはよう、凛」
「真珠、おはよう~今日も暑いよね……なんなんだろうこの暑さ」
「凛、自転車で来てるから余計に暑いでしょ」
「暑いよお……。溶けそう……」
「溶けるな溶けるな」
「涼しい……」
真珠が私のことを下敷きで仰ぐ。赤い透明な下敷きなのが恨めしい。暑い色をしているじゃないか。
「そういえばさあ、知ってる?転校生が来るらしいよ」
「ああ、だから私の隣に机増設されているワケ」
黒板からも廊下からも一番遠い教室の隅。そこが私のここ二ケ月の居場所だ。そこは、クラスの在籍数が奇数なために、唯一隣に誰もいない席。別名忘れ物したら一番困る席。
そんな結構居心地が良い席だったのに、今日来たら机が一脚増えていた。
「男、らしいよ」
「その話詳しく」
変な時期の転校生だなあ、という感想が生まれたが、それよりも男という事実の方に興味が沸いた。
男がいないこの学校に、新しい男の存在は貴重だ。
「さっき、梓が見たらしいんだけど、結構イケメンぽかったって。イケメンというより、綺麗系?ウチの学年じゃあ……ほら、うん。比べ物になるヤツがいないと思うって」
「ああ……」
「まあ、確かにそうだよね」
クラスにいる十人に満たない人数の男子は、どこを見ても平々凡々かそれ以下。たまにいるカッコいい男子は、入学早々彼女をゲット。青春を謳歌している。
心底恨めしい。
私なんて、学校と家を往復して、週四でバイト。土日潰して働いているから、遊びにだっていけないのに。
「私も彼氏が欲しい……」
「お?シンデレラコンプレックスか?」
「なにそれ」
机に突っ伏しながら、呻くように言った台詞を拾われて、何か言われた。
「夢見る少女症候群だよ」から
「なにそれ」
「詳しく知りたいなら検索しな」
「ええ……」
朝から自転車漕いできて疲れているから、それどころではないのだ。
机に突っ伏したまま目を閉じると、聴覚が敏感になる。ザワザワとし始めた教室の喧騒は、五月蠅いはずなのに耳に心地よい。
朦朧としてくる意識。音は聞こえていると認識しているはずなのに、上手く処理されない不明瞭な感覚。徐々に夢のなかへと誘われている。
朝のキラキラとじた爽やかな日差しをうけつつ、私は夢の世界に引き摺り込まれた。
*
「――泡瀬渚です」
意識が霞掛かって覚醒したのは、朝礼中のことだった。私の担任は、朝礼中に寝ていても何も言わないし、なんなら朝ごはんを食べていても何も言わない。他人の迷惑になることをしていなければ、あとは自己責任というスタンスの教師だ。だからと言って、悪い教師なわけでもなく、良い先生。みんなから慕われていて、お菓子をあげるとかなり喜ぶお茶目な人。三〇代前半。既婚者。
そんな先生は教卓の後ろにいて、横には何やら見知らぬ男子。ああ、これが噂の転校生か。ぼやけた視界を使って、ぼやけた頭が認識するのに、時間はかからなかった。
「泡瀬の席は、あの、さっきまで寝てて今起きた窓際の女子の隣だから、わからないことがあったら聞きなさい」
先生は私のことを指して言う。教室中に笑いが起こる。はいはい、私はどうせいつも寝ていますよ。みんなそれくらい知ってるだろ。
「わかりました」
教室の笑い声がやんだ。
皆、泡瀬くんの声に聞き入ってしまったから。
男子にしては高めの声は透き通っているようで、瓶に詰まったレモネードのような清涼感を持つ。なのに、甘ったるく耳に残るわけでもなく、さらり消えて行く。
完全流体のような声だった。
一歩一歩、泡瀬くんが近づいてくる。
ああ、良く見たら顔も綺麗だ。声に相応しい顔をしている。
さっきよりクリアになった視界で、まじまじと泡瀬くんに見入っていると、隣の席の椅子が引かれた。
微かに香る石鹸の匂い。
「えっと、これからよろしく。わからないこととか、ジャンジャン聞いてください」
先生が朝の連絡をしているのを聞かずに、椅子に座った彼に向けて言う。
色素が薄いのか、彼の髪はかなり茶色く、肌も透き通るように白い。化粧をしているのか、と疑うほどにキメが整っているのだ。
日焼け対策が大変そうだな……。
「どうも、ありがとうございます」
静かに響く声。彼が私を見る。
「え」
茶色い目が見開かれる。
「嘘……」
視線は私の喉元に注がれている。
まあ、見慣れないとキツイものだあるよね。引きつった醜い傷が、他人のものなら私だって目を逸らしたくなる。
けど、そんな露骨に傷ばかり見ないで欲しい。
「――探してました、私の王子様」
「はい?」
泡瀬くんの手に、私の手が包まれる。
華奢に見える彼の手は意外とゴツく、薄い皮膚と相まって、骨格がよくわかる。手が冷たい。
「あなたは私の王子様です」
首に手が掛けられる。
「私が殺した、私の愛しの王子様」
透き通る声が告げ、一限目開始5分前を知らせるチャイムが鳴った。
*
転校生は嵐のような男だった。
「私は人魚姫の生まれ変わりなんです」
彼が転校してきた初日のこと。
真珠とお弁当を食べていると、彼に呼び出された。
屋上へと続く階段は薄暗く、屋上への扉の前には何故か机が積まれている。
ほぼ密室と言っていい空間だ。
「はあ?」
突拍子もない話に、思わず眉間に皺を寄せてしまう。
「私は愛したプリンスの喉を刺し、殺しました」
彼は続ける。
「その語、魔女から声が戻ってきた私は海には帰らず、地上で暮らすことを選びました。自分可愛さでヒトを殺した私は、海に帰れないと思ったからです」
「ちょっと待って、話の腰を折るようで申訳ないんだけど、私の知っている人魚姫と違うんだけど」
「ああ、そうですね。あれはハンス……アンデルセンが私の話を勝手に童話に仕立てたものですから」
「それ、研究者たちが知ったら卒倒しそうな話だね」
「ふふ、そうですね」
彼は笑う。
顔も声も全て男性の彼は、女性のように妖艶に笑う。感じる違和感は艶やかで、もしかしたら違和感を感じることがおかしいのかもしれない。
男の身体に女の心。
世界中にそういう人はいっぱいいるけれど、彼はそれとも少し違う気がするのだ。
休み時間、彼がスマホを見ているときに見てしまった壁紙が、最近売れているグラビアアイドルの水着ショットだったというのが、かなり大きいのだと思う。
それに、私の前以外では、彼の一人称は「俺」なのだ。
「――まあ、それで私は最期まで地上で、普通の人間として暮らしたのでした」
「…………終わり?」
「ええ。終わりです」
「はあ……」
「私は最期まで、手を掛けた彼に対しての未練を捨てきれずにいました。だからこうして、生まれ変わっても記憶を引き継いでしまったのでしょう。私の執念で私たちは生まれ変わっても巡り合うことができた」
「え、ちょっと」
彼の手が喉に伸びてくる。ブラウスは第二ボタンまで開けられているし、ネクタイは暑くて取っている。開かれた首元を狙って一直線に、彼の冷たい手が触れた。
「この傷、私が付けたものでしょう?」
指先で真横に広がる傷をなぞられる。引きつった皮膚が感触を伝える。
「喉に突き刺したナイフの重み、私はまだ覚えています。いえ、忘れた日など一度もなかった」
運命ですね。と恍惚に語る彼の目蕩けている。
その目に見つめられれば、氷のようになってしまったかの錯覚。だからこそ、私は息を吐いて、大きく吸った。肺に酸素が流れ込んでくる。
「え、現代のグラビアアイドルに夢中なのに?」
思わず。
思わず出てしまった。だって、スマホの壁紙をグラビアアイドルの写真にしている人に、何となく言われたくないなあと思ってしまったのだ。耽美な雰囲気を醸し出して目を細めて笑う、綺麗な顔をした青年に騙されてはいけないと思ったのだ。
空気が凍った。
「…………えっと、どこでそれを見たんですか?」
彼はさっきまで纏っていた雰囲気が一変した。
なんていうか、軽くなったというか、柔らかくなったというか。
「さっき、チラっと」
他人のスマホを勝手に見るのは悪いことだけれど、不可抗力だ。見えてしまったのだからしょうがない。
「……ごめんね?」
「ふふ、いいですよ。別に」
声が笑っていない。
「見えてしまったものは仕方ありませんしね!私はグラビアアイドルが大好きですとも!」
いきなりテンションが変わられても、こちらが困惑する。
今の今まで、見た目も声も何もかも美青年が、妖艶な女性の雰囲気を纏った歪な美しさを纏っていたはずなのに、普通の男子高校生まで墜落したようだ。
「女の子、好き?」
「大好きに決まっているじゃないですか」
何を当たり前なことを聞いてくるんだ。と言いたげな顔で見つめ返される。
「私は女性が好きですよ、プリンス」
「じゃあ、プリンスが男だったらどうしたの?」
「プリンスは女性に決まっているじゃないですか。プリンスが男性だなんて認めませんよ。なんのために私が男として生まれたのか分からないじゃないですか! 私が男性として生まれたのはプリンスと今度こそ結ばれるため! ねえ、プリンス」
いや、知らんがな。同意を求められても困る。
「そもそも、私には君のような前世の記憶? がないんだけど」
「大丈夫です。私が必ず思い出させてみせましょう」
「別に必要ないんだけどなあ……」
クーラーの効いている教室ではなく、屋上に続く蒸し暑い階段で一体何をしているんだろうか。
「――ねえ、プリンス」
「はい、なんですかプリンセス」
もう、半ばヤケクソだった。
プリンスと呼ばれるのはまだしも、同い年の男にプリンセスという日がやってくるとは、思いもしなかった。夢でも見ているのだろうか。それならこれは悪い夢だ。
「今度デートしましょうデート」
「はい?」
「やっぱり、私のことをよく知ってもらうことが一番かと思いまして」
「いや、でももうすぐテスト期間……」
「なら、テストが終わった最終日にどうですか? 早く帰れるでしょう?」
「いやそうだけど」
「大丈夫です。後悔はさせませんから!」
目を輝かせて彼は言う。
自分の言葉にどれほど自身があるのやら。
「…………分かった。じゃあ、テストの最終日に」
結局、負けた。キラキラとしている顔面と、女性のようなと言えばいいのか、特有の圧力は結構耐えかねる。
「じゃあ、デートプランは私にお任せください」
王子様のようなキラキラスマイルを最期に一撃放って、彼は私の手を再び握った。
こうして私――白井凛の人生初デートは決まったのである。
*
徹夜で荒れたお肌よりも目立つ隈。ビタミンが凝縮された瓶のドリンクを飲んでも、睡眠不足の身体にはなかなか浸み込んでくれないようだ。
テスト最終日、最後の科目は数学Ⅱだった。だからこその徹夜とも言える。数学だけは出来ないのだ。暗記科目だから、その場で適当に答えを出せば良いというものではないし、だからと言って、ウンと言えばスンで答えが出る様な暗記ものでもない。計算式を暗記したところで、長いプロセスに綻びが生じれば全てパー。そんなだから、授業は寝てしまいノートを取らない悪循環で、テスト前日は半期分のノートをつくって終わる。
ひどい有様だ。一応このあとデートなのに……。
トイレの鏡の前の自分を嘆いても仕方がない。バシンと両手で頬を叩いて活を入れる。
「よし」
空元気だけは十分に充填した。
トイレは教室の真横にあるので、出ればすぐに自分の教室だ。教室のなかにはちらほら数名生徒が残っている。ノートを広げてシャーペンを動かしているのを見る限り、今日提出のノートづくりが終わっていないのだろう。可哀想に。
「……渚くん。お待たせ致しました」
本来の自分の席に座って、スマホを見つめていた彼に声をかける。画面をホームに戻すときに見えてしまった壁紙は、転校初日とは違うものだったけれど、相変わらずグラビアアイドルのようだ。
黒い髪の清楚な女の子が、白いワンピースを着て、白い女優帽を抑えながら振り向いている。正直、この子の顔は私も好みではある。
「いえ。では行きましょうか」
「はっ!?」
さりげなく手を取られた。相変わらず、彼の手は冷たい。サラリとした皮膚の感触を意識してしまって、絡まった指先から不自然な熱が溢れる。
「学校からバスで最寄りまで向かいましょう」
爽やかに言う彼は、そのまま廊下に出ようとする。絡まった指は解かせてくれないらしい。
廊下には幸い、あまり人は残っていなかったため、軽く息を吐いた。
彼は顔が良い。プラス身長一七七センチ。私との身長さ一五センチ。
狙う女たくさん。
変なやっかみとか、イケイケでちょっと怖いDQNなお姉さんたちに目を付けられたくないのだ。
それに私たちは付き合っているわけでもないし。
ああ、でも。こうやって顔の良い男の子と手を繋いで歩くっていうのは、ちょっとだけ気分が上がる。
私だってJKだ。イケメンに憧れを持っているさ。
彼は本当に顔が良いし、声も良い。
でも口を開けば、「プリンス」か「運命ですよ。運命」なのだから、現実は恐ろしい。
三階の教室から、昇降口までは無言だった。
時折、意識とは関係なしに指に力が入ると、彼も反応してピクリと指を動かしていた。
階段を下りる足音と、まだ残っている生徒の声から切り離されたように感じたのは何故だろう。
私のことを、女子としてではなくて、あくまで前世のプリンスとして慕う彼の歪な感情に、どう目を向けて良いのかわからないのだ。
「名残惜しいのですが、一旦手を離しますね」
頑なに結ばれていた指が簡単にほどけていく。
残ったものは、籠った熱と滲んだ汗。
昇降口に籠った湿度だと誤魔化したくなった。
「ねえ、今日はどこに行くの?」
「ああ、言ってませんでしたね。秘密です。ふふ」
私といると滲み出てくる女性らしさが、彼の言う人魚姫の姿なのだと思う。
前世とか、運命とかを完全に信じているわけではないけれど、彼から時折現れるものが如実に語っているのだ。だって、私と話すとき以外、彼は女性らしさを出してこない。等身大の男子高校生らしい話し方と声のトーンで喋る。
私にだけ、違う一面を彼は見せる。
そう思うと、心臓がキュッてなって、一瞬全身が痺れるような錯覚が走った。
その感覚を掻き消すように、ところどころ赤くなっている金属の扉を、いつもより乱暴に閉めた。
*
彼が私を連れてきたのは、映画館だった。
学校からバスに乗って終点の駅の近くにある、小さいショッピングセンター内にある映画館。
通学のための自転車は、明日まで学校の駐輪場に置きっぱである。
「チケットを貰ったんですけど、2枚あったので」
そんな簡単な理由だった。
映画館を初デートに選ぶと失敗するということを、彼は知っているのだろうか。
理由は多々あるが、まあ関係ないか。そもそも付き合っているわけではないのだ。
無料で映画が見られるのだ。ラッキー程度に思っておこうと思う。
「ポップコーンは食べますか?」
「うん、大丈夫」
「じゃあ、上映までしばらくあるので、軽くお昼でも食べましょうか」
「……そうだね」
あまり食欲はなかった。テスト最終日にデートをOKしてしまった過去の自分を殴りたい。どうしてOKしたんだよ。テスト最終日は睡眠不足で帰ってすぐに寝ているじゃんか。
館内が涼しいのがせめてもの救いだ。
「あ、アイス。アイス食べましょう!」
「ああ、良いね、アイス……」
冷たくて甘い。アイスなら今でも食べられる。寧ろ食べたい。
「買ってきますよ、何が良いですか?」
「チョコミント」
「了解です」
彼はアイスクリームのチェーン店に歩いていく。
硬くなっていた身体から緊張が抜けるように、息を吐いた。
私たちは、傍からどう見られているのだろうか。
そんなことを考えるだけで、オーバーワーク気味の脳味噌が勝手にエンジン全開で熱を持つ。
「歯磨き粉って否定されなかった……」
私がチョコミントを食べていると、友達は皆口を揃えて言うのだ。「そんな歯磨き粉どこが良いの」と。
美味しいじゃんか、チョコミント。そもそも、チョコミントを歯磨き粉だと思っている時点で味覚が衰退しているのだと、私は思う。
些細なことでも、自分の嗜好を否定されないと嬉しいもので。
夏の少しだけ薄い生地のスカートのプリーツを、ギュッと握った。
彼が二つ、自分の分だけちゃっかりダブルで持って帰ってくるまで、あと三分。
*
正直に話そう。私は一歳映画の内容を覚えていない。
寝てた。完全に眠ってしまっていた。
いびきをかいていたか、なんて心配はしなくてよろしい。約二時間、私はそれはもうぐっすりと眠っていた。
最初のCMは起きていたと思う。それすらも記憶が曖昧なのだから仕方あるまい。
暗い映画館に、そこそこな座り心地の椅子。そりゃ寝るわ。今日寝てないし、そもそも、滅茶苦茶楽しみにしてた映画というわけでもないし。
なんだかよく分からないミステリーものは、私の疲れ切った頭では処理できす、オーバーフローで夢のなかだ。
彼に起こされるまで、眠りこけていた私のアホ面を殴りたい。
笑顔で、「よく眠れましたか?」なんて問われたら、そりゃもう申し訳なさでいっぱいだ。私のような人間を呼ぶためのチケットでもなかっただろうに。
各方面に謝りたい。
「すみませんでした」
私たちは現在、映画館から一番近いシアトル系カフェで休憩中だ。カウンター席に並んで座っている。距離感は十五センチ程度だろうか。目測だから分からない。
ぶらぶらと、足が宙に浮いて心許ない。
「いえ、謝らないでください」
「いやいや、でも」
「あの映画を選んだのはわざとなので」
「はい?」
アイスコーヒーの氷が溶けるように、ストローで中身を掻き混ぜる彼は目を伏せて言った。
思わず。長くびっしりと生えて、綺麗な二重を縁取る睫毛に目が行ってしまう。
「寝ていなかったようなので……」
バレてた。
そりゃあ、隈も黒くなっていますしね。バレるよね。皆に「私寝てないわ~」とか言っていたし。
「昨日から、ですかね? 眠っていなさそうだなあ……って思って。だから、遊園地とかはキツイかな、と思いまして。丁度、何故かウチにチケットがありましたし、使っていいかと聞いたらOKが貰えたので。……この映画なら――正直あまり期待するような内容でもないし、少しでも眠ってもらえるのに丁度いいかなあ、って思ったのですが……。すみません、余計なお世話でしたね……」
アイスコーヒーを掻き混ぜる手を止めた彼は、膝に手を置く。
「貴女を苦しませる気なんて、なかったのに……」
苦しそうに彼は言った。実際苦しいのだろう。良かれと思ってやったことが裏目に出たと思っているのだから。
でも、
「いやいやいや。そんなこと考えてくれてたんですか!?」
私の方は想定外だ。普通そんな気遣いできないでしょ。
驚いた。これは、驚いた。
「え、ええ、まあ……」
「はあ……。なんていう気の利かせ方……」
普通じゃない、というか、目の付け所が違うというか。
そう言えば、彼はずっと気を利かせてくれていたのだ。
歩道を歩くときだって、車道側を歩いてくれていたし。さっきはアイスまで買ってきてくれた。自分の分だけ二段になっていたのは、少しズルいと思ったけれど。きっとこれも、私が眠っていないことによる体調不良を見抜いていたからなのだろう。
彼が人魚姫ならば、本来はそうされる側であろうに。私のことを王子と呼ぶ、自称人魚姫の方が王子さまみたいだ。
「不快ではなかったでしょうか」
「全然! むしろ有難うございます、だわ!」
これは、何かお礼をしなければなるまい。
映画館の中で眠ったから、結構頭もすっきりしているし。
「そんなに気を使ってもらっているなんて考えてもみなかったし、その……お礼がしたいんだけど」
「お礼ですか……?」
「なんでもいいよ!」
ドンと来いである。現在の私は色んなことに結構寛容なので。
「じゃあ……」
彼の唇が動いた。
ケアが行き届いている唇は艶々していて、ひび割れてもいない。気を抜くとすぐに裂けてしまう私の唇とは大違いだ。
羨ましい。
「今度お祭りに行きたいです……」
「え、そんなことで良いの」
「はい。勿論、浴衣を着て来て欲しいですけれども」
「浴衣か……」
もう何年も着てないな。そういえば。
「引っ越してきたばかりなので、この辺のこと詳しくないですし」
「じゃあ、学校の近所の神社のお祭り行こうよ。あそこ毎年お神輿とか出して結構賑わうから」
高校からもボランティアとして何人か担ぐらしい。しかも全員女子。
神輿と言ったら男性が担ぐものらしいが、最近では女性が担ぐことも多くなってきているらしい。
私は、あの神社でしか神輿を担いでいる人の姿を見たことがないから、神輿は女性が担ぐものだと思っていた。
「約束ですよ」
「はいはい。じゃあ、指切りしようか」
小指を出す。
彼は一瞬目を見開いて、それから目を細めた。
私の小指よりも長くて、少しだけゴツい指が絡む。
「指切ったらナイフで喉切りますからね」
「おお、怖いな。針じゃないんだ」
「そりゃあ、人魚姫ですから。――はい、指切った」
離れていく小指と彼の笑った顔。それを照らす、地に落ちる太陽の光が鮮明に瞼の裏に焼き付いた。
*
八月に入ってから約二週間が経った。
夏休みに入ってからは、彼と顔を合わすことはなかった。とはいえ、毎日のようにスマホにメッセージが飛んでくる。
恋する乙女は一途なようだ。
もっとも、彼は乙女と言っていいのかわからないが。スマホの壁紙がグラビアアイドルだし。
「よし」
和室の姿見の前でくるりと回る。
夜空のような紺に金魚が泳ぐ浴衣は、箪笥で肥しになっていた母のものだ。私が「浴衣を着てお祭りに行きたいんだけど……」と言ったら、箪笥から出してきたので驚いた、ウチにこんなに綺麗な浴衣があるとは思っていなかったのだ。
帯は金魚と同じ、少し暗めの落ち着いた赤。
首の傷は、チョーカーを巻いて隠している。
髪は、両サイドから裏編み込みをして、後ろも二つに裏編み込みにして、最後に一緒くたにしてまとめている。結構手が込んだ髪型だ。二の腕が痛い。
「うん、かわいんじゃない」
「そうかなあ……照れるぜ、全く」
「否定しないところが我が娘って感じだわ」
母は浴衣の着付けが出来る人だった。本人曰く、「浴衣くらいならギリギリ出来るよ」とのこと。
「で、誰と行くのよ」
「友達だけど」
「嘘」
「なんでわかったの」
「友達となら私服で行くでしょ、あんたは」
「うっ」
確かに、ただの友達となら私は浴衣を着て行かない。例年そうじゃないか。
「うん……そうだね。流石母……」
「何年あんたの母親やってると思ってんの。で、誰」
「謎の転校生X」
「ああ、イケメンって噂だって子」
「なんで知ってるの!?」
「真珠ちゃんのお母さんからの情報」
「うわあ……マジかあ」
「あんたにも遂に春が」
「うるさいなあ……」
「おめかししちゃって」
「ハイハイ。じゃあ行ってくるから」
「待ち合わせ?」
「うん。神社で待ち合せ」
和室を出て、玄関に向かう。母から、浴衣に合う籠バックを渡された。これは新しく買ったものらしい。
「気を付けてね」
「うん。行ってきます」
履きなれない桐下駄は、意外にフィットいている。これなら歩いても大丈夫そうだ。
玄関のドアは母が閉めてくれた。最後に余計な「頑張れよ!」という台詞を添えて。
「あっつ……」
まだ日差しが出ている時間だから日傘を差す。外側が白く、内側が黒い日傘は遮光性が高い。
神社までは、最寄りのバス停から、十分くらい乗っていれば着く。しばらく待っていると、三分遅れでやって来た。お祭りに行くためか、結構浴衣の人が乗っている。
座りたかったけれど、混んでいるから仕方ないか。
袖を気にしながら吊り皮を掴む。今日の運転士さんは、運転が荒い方のようだ。
バスが停車した。何度かのピッという電子音とドアが閉まる音。
発車するとき、やっぱり身体がよろけた。底が厚い下駄では上手くバランスが取れなくて、後ろの人にぶつかりそうになった。
「大丈夫ですか?」
ああ、どうして。
「なんで……」
彼は良いタイミングで登場するのだろうか。
ぶつかりそうになった身体は、彼が背中を支えてくれて平気だった。
「こんにちは。浴衣お似合いですよ」
背中を支えられたまま囁かれる。
そういう彼も浴衣だった。グレーと言えばいいのか、そういう系統の着物にパナマハットを合わせている。顔が良いから何を着ても似合うのだろうけれど、彼が着ているそれらは全て計算されているかのように、彼の魅力を引き立てていた。
クソゥ……。イケメンめ。
目の前に立つ顔の良い男を見て、顔が赤くならないほうが無理だ。
本当は君が王子さまなのではないだろうか。でも、私はお姫さまなんていう柄じゃないけれど。
*
提灯の灯りと石畳に人混み。神社のお祭りは今年も賑わっている。
「林檎飴が食べたいのですが、どうですか?」
「ああ、うん私はいいや。フランクフルトの方が食べたいかなあ」
彼が林檎飴の屋台を指さして言った。その声はいつもよりも喜々としているように感じる。彼もお祭りの独特な雰囲気にのまれているようだ。
私は林檎飴が好きではない。というよりも、幼い頃から、どうしてか林檎の見た目が好きではないのだ。剥いてある林檎は好きだし、食べる。けれど、そのままの林檎が使われている林檎飴は、食べようという気にならない。
「じゃあ、私あっち並んでるね」
「分かりました」
彼は特に何も感じなかったようで、林檎飴の屋台の列に並んでいく。
私も並ぼうと思って足を踏み出したら、誰かの足を踏んでしまった。
「あ、すみません」
「大丈夫ですよ、浴衣のお嬢さん」
足を踏んでしまったのは、これまた彼と並ぶくらい綺麗なお兄さんだった。泡瀬くんが中性的な美なら、この人は男性としての美しさだ。こんな綺麗な人、この辺にいたんだ。
「――おや、なるほど。お嬢さん、お独りですか?」
うお、そうくるか。ナンパなんて初めてされたぞ。
生まれて初めての衝撃に対応出来ず口をつぐんでいると、綺麗なお兄さんは口を開いた。
「もし独りなら、私と一緒に周りませんか、白雪姫」
は?
「これは運命だ。俺はずっと貴女のことを探していた」
既視感を感じる展開に眩暈を覚えた。
顔が良いとはいえ、知らない長身の男性に迫られるのは結構怖いものがある。
往来のド真ん中とはいえ、お祭りを楽しんでいる人たちの目には止まらない。
「私のことは――」
「――彼女に御用ですか」
林檎飴を持った彼が、私の肩を掴んで距離を離した。
「ふうん、連れがいたんだ。へえ、君は人魚姫だね」
「何故、分かるんですか」
彼の声が低くなる。
「俺、白雪姫の王子様だから」
「はあ?」
いや、もう驚かないけど。
泡瀬くん以外にも、自分のことを御伽噺の登場人物だと言ってくる人間がいるなんて思わないだろう。
「彼女は白雪姫だ」
「俺のプリンスですけど」
一触即発の雰囲気。
往来のド真ん中で何をやっているんだと思う。
「――ふふ。そうか、そうか。まあいいか。多分そのうち君たちとはまた会えそうだし」
「俺は会いたくないけど」
「運命とは惹かれ合うものなんだよ、少年になった人魚姫」
お兄さんが、彼の肩を叩く。
「じゃあね、白雪姫」
白雪姫の王子様を自称するお兄さんは、嵐のように去って行った。振り返っても人混みに紛れてわからない。
「行きましょうか」
怒っているのだろうか。
彼から差し出された手を反射で握ってしまった。
手全体に力が籠められる。離さないとでも言うようだ。
「うん」
彼は私の前を歩く。時折、林檎飴を齧りながら。
どこに向かっているのは分からない。ただ、真っすぐ歩いているから、恐らく本殿に着く。
「あなたは、私のプリンスです」
いつの間にか、本殿まで来ていた。屋台が並ぶ参道と違って人はまばらだ。人混みに疲れた人が、今日のために設置されたベンチに座っているのが目につく。
「うん」
「好きです」
彼の手から林檎飴は消えていた。
「最初は、俺のなかの人魚姫の因子が叫んでいた。けれど、今は俺の意志で、貴女を好きだと思うんです。貴女は俺が人魚姫だと言っても、結局こうして普通に接してくれるから。人魚姫じゃない、俺のことも見てほしい、って思った。それから、自分だけを見てほしいとも」
初めてなのだろう。本人からすれば、人魚姫を通していない自分の言葉を私に言うのは。
でも、私からすれば、人魚姫を通していようがいまいが、全てが泡瀬渚という人間だと思っているから。
「私は最初から、君のこと、泡瀬渚という一人の人間だと思って接してきたよ」
人魚姫だという彼を、全部ひっくるめたものを、私は見てきたのだ。そんなに長い時間ではないけれど。
「私は君のこと、まだ好きとかわからない。君を恋愛的な意味で完全に好きになるほどの時間を共有していないから」
だから、君のことをもっと話してほしいし、教えてほしい。
「わかりました。じゃあ、俺の好きなものの話から」
こうして、私たちは始まった。
夏の真ん中から。
きっと、夏が終わったとき、この関係に名前が付くのだろう。
友人か、恋人か。
それは、夏が終わらないとわからない。
*
後日談であり、前日談にもなるお話をしよう。
夏休み明けの登校初日。
今日は全校集会だけ。
蒸し暑い体育館に寿司詰めになる生徒は正直可哀想だなあと思う。
「今期から養護教諭として着任する――」
壇上から挨拶すると、あのお祭りで見かけた人魚姫と白雪姫を見つけた。
ほら、やっぱり運命だ。
運命は引き合うもの。例え君が死体だったとしても、俺は君を見つけただろう。
「白馬聖です」
ああ、これからこの高校での生活が楽しみで仕方がないよ。
俺は湧きあがる笑みを抑えて言った。
「これからよろしく」
人魚姫への牽制を籠めて。
人魚姫とJK 黒井みつ花 @mituka_mituka
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます