In the blue world

空き缶

第1話

 どこまでも青く透き通る世界。ずっとずっと遠くから差し込んでくる一筋の日光が柔らかく広がる。

 私はそんな世界をたゆたって、今はもう動かなくなって久しい信号機や、びっしりとフロントガラスが藻に覆われた自動車のそばを通り過ぎて、ひび割れたビルの窓を覗き込んだ。

 窓に映るのは、ゆらゆら揺れる世界の中の、たった一人の女の子。髪は肩で切り揃えられて、はしばみ色の瞳はまんまるで、身につけているのは旧式の水着。つまり私だ。

 にっこり笑ってひらひら手を振ると向こうの私も同じように返した。そのことにひそやかな満足感を覚えて、私は両足を交互にゆっくりと動かす。

 時間が止まった世界の中をすいすいと泳いでいくと、上に行くにつれ陽の光が強くなってきて、ある瞬間その眩しさが弾けた。さっきまでとは打って変わって、世界に青以外の色が満ちる。鼻を新鮮な空気が通り抜けて行く。

 よいしょ、と壊れた信号機の上によじ登って仁王立ちになった私は、今日も今日とて私だけしかいない世界に向けてこう言った。



「おはよう、みんな」



 私はHR-03568-924A。個体名は《アリス》。人間そっくりに造られているけれど、残念ながら人間じゃない。誰に造られたかといえばそれはもちろん人間なわけで、造られたからには役目がある。私に与えられた役目は『世界の監視』と『連絡』。

 今からちょうど千年前、地球はこんな感じにきれいさっぱり水没してしまった。高度に繁栄した街も建物もみんな水の底。けれどどうやら私を造ったご主人様たちはなかなか賢かったようで、地球がこうなるだいぶ前から予測はできていたらしい。

 予測できても防ぐことはできないと悟った彼らは、思い切って地球を捨てることにした。月だか火星だかもっと遠くの星なのかはわからないけれど、とにかく彼らは地球を捨ててどこかへ旅立った。そして私たちに言ったのだ。

「数百年後、地球が元通りになって我々が住める環境になったら連絡しろ」

 私たちは実際そのために造られた。人間が住める環境であるか精密な測定を行うために人間とほぼ等しい構造の身体が与えられた。もちろん、水の中で生きていける工夫をきちんとされて。

 でも、一つ大きな誤算があった。

 ご主人様たちは数百年もたてば、地球規模の気候変動でこの環境が元に戻ると予想していたらしいけれど、千年経った今もこうして世界は水に満ちている。

 その間に私たちに渡された通信機器は壊れ、私の仲間もすべて寿命を迎え、本格的に私は天涯孤独になった。

 もう人間に連絡をとることもできない。そもそも彼らが遠い星で生き抜けているのかも知らない。無論、誰かと語り合うこともできない。私にできるのは、いつかやって来る終わりの時まで、この美しくて静謐な世界を見つめ続けること。

 それでも、そんなに辛くはない。水に沈んだ世界は見ていてとても綺麗だし、この空も水も陽の光も、全てが私だけのものというのはなかなか気分がいい。なにより、やっぱりもう慣れた。

 だから今日も私は、私の世界に元気よく挨拶をして、楽しく生きて行く。

 空気を肺いっぱいに吸い込んだあと、また私は水に飛び込む。ひんやりと冷たい感覚が私を包む。今日はずっと南の電波塔まで遠出してみようか。このあたりじゃ一番高い建物だから、こんな晴れた日にはきっと綺麗な景色が見られるだろう。

 三時間ほど泳ぎ続けて、私は目的の電波塔にたどり着いた。半分程度は水に浸かっているというのに水面から見てもものすごく背が高く、真っ赤な塗装が錆と苔に覆われた、そんな姿が特徴的な塔。

 階段が水で腐食しているので慎重に一段ずつ登る。塔のてっぺんまで上がっていくのはさすがに骨が折れたけれど、そこから見える光景はそれだけの価値があるものだった。

「わぁ……」

 空と海の青が一つに溶けあい、それが永遠に続いていく。ずっとずっと、泳いでいくのも馬鹿らしくなるくらい遠くの視界の向こうまで、圧倒的な青色が厳然と、何も言わずただそこにある。 

 もう千年も見続けてきた景色だけれど、眼下に広がる水の世界は泣きたくなるほど美しかった。その美しさを目の当たりにするたびに、私の生きている意味も確かめられるような気がした。

私はここにいる。こうして今日も世界を観測して、その広大さに心を震わすことができている。だから私は大丈夫だ。今日だけじゃなくて、きっと明日も明後日も大丈夫だ。


 私が電波塔からの光景に見とれてどれだけ経っただろうか、そよ風が首筋を撫でて通り過ぎていったとき、身体に電流が駆け抜けた。

「……っ!」

 驚きと衝撃と、よくわからない焦りに背中を押されて私は走り出す。

 階段を駆け下りて途中にある管制室に飛び込んで状況を確認する。さすがに機器は使えるわけもなく何の反応も寄越さなかったが、私の目的は別にあった。

 メインアンテナから繋がる太いケーブルを乱暴に抜き、腕にある端子に接続する。アンテナとケーブルは幸い生きているようで、信じられない情報を私に伝えてきた。

『07KS07Oa07KJ07Cy2bGQ07G01Z631Z6p07G707K507Gy07Ga07Gv07Gb07OR07Oz07KL07OM07KI07Ki2bCx07K607GO07Gp07Cy1Iu607Gf2JWP1qqWSEhISNWJhNOwsteXsdOxr9OxkdSKitmRrt――』

 ものすごく古く、単純な通信用の文字コード。一応は暗号化されているけれど、それは笑ってしまうほど原始的なもので、私には容易く理解ができた。


『アリス。遠い宇宙からあなたにメッセージを送ります。今は西暦xxxx年。私たち人類はFK5 245、りゅうこつ座α星【カノープス】の惑星の一つへの移住に成功しました。あなた方への指向性通信が不可能となって久しく、先日ついにあなた以外のすべてのAIの反応が消えたことから、このメッセージが伝わらないことも覚悟で電信を送っています。私たち今の人間は人類が宇宙へと旅立ってから何百年も経って生まれた人間ですが、それでも人類発祥の地、地球への憧れを先祖同様抱いています。同時に、地球に残されたあなた方の心境を思うと胸が張り裂けそうです。こんなことしか伝えられなくて申し訳ないけれど、私たちは、私たちの子孫は、いつか必ず地球に戻ります。けしてあなた方を見捨てたりしない。だからアリス、どうか希望を捨てないで。私たちはいつもあなたと共に――』


 そこでメッセージは途絶えていた。

 私はふらふらと外に出て、電波塔の欄干につかまってへたりこんだ。空も海も太陽も相変わらず気が利かなくて、何かを言ってくれることはなかった。

 カノープス。それは地球から三百光年離れた恒星の名前。つまりこのメッセージは三百年前に私に向けて宛てられたものなのだ。

言葉にできない感情が心の奥からせり上がってきて、口からほとばしる。嬉しいのか悔しいのか、泣きたいのか怒りたいのかわからない。ただ、ただどうしようもないやるせなさだけが胸にじわりと広がっていた。

 私は孤独なんかじゃなかった。私の存在を認めてくれる人がいた。三百年前に私に語りかけてくれたこの女性は、きっともう死んでしまったことだろう。彼女の生も死も知らないで私は生きていたのに、彼女のメッセージが今届いた。そのことが私の心にぽっかり穴を開けているような感じだった。

 私はずっと独りだと、それでいいと思っていた。いつかこの命が枯れ果てるまで、この美しい世界を見つめて生きる。そう誓った。

 なのにどうして。どうしていまさら。いまさら私を気にかけるの。いまさらこんなメッセージが届くの。

 そんな答えなんて出ない疑問がぐるぐると頭の中を巡って、泣き疲れていたこともあり、気がつかないうちに私は夢の中に落ちていった。


 目を覚ますと太陽はもうてっぺんまで上っていて、じりじりと電波塔と私を照らしていた。うーんと伸びをして立ち上がる。長い長い夢を見た後、不思議と気持ちの整理がついていた。

 水に勢いよく飛び込んで腰から先をしならせて水を蹴る。崩れかけたゲートをくぐり、水底を這う線路を横目に私は帰途についた。

 世界はこの千年なにも変わっていない。水中はさながら博物館のように昔の構造物がそのまま残っているし、水上の世界だってただ四季を繰り返しているだけで単調に時が過ぎていく。

 けれど私はそんな自分だけの世界が嫌いじゃない。ただ少し、ほんの少しだけ寂しいと思うこともあった。

 けれどあの女性のように、私のことを覚えていてくれて、いつかここに戻ってこようという人がいるのなら、もうこれ以上文句を言うまい。いつか、彼らと出会えるように。私の命がそこまで保つように。それを祈りながら、楽しみにしながら、今日も私はこの青い世界を漂っていこう。

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