梅雨の満月

沓屋南実(クツヤナミ)

梅雨の満月

  美和はその日、とうとう家にいられなくなり外へ出た。

  


 夕方というより夜にさしかかる時間帯であるが、まだ辺りは明るさが残っていた。

 玄関を出て外へ出ると、雨は上がっていた。ここ数日続いた蒸し暑さは感じられない、心地よい風さえ吹いている。

 


  明日は雨にはならないだろう、梅雨の晴れ間に誰もがほっとする一日となりそうだ。

 しかし、まだ十才にしかならない彼女の心の中は、曇りどころか雨が続いていた。ときには強くなる雨が。 

 彼女は五ヶ月ほどまえに、祖母を失った。それから家のなかが冷え切っているように感じられる。父方の叔父や叔母たちがやってきて、長い時間話し込んでいる。彼らが帰ると、父親は不機嫌な顔、母親は ため息ばかりついている。何か難しい、憂鬱な問題が持ち上がっていることぐらいは美和にもわかった。

 おとなたちは美和が何もわからない子どもだと思っているが、その実彼女は鋭い感受性の持ち主なので、ひとり苦しんでいたのである。

 


 美和は背の順では後ろのほう、細身ではあるが少女らしい雰囲気を漂わせていた。あごはほっそりとして、切れ長の目に少し丸い鼻は本人は気に入っていなかったが、空の上に行ってしまった祖母は、いつも可愛いと言ってくれた。柔らかい表情の多かった美和だが、薄い唇をつむって見上げるしぐさなどはは、とてもおとなびて見えるようになった。

 それは、おそらく祖母が旅立って以来、口数が少なくなったころからだろう。

 


 親を困らせることも元々あまり言わない、真面目な長女気質を備えていた美和である。五才違いの弟が、子どもらしい我ままを言う役をすべてになってしまっているかのようだ。このごろは、ほんのたまにでも甘えたことを口にしなくなった。

 


 彼女が成長した証ではなく、感情を押し殺しているからだということを、父親は当然のごとく母親も気がついていなかった。

 家族であれば、当然気がつくことであるかもしれないが、親は自分たちの問題で、手一杯だった。

 




 玄関を出て、美和は雨がやんでいることに気がついたが、なぜか彼女の傘を手にした。下校のときにひとしきり降った雨で湿った傘を持ち、駅とは反対方向に向かって歩き始めた。

 西陽が、降り注がれた雨のしずくをキラキラと輝かせていた。ゆっくり流れる風が雨の匂いを美和に運んでくるようだ。



 家から離れて、よかったと彼女は思った。

 ただでさえ、学校で友だちとうまくいかないことがあり、すっかり気持ちはすっかりしおれていた。表面は平静でも母のトゲトゲしさを、いつも以上に鋭敏になっている彼 女は感じとってしまい、辛いのだ。

 


 どれぐらい歩いたことか、緩やかな坂を上がって住宅がぎっしり並ぶ一角を通り過ぎると、大きな木があった。そこにポツリと建っている家があった。大きな家ではないが、二階建てのすぐ隣に続く離れのような建物がある。

 美和がどうしてその建物に気をとられたかといえば、ピアノの音が漏れてきたからである。

 


 美和の足は、自然にそちらに向けられた。ピアノの漏れてくる部屋はすぐ通りに面しており、周囲に家が建っていないためであろう、窓が開いたままだった。彼女はじっと流れ出る音に聴き入った。



 辺りは陽が落ち、闇に包まれ始めた。



 ピアノのこぼれるような愛くるしい高音が、美和はこころに広がっていくのを感じる。

 旋律を飾るキラキラした音に、美和は紫水晶を思い出した。それは祖母の誕生石なのである。祖母はふだん、宝石を身に着けることはなかったが記念写真には祖父から贈られた紫水晶のネックレスと指輪を必ずつけていた。

 紫水晶はダイヤやルビーにはない、無垢な美しさがあるから好きだと祖母は言っていた。



 ゆったりしたメロディと伴奏は次第に音数が増え、響きはさらに大きくなっていく。祖母の思い出が次々とひき出され、涙が切れ長の目からこぼれた。美和は湿った花模様のピンクの傘を置いて、その場にうずくまった。



 曲は静かになり、すべて終わった。



 練習のために弾いているのか、また冒頭に戻って曲がはじまったようだ。あまり長くはない曲で、しかも同じメロディが繰り返されるので、何度も聴くうちに美和はメロディをしっかり頭に入れることができた。



 明日学校に行って、誰かに曲名を教えてもらおう。 

 美和は家に帰ろうと、立ち上った。 



 美和は雲は家をでるときより、かなり少なくなっていることに気づいた。

 夜空を見上げると、白いストールのようにたなびく雲を背にして、丸い月が輝いていた。



 もう何度目かの同じ曲であるが、テンポは違った。さっきよりかなり緩やかで、そのせいか後半のメロディを飾る音も長い光線のように美和には感じられた。 月から受ける光の筋のように。

 そして美和は月が本当に丸いことを、しみじみ思った。



 ゆっくりしたテンポではじまった演奏は、その流れを保って終わったようだ。

 


 美和の足は家に向かおうとした。そのとき、離れの扉が開き、垣根にある裏戸に人の気配がした。

 彼女が振り返ると、少年が立っていた。

 彼女は驚いて、まじまじと彼を見つめる。美和より年は少し上、背は美和より少し高い。色白で頬が丸く幼さが十分残る顔をしているが、中学生だろう。白い開襟シャツに黒のズボンはこのあたりの中学の制服のはずだ。見覚えがないのは、おそらく小学校が違うから、この辺りは学区の境界なのだ。

 


「君は、だれ?」

 最初に口を開いたのは、少年のほうだった。

 月も輝く夜である、子どもがこのような場所にいることは不自然である。

「あ、あの私、あっちの、川南町に住んでいるの」

「そうか」

 彼は納得したように言った。校区が違うので覚えのない顔なのだ。

「もう、帰らなきゃ」

 美和は言うと、罰が悪そうな顔をして踵を返した。

 少年は彼女の背中に向かって言った。

「忘れ物だよ」

 美和が再び振り返ると、うずくまったときに垣根に立てかけた傘を少年は手にしていた。

「あ、ありがとう」

 美和は雨が最初から降っていないのに、なぜ持ってきてしまったのかそのときはじめて不思議に思った。

「じゃあね、近いけど気をつけて」

「うん、ありがとう」

 美和はそう言ったものの、今度は動こうとせず少年を見つめている。

「どうかしたの?」

「あ、あの」

 美和は言葉につまった。少年は促すこともせず、黙って彼女を見つめたが困惑する表情に気づいて視線を空に向けた。

 


「あの、さっき繰り返して弾いていた曲はなんていうの?」

 少年はびっくりした顔をした。目の前の少女の言葉を頭のなかで繰り返す。

 繰り返し弾いていたって、言ったよな。ずっとここに立って、聴いていたのか?

 美和は少年の当然の反応に、再び罰の悪さを感じてうつむいた。

「いつからここにいたの?」

「……」

「まあ、いいや。あの曲ならショパンのノクターン、夜想曲ともいうね」

「ノクターン」

 美和はつぶやいた。

「その第二番っていう名前。ショパンのノクターンは全部であれ、いくつだっけ、とにかく他にもたくさんあるから」

「そう」

「そうなんだ」

 美和は心に曲名を刻むように、うなずいた。



「大きな月だなあ」

 彼はちょっと顔を上げれば視界に入る月を見て、のんびりした声で言った。

「練習に飽き飽きして、ちょっとでてきたんだ」

 彼は大きく伸びをして、両腕をグルグル回した。

 美和は言った。

「とってもいい曲ね。それにほら、最後にゆっくりしたテンポで弾いたでしょ」

 彼は再び驚いた顔をした。彼女がじっくり曲に聴き入っていたらしいことがわかったからだ。

「ああ、うん」

「ゆっくりだと、月の輝きにぴったりね」

 彼はもっと驚いた。彼も弾きながら、月の輝きを思い浮かべることがあるからだ。彼は、間をおかずにたずねた。

「じゃ、テンポが速いと何の輝きに聴こえるの?」



 二人はまだしばらく立ち話を続けた。

 


 少年は家にいったん入り「ちょっと気分転換に散歩してくる」と母親に告げ、美和と一緒に並んで歩いた。美和を家へ送る途中も、ノクターンの話はつきなかった。

 


 まん丸の大きな月は、そんな二人を静かに見守っているかのように優しく輝いていた。

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梅雨の満月 沓屋南実(クツヤナミ) @namikutsuya

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