星空の下で

いつつみ

星空の下で

 一年に一晩だけ咲き誇るその花は、愛する人の幻を見せる。


 気付くと僕は蒸し暑い夏の夜道を歩いていた。

 空は薄曇りで、雲の切れ間にちらちらと星が見える。月は出ておらず、外灯の明かりだけが僕の行く道を照らしていた。夕方頃に雨が降っていたせいか、アスファルトの匂いが妙に鼻についた。

 行く当てもなく、ただ無意識に人家のない方へ、人の気配がない方へと、足が向いていた。

 人の世界を離れたかったのかもしれないし、そちらに行けば彼女に会えると意識の外で思っていたのかもしれない。

 一歩、また一歩と歩を進めるごとに、彼女の面影がよみがえっていた。

 満開の桜の中の笑顔、打ち上げ花火に輝く瞳、高い空になびく髪、雪原につけた足跡。

 病院のベッドから外を眺める悲しげな後ろ姿。

 僕を守って見せた、最後の笑顔……。

 僕は、無力だった。



 丁度一か月前の六月七日は、彼女の命日になってしまった日だ。

 難しい病にかかり、入院していた彼女の容体が好転してしばらく経ち、少しだけなら院外に出てもいいと許可が出た日だった。

久しぶりのデートだとはしゃいでいた矢先に、あの事故は起こったのだった。

 甲高い悲鳴が耳をつんざき、黒い服に身を包んだ男が鋭い刃物を振りかざして、こちらに向かってきた。

 僕の耳はその瞬間音を見失い、すべてが、スローモーションのようにゆっくりと、僕の目に映っていた。

 飛び散る鮮血。

 流れ落ちる涙。

 恐怖にひきつる群衆の顔。

 僕に迫る刃。

 通り魔の狂気。

 そして、

 僕の前に躍り出た、彼女。

 長い髪を揺らし、細い腕をいっぱいに広げ、小さな背中を僕に向けて。

「――――――っ!」

 自分が何と言ったのか、何も叫べなかったのか、僕の耳には何も届かなかった。

 赤い、赤い血が僕の目の前を、染めた。

 彼女の胸から、噴き出たものだった。

 僕は、ただ、立ち尽くすしかなかった。

 情けないことに、脚は恐怖にすくみ、手はがたがたと震えていた。

 崩れ落ちる彼女を見て、初めて脚が、腕が動いた。

 倒れこむ彼女をすんでのところで抱き留める。

 ざっくりと深く差し込まれた刃は、ろっ骨を砕き、心臓を裂いていた。

 真っ赤な血は、とどまることなく流れ出ている。

 涙にぬれた瞳が、僕を見据え、微笑み、

そして光を失った。

 途端に周囲の音が戻る。

 遠くにパトカーのサイレンが聞こえた。


 あとのことは、よく覚えていない。

 記憶があるのは彼女の葬式からで、棺桶の中で安らかに眠る彼女の顔が、あの微笑とかぶさって、胸を締め付けていた。

「可哀想に……」

「まだ、お若いのに……」

「例の通り魔事件でしょ?」

「犯人がその場で自殺したんですってね」

 葬式の間中聞こえていたそんな声は、僕の中にこだまして、やがて消えていった。


 やり場のない怒りと、途方もない悲しみが、僕を支配していた。

 もう彼女に会うことはできない。

 この腕に抱きしめることは叶わない。

 一緒に桜を眺めることも。

 花火を見に行くことも。

 青空の下を散歩することも。

 雪原に足跡を付けることも。

 何一つ、叶わない。



 甘い香りがした。

 人家を離れ、人目を避け、外灯もなくなり、アスファルトも途切れ、砂利と土の知らない上り坂を、淡々と登っていた。

 まるで、その匂いに誘われるかのように。

 何かの衝動に駆られるように、坂の上に行くことしか考えていなかった。

 息が荒くなる。

 雑草の青臭さと、自分の汗の匂いと、甘ったるい香り。

 いつの間にか晴れ渡っていた空からは、星の光だけが注がれている。

 頭がぼーっとして、これが夢なのか現実なのか、わからない。

 ただ生々しい生だけは、確信できた。

 甘い匂いが濃くなっていき、突如視界が開けた。

 丘のてっぺんのような、丸く開けた場所の中心に、丸く輝く泉があった。

 銀色の星の光に照らされたその中心には、純白の大きな、大きな花が天に向かって、その花びらを開き始めていた。

 甘い匂いの正体は、その花のようだった。

 砂糖菓子よりも、蜂蜜よりも、薔薇の花よりも、強く濃く甘い匂い。

 一枚、また一枚と花びらが開いていくに従い、その匂いもより濃く、魅力的なものになっていく。

 引きつけられ、泉に入り、花の中を覗き込んだ。

 瞬間、まばゆい光が花から発せられた。

 思わず手で顔を覆い、背ける。

「ねぇ、こっち、見てくれないの?」

 懐かしい声が聞こえた。

 一か月前まで、当たり前のように傍にいた声だった。

 ゆっくりと振り向くと、花の中に彼女がいた。

 白い肌。

 白いワンピース。

 輝く瞳は僕をしっかりと映し、細くなった眼尻から涙がこぼれていた。

 細い腕も、小さい肩も、一か月前のまま。

 衝撃的なまでの存在感で、彼女はそこにいた。

「――――――っ!」

 僕は、何も言えず、何も言わず、彼女を抱きしめていた。

 きつく、

かたく、

ひたすらに、

抱きしめていた。

「ちょ、痛いよ。もう。そんなに、寂しかったの?」

 うん、と僕は頷いて、一度きゅっとしてから、腕を緩めた。

 背に回していた両腕をほどき、彼女の腕を伝って、手と手を握る。

 正面から見据えた彼女は、美しかった。

「私も寂しかったんだよ」

 そう、彼女は微笑む。

「一緒だね」

 と。

 暫く見つめ合って、僕らは一か月ぶりに口づけを交わした。

 彼女の唇は、冷たくて、やはりもう死んでいるんだと強く実感させられたけれど、今は、忘れていたかった。


 何処にいたの?

 遠いところ。私にもよくわからないんだけど、すっごく遠いってことはわかるの。

 そんなに遠い?

 うん。きっと、もう一度行ったら、もう戻って来られないくらい遠い。

 また、そこへ行くんだよね?

 ええ。行かなければいけないの。でも、まだ時間はあるのよ。

 どのくらい?

 この花がしおれるまで。朝日が、昇るまで。

 僕も一緒に、そっちへ行きたい。

 それはだめ。

 僕も君も、寂しかったんだ。せっかくまた会えたのに。

 私は、あなたに生きていてほしいの。

 身勝手っていうよ。

 もともと、私は身勝手だわ。

 僕なんか守って、死んじゃうんだもんね。

 あなただから、守ったの。あなただから、守りたかったの。

 僕だって、君を守りたかった。何であの時。

 あなたはずっと私を守ってくれてたわ。

 でも肝心な時、僕は何もできなかった。

 私には、十分だった。……ねぇ、せっかく会えたんだから、楽しい話をしましょ。

 ……例えば?

 そうね。うーん…………、告白してくれた時のこととか?

 僕には恥ずかしい話なんだけど。

 そんなことないわ。すごくうれしかったのよ。桜の花が散りかけてて、青い葉っぱの方が多い桜の木の下だったし、晴れとは言い難いほど曇ってたし、勝負服にしては、しわが多かった。

 だから恥ずかしいって言ってるだろ!

 でも、私を好きだって言ってくれたその言葉が、何よりも綺麗だったから、私思わず、はいって言っちゃったのよ。

 思わずだったの? 初耳だよ!

 でも、言われた瞬間、あぁ、私この人のこと大好きになるんだなって思ったのよ。だから、はいって言ったの。

 やっぱり、恥ずかしい話じゃないか。

 あとは、花火かしら。きれいだったわ。騒音で声は聞こえなかったけれど、握ってくれていた手が、すごく優しかった。

 君、そんなにいろいろストレートに言う人だったっけ? ものすごく恥ずかしいんだけど。

 せっかくまた会えたんだから、全部伝えてから逝きたいの。あの時、伝えられなかったんだもの。

 …………。

 あとは、そうね…………。


 彼女は、ひたすらに笑顔で、思い出を片っ端から喋っていった。

 それこそ、僕がもう覚えていないような小さなことも、思い出してほしくないような失敗も。

 かっこよかった。

 かわいかった。

 惚れ直したわ。

 きゅんとした。

 嬉しかった。

 悲しかった。

 楽しかった。

 大好きだって思った。

 素直すぎる思いは、僕の胸に深く深く刻まれていった。


「あっ……」

 次々と様々な思い出を語る彼女が、ふと悲しげに声を漏らした。

 彼女の視線の先を見ると、東の空が白み始めていた。

 よく見ると、白い花の匂いも薄くなっていて、花びらもしおれ始めている。

 彼女の腕や顔の輪郭もだんだんぼんやりとし始めているようだった。

「時間が、来てしまったみたいね」

 彼女が、無理に元気を出したようにそう言った。

 瞳がぬれていた。

「泣かないって、決めていたんだけれど、だめね。どうしても、我慢できない、みたい」

 泣くのをこらえようと必死な涙声は、つかえつかえに彼女の思いを乗せて、こぼれ出る。

「全部伝えようと、思ってたのに、伝えきれて、ないの」

 それならもっと話してよ、いつまでだって聞いているから。僕は彼女の涙を拭いながら、そう伝える。

「時間は、時間なんだもの。どうしても、戻らないといけないの」

 小さな肩が揺れていた。

大きな瞳から、一粒、また一粒と、涙がこぼれていく。

 僕は、彼女の細い肩を両の手で支えた。

「…………わかったよ。君は、僕が心配だったんだよね。僕に会うために頑張って来てくれたんだよね。僕に伝えたくて、来てくれたんだよね。ありがとう。十分に、十二分に伝わった」

 彼女は、こくこくと頷きながら、ぽろぽろとこぼれる涙を拭う。

「だからもう、君を追いかけて逝こうとは思わない。君と一緒に遠くへ行くと言わない」

 涙でぬれ、赤くなった瞳をまっすぐに見据えて、僕は言った。

「安心して。僕はもう、大丈夫。君が大好きだから、君を愛してるから、君をしっかり見送るよ」

 周囲は、すでに明るくなり始めていた。太陽が頭を出し、彼女の輪郭はずっとずっと儚くなっていた。

 僕は、肩に置いていた手をそっと離し、彼女を再び抱きしめた。

 もう、抱きしめる感覚さえ、かげろうのようだったけれど、消えていく彼女を抱きしめずにはいられなかった。

「ありがとう」

「愛してる」

 どちらがどちらを言ったのかは、わからなかった。どちらも両方言ったのかもしれないし、それさえ幻だったのかもしれないのだから。



 太陽が昇り、明るくなった周囲を見ると、そこは泉の中でも、丘の頂上でもない、ただのアスファルトの道だった。

 じりじりと上昇する気温に、汗がにじんできた。

 遠くで蝉が鳴く声がする。

 新聞配達のバイクの音。

 ランニングする少年の足音。

 朝ごはんの匂い。

 やはりあれは夢だったのかと、幻だったのかと手を見ると、

 彼女の涙と、あの甘い花の匂いがかすかに残っていた。

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星空の下で いつつみ @itsutsumi

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