第5話

 雅季が『マリア』の防犯カメラ映像を刑事部屋でチェックしていると、久賀が入って来た。横目で見た壁の時計は二時。庁舎に寄ってから来るという連絡は本人から朝一で受けていたので心づもりはあったが、まだ事件の進展がない時でも、こうしてわざわざ署に足を運ぶのを雅季は不思議に思った。相当事件に入れ込んでいるのか、警察を信用していないか、その両方か。

「お疲れさまです」

 声を掛けると、コートを椅子に掛けた久賀は雅季をちらりと見て「どうも」と口の中で言った。機嫌が良くない。普段座りっぱなしの検事様は昨日、さんざん引っ張り回された疲れをまだ身体に残しているのだろうか。その時、絹田ロナが気をきかせてコーヒーを持って来た。それをゆっくりと飲む久賀を、ディスプレイの横からじっと観察していると、目が合った。

「ここに来るのに、大変だったんじゃありませんか」

 雅季は一応、気を遣ったつもりだった。夜中に気温がぐっと下がり、朝は雪解けの道が凍っていた。車だったら運転に相当神経を使ったはずだ。それなら機嫌が悪い理由にもなる。

「いえ、普通に公共機関を使ってきましたから。それより、何か進展は?」

 丁寧だが逆に慇懃に返され、雅季はそれ以上彼の機嫌を取るのをやめた。大体、自ら相棒を申し出た久賀に、自分が気を遣う必要はない。

「問題の、マル害(被害者)が来店してから出て行くまでは有馬の証言通りで、時間も確かでした。数回見ましたが、特に怪しい点はありません。というより、映されている場所が限定され過ぎていて……」

「まあ、期待はしていませんでしたけど。他には?」

 椅子に背を預けた久賀は、先を急かす。昨日と違う冷淡な態度に雅季はやや困惑した。

「こちらが、解剖医からの解剖検案書です」

 そこには大したことは書かれていない。被害者は紐のようなもので絞殺された。抵抗の痕跡は無いため、意識を失った状態で殺害された後、臓器を除去されている。DNAや毛髪など犯人に繋がる手がかりは一切無し。ベンゾジアゼピン系の薬物反応有。

 つまり、犯人はベンゾジアゼピン系の睡眠薬で被害者を眠らせた後、殺害に至った。久賀の機嫌がさらに悪くなりそうな内容だった。

「青鞍さんが朝から被害者宅周辺の地取り(聞き込み捜査)をしていますが、今まで入った報告にこれといったものは。もともと安田夫婦は近所付き合いがあまりなかったそうです」

「マル害の両親のところへは?」

 久賀が報告書から顔を上げた。

「はい。当然ですが、三角夫妻はかなりショックを受けている様子でした。聞き出せたのは、娘が恨まれていたような様子、ストーカー、夫以外の男性の影、そういったものには一切心当たりが無いということ。三角夫婦は事件の晩、近所の夫婦宅で麻雀をしていたそうです。これも裏がとれると思います。あ、安田の実家は例の高級中古車店でした」

 雅季は冷めたコーヒーを飲んだ。久賀は険しい表情で耳を傾けている。それを見ると、口の中でコーヒーの苦味がひときわ強くなった。

「安田が過去にホシらしき人物から脅された様子や形跡はありません。他の班も引き続き捜査中です」

「それでは、なにも無いのと同じじゃないですか」

 非難されずとも、雅季もそれは痛感している。苛立たしげな久賀の視線が、キャビネットの前に積まれた段ボール箱に留った。

「あれは?」

「鑑識から来た安田の押収品です。パソコンのデータの解析も今日中に終わるでしょう」

 雅季がそう言ったとき、机上の電話が鳴った。雅季は受話器を取ると同時に、ボールペンとメモを用意した。

 電話は鑑識からだった。雅季は報告を聞きながらメモにポイントだけを書き留めていく。

 ――ハッキング×、ウィルス×、ストーキング×……。

 雅季はふと目だけを上げ、久賀を見た。彼は眉間に皺を寄せ、メモを走らせる雅季の手元をじっと見つめている。ボールペンが急に重くなったように感じた。

「せとしゅうじ……はい。瀬戸内海の瀬戸、修士の、はい……」

 雅季と久賀の視線が交錯した。雅季は『瀬戸修二』の横に“H大”、経済学部三年〟と加えた。もちろん久賀に見せるためだ。

「はい。ありがとうございました。ええ。今日中に青鞍刑事が行きます」

 受話器を置くと、雅季はマウスを操作した。すぐにプリンターが報告書を吐き出す。

「鑑識からでした。残念ながら、パソコンの履歴には犯人が被害者のデータを盗んだり、ハッキングしたりという痕跡はなかったようですが、ここ一ヶ月間、マル害が頻繁にチャットをしていた人物がいました。瀬戸修二せと しゅうじ、同じ大学の経済学部の学生です。チャットの記録などは今、全てプリントアウトしていますが、データを移したUSBスティックは後で青鞍さんに取りにいってもらいます」

 プリンターが稼働している間、雅季はスマホから青鞍に指示を出した。久賀がプリンターの脇に移動し、報告書の束を立ったまま捲り出す。

「瀬戸修二と安田里穂は、サークル仲間。共通の趣味は写真らしい。ああ、なるほど」

 久賀は報告書の読んでいた箇所を雅季に見せた。進展があったのかもしれない。

「被害者は復学を考えていたんですね。その相談を頻繁にチャットで……どうします?」

 雅季が一部を読み終わるのを待って、久賀は訊いた。

「瀬戸がホシの可能性は低いと思いますが、話は聴いておくべきですね。連絡を取って明日、朝一で来るよう伝えます」

「それがいいでしょう。では、今日の我々の仕事は鑑識の報告書に目を通す、あの段ボールの中身を調べることですね。先に私が報告書を読んでいいですか」

「お願いします。ここでは狭いので、私は会議室で作業しますね」

「では、私も行きます」

 雅季はその言葉に胸中でがっくりと肩を落とした。せっかく一人作業に集中出来ると思ったが失敗だった。

 久賀は刑事として余程自分を信用していないのか、ずっと監視されているようで、落ち着かない。検事と組むという異例な状況にそのうち慣れると思ったが、慣れるどころか、彼が近付くと息苦しさを感じることさえあった。それは、過去のトラウマから来るものかと思ったが、久賀の静かな眼差しはもっと別の形で雅季を不安にさせた。有馬が雅季に当たったときも、彼のほうが雅季以上に逆上していたのには驚かされた。相当正義感の強い検事なのだろう。だからこの事件に熱心なのか。

 久賀は報告書を上に置いた段ボールを抱えて、部屋から出ていくところだった。雅季もラテックスの手袋を上着のポケットに入れ、同じように彼の後を追った。

 会議室はブラインドから注ぐ昼下がりの光で明るかったが、冷えきっていたので、雅季はすぐに暖房をつけた。机上で段ボールのひとつを開いた。久賀はすぐ脇の机に陣取り、報告書に取りかかっている。

 暖房が低く唸る中で、雅季は気になるものを順に並べていった。まず教科書やルーズリーフの挟まったバインダーを調べた。丸く可愛い字だったが、ノートに記入されているのはほとんど数字とアルファベット、記号の類いで雅季には全く理解出来ないものだった。法学部で学ぶテキストの日本語にも相当読解力を要するが、それに比べると、外国語と言っても過言ではない。もしくはパズル、暗号。

 不意に、久賀がリノリウムの床に椅子を鳴らして立ち上がり、ブラインドを調節した。陽光が絞られた部屋は急に殺風景になる。でも、どこかほっとする。強い光は苦手だ。夏のぎらついた太陽は特に。強い光は、影を濃くするから。私はあの夏、真っ黒な影に飲まれてしまった。

「暗すぎますか?」

「大丈夫です」

 雅季は『臨床薬理学』のテキストを手袋をした手でぱらぱらと捲りながら答えた。蛍光灯が点いているので、暗くはない。本を閉じ、ふと左肩に気配を感じて顔を上げる。その先に、久賀がいた。眼鏡を外している。書類を両手に持ち、読んだものは眼鏡の右側に伏せられている。目が合うと、彼は再び書類に目を落とした。

 雅季も新しいバインダーを広げる。冷たかった指先が、熱を帯びていた。なにも書かれていないルーズリーフに、久賀の残像が現れる。綺麗な顔だと改めて思った。一度見たら忘れないだろう。久賀は犯罪者には向いていない。一度見たら、忘れない。ああいう綺麗な顔の子は……。雅季は一瞬大きな虚無感に包まれた。記憶がぽっかり抜けている。なんだろう。あれはどこの子だったっけ……。

 そのとき、ノックをして青鞍が入って来て、鑑識からのUSBスティックを雅季に渡した。雅季がラップトップを持ってくるように頼むと、すぐに応じた。

 雅季は押収品を調べるうちに、安田里穂は、復学を望んでいたことに疑問を持ち始めていた。新品同様のテキストや途中で終わっているレポートの下書きらしきものを見ると、そうは思えないのだ。

 そして、もうひとつの箱の方には何十枚もの写真が出て来た。風景、人物がほとんどだが、どちらかというと風景を撮影したものが多かった。そして、H大の写真サークルの名が金で印字されたアルバム。そこにも里穂の作品が収まれていた。もしかして、安田里穂は学業よりも写真に興味をもったのではないだろうか。復学の動機は、実はサークル活動ではないか。

「こちらにも相当写真が保存されていますよ」

 雅季の手にしていた物をめざとく捕らえ、久賀は言った。

「結婚式の写真も。もしかしたら、この中に犯人がいるかもしれませんね。結構な人数だ」

「つまり、また参考人のリストが長くなったわけですね」

「そういうことです」

 雅季は長い溜め息を吐いて写真集を箱に戻した。とりあえず、ここにある現像された写真にも目を通さなければ。しばらく、雅季は久賀の存在も忘れてその作業に取り組もうとした。だが、時折感じる視線が神経を逆撫でする。そんなに監視しなくても、手は抜かない。思い切って、そう口にしようとしたとき、

「ひとつ訊いてもいいですか」

 久賀に先を越された。雅季は身構えた。久賀の口調は疑問形だったが、ほぼ勧告だった。

「どうぞ」

 久賀はおもむろに顎の下で手を組んだ。

「なぜ始関さんはあなたを特別扱いするのですか」

 雅季は小さく息をのんだ。直球だ。

「それには理由があるんです」

 久賀は目を細めた。

「理由……。それを是非聴かせて欲しいですね」

 雅季は写真を机に置いた。手が震えるのを悟られないためだ。

「話したくありません」

「でも、聴きたいです」

 久賀は引かない。その高圧な態度が雅季を苛立たせた。担当検事といえど、そこまで介入する資格は無いし、そもそも始関の自分に対する態度と事件解決は全く無関係だ。大体、どうして久賀はそんなところに突っかかってくるのか。

 雅季は突然ひらめいた。久賀はきっと勘違いしている。きっと、始関がパワハラをしていように見ているのだろう。ただでさえ、始関は誤解されやすい性格なのだ。署員はとうに慣れているが、外部の人間である久賀がそう思うのも無理は無い。だが、決してそうでは無い。自分には、ただ……。

「始関さんに借りがあるんです」

「借りというと?」

「それは、久賀さんにはお話し出来ません。個人的なことですから。始関さんの態度は確かに係長としてはふさわしくないかもしれません。でも、それは誤解です」

「それでは、あなたが誤解されます」

 久賀の声音から鋭さが削げ、案じるそれに変わる。今日ずっと硬かった表情も綻んだ。

「ご心配ありがとうございます。久賀さんにも借りが出来てしまいました」

 久賀は首を振った。

「同じ事件を追う間で、貸し借りはありません。今、借りがあるとすればただ一人……」

 その先を久賀が言わなくても、雅季には分かっていた。壁時計の秒針の音がやけに大きく響く。雅季が先に視線を逸らした。散らばっている写真を再び整理し始める。ワンテンポ遅れて、久賀がマウスをクリックする音が聞こえて来た。

 無駄話をしている暇はない。一刻も早く犯人を検挙しなくては。安田里穂に、早く借りを返さなくてはいけない。

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