第4話
「なぜ心臓なんでしょうね……」
久賀はペットボトルのウーロン茶を一口飲み、呟いた。
病院の駐車場に停めた車中で、二人は青鞍が用意した昼食を食べていた。やっとエアコンが効きだし、冷えきっていた車内が暖かくなる。
「犯人はそれをどうしたんでしょう。自宅に保管しているのでしょうか」
運転席の雅季から封を開けた卵サンドが差し出される。久賀は「どうも」と一切れ取った。
『おにぎりとサンドイッチ、久賀さん、どちらにしますか』
いくら久賀が年下で現場経験が少ないとはいえ、検事の方が立場は上という意識が警察にはあるようだ。雅季は先に自分に選ばせようとした。それを久賀が『半分ずつにしよう』、と提案したのだった。おにぎりは、鮭と高菜とチーズおかかだった。遠慮しながらも雅季は高菜を取った。それにしてもこのセレクト。青鞍はベジタリアンか?
「そうですね。女の意見だと、笑われるかもしれませんが……心臓つまりハート、ですよね。犯人は彼女のハートを手に入れた、ってどうしても考えてしまいます。やはり、愛憎が絡んでいると考えるのは短絡的でしょうか」
久賀が横目を流すと、雅季は思案げにフロントグラスを見ながら、指に摘んだサンドイッチを口に運んでいた。
あの遺体を見た後に食事が出来るのは、刑事として長年培われた技能のひとつだろうと久賀は思った。卵サンドは辛子がいい具合に効いていて、なかなか美味しかった。おにぎりの鮭も、身が大振りで食べ応えがある。塩加減もいい。さすが弁当屋のおにぎりだ。久賀の中で青鞍の評価がグッと上がった。
「つまり篠塚さんは、殺したいほど安田里穂を愛していた人物だと? では、安田裕紀はどうです。その推理では彼も当てはまりますよ」
「安田裕紀がホシだとして、役者でもないのにあんなにタイミングよく気を失えるでしょうか。そんな人が死体を切り刻めると思いますか」
サンドイッチを食べ終えた雅季はおにぎりのフィルムを開きながら久賀に訊いた。倒れた安田は、制服警官と浅岡医師に任せていた。
「どうでしょう。殺害後は必死だったけれど、改めて遺体と対面して張り詰めていた緊張の糸が切れたとか。犯人像としては、安田里穂が好きだったが、個人的に彼女のことを良く知らない程度の関係、ですかね」
「まあ、それについて土屋亮子から何か引き出せるといいんですけど」
雅季はごみを袋にまとめ、ミネラルウォーターを飲んでから車をスタートさせた。
目的地は土屋亮子のアパート。病院を出てすぐに連絡すれば、家にいるとのことだった。
病院の駐車場から車が本通に入ると、久賀は腕時計を見た。三時十分。オメガのデ・ビルは検事試験の合格祝いに、父親から贈られた。息子が検事になった動機も知らずに、父親は「社会に貢献出来る立派な仕事だな」と喜んでいた。
雅季が車を運転し、自分はその隣にいる。たとえその状況が業務上であるとしても、検事になってよかったと久賀はしみじみと思う。
真冬の、弱いが透明度の強い陽が裸になった街路樹に降り注いでいる。磨かれたフロントガラスに弾ける光は、まるで今の自分を祝福しているかのようだ。
雅季がつけたラジオから、ニュースが流れて来た。安田里穂のニュースも報じられた。二十代女性の遺体が発見され、犯人はまだ不明という公式なものだった。
土屋亮子が部屋のドアを開けると、雅季は警察手帳を見せた。土屋は硬い面もちで身分証と雅季を確認し、後ろの久賀を見てから「どうぞ」と二人をワンルームマンションの玄関に入れた。三人立つとさすがに狭い。
土屋は大人しいタイプで、小柄。服もオリーブ単色のセーターに、エスニック柄のルーズパンツというシンプルなものだった。
「お忙しいところ、突然お邪魔してすみません。あの、お時間大丈夫ですか」
雅季が訊ねると、土屋はおずおずと顔を上げ、頷いた。
「はい。六時前に家を出れば大丈夫なので、それまでは」
「失礼ですが、ご職業は?」
「ヨガの講師です。今日は夜のクラスだけなので」
久賀はその説明と服装で彼女の人柄もほとんどわかったような気がした。だが、油断禁物だ。
「あの、里穂のことで話って……」
この様子だと報道はまだ耳に入っていないのだろう。雅季が簡潔に安田里穂の遺体発見の報告をすると、相手の目に、みるみる涙が溢れた。
「嘘でしょう? 本当に里穂なんですか?」
雅季が「本当です」ときっぱり放つと、土屋は部屋の奥へ駆け込んだ。嗚咽のような声の後に、鼻をかむ音が聞こえた。
「すみません、部屋に上がっていただいてもいいですか」
二人は顔を見合わせ、ワンルームマンションの中に入った。
床に座り込んだ涙目の土屋が、ティッシュを鼻に当てたまま「どうぞ」とローテーブルの向かいに片手を向けた。生成りで統一され、整理整頓された部屋だ。
座るとすぐに雅季が久賀を上目で見た。どうやら、自分はそういう役回りらしい。土屋の方に少し身を乗り出した。
「我々は土屋さんの協力が必要なのです。是非お話を聞かせていただけないでしょうか」
ティッシュから顔を上げた土屋は、久賀にじっと見られ、困惑したように視線を泳がせた。
「私でお役に立てるなら……はい。あの、取り乱してすみません。里穂とは小学校からずっと一緒で、姉妹のように育ったので」
「あなたは昨夜、里穂さんと会う約束をしていましたね」
「そうです。でも、結局会わなかったんです。里穂がドタキャンしたので。彼女には珍しく」
「どういうことですか?」
「昼過ぎに『着るものが無いから、ちょっと遅れる』ってラインが来たんです。で、そのだいぶ後に『急用が出来たから行けない。ごめんね』ってもう一度メッセージがきました。私もその時、ちょっと気になってすぐに里穂に電話したんです。でも繋がらなかった……」
「そのメッセージ、見せていただいていいですか?」
土屋は身体を捻って、ベッドの足下にあったトートバッグからスマホを取り出すと雅季に見せた。久賀もメッセージと時間を確認する。最初のメッセージが午後四時四五分。次が午後六時五七分。
「安田里穂さんが遅刻する、あるいはキャンセルするのは珍しかったんですね」
土屋の涙目が、微かに笑んだ。
「遅刻はしょっちゅうでしたよ。ただ、ドタキャンするような子ではありませんでした」
「あなたはその後も安田里穂さんと連絡を取りましたか? 里穂さんの携帯はずっと切られたままだったのですか?」
この質問に彼女は気分を害したらしい。久賀は赤くなった小鼻が少し膨らんだのを見た。
「いいえ、連絡はしていません。正直、頭に来ましたから。毎回、場所を決めたり、メンバーに連絡するのは私なんです。それなのに、ドタキャンされたらいい気はしませんよね」
パッと同意を求めるように久賀に向いた。久賀は曖昧に頷く。そして再び土屋はしゃくり上げた。
「あの時、私がしつこく電話していれば……里穂は……」
「あなたが自分を責める必要はありませんよ」
久賀は相手を宥めた。まだ肝心なことは何も聞き出せていないのだ。
「ありがとうございます……そう言っていただけるだけで……少し楽になります。あ、楽になるなんて……親友として失格ですね」
久賀を見つめる土屋の眼差しを遮るように、雅季の声が割り込んだ。
「ラインのメッセージに『着るものが無いから』とありますけど、これは? 里穂さんは経済的に余裕があったと思われますが」
「里穂は……、私たちと集まる時、一度として同じ服で来たことはありませんよ。そういう見栄っ張りなところは昔からありました。だから、その日も支度をする時に、新しい服が無いって焦ったんじゃないですか。服は大体『マリア』のです。里穂のお気に入りのショップなんですけど、
新稲は千里の隣の地区で、セレブ御用達のショップが多い。ハイブランドの店を集めた高級ショッピングモールもあった。週末などは県外からも人が集まり、かなり賑わうエリアだ。
「私も一度里穂と行きましたけど、里穂はそこで店員と話しながら何時間でも服を選んでました。私はソファで雑誌読んでましたけど」
一気に話した土屋は目を伏せ、唇を噛んだ。
「里穂さんの交友関係を教えて欲しいのですが。わかる範囲で、連絡先を教えてください」
土屋はテーブルのスマホを取り、雅季に三人の名前と電話番号、住所を教えた。
「先ほどのメッセージも、もう一度確認させて下さい」
雅季が一言ことわる。
「でも……、やっぱり私のせいでもあるんです。その夜は全く里穂のことなど考えずにずっとカラオケなんかしてたんですから……もし……」
再び涙目の土屋はほとんど縋るように久賀を見ている。久賀は「あなたのせいではないです」と、もう一度言うと、相手は目尻をティッシュで抑えながら何度も頷いた。念のため、久賀はそのカラオケボックスと、一緒にいたメンバーの名前を聞き出した。雅季はスマホを返すと、安田里穂がよく出入りしていた場所を訊ねた。雅季がメモする間、久賀は里穂と犯人の関係を思案した。
裕福で小綺麗な若い女性。そして理系。頭も悪くないだろう。そんな彼女が見え透いた世辞や誘い文句に騙されるだろうか。行き当たりばったりで不審な人物についていくだろうか。もし、不審な人物ではなかったなら? 昔からの知り合い。だが、彼女の夫も、友達も家族も知らない人物。知られてはいけない人物。不倫をしていた可能性が? ゼロではないはずだ。友達と会うとアリバイを確保して不倫相手と会う。常套手段じゃないか。
最後に雅季が名刺を渡して礼を言い、久賀が腰を浮かしかけると、「あの、久賀さんの名刺は……」。土屋が呼び止めた。
「連絡は、警察にお願いします」
雅季が畳み掛けるようにきっぱり言った。
アパートの前に停めていたパトカーに戻り、ドアを閉めた久賀は思わず溜め息を吐いた。
「思ったほど収穫はありませんでしたね」
シートベルトを装着した雅季が言った。どうやらため息を聞かれていたようだ。
「死亡推定時刻は十三日午後八時から十四日午前三時の間だそうです」
車のキーをポケットから出し、同時にスマホのメッセージを確認した雅季が報告する。
「証言通りだとすれば、土屋亮子もマル対(対象者)から外れそうですね」
「ですね……」
雅季はキーを差し込んだが、車を発車させずに、ハンドルに手を置いたまま前を見ている。
死体発見の通報から十二時間近く経とうとしていた。にも拘らず、具体的な犯人像はまったく浮かび上がっていない。久賀はこのスタートを初日だからと楽観視出来なかった。
「マル害(被害者)の両親に当たってみますか。何か新しいことがわかるかもしれません」
久賀の問いに一呼吸の後、雅季は「どうでしょうか。彼女の両親は明日にしましょう」と首を振った。雅季の、耳に掛けていた長めの前髪が一房落ちる。彼女の纏った疲労がぐっと濃くなった。日が昇る前から出動し、今は日が暮れかけている。今日はもう署に戻るのだろう。久賀がそう思った時、
「『マリア』に行ってもいいですか。マル被が買い物した店です」
久賀の返事を待たずに雅季がキーを捻った。エンジンのやる気満々の振動が身体に伝わる。
「なぜですか」
自分の意見が却下され、久賀はついむきになった。
「もしかしたら、そこで犯人と接触したということも。ご両親のところよりはその可能性が高いと思います。それから、彼女が購入したもの、その後、どこに行くか話していたかなど、彼女の行動が追える手がかりがあるかもしれません」
雅季はナビを操作すると、車を発進させた。
「犯人は偶然にマル害をターゲットに選んだのではないと思います。きっと綿密な計画があり、彼女の行動を把握した上で殺害を実行したのではないでしょうか」
久賀は頷いた。雅季は久賀を邪険にしているわけではない。焦っているのだ。
捜査本部の設置、普段彼女をリードするはずの根古里は不在。その代わりに、本来なら監視役の検事が隣にいれば、プレッシャーは相当かかっているはずだ。
「わかりました」
久賀は素直に答えた後、少し彼女を気の毒に思った。だが、今さらこのポジションを誰かに譲るつもりは毛頭なかった。
「あの……実は、」
前走車のテールランプが光ると、雅季は減速しながら言った。
「さっき、土屋のラインのメッセージ、他のものも見てしまったんです。彼女が久賀さんに見とれているうちに」
「それ……って! 篠塚さん!」
久賀はほとんど身体ごと雅季に向いた。公式に手続きを踏まないものは、その場でいくら有力な手がかりが見つかろうと証拠として法的に認められない。逆に本人の許可なく無断で調べた事実がバレれば、相手にプライバシーの侵害だと訴えられることもある。
雅季は眉をしかめる久賀に、スーツのポケットから出した手帳を渡した。
「わかっています。軽率でした。でも、どうしても最後のメッセージが引っかかって」
手帳に走り書きされた幾つかのメッセージとその時間を再確認する。
「つまり、この最後のメッセージを送信した午後六時五七分には、マル害は何らかの形で犯人と接触していたと」
「ええ」
そう答えたきり、雅季は店に着くまで無言だった。
千里から新稲まで道が混んでいて、『マリア』に着いた時には七時近くになっていた。店は打ちっぱなしの二階建ての建物だった。正面は前面ガラス張りだったが、紫のビロードのカーテンで遮断され、中が見えない。店の前の二台分の駐車スペースは空だった。
「ここであってますよね」
雅季が住所を書いたメモにもう一度目を落とした。外灯の光を反射しているガラス面には、看板や店の名前はない。
「だと思いますよ。チャイムがありますから、押してみます」
奥まったドアの脇に銀色のボタンがある。それを久賀が押した。三回押し、四回目を押そうと指を当てたところで、目の前のカーテンが揺れて白い顔が半分覗いた。雅季がすかさず身分証を見せると、さっと顔が隠れ、二、三分後に大きくカーテンが開いて、久賀と同じくらい長身の男がドアを開けた。おまけにモデルのように細い。さらにその体型を強調させるようなタイトな黒いシャツに同色のベルベッドのワイドパンツを着ている。
「刑事さんがアタシのお店になんのご用? 今日はもう閉店なんですよ」
胸の前で腕を組んだ男――男? は片手で長い前髪を搔き上げた。
「すみません。お時間は取らせません。少しお話を聴かせていただけませんか」
店員は細い目で、値踏みするように雅季と久賀をじっと見た後、「寒いし、入って」と二人を中に通した。店内は磨き抜かれた白と黒のモザイクの床、壁際にはハンガーにかけられた服がずらりと並んでいた。ニット類や小物を陳列した棚と入り口近くのレジのカウンターを挟むようにして店の中央に大きなL字型のソファが置かれている。
「まあ、どうぞ座って」
店員は入り口のカーテンを元通りに引くと、ソファの方にぞんざいに手を振った。
「何か飲みます? お仕事中は、さすがにお酒はだめよね」
「お話をうかがうだけなので」
そう? と首を首を傾げた後、「でも、アタシは飲んでいいわよね」と訊き、雅季が頷くとレジの奥のドアを開けて――事務所と思われる――に入り、ビールを片手に戻って来た。
「鳴海東署の篠塚です。こちらは久賀検事」
「久賀検事」
男は復唱してにっこり笑う。
「『マリア』のチーフディレクター、
ラベンダー色のマニュキアが塗られた手が差し出され、久賀は戸惑いながらそれを握った。
「何か身分を証明出来るものはありますか」
有馬は黙って立ち、事務所から財布を持って来て免許証を出した。生年月日から計算して、有馬は――四十二歳。確かによく見ると、首の皺が目立つ。
雅季が礼を言うと、彼は久賀に向いて膝を揃えた。
「それで、久賀さんに何を話せばいいのかしら」
「すみません、お話は私が伺います」
有馬は雅季の方へ顔を傾け、無表情で缶ビールのプルトップを上げると一口飲んだ。
「じゃ、どうぞ?」
久賀は店内に入った時から、有馬の態度が雅季に対してことごとく反発しているように
感じていた。しかし、参考人となる市民、全員が全員常に協力的ということもない。スピード違反や駐禁を切られて警察を嫌う者も当然いるし、余計なことに巻き込まれる方は迷惑千万なのだ。自分は関わりがないのにプライベートの時間を削られる。有馬の態度もわからないではなかったが、もっと別の何かががあるような気がした。久賀はふとビールを飲む有馬に訊ねた。
「あなたは普段も買い物をしに来た人に飲み物を勧めるんですか?」
「ええ。大切なゲストですから。おもてなしは大事です」
「アルコールも」
久賀は缶ビールを指した。
「ええ。久賀さんは、お酒おつよいの?」
「あの、ニュースで既にご存知かと思いますが……」
話が逸れそうな気配に、雅季が切り込んだ。話を折られた有馬は目をつり上げた。
「あのね、アタシ、昨日の夜はアトリエ『ペトロ・ロビンホ』の一周年パーティーに呼ばれて帰って来たのは朝なの。昼過ぎに起きて、三時から五時まで接客して、あ、うちは完全予約制なんです。ゲストにはゆっくり、くつろいでお買い物を楽しんでいただきたいので。うちのゲストは芸能人や著名な方も多いですから。それで、ストック整理して帰ろうと思ったら、刑事さんがガンガン、チャイム押すから……壊れたら弁償してくれるんですか?」
「チャイムを押したのは私です」
久賀が言うと、あら、と彼は口元を押さえた。
「まあ、そう簡単に壊れるものじゃないですよね」
「では、安田里穂さんが殺害されたニュースはご存じないんですね」
久賀に向けられていた笑顔がそのまま雅季に向いた直後、引き攣った。
「何言ってるの、あんた。アタシの店でそんな冗談はやめてよね」
「冗談ではありません。今朝、安田里穂さんは……」
「りほっちが! どうして!? 昨日はあんなにぴんぴんしてたのに!」
ビンゴ。久賀は思わず雅季を見た。視線が合う。雅季の目に力が宿っていた。
「詳しくはお話し出来ませんが、そのときの里穂さんの様子を教えていただけますか。来店は何時頃で、何を買ったか、同伴者はいたか、何を話したのか」
「なんで?」
「質問に答えて下さい」
雅季に向けられた有馬の形相は凄まじかったが、雅季は落ち着いていた。こんなことは珍しくはないのだろう。
「そう簡単に話せないわよ。昨日は大変だったんだから……」
脚を組み替えて、エナメルのサイドゴアブーツのつま先を揺らした。
「昨日は朝からVIP用セールだったの。それも予約制だったんだけど、ゲストのお友達も出たり入ったり、こっちもバイトさんに飲み物買いにいかせたり、結構ばたばたしてて。それで夕方前にりほっちが来たの。『すぐに服が必要なの!』って。彼女は別の日に招待してたし、今接客できないって断ったんだけど、それでもいいって。勝手に選ぶからって」
「安田里穂さんは急に服が必要になったかを話しませんでしたか?」
チーフディレクターは「さあ」と、両手を上に返した。
「そういうのって、あの子にはよくあったから。いろいろ試してたみたいだけど、結局〝フェス〟赤のニットワンピースと〝セブリアン〟のパンプス、あとあそこから珊瑚のイヤリング持っていったわ。全部、着替えて行ったわよ。家に帰ってる時間がないって」
そう言って、有馬は雅季の頭の天辺から足のつま先までしげしげと眺めた。雅季が着ているのは動きやすさ重視の黒のパンツスーツに、ブルーのレギュラーシャツ。黒のレースアップブーツでヒールはせいぜい三センチの地味なものだ。
有馬の顔に薄笑いが浮かんだ。その時、久賀はなぜか激しい苛立ちを覚えた。その視線を彼女から逸らしたい一心で、久賀は口早に訊ねた。
「安田里穂さんが購入したものはサイズ違いとか、ありますか。無ければ写真でもいいです」
有馬は一変して愛想よく頷いた。
「もちろん、写真でよろしければ。うちの商品はほとんど一点もので、里穂さんが買ったワンピースも最後でしたから、実物はないんです。あ、あとカードの利用伝票もコピーしましょうか。写真はプリントアウトしますね」
「とても助かります」
久賀の胸にはまだ怒りが燻っていたが、それが声に表れないよう努めた。それから、安田里穂の着ていたものについても質問を重ねると、チーフディレクターはバッグ、靴、アクセサリー、ストッキングの色、それらのブランド名に至るまで言い連ねた。雅季はそれらを久賀のとなりで記録している。
「買い物を済ませた安田里穂さんが、店を出たのは何時頃ですか」
「ええと、店に来たのが五時過ぎで……それから一時間くらいはいたと思う。さっきも言ったけど、ばたばたしていて構ってあげられなかったんだけど、なんか、あの子普段より……テンションがおかしかったっていうか……」
有馬は言い淀んだ。その先を言うべきか否か明らかに迷っている様子だった。
「あの……、たぶんだけど、酔ってたみたい。お酒臭かったもの」
「車で来たんですよね? 飲酒運転ということですか? ここでも飲んだんですか?」
思わず久賀の語気が強くなった。有馬はそれを非難と受けたに違いなかった。ぐっと顎を上げ、胸を反らした。
「アタシはここのディレクターで、ゲストの母親じゃありません。お店では『水が欲しい』って言うので、オレンジジュースを出しました。お肌にもいいかと思って」
母親? 久賀は一瞬引っかかったが、敢えて訂正しなかった。妙な間が空いたせつな、雅季が引き継いだ。
「安田さんが服を選んでいる時、お客さんと話していたとか、そういうことがありましたか」
「アタシは、りほっちがここで服を選んで、支払いをして帰った姿しか見ていません」
「同伴者も無し?」
「あの子が友達連れて来たのは前に一度だけよ」
そこで彼は初めて同情するように眉をひそめた。
「お店の防犯カメラはありますか?」
「入り口の上からレジを映しているのが、そう」
それだけでは里穂の姿はほとんど映っていないだろう。だが、何も無いよりマシだ。
「警察に提出願えますか」
「嫌だ、って断ったら令状とってくるんでしょ?」
「ご協力ありがとうございます」
初めて久賀の口から素直な言葉が出た。質問が出切ると、有馬から事務所で安田里穂の購入した品物をプリントアウトしたものと、伝票のコピー、そしてその日の招待客のリストと、雅季の名刺を交換し、二人は腰を上げた。
「あ、刑事さん」
久賀が外に出た時、有馬が雅季を呼び止めた。真後ろにいた雅季が振り向く。
「さんざん聞かれたから、アタシからもひとつだけ。刑事さん、可愛い顔してるけど、女の魅力が全然ないわよ。あのね、彼氏いないならせめてオナニーしなさい。それだけで肌艶とか、かなり違うわよ」
「あなた……!?」
久賀が相手に詰め寄ろうと一歩踏み出したとき、スーツの右袖が引かれた。久賀は雅季を見下ろす。
「捜査へのご協力、ありがとうございました」
雅季は有馬に視線を定めたまま、穏やかに言った。
そうだ。市民は警官の職務質問に答える義務はない。質問に対して答える行為は、全て「善意」からきているのだ。
「いきましょう、久賀さん」
雅季が久賀の脇をすり抜けると、腕を組んだ有馬は眉間の皺を深めた。
「アタシ、強がる女って嫌い。あ、ねえ。久賀さんの名刺、いただける?」
「連絡は全て警察で受け付けます」
久賀が感情を押し殺して歯の間から言葉を絞り出すと、有馬は無言でドアを閉め、勢いよくカーテンが引かれた。
カシャ、っという音と同時にインプレッサのライトが瞬き、ロックが解除される。
「どうして……侮辱罪で起訴出来ますよ」
「訴えたら、久賀さんの仕事が増えるだけでしょう。いえ、侮辱罪はそれが公然性か否かが問われます。今の場合は訴えられませんよ。それは久賀さんだって分かるじゃないですか。でも、そんな暇はないんです。殺人犯を野放しにしているのですから。それに、私は侮辱されたとは思っていません」
雅季が運転席に乗り込み、閉めようとしたドアを久賀は押さえた。雅季はドアに手をかけたまま、久賀を見上げている。
――そうだ。それを判断したのは俺だ。
ジャッジをしているのは他人で、蔑むにしろ、同情するにしろ、心配するにしろ、そんなものは相手の尊敬を欠く行為のなにものでもない。……彼女を侮辱していたのは、俺か。
「すみません……」
雅季は不思議そうに首を傾げた。
「いえ、久賀さんは間違っていません。法に携わる方として当然の態度だったと思います」
ひとくくりなのか。法曹界の『皆さん』と。
「彼は明らかに篠塚さんを馬鹿にしていた。最初からです。少なくとも、私は……」
「いえ、彼が言ったことは的を得ています。彼のような人は、どうしても人の好奇の目を引きますよね。だから彼も意外ときちんと相手を見ているんです」
外灯の光に、雅季の瞳が濡れたように煌めいた。そこからは何も読めない。
「署に戻りましょう。早く乗って下さい。風邪を引いてしまいますよ?」
雅季がにっこり笑う。久賀は泣きたくなる。彼女は強がっているのではない。強くなってしまったんだ。あの時から、この人は今日まで、少しずつ。
署に戻る間、有馬の証言を元に二人が交わした意見はなかなか一致しなかった。
「篠塚さんは本当に犯人が店にいたと思っているんですか? 飲み物に薬を盛ったと? それにしてはリスクがあるでしょう」
「マル害は酔っていた。そんな状態でジュースに何か入れられても気がつきませんよ」
雅季は譲らなかった。
「犯人は店のセールを利用したんです。薬が効くのに必要な時間、マル害は店にいると確信があったから。犯人にあの場所でリスクなんてありません。客を装いジュースに薬を入れ、気分の悪くなった彼女の車に乗せ、消えただけです」
「では、客の誰かが犯人を見ていた可能性もあると」
「ええ。それは十分にあると思います」
雅季はそれにかなり期待しているようだった。
「もし、犯人が彼女の行動を監視していたなら、そのチャンスを逃さないはずです。セール中なんて招待客といっても、誰が出入りしたかなんてわかりませんから」
「私はそうは思いません。それでもリスクが高すぎます。限られた空間に複数の人の目はあるんですから」
署に着き、車を出てからも議論は続いた。
「久賀さんは死体の発見現場を忘れていませんか? 犯人はリスクなんて考えるような人物じゃないんです。そもそも、殺人には低かろうが高かろうがリスクはつきものです」
今朝の記憶が蘇り、久賀は溜め息を吐いた。
「確かに、あれは大胆すぎますね。いいでしょう。とりあえず篠塚さんに同意します」
雅季は一瞬久賀を見上げ、目尻を下げた。笑ったのだろうか? 先ほどの有馬の言葉を引きずっていた久賀は、肩の力が抜けるのを感じた。
雅季と久賀が刑事部屋に入ると、青鞍が電卓を叩いていた手を止め「おつかれさまです」と顔を上げた。
「青鞍さん、その清算、急ぎじゃなければ上がっていいですよ」
「いえ、篠塚さんが外出中に新庄さくらから連絡が来たので、待ってました」
雅季の顔に緊張が走る。
青鞍は閉じたラップトップの上にあったA4の紙を取り、読み上げた。
「五、六週間前に、セキュリティー会社の社員を名乗る男が来たそうです。その時八坂真由実は不在。用件は契約の更新だったそうですが、その時点でもともと何年もほったらかしだったし、『うちには必要ありませんし、これからも更新の予定はない』と断ったそうです」
「本当にそう言ったんですか『これからも更新の予定はない』って?」
「はい。自分も確認しました」
「新庄さくらは、男がセキュリティー会社の正社員か否かは確認しなかったわけですね」
「してません。普通なら制服でもスーツでも着て礼儀正しければ、初対面の人間が嘘をついているとは思わないでしょう。名刺が偽物かどうかも」
「顔を覚えているようでした?」
青鞍は頭を左右に振った。
「いえ、このことも思い出したのもついさっきだったそうで、『見たらわかるかもしれない』と自信なさげでした。ただ、年齢は三十代くらいだと思うと」
「これで50パーセント、犯人像が確定しましたね。少なくとも男だということが分かった」
青鞍は久賀に頷くと、
「それ、保留にしてください」すかさず雅季が異を唱えた。
「決定はまだ早いです。もしかしたら、本当にセキュリティー会社の者かもしれません」
「それは無いと思います」
「いいえ、うかつな判断が捜査を間違った方向に進めてしまうこともあります」
雅季と久賀は睨み合う。一瞬、久賀の身体に武者震いが走った。
「あの、篠塚さんの署名と捺印をこれに……」
おずおずと青鞍が今読み上げた報告書を差し出した。雅季は署名をし、捺印した。
「これはもう一度読ませて下さい。解剖の結果は?」
「まだです。鑑識がマル害の家から持ち出した押収品を精査中です」
「ありがとう。とにかく今はどんな情報でも集めたいですね。手がかりが少なすぎます」
「ですよね……」
青鞍が器用にくるくるとペン回しをしながらため息をついた。
「明日に期待しましょう。青鞍さん、お疲れさまでした。上がって下さい」
「え、まだ何かあれば……」
「いいえ、私も久賀検事も今日の報告事項をまとめたら、帰りますから」
「そうですか、ではお先に。久賀検事もお疲れさまでした」
青鞍は身体を四十五度に折って礼をし、ダウンジャケットを着て出ていった。雅季は報告書にもう一度目を通し、久賀に渡した。
「私は、この男が怪しいと思いますけどね」
久賀は再び波風が立たないよう、控えめに意見した。判子をしまった雅季は、引き出しを開けたままハンドクリームを塗っている。
「私もそう思いたいですけど、その決定にしてもやはりもっと証拠が必要です。捜査に慎重過ぎるということは無いと思います」
もっともだ。久賀は報告書を返した。雅季がそれを受け取る時、ふと爽やかな香りが鼻を掠めた。この香り。車中に漂っていたのと同じだ。
「それ、ハンドクリーム……」
久賀が思わず口にすると、引き出しを閉めかけていた雅季は「使います?」と渡した。ロクシタンか。学生時代付き合った彼女に、このブランドの石けんをもらった気がする。
「コーヒー、入れてきますね」
雅季が退室すると、久賀はスマホでハンドクリームの写真を素早く撮り、それを使った。すっとする目が覚めるような清々しい香りに一瞬疲れを忘れた。媚の無い、雅季にぴったりの香りだ。すぐに、雅季が開け放したままのドアからコーヒーのカップを両手に入って来た。
久賀はコーヒーと引き換えに礼を言ってハンドクリームを返した。雅季がまた別の引き出しから何かを出し、久賀の机に置いた。個別包装のチョコチップクッキーが二つ。
「今日の証言を整理したら、終わりにしましょう」
雅季は立ったままクッキーを食べ、一口飲んだコーヒーのカップを机に置くと、キャスター付きのホワイトボードの中心に被害者の写真をマグネットで留めた。それから、『マリア』で購入したアイテムの写真を隣に張り、手帳を開いてそこへ証言の一部を書き写していく。久賀も意見をし、作業に加わった。そのあと、雅季が報告書をまとめ始めた。
「もう、九時過ぎていますよ」
始関がドアに寄りかかるように立っていた。雅季は部屋に入って来た上司に現況を報告する。
「ああ、まだ全然進んでない、ってこと」
鳴海東署の一係長は、ホワイトボードを一瞥し、対局に位置するロッカーの前で腕を組んだ。顔は普段通り無表情だが、声から不満がはっきりと伝わった。
初動二十四時間で容疑者を絞れていないのは、確かに痛い。
「これから、どうするつもり?」
「とにかくやることは山ほどあります。マル害の乗っていた車と、所持品の捜索。衣類はもちろん、バッグ、携帯電話など」
「ショップの有馬という男性が被害者と特に親しかったようで、当時着ていた服など細かく覚えていてくれたので助かっています」
久賀もコメントを添えた。始関は、根古里の席に座る久賀をチラと見て「遅くまでご苦労様です」と言い、再びホワイトボードに向いた。
「これ、すごいね。〝フェス〟に〝セブリアン〟か。金持ってるなあ。ガルーシャのパンプスとか珍しいんじゃない?」
「あの、それなんですか?」
ボードに近付いた始関に、雅季は訊ねた。
「ん? ガルーシャ? エイの革。あの海に泳いでる。表皮じゃなくて鱗を使うんだけどね。斑紋が独特なんだ」
「あぁ、そうなんですか……。私なんて、ブランド名をメモしている時、何の呪文かと思ってしまいました」
「ははは。篠塚くんらしい。うん、〝フェス〟はフランスのブランドで、〝セブリアン〟はスペインだ。靴はやっぱりスペインかイタリアがいいよね」
「そんな靴を履いた優秀な刑事さんに是非会ってみたいものですね」
久賀が口を挟むと、始関は鼻白んだ様子で雅季からボードに目を移した。
「あ、何? ショップの所有者ってゲイなんだ? へえ、有馬で、反対から読んでマリアか」
有馬樹生の名前の横に(『マリア』ディレクター・同性愛者?)と書いてある。
「あ、そう言われればそうですね! あと、始関さんが来られていたら、もっといろいろ話が聞けたかもしれません」
雅季が目元を緩め、始関は「それ、どういう意味」と部下の顔を覗き込む。
久賀は胸の前で組んでいる腕に指を食い込ませた。あり得ない。厳しい警察の縦社会でこの光景はおかしい。雅季の態度はかろうじて部下のそれだが、それでも時折、言葉の端々に冗談に聞こえるものが混じる。そして一方の始関。こっちの方が問題だ。馴れ馴れしすぎる。ここでは係長だが、階級は警視というのも腑に落ちない。階級詐称じゃないか? それとも、帰国子女というのは常に『テイク・イット・イージー』なのか。警察がそれでいいのか? いや、いいわけはないだろう。久賀は二人の和やかな雰囲気に当てられ、『よそ者』である自分のポジションを改めて痛感した。
「マスコミに、この所持品と車の情報を流しましょう。各紙に載れば、県外からも情報が寄せられると思います」
「わかった。手配する」
雅季を見る始関の目が満足げに細められる。
「捜査に河口くんと堀くんも加えよう。県警からも応援が来るから、署長や他のことは僕と菅井くんでフォローする。篠塚くんは、会議に顔を出してくれればいい」
「ありがとうございます」
雅季がぺこりと頭を下げる。だが、それでいいのか? と久賀は再び胸中で始関に対する不満を漏らした。巡査部長にスタンドプレーを許す係長なんて聞いたことが無い。それに、単純に人が少なすぎる。地取りだけで何日潰れるか。凶器だって見つかっていない。雅季の意見を尊重すると、犯人はまだ男か女かさえわかっていない。こんなことで犯人が検挙出来るのか。久賀の心の声が聞こえたのはかわからないが、始関は久賀に横目を流した。
「今日のところは、これくらいか。とりあえず、久賀検事はもうお帰りいただいても大丈夫です。お疲れさまでした」
始関がかなり埋まったホワイトボードに頷いた後、雅季が座る椅子の背に両手を置いた。
「いや、篠塚さんが残るなら、私も手伝いますよ」
「あとは
始関が上体を折り、雅季の頭上から久賀を見据えた。そう言われては、引き下がるしかない。久賀は二人に挨拶し、長い一日を終えた。
久賀がマンションに戻ると、玄関にはドクターマーチンのブーツが揃えてあった。そうだ。晴美がいるんだった。
「ただいま」
「おかえりー。お疲れさまー」
テレビを見ていた晴美の、ソファの背から出ている頭がくるりと回る。バラエティ番組なのか、断続的に笑い声が湧く。
「晴美、夕飯どうした?」
「ラーメン作ったよ。丞くんは?」
「まだ」
今日胃に入れたのは青鞍の買ってきた昼食と、クッキーを二つ。雅季も同じだ。彼女は食事はどうするのだろう。始関が誘うかも、いや、誘うだろう。上司なのだから。上司の特権か。不意に不快感が込み上げ、今日一日の疲労がさらに濃くなった気がした。
「ねえ、どうする?」
「え?」
「ご飯、ラーメンでいいなら作ろうかって言ったの。もう、仕事で頭がいっぱいなんでしょ」
いや、仕事のことなんかこれっぽっちも考えていなかった。昔から。あの人のことで頭がいっぱいだった。必死で勉強したのは、あの人のことがあったからだし、彼女を作ったのも、あの人に似ていると思ったからだ。何度か繰り返して、やっぱり違うと思った。
「サンキュ、でも自分で適当にやるよ。仕事の後はむしろ別のことしたほうが通常運転になる」
「そういうもんなんだ。あ、野菜炒め残ってるの食べていいよ」
「おう。あ、晴美」
コートを脱いだ久賀は、スーツの内ポケットからスマホを出した。そういえば、始関のスーツはダブルだったな。異様に似合っていた。始関を頭から追い払い、久賀は従姉妹の前にスマホをかざす。
「あのさ、暇だったらこれ探して買って来て」
「え? 何これ。ロクシタン?」
「そう。ハンドクリーム」
晴美は自分の傍らに置いていた久賀のラップトップを膝の上に起き、キーを叩いた。
「これか。ロクシタンのヴァーべナ。えーっ、高ーい。こんなちっちゃくてこの値段!? ていうか、今ネットで買えば」
「俺、ネット信用してないから」
「その若さで! 超不便じゃない? ま、いっか。確かに暇だし」
「居候が偉そうに。おまえも買えばいいじゃん。ニベア」
「え、何その格差。まあ、いいけど。ニベアの威力は馬鹿に出来ないよ。『女は黙ってニベア』って格言あるの知らないの」
知らん、と笑いを噛み殺しながら久賀は寝室に入った。
なんだ、俺、ちゃんと浮いて来てる。ていうか、ダメージ受けていたのか。まあ、受けるよな。あの、始関の態度はなんなんだ。威嚇か? 近くにいると、知りたくないことも知ることになる。想像したくないことも、目に入れば想像に妙な助長がかかる。今日一日あの人と一緒にいて収穫がそれか。不毛だ。
着替えた久賀はラーメンに野菜炒めを載せて食べ、ほうじ茶を二つ作ってリビングに戻った。
テレビの前に座ると、早速、晴美が手で払う真似をした。
「晴美、話がある。テレビ消して」
晴美は頬を膨らませたが、久賀の言う通りにした。急に、室内ごとミュートにしたように静かになる。
「おまえの事情は分かった。綾子伯母さんの許可もおりた。で、俺のほうも、まあしばらくは置いてやってもいい」
「イエス!!」
晴美のガッツポーズを見て、久賀は眉をひそめた。早まったか。
「だが、まて。学校はどうするんだ? そんなに休んだら問題だろう」
晴美は「チチチ」と人差し指を揺らした。
「アタシ、受験生だよ? もう自由登校。で、第一志望見事に不合格! 昨日ね、合格発表だったんだ。ネットで見たら落ちてたよ。死体も発見されたし、不幸って重なるもんだね」
久賀は思わず「なるほど」と頷きかけ、「いや、そうじゃないだろう」と己につっこんだ。
「
烏丸美術工芸大学は隣県にある国立大学だった。
「まあ、美大は難しいからな」
「うん。だからね、どうせこっちの方に来るつもりではいたんだ。あ、丞くんと一緒に暮らすつもりじゃなくて!」
「当たり前だ!」
「うわ、即却下。つっら。ま、あたしもヤだけどね。小姑みたいな丞くんと暮らすなんて」
久賀がゆっくりと髪ゴムを外したのを見て、晴美が慌てて両手を振った。
「うそ! うそうそ! それ、飛ばさないで! マジで痛いから。ほら、やっぱあたしがいつも部屋にいたら丞くんもくつろげないじゃん?」
久賀はほうじ茶をごくりと飲み、深呼吸をした。
晴美と話していると残量少ないエネルギーを無駄に使っている気がする。
「ごめーん。でね、いつも家にごろごろしてるのもあれだから、来週辺りから予備校のプレスクールに通おうと思って。母親にメールで頼んでおいた。『り』って返事が来たから、授業料とか払い込んでくれるとおもう」
『り』は『了解』か。なんかそれもそっけないな。久賀はマグカップを両手で包んで茶を啜る晴美に少し同情した。
「友達とか、彼氏は? 心配するんじゃないか?」
「彼氏はとっくに別れたし、今、友達も受験ラストスパートだから忙しいんだ。もともと、あたし、友達少ないしね」
「そっか。おまえがその辺り、ちゃんと考えてるならいいけど」
「うん、ごめんね。丞くん。あたしがいる間彼女出来ないね。部屋に呼べないもんね」
「おまえが心配することじゃない」
「丞くん、モテそうなのに」
「俺、一途だから」
晴美がじっと久賀を見つめる。嫌な予感がした。
「もしかして、あの刑事さんじゃないよね。遠目だったけど、なんか、お二人さん、いい感じだったよ?」
「探るな。とにかく、今難しい事件だから晴美に構っている時間はないけど」
「逆に構ってもらいたくないよ」
「おまえ……。ま、そうだろうな。とにかくこっちの条件。晴美の縄張りはこのリビング。掃除洗濯は自分でやる。俺のシャツをクリーニングに持って行く、取りにいく。俺の寝室は出入り禁止。共有エリアのものは大体許可無しで使っていい。食事は自分のことだけ考えて。ゴミ出しはルールを守る。冷蔵庫に曜日ごとの表が貼ってあるから、それ見て。言わずもがな飲酒、喫煙禁止、騒音には気をつける。男は連れ込むな」
「えっ」
久賀が睨みを利かせると、晴美は「ですよね」と、首をすくめた。
「まあ、でも。しばらくお世話になります」
晴美はソファの上で正座をし、深々と頭を下げた。
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