第3話

 久賀が雅季と会議室を出て始関に事情聴取の報告をした後、刑事部屋に戻ると書類仕事をしている青鞍刑事がいた。机に弁当屋の袋を見つけた雅季が、「あら」と中を覗く。

「青鞍さん、お昼、買っておいてくれたんですか」

「え、まあ、ついでだったんで」

 青鞍刑事は照れくさそうに笑った。久賀が壁の時計を見るとすでに十三時を過ぎていた。

「篠塚さん、H大病院の浅岡医師から連絡がありました。早急にお話ししたいとのことでした」

「わかりました。ちょうど安田裕紀も着く頃ですし。マル害の身元確認が済んだら、こちらにつれてきます。会議室はあのままで」

「はい」

「あ、青鞍さん」

 雅季はバッグから財布を出し、千円札を抜く。

「お昼、ありがとうございました」

「気にしないで下さい」

「ううん、受け取って下さい」

「ほんと、いいですよ。自分、金持ってますから……使う彼女もいないし」

 頷きかけた雅季が慌てて首を横に振った。

「それでも、よくないです。だって次も密かに期待してますから」

 青鞍の表情がぱっと明るくなる。

「そういうことでしたら」

 彼は札を受け取ると、書類仕事に戻った。

 覆面パトカー――スバル・インプレッサ――の運転席に滑り込んだ雅季に続き、久賀は助手席に座った。雅季はシートを前に、久賀は後ろにずらす。

 それから片腕である検事事務官の柏木弘かしわぎ ひろむに電話をかけ状況報告。

 雅季は黙ってハンドルを握っている。きっと、八坂真由実と新庄さくらの話を反芻しているのだろう。電話を終えた久賀は横目で運転中の雅季を盗み見た。

 雅季は長めの前髪を右サイドに流し、肩まで伸びた――これは憶測だが――髪をバレッタで後ろにアップにしている。そしてナチュラルメイク。ナチュラルに見せるためのメイクではなく、限りなく自然な、目立たないための最低限のメイクだ。目立たないことは、女性としてはともかく、刑事にとってはメリットになる。

 黒のパンツスーツが包む身体は細身だが、職業柄鍛えられた身体には適度な筋肉がついているはずだ。顔は、昔、晴美と観たアニメの『シンデレラ』か『白雪姫』かといえば、白雪姫。黒髪に白い肌。三十歳のわりに、童顔で黒めがちの瞳はあどけない印象を与えるが、すぐにその毅然な態度に人は彼女と自分との距離をはっきりと感じる。彼女の纏う雰囲気は常に張り詰めている。刑事として必要以上に。

 確かに、突然検事と組まされてやりにくいところはあるだろう。いや、戸惑わないほうが不自然だし、実際青鞍も『大迷惑』と口を滑らせた。『大ショック』だったか? まあ、どちらも大差ない。つまり、彼女も青鞍と思うところは同じはずだ。

「久賀さんは八坂と新庄について、どう思いました?」

 信号で車を止めた雅季が訊いて来た。落ち着いた声がまた、いい。久賀は鞄にスマートフォンを仕舞い、雅季に向いたが、相手は横顔を見せたままだ。

「八坂真由実は踏んだり蹴ったりって感じでしたね。当時の悔しさがぶり返したというか、いささか興奮気味でしたが。新庄さくらのほうは相当ショックを受けていた感じを受けました。もし、後に連絡が来るとすれば新庄からだと思います」

 雅季がギアを入れる。久賀は続けた。

「青鞍刑事や、他の班が安田夫妻についてもっと情報を集めてくれることを願います。八坂真由実が最後に言ったことも、やはり気になりますし」

 黙っているのは雅季も同意見なのだろう。

「酒匂に「グレートオート・ヤスダ」という車の中古販売店があるの、ご存知ですか。フェラーリ、マセラティ、ランボルギーニ、ポルシェなど高級車ばかり扱っているのですが、私はその安田ではないかと。もしくは彼の実家、あるいは親族」

「安田という姓は星の数ほどありますからね。そう短絡的に決めるのは危険ですよ」

「ええ。でも、名前とリンクして裕福そうなところといえば、真っ先に思いついたので。安田夫妻の住居がある百合丘からもそう離れていませんし。あ、安田裕紀本人は銀行員です。三十八歳という年齢からしても、収入も悪くはないと思います」

「そうですね……」

 久賀にはその情報は新しかったが、雅季の仄めかすことはわかる。隣町にある百合丘は高級住宅地区だ。東京で同じグレードなら田園調布、広尾、麻布といったところか。こっち方面だと帝塚山、芦屋に並ぶ。

「その中古車販売店の方も調べておきましょう」

「青鞍さんにはすでに指示を出してあります」

 大通りの車の流れはスムーズだ。この分だと病院に着くのに十分もかからないだろう。朝、曇っていた空は、清々しい青空に変わっていた。清々しいのは空だけではない。車中にもシトラス系の香りが微かに漂っていた。もちろん、運転席の方からだ。

「ドラマでは、息子の嫁を良く思っていなかった親が、義理の娘に手をかけた、という展開になりそうですけどね」

 なんとなく口にした久賀の言葉に、雅季がすぐに切り返してくる。

「それだけでは、動機が不十分じゃないですか。遺産を狙われて、とかなら……」

「ああ、その方が自然ですね」

 そうは言いつつも、久賀は自分でもそんなことは信じていなかった。

「しかし、そう簡単な事件ではない気がします。第一、ウェディングドレスを着せた理由がわかりません」

「では、八坂真由実の最後の言葉は? 久賀さんは安田裕紀が犯人だと思いますか」

「一般的な考え方として、もし夫婦のどちらかが伴侶を殺害したらあのように見せるのではなく、隠そうとする心理が働くと思います。押し入れにしろ、山中にしろ。大抵身内によるそういったケースでは、まず死体を隠そうとする。放置するのはどちらかといえば、犯人が被害者と関係が薄いケースが多い。一刻も早く現場から離れようとします」

 久賀はそこで自分の言葉を確認するように一旦区切った。

「ただ、今回のように死体を飾るというのは、どちらにも当てはまらないですね。まず、誰かに目撃されるリスクが大きい。死体に接触すればするほど手がかりが増える。警察には有利になる。それなのに危険を冒すのは、犯人は警察を相当馬鹿にしているか、余程自分に自信があるのか、あるいは……」

 赤信号で、雅季は顔を久賀に向け、じっと見つめている。 

 ――答えるまで彼女はこのまま待つだろうか。ずっと、自分から視線を外さずに。永遠に。

 久賀はすぐ脇に止まった大型バイクのエンジン音に我に返った。雅季が車を発車させる。

「メッセージが含まれているとか」

「誰に対して?」 

「わかりません」

 久賀は溜め息を吐いた。肩が張っていた。雅季の隣で緊張した。

「そうすると、メッセージは『花嫁』ですよね。やはり安田夫妻周辺を徹底的に洗えば何か出てくるんじゃないでしょうか。彼らの昔の交遊関係を特に。死体に外傷がなかったのは、安田里穂の知人で、彼女を愛していたからでは? 犯人は、自分の意志に反して安田裕紀と結婚した安田里穂を憎んだ。愛情が憎悪に変り、殺害に及んだ」

「つまり、男性で単独犯」

「男性とは限りませんよ?」

 久賀がぱっと雅季に向くと、彼女は口元を緩めた。

「と、始関さんなら言いそうです。でも、それを保留にしても、私は単独犯だと思います」

 久賀は無言で頷いた。

「それにしても、派手な結婚式にそのカップルの関係を疑う、というのは興味深いですね。確かなデータではないと思いますが」

 その言葉は久賀の頭に強く残っていた。

「データではなく八坂真由実の「長年の経験」というところが逆に信憑性がある気がします。派手な結婚式はよしておいたほうがいいですね」

 雅季は言ってから、喋り過ぎたと思ったのか、気まずげに久賀を横目で見た。久賀はその視線に気がつかない振りをした。

「久賀さんは、彼女から結婚を迫られたりしないんですか」

 雅季はすかさず久賀に話題を振る。それでも、質問されるのは悪い気はしない。

「彼女なんかいませんよ」

「じゃ、彼氏ですか」

「始関さんなら言いそうですね。でも、仕事が忙しくてそれどころじゃ」

「それは嘘ですね。都内や横浜に比べたら忙しいなんて言えませんよ、お互い」

 刑事なりになかなかいいところを突いてくる。久賀はひとつ息を吸った。

「好きな人がいるんです」

 そのとき黄色に変わった信号で、雅季はアクセルを踏んだ。すっと浮遊感を伴う滑らかさでスバル・インプレッサは加速した。

「すみません」

 それは久賀に告白させたことだろうか。それとも刑事が黄色信号で停車しなかったことに対してか。もしくは……。 

 H大学病院には専属の死因調査事務所が設けられている。雅季は迷わず別館へ行く。エレベーターで四階に上がると、長い廊下の奥から二番目のドアをノックした。

 白で統一された事務機器が収まった部屋で、スクラブ白衣を来た医師が迎えた。医師に雅季と久賀は挨拶をし、三人は中央のテーブルに着いた。解剖医の浅岡は恰幅のよい男だった。

「間もなく被害者の夫、安田裕紀が到着して、身元確認が出来ると思います」

「その件ですが……」

 医師は眉間に深い皺を刻んで、雅季を見た。

「篠塚さんがその安田さんと話す前に、是非、伝えておかなくてはいけないと思いましてね」

 雅季と久賀の視線が一瞬交錯する。

「遺体を見たら一目瞭然だと思います。どうぞこちらに」

 医師は部屋を出ると、廊下を先に立って二人を低温保管室に連れて行った。黄緑色の床に細い排水溝が走り、解剖の血を荒い流して常に清潔を保てるようになっている。医師は電灯の光を反射して光るステンレス製の遺体保存用冷蔵庫に近付き、二台のうちの片方の扉を開けて銀色のレバーを握ると、トレーをぐっと引き出した。スムーズにそれは出て来た。

 死体には首から下をシートで覆われていた。顔に痣などの外傷がない分、余計に死体は生々しさが際立っている。久賀は胸中で思わず手を合わせた。

「親族の身元確認が終わって、検視に入りますが、所見では直接の死因は絞殺による窒息死。首に抵抗した痕跡がないところを見ると、眠らされて、または意識がない状態で犯行が行われたと言ってもいいでしょう。性的な暴行を加えられた形跡は一切ありません」

「それでは遺体に犯人のDNAは残されてない」

 医師は死体から雅季に眼だけ上げた。

「そう思います。そして、どうしても伝えておきたかったのは……見て下さい」

 医師がシートを下に捲り、死体の上部をさらした。久賀は現れたものを見ても最初、全く違和感を感じなかった。

「なんてこと……」

 雅季の絞り出したような声に、やっと意識が覚醒した。そうだ、これは解剖前の死体のはずだ。解剖後ならともかく、この時点で胸に走る傷は明らかに〝おかしい〟じゃないか。鎖骨の辺りから胸骨の上をみぞおちまで一本、そこから第一肋骨、第六肋骨をなぞるように左側に二本綺麗な黒ずんだ赤い線が走っている。ちょうど、扉のように。

 それを再認識した久賀の背中を悪寒が走った。雅季の息を吐く音がやけに大きく聞こえた。

「どういうことですか」

「この遺体には心臓がありません。摘出されています」

「それは、つまり犯人が……心臓を取り去ったと?」

 医師は遺体に元通りシートを掛けながら、頷いた。

「心臓部にぽっかりと穴の空いたレントゲン写真を見て、驚きました。ただ、これが医療技術をもって行われたのかは怪しいところです。切開の跡は非常に綺麗ですが、外科医にしてはお粗末だ。それなりの知識があり、余程手先が器用な人物によるものかと思われます」

「まさか……!」

 雅季の顔が強張る。

 事件の様相は二人の想像を遥かに超えて重量を増し、伸し掛かって来た。あまりのショックに言葉が出てこない。雅季も同じなのだろう。視線を遺体の胸の辺りに落としたまま、押し黙っている。そのとき、ノックがして若い女性が顔を出した。

「失礼します、警察の方がお見えですが……こちらにお通ししますか」

 医師は雅季を見、雅季が眼で応えると、女性に向かって首を縦に振った。開けられたドアから制服警官に続き、安田裕紀が入って来た。


「大丈夫ですか。お水をどうぞ」

 雅季が病院の応接室でソファに腰掛けている安田に声をかけて、久賀とともにテーブルを挟んで座った。

 安田裕紀により遺体は安田里穂と確認された。流れとしてはそのまま鳴海東署に戻り、事情聴取という予定だったが、安田裕紀の状態がかなり芳しくなかったため、応接間を借りて一休みさせていた。 

 安田は無言で秘書が持って来た水の入ったグラスを取ったが、手が震えてスラックスの膝を濡らしてしまった。顔面蒼白で、額には脂汗が浮いている。質の良い焦げ茶のスーツ、ソファに置かれているコートはバーバリーだ。容姿は相変わらず若作りではあったが、写真よりも顎の線や、シャツの腹辺りが丸くなっている。

「安田さん、検事の久賀です。安田里穂さんについて少しお話を伺いたいのですが」

 唐突に切り出した久賀の左肩辺りに、雅季の視線が刺さった。だが、構わず続ける。

「署で伺おうと思ったのですが、移動や署の雰囲気は、今の安田さんには精神的に負担がかかるだけかと思いますし、そうお時間は取らせません」

 安田はスーツのポケットからハンカチを出し、額を押さえて頷いた。

「一体何が起こったのか……どうして、どうして家内なんですか? 接客中に突然警察から電話があって……いきなりこんなところに連れてこられて……それで、里穂のあんな……姿を……なにが、どうなっているのか説明して欲しいのはこっちですよ……」

 安田は眼にハンカチを当て、嗚咽を漏らした。

「本当にお気の毒です。我々は事件解決に全力を尽くします。そのために、安田さんのご協力が必要なのです」

 雅季が一言一言区切るように話しかけた。安田は催眠術にかかったように、頷いた。

「安田里穂さんが発見された当時の状況は、「エルフ結婚相談所」、商店街の結婚相談所で安田里穂さんが遺体で発見されました。鑑識の報告で自然死ではないと……」

 穴の空きそうなほど雅季を見つめている相手の顔は、みるみる土気色に変わっていった。

「そんな……」

 久賀は安田裕紀がこの最悪の知らせを消化するのをじっと待った。

「ど、どうやって……家内は……。一体何が……」

「まだ詳しいことは話せませんが、安田里穂さんは殺害された可能性があるとみて捜査を進めています」

「殺害……殺された、ってことですか」

 安田の赤くなった眼が見開かれる。

「誰が……、誰がそんなことを」

「まだ、わかりません。しかし、我々警察は犯人逮捕に全力を尽くします。それでは、質問をさせていただいても?」

 間髪を於ずに雅季が質問に持ち込んだのは、相手に考える時間を与えないためだ。 

「あなたが最後に安田里穂さんを見たのはいつですか」

「昨日の朝です。出勤前に。昼頃、会社に……、携帯に電話がありましたが、私は接客中だったので話していません。その後も忙しくて……」

「帰宅されてからは? 夜はお宅にいなかったのですか?」

「いいえ、家内はその夜は友人と食事をすると言っていました。月一で決まった友人たちと食事をするのが楽しみだったようです。食事の後はクラブ、ですか。そういう場所にも行っていました。そのまま友人のうちに泊まることも今まで何度かありましたし……」

「それで、里穂さんがその夜どこにいたのかはわかりますか」

 久賀が訊いた。

千里せんりです、たぶん。ここら辺で遊ぶところと言ったらあそこくらいでしょう。うちから車で二十分ほどの距離ですし」

 千里は隣町のとくに若者で賑わう繁華街だ。

「あなたは昨夜、帰宅後……里穂さんと連絡を取りましたか? あるいは今朝」

「いいえ、帰宅したのは十時近かったですし、楽しんでいるところをわざわざ邪魔したくなかったので。もし、昼間の電話が大事だったら、メールなりメッセージなり残すはずですが、それも無かったので……」

 それがこの夫婦では当たり前なのだろう。お互い過度な干渉をしない。

『豪華な結婚式を挙げたがるカップルというのは、たいてい二人の間がうまくいっていないんですよ』

 八坂真由実の声が久賀の耳に再生された。

「里穂さんがどこにいるか心配じゃなかったんですか?」

 雅季が踏み込むと、安田の喉仏が大きく上下した。

「友人たちと会った夜は翌日昼休みに必ず携帯に連絡が来ましたから。ですから、今日も昼に電話が来ると思っていました」    

「その里穂さんが会っていた友人の名前と住所を教えていただけますか」

 久賀が訊くと、安田裕紀は眼だけを上げた。

「全員はわかりません。その時々で集まるメンバーが違うようでしたから。でも、家内の幼なじみの土屋亮子つちや りょうこは常に一緒でした。住所は……」

 久賀は手帳に土屋の住所を書き留めた。

「あなたは昨夜、帰宅してからずっとご自宅に?」

 安田はしっかりと顎を引いた。

「昨晩、家の近所、または家の中で変わったことはありませんでしたか」

 首を横に振りかけた安田が、ハッとしたように顔を上げた。

「里穂の……家内の車がありませんでした。普段、友人と会う時はタクシーを呼ぶんです。家内は飲むのが好きなので」

「どうしてその夜に限って里穂さんが車で出かけたのか、心当たりは?」

 態度には出さないが、雅季の興味が強く引かれたのがはっきりとわかった。

「もしかして、里穂さんは昨夜、別の約束があった。それで別の場所へ行った可能性は?」

「そうであっても、私には家内がどこに行くつもりだったかわかりませんよ」

 無責任な、と久賀は胸中で思わず声を上げていた。放任主義、と言えば聞こえはいい。だが里穂は夫の安田にそれを求めていたのだろうか?

「里穂さんの車の車種は?」

「メタリックブルーのベンツSL、ロードスター」

 久賀は安田の告げたナンバーも書き留めた。

「里穂さんが昨日、接触されたと思われる人物に心当たりはありますか」

「家のクリーンサービスが週二回来ますが、それが火曜と金曜。庭師が月一で。昨日は誰も来ていないと思います」

「それでも、一応調べさせていただきますので、連絡先を」

 安田はスマートフォンを操り、久賀はディスプレイに現れた情報を全て記録した。

「ありがとうございます。それから、里穂さんのご両親にお話を伺いたいのですが……」

 安田が息をのむ音がはっきりと聞こえた。それでも、彼は震える手でその名前を探し、携帯電話を久賀に差し出した。

「ああ……、そうだ。ああ、ご両親に、なんて伝えたら……」

「あなたと、義理のご両親、つまり里穂さんのご両親とのご関係はどうでしたか?」

「え、どうって……普通ですよ」

 家族間のトラブルを示唆するような久賀の質問に、狼狽を隠さず安田は答えた。

「里穂さんの、あなたとの結婚を理解していなかったとか?」

 安田は渇いた唇を噛んだ。図星だ。

「薬科大の大学院に進んでいた家内が学業よりも結婚を選んだ、休学するように唆したのは私だと、里穂の両親は今でも私を恨んでいます。二人とも里穂の教育には相当熱心だったので。あと、私が彼女の贅沢を許していたのも不満だったようです。夫が妻に自分のクレジットカードを渡してどこが悪いんでしょうね」

 うなだれる安田のつむじを見ていた久賀が、隣からふと気配を感じると、雅季がもの言いたげな目を向けていた。『核心に迫れ』というサインか。 

「あなたは去年里穂さんと結婚されて……」

「まだ一年も経ってませんよ。去年六月に挙式して」

「まだ新婚ですよね。それなのに、里穂さんは夜通し遊び歩いていた。それも幼なじみ以外はあなたも名前を知らない人物と。それについては何も感じなかったんですか?」

「銀行員の一日は長いんです。管理職になると特に。私は妻に貧しい思いをさせるような甲斐性なしには絶対になるつもりはなかった。でも、だからといって、彼女をそんな自分の人生に合わせるような男も最低だと思う。私が帰宅するのをテレビを見ながら待たなくてもいい、そう彼女に言ったのは私です」

 今まで折につけ同じようなことを訊かれたのだろう。安田の答えに淀みがなかった。

「十四歳も歳が離れている里穂さんが、一晩帰ってこなくてもなんの疑いも無かったと」

「信じてますから。疑う必要などないでしょう。疑うなんて自信のない男のすることだ……」

 雅季は彼の顔色から言葉のニュアンスに至るまで注意を集中させている。そのとき突然、安田の身体が強張った。

「まさか……家内は……」

「暴行された形跡はありませんでした」

 安田はソファに沈み込んだ。雅季は続けた。

「実は、発見当時、里穂さんはウェディングドレスを着せられ、先ほど確認していただいた遺体からは、心臓が取り除かれていたのです。――つまり、あくまで推測ですが犯人は里穂さんの過去の交際相手のうちの一人ではないかと。まだ清算されていない男女関係のもつれが引き起こした事件という見方が強い」

 安田裕紀は眼をつむり、天を仰いだ。その打ちのめされた姿は、かなり痛々しい。

「残念ですが、刑事さんの考えているようなことはありません。彼女の交際相手は相当過去のことです。最低でも私と付き合った二年間に彼女を疑うようなことは一度もありませんでした。彼女からも相談もなかったです」

「確かですか?」

「はい」

「里穂さんの写真を見ますか?」

 雅季が立て続けに訊き、久賀が鞄に手をかけると、安田裕紀はそこに答えを探すように久賀をじっと見つめた。ほとんど泣きそうな顔だった。

「はい」

 様々な角度から取られた安田里穂の写真がテーブルの上に並べられると、身を乗り出した安田はまるで石になったかのように動かず、しばらくそれらを凝視していた。 

「お二人は過去にエルフ結婚相談所に行かれてますね。そこの従業員がお二人の仲がうまくいっているように見えなかったと証言していますが。そして、その相談所では決められなかったんですよね。覚えていますか」

 雅季が質問を続けている間に、久賀は写真をしまった。

「ええ、覚えていますよ」

 安田は居心地が悪そうに座りなおし、両手で顔を擦った。

「きっとそれ、断った時かな。申し訳ないけど、あの相談所はこっちの希望よりも、あっちの利益ばかり計算しているというのが見え見えでした。神前式がいいと言っているにも拘らず、『今時流行らない』とか、『招待客はやはり教会の方が喜ぶ』とか、金は出すけど、無駄な余興に出す金はないって言ったら、随分気を悪くしたみたいでしたけど。ああ、だからそんな難癖つけたんですね。じゃあ、その人が犯人では? 恨みがあって……」

「これから捜査が進めば明らかになると思いますが、現時点では証拠不十分ですし、感情だけで犯人の断定は出来ません。それで、当時里穂さんが着ていた服や靴がまだ発見されていないのですが、昨日、つまり最後に里穂さんを見たときに何を着ていたか覚えていますか」

 安田は頬を引き攣らせた。

「パジャマですよ。白地に青い水玉の」

「明日にでも警察が、ご自宅の里穂さんの持ち物を押収させていただきますが」

「構いません」

「携帯電話、パソコンの類いはもちろん、監視カメラは?」

「玄関に一台」

「それでは、そちらも。これが私の名刺です。何か思い出したり、事件に関するものが見つかりましたら、いつでも構いません。連絡してください」

 雅季が名刺の裏に携帯の番号を書き、テーブルの上に滑らせた。細い指に、小さな桜貝のようなつるんとした爪。久賀がこの光景を見るのは今日で二度目だった。

「お疲れさまでした。駐車場で、先ほどの刑事が待っていますので、送らせます」

 立ち上がった安田に久賀は頭を下げ、雅季は携帯電話を耳に当てた。

「あ、ええ、すみませ……」

 異変を察して久賀が咄嗟にテーブルを回り込んだが遅かった。意識を失った安田裕紀の身体は膝から崩れ、床に倒れた。  

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