第2話

「話がつきましたよ。署長と部長、副部長に始関係長と。あと私の上司にも。これで私は、今回の事件で正式に篠塚さんのパートナーです」

 満面の笑みを浮かべた久賀がコートを左腕に、鞄を右手に下げて、一足先に戻っていた雅季のデスク脇に立った。まさか本当に上が承諾するとは思わなかったが、決定は決定だ。雅季は小さな溜め息を吐き、立ち上がると「どうぞ」と正面の根古里の席を指した。隣は青鞍だが、すでに外出していた。

 久賀から受け取ったコートを壁際の自分のロッカーに入れる。さすがに、根古里のロッカーに入れるのは躊躇われた。

 この刑事部屋は隣と独立しており、雅季、青鞍沙武、根古里の机と、プリンターとスキャナが載った四つの机が中央にひとつの島になっている。窓を除く三面の壁際にキャビネット、ホワイトボード、ロッカーが設置されていた。

「コーヒー飲みますか? エスプレッソを……ダブルで?」

 雅季が訊くと、椅子に手をかけたまま立っていた久賀は、親指、人差し指、中指の三本を上げてみせた。

「トリプルで」

 きちんと爪の切られた長い指だ。雅季は一瞬見とれたが、すぐに隣の部屋へ行き、総務の絹田きぬたロナにコーヒーを頼んだ。

「被害者の身元が分かりました。やはり、タウン誌の方から割り出せました」

 ロナが持ってきたコーヒーに久賀は早速口を付けた。

安田里穂やすだ りほ二十五歳。住所は鴨居郡茶屋町。今、別の班が被害者の夫と安田里穂の両親に連絡を取っています。そろそろ鑑識から結果が来るはずですが……あ、きました」

 久賀が隣の青鞍の席に移動し、椅子を近づけた。真横から爽やかなグリーンノート系の香りがする。雅季は、自分のパートナーが根古里ではないのをはっきりと自覚し、急に居心地の悪さを感じた。やりにくい。自分の椅子をずらし、久賀となるべく距離をとる。

「まだ現場と被害者の写真だけですね」

「捜索願は出てましたか?」

「出てないから照会に時間がかかったんじゃないですか」

「ですよね」

 その時、ドアが開いて書類を手にした青鞍が入って来た。久賀を見て、目が一瞬見開いたが、彼は静かにドアを閉めた。

「久賀検事、お疲れさまです。聞きましたよ、っていうかもう署内みんな大ショックですよ。本当に捜査に加わるんですか?」

 ――この子、『大ショック』って言った……。署内みんなって言った……。

 後輩が無意識に口を滑らせたことに雅季が愕然としている横で、久賀は意に介さず「本当ですよ。よろしくお願いします」と頭を下げた。青鞍も姿勢を正して礼で応えている。青鞍沙武あおくら さむ、二十七歳。中肉中背だが、正真正銘の体育会系だ。体脂肪率五パーセントを誇り、普段も身体の線が出るようなスリムなスーツを好んで着ている。顎が逞しく、彫りの深い顔に短い髪を立てたヘアスタイルが爽やかだ。今まで風邪で欠勤したこともないはずだ。

「こちらこそ、お手柔らかにお願いします」 

 そして、声が大きい。

 ――お手柔に、か。

 雅季は真横の整った顔を盗み見た。今回久賀が捜査に直接加わるとなると、自分はともかく、他の警官たちにとってかなりやりにくくなるはずだ。検事が警察にしゃしゃり出てくるというのは、ベンチに座っているはずの監督が、自らバッドを握ってバッターボックスに立つようなもの。捜査会議以外はなるべく、この刑事部屋で捜査を進めるのがベストだろう。

「あ、被害者の載ったタウン誌の記事持って来たんですけど。これです」

 差し出されたものを受け取り、付箋のついたページを開く。B5の紙面8ページ。問題の『ウェディングなう』は紙面の半分を割かれていた。

「写真もカラーって気合い入ってますよね。担当さんに聞いたんですけど、このコーナー、結構人気あって応募数かなり多いらしいですよ。自分も応募してみようかな」

「青鞍さん、結婚の予定ありました?」

「え、彼女と別れたばかりですがそれがなにか」

 青鞍は真顔で答え、雅季から根古里の席に視線を移した。

「あ、自分は全然会えないからって、振られちゃったんですけど。でも、もう仕事に生きます! 篠塚さん、さっさと検挙しましょう! 行ってきます!」

 青鞍が出て行ったあとは部屋の温度が一気に下がった気がする。

 雅季は机に広げた誌面に目を落とした。

「私にも見せてくれます? それ」

 久賀がぐっと身を寄せ、肩と肩が触れる。

「ち、ちょっと、検事……」

「だって、篠塚さんが持っていたら見えません」

 久賀が雅季の手の下のタウン誌を引っぱり、二人の間にずらした。

「二十五歳にしてはけっこう大人びてますよね」

 久賀の漏らした感想に、雅季も頷いた。

 新婚旅行の写真らしい。ヤシの木と白い砂浜のビーチを背景にしたものだ。新郎が、前に立った新婦に腕をまわしている。写真の枠外に「幸せいっぱいの安田里穂やすだ りほさん、安田裕紀やすだ ゆうきさん」とテキストが入っている。日付は去年の七月。二人の結婚はその前ということになる。半年以上も前の記事をよく始関は覚えていたものだと、雅季は密かに感心した。

 黄色いパレオ姿の安田里穂の容姿は、発見された死体とほぼ一致していた。逆三角形の輪郭に、パーツは小振りだが整った顔立ち。ただ、親族の身元確認をしてもらわないことには断定は出来ない。一方の安田裕紀は卵形の顔で優男ふうだが、濃い眉毛の下の大きな黒い瞳から意志の強さが伝わってくる。タンクトップ姿の日に焼けた身体は引き締まっている。髪型は、サイドが短めでトップがやや長い。今時のスタイルを意識しているのだろうが、「どう若く見せてもアラフォーかと。歳の差婚ですかね」雅季が思っていたことを久賀がそのまま呟いた。

「女性の年上フェチ、って多いみたいですよ。甘えさせてくれるとか、細かいことで怒らないから喧嘩にならずに楽、とか。まあ、経済力があるというのが一番の魅力らしいですけど」

「篠塚さんも、年上が好きですか」

 雅季はその質問はセクハラかパワハラか両方かと一瞬考えたが、まだイエローカード一枚だろう。ここは大人の対応で適当に切り抜ける。

「年齢で人を好きになるってことはないんじゃないですか。それに、そもそも恋愛って楽するものなのでしょうか」

 ――わからないけど。そもそも恋愛自体が。

「彼氏いますか」

 これは完全にレッドカード。事件と全く関係のない話だ。

「黙秘します。セクハラですよ、久賀検事」

「そうですか? 私は違うと思いますけど。大体、これだけじゃ起訴するにも証拠不十分で立証できませんよ。もっと露骨にやられないと」

 雅季が久賀を睨むが、机に肘をついた手に顎を乗せた相手はなぜか嬉しそうだ。

「彼氏がいるかいないか、私に知られたくない理由でもあるんですか?」

「プライベートにあまり触れられたくないだけです。久賀検事だって、私が個人的なことを根掘り葉掘り聞いたら嫌じゃありませんか」

「いや、全く問題ないです。むしろパートナーとしてお互いを知ることは必要かと」

 雅季は久賀から逃げるように慌ててデスクトップのモニターに目をやった。そうだ、写真から不審な点を見つけて話題を変えよう。そう思ったとき、デスク上のスマホが鳴った。久賀の視線を痛いほど感じながらそれを耳に当て、短いやり取りのあと、久賀に向いた。

「安田裕紀と連絡がとれました。会社にいるそうですが、今、迎えに行ってます。これで身元の確認が出来ます」

「彼はH大学病院に向かっているんですね」

「そうです」

「彼は重要参考人ですが、被疑者のリストにも載りますね」

「もちろん」

 久賀の声が硬い。捜査が本格的に動き出した。雅季も久賀の緊張を肌で感じ取りながら、安田裕紀が到着するまでにやるべきことを考え始めた。そこに、再び部屋に入って来た青鞍が「篠塚さん」と低く呼んだ。

「結婚相談所の二人、来ました」

 手帳を開き、読み上げる。

「社長、八坂真由実やさか まゆみ、五十歳。社員が新庄しんじょうさくら、三十二歳です。あと学生バイトが一人いるようですが、彼女は海外旅行で三日前から休みをとっているそうです。現在もまだ国内にはいません」

 雅季が頷くと、青鞍は続けた。

「経営者の八坂は十年前に、勤めていた大手の結婚相談所から独立し、現場の住所に起業したそうです。夫、子供二人の四人家族。新庄は五年前にパートで雇われ、去年から社員になっています。夫の間に子供が一人。二人とも動揺していますが、とくに怪しい様子はありません」

 雅季も同意だ。経営者がわざと店を潰すようなことをするだろうか? 百歩譲って、もし、新庄が八坂に恨みを持っていたとしても、子供を持つ主婦が殺人をしてまで嫌がらせをするとは考えにくい。仕事を変えればいい話だ。

「他には?」

「地取り班によると、近辺からも相談所について噂とかそういった類いのものはないですね。経営自体は悪くないようです。近隣に競合相手もありませんし」

「マル害(被害者)との接点は? 安田夫妻の結婚式をそこが引き受けたのですか」

 久賀が静かに割り込んだ。雅季は慣れない声音に振り向いた。椅子に凭れて腕を組んだ久賀の表情は神妙だ。

「いいえ、それはないそうです」

「場所は?」

「二人とも第一会議室です。分けますか」

 この場合、答えるのはいつも警部補の根古里だった。でも、今彼はいない。新しいパートナーの目は「任意」と言っていた。

「一緒でいいです。取り調べじゃありませんから。すぐに行きます。それから、安田裕紀が来たら教えて下さい。被害者の両親へ連絡と聞き込みのほうも引き続きお願いします。とにかく、情報を集めて」

「わかりました」

 青鞍が消えると、雅季はパソコンの電源を落として席を立ち、写真のファイルを手に取る。

「行きますか」

 久賀が立つと雅季の視界に影が射した。せつな、恐怖に襲われた。あの時のことが蘇り、悪寒が走った。

「どうしました。緊張してます?」

 気遣わしげな声が落ちてくるが、顔を上げられない。久賀ではなく、あの男の顔――もう真っ黒に塗り潰されたはずの――を、そこに見てしまいそうで。

「だ、大丈夫です。早く行きましょう」

 ドアに視線を定めながら、足早に久賀から離れる。ドアの前で雅季よりも一足早く久賀が後ろからノブを掴んだ。思わず息をのむ。

「さっきの、付き合っている人がいるかいないか教えてくれなければ、私の方で勝手にいないことにしますが、いいですか」

 レッドカードは二枚出せるのだろうか。咎めるつもりで肩越しに見やると、なぜか久賀は満足げに頷いた。意表をつかれ反撃のタイミングを逃した。

「それに、これは私の仕事です」

 久賀がおもむろにドアを開ける。彼の言葉の意味を理解するのは後回しだ。


 雅季と久賀が会議室に入ると、並んで俯いていた二人は揃って顔を上げた。

 明らかに年上の八坂はやせ形で、紺色のスタイリッシュなスーツ、襟元にレースのついた白いカットソーを合わせていた。若者を意識しすぎたメイクが残念だ。新庄は全体的に小柄で、ややふくよかな体つき。黒髪を後ろでひとつに結んでいる。グレーのリクルートスーツに、薄いピンクのブラウス。ナチュラルメイクの顔は、やや青ざめて見えた。

 二つ向き合わせた机を挟んで二人は座り、雅季が参考人の名前を確認してから、「鳴海東署捜査一係の篠塚です。こちらは久賀検事」と、自己紹介後に単刀直入に切り出した。

「先ほど、青鞍から事件の概要を聞かれたと思いますが」

 八坂はゆっくりと首を縦に振り、新庄は再び机に視線を落とした。

「私の事務所で死体が見つかったなんて……」

「被害者はウェディングドレスを着せられ、ショーウィンドウに飾られていました」

「どうしてそんな……」

「それを我々が全力で捜査中です」

 雅季はこのセリフが嫌いだった。これを口にする時はまだ捜査に進展がないことを意味する。

「それで、警察はお二人の協力が必要です。この写真を見て、気付いたことを教えて下さい。例えば事務所内に変わったところがないか、物が盗まれているとか、破損しているとか、そう言った小さなことでいいので」

「もちろんです」

「被害者の写真を見ていただいても?」

 参考人二人はそこで初めて顔を見合わせた。短いアイコンタクトのあと、「はい」と、新庄が答えた。

「この女性に見覚えはありませんか」

 雅季が机上に置いた写真に二人は顔を寄せて見入る。

「実際にお会いした時とは印象が違いますけど、この方、相談に来られました。名前は……」

 さすがにショックなのか女経営者の頬が微かにこわばっている。

「安田里穂さん」

「いえ、名字は……ミスミとか、ミカミとかすみません、かなり前のことで。でも、名前は里穂さんというのは確かです」

「三角です。つまり、八坂さんは被害者の安田さん、当時の三角さんををご存知なんですね」

「ええ、いえ……」

 雅季が眉をひそめると、八坂は慌てて手を振った。

「確かに安田さん……ですか。当時はまだ旧姓でしたけれど、お二人はきましたよ。でも、結局うちではなく別のところで決められたんですよね」

「それは残念でしたね」

 雅季の言葉に八坂は大きく頷いた。

「まったく騙されたっていう思いですよ。うちに頼むようなことを言っておいてですよ。こちらだっていろいろプランをご提案させていただくじゃないですか。リサーチにも時間がかかるんですよ。他社のオプションと比較して見積もったり……それなのに、ねえ」

 当時の煮え切らない思いを蘇えらせた八坂は、久賀が口を挟むまで、安田への愚痴と女手一つでやってきた業界の苦労を話し続けた。

「その場合、告訴することもできますよ」

 話を中断された八坂は、我に返って久賀を見た。その顔が恥ずかしそうにはにかんだのを、雅季は見逃さなかった。

「あの、そんなつもりじゃ……。うちみたいな小さいところですと、きめ細やかなサービスをモットーに頑張っているんですけれど、さんざんご紹介させていただいた後に、あっさり断られるとさすがにこちらも煮え湯を飲まされたって気がしましてね。でも、だからといって、お客様を訴えたなんて噂が広まったら、それこそ誰も来なくなりますから」

 一気に話し終わると息を吐く。

「大変ですね」

 久賀の同情の声音に女経営者は目元を緩めた。

「そうですよ。これで新しい事務所を探すはめになりましたしね。今の場所の契約もまだ残っているのに……」

「心情お察しします。あの、あと、こちらも見ていただきたいのですが」

 久賀に向いたままの八坂が再び口を開きかけたとき、雅季は彼女の前に事務所の写真を差し出した。八坂が姿勢を正して写真を見ている間、同じようにそれを横から覗き込んでいる新庄さくらを観察する。警察の事情徴収という状況に緊張しているのか、表情は硬い。彼女は雅季たちが部屋に入ってから本人確認以外まだ言葉を発していない。

「それでは、この写真では事務所には特に変わったところはないと」

 二人は、しばらく写真に落としていた視線を上げた。先に答えたのは八坂だ。

「ええ。私はそう思いますけど。ね、新庄さんも何か気付いたら話していいのよ。私に構わないで。あなたが話さないと、私が疑われちゃうわ」

 新庄さくらは「え、あ、はい」とこくこくと頷き、「変わったとこはありません」と小声で言った。雅季は広げていた写真を仕舞い、二人に向き直った。

「では、最近相談に来られた方で、不審に思うような人物や、電話はありませんでしたか? 結婚相談に関係のない問い合わせとか」

 八坂はしっかりと首を横に振る。

「なぜそんなことを?」

「店舗入り口にはセキュリティ会社のシールがありました。でも、店内には監視カメラの類いはなく、裏口の鍵が開けられていました。犯人はそこから死体を中に運んだと思われます」

 ああ、と八坂真由実は気まずそうに視線を泳がせた。

「でも、シールを入り口に貼るなんて、よくある話でしょう。うちも最初の頃はちゃんと管理会社に頼んでいたんですよ。でも、維持費が本当に高くて。なにもなくても、払わなきゃいけないんですからね。でも、シール一枚でも自己防衛の範囲じゃないですか?」

「私の質問は、犯人がそれを知っていたのではないかということです。となると、業者や普段出入りしている人間の犯行という線もでてきます。誰か心当たりはありませんか。空調の点検とか、リース、ガスや電気、水道関係の業者あたりで……」

 八坂は隣の新庄の顔を覗き込んだ。新庄は弱々しくかぶりを振る。

「全く思い当たりません」

 雅季は横目で久賀見た。腕を組んだまま、彼もゆっくりと首を振った。質問は無し。

「ありがとうございました」

 雅季は名刺入れから二枚抜き、それぞれに渡した。

「もし、何か思い出したらいつでも連絡をください。私ではなく、署員に伝えていただいても構いません」

 刑事から名刺をもらうのは初めてなのだろう。二人とも珍しそうに手に取った。

「ご苦労様でした」

 久賀がドアに向かう二人に声をかけたとき、ふと八坂が立ち止まり、振り向いた。

「私が刑事さんの立場でしたら、まず旦那さんを疑いますね。別に、恨みとかではなくて」

 雅季と一瞬視線を交えた久賀が、訊ねた。

「なぜ、そう思われるのですか」 

「私、この業界は長いのでたくさんのいろいろな方を見ていますが、豪華な結婚式を挙げたがるカップルというのは、たいてい二人の間がうまくいっていないんですよ。どちらかの愛が冷めかけているとか、ここでひとつ盛り上げようってことなんでしょう。安田さんはその典型でしたね。『金に糸目はつけない』って雰囲気が。ずいぶんと派手な式をご希望でしたよ」

 八坂はやっと肩の荷が下りた、というように目だけで笑い、久賀に向いた。

「あの、そちらの検事さんの名刺はいただけないんですか?」

 

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