第10話 僕、ティーナちゃんの過去を知る。

 気を失っていたのだろうか。

 多分そうだ。

 突発的にそう感じる。意識が沸き上がると同時に、僕は目を開いていた。気を失っていたと感じるのは、ここが見た事もない場所だったからだ。


 いや、違う。見た事はある。ざわざわとした声。多く目につくのは家族連れか。子供じみた音楽が常に聞こえてくる。ここはどこかのショッピングモールのワンフロアだ。しかしショッピングモールだという事は理解できても、何故そんなところにいるのか、ここがどこのショッピングモールなのかはわからない。子供の玩具売り場という事は何となくわかる。


 ただ気を失って横になっていたのはわかった。

 何だ、何があった。

 横になっている人間を、僕の事を誰も見ていないというのもまた異様だった。

 ショッピングモールで倒れている人間なんて注目の的だろう。それを気にしないという事は、……どういう事なんだろうか?

 僕は立ち上がった。だけどクラクラする。

 痛みはまだ消えていない。


 とにかくベンチだ。ショッピングモールならベンチくらいあるだろう。トイレや自動販売機がある場所に同時に敷設されているハズだ。

 僕はショッピングモールの端を歩いた。

 頭はまだ痛む。ベンチの近くまで必死に歩を進めた。

 そこはショッピングモールの陰に隠れたような休憩場だった。自動販売機があり、トレイがある。緑色のベンチがあった。

 緑色のベンチには先客がいた。見た事は何故か、ある気がする。だが記憶にはない。緑色のベンチに座っていたのは、まだ小学生にもなっていないような子供だった。


 女の子だ。ベンチに座って足をプラプラとさせている。とても簡単な白いワンピースを着ている。親はいないらしい。というより親を待っていると言ったほうが適切なのか。彼女は何かを待っている様子だった。

 突然、頭がさらに痛みだした。

 何だ? 何かが来る? 


 それはだけは何となくわかった。

 後ろを見た。

 平然とそこに歩いていたのはフリーターのような男だ。二〇代後半くらいだが、スウェットを着用してだらしない。これもまた異様な姿だった。

 頭の痛みが最高潮に達した。耐えられない。僕の脳は焼き切れてしまう。冷静にそう分析してしまえる程に、僕は焦っていた。終わったと思った瞬間と同時に、頭の激痛がなくなる。全てを終えたマラソン選手のような脱力感で僕はまた、倒れた。

 その刹那だった。

 子供の声が脳内に直接聞こえたような気がした。

 その声の主が目の前に座る女の子の声だと何故か直感的に分かった。

 僕はその女の子に視線を向ける。向こうは僕の事を全く気にしていないだろう。だがそれでも彼女の心の声のようなものは聞こえ続けた。


◇ ◇


 松村栗栖まつむらくりすはショッピングモールのベンチで母親を待っていた。

 足をプラプラさせているのは、母親が来るまでの怖さを和らげる効果に一役を買っているのだろう。彼女は母がいない恐怖を消す為に、何とか楽しい気分でいようと努めていた。


 栗栖の母親はパンツのすそ直しが終わったからと、二階の服屋に行ってしまった。だから栗栖は待っている。けれど彼女は歩くのは怖いから嫌だ、とダダをこねたのを今はもう後悔している。親がいない。たった一人の時間がこれほど怖いとは思わなかった。


 そもそもショッピングモールに来た事すら後悔していた。だって栗栖は子供の玩具売り場に興味はない。分からないからだ。玩具が。まだ音が出る玩具ならば興味がない訳ではない。

 しかし、にどんな玩具が必要なのだろうか、母は気分転換だと言ったが、そんなに良い気分にはならない。彼女は外が怖かったのだ。もちろん手術をすれば目が見えるようになると言われている。それも後一歩のところまで来ているらしい。ただ外に出たいかと問われれば、わからない。やっぱり怖いのだ。外は。


 彼女は母親に早く帰ってきて欲しい一心で、ベンチで座っていた。

 そんな時、彼女の耳に足音が聞こえてきた。多分男の人だという事はわかる。足音が違うのだ。よって母ではない。ならば父が迎えに来てくれたのだろうか、と期待する。母がどこかに用事がある時は、父がたまに側にいてくれる。母は父に連絡してくれたのだ、と栗栖はそう胸が高まった。


「こんなところで何をしているの?」

 だが声が違う。父の声ではない。父なら自分の顔と同じ位置から声が聞こえてくる事が多い。それに何かを離す前に「あー」とか「えーと」とかを付けてくれる。今から話しますよ、と伝えてくれるのだ。


 だがこの人は違う。父でも、自分の知っている誰かでもない。栗栖は声の聞こえた方向に顔を向けた。見えたのは赤い光を覆う、巨大な影だった。つまり大人の男の人だ。母親から知らない人としゃべってはいけません、ときつく教えられている栗栖はその男の人に向かって返事をした。


「……知らない人は喋ってはいけませんと、お母さんに教わっています。……だから喋れません。……ごめんなさい」

「オジサンは知らない人じゃないよ。お父さんの親戚のオジサンだよ。ほら、声とか覚えてないかな?」

 声? そう言われても栗栖には聞いた事のない声だった。栗栖はそれでもその親戚のオジサンが『声』と言ったことに少なくとも、自分の眼を知っている人なのだと理解した。


「……ごめんなさい。……覚えてないです。……せめて私の眼が見えていれば、顔、とか覚えられていたのかもしれません。……その、だから、ごめんなさい」

「……眼? ああ、眼ね。……声はそうだね、会ったのは小さい頃だったから覚えてないかもしれないね」

「……ごめんなさい」

「そんなに謝る事はないよ。オジサンは優しい人だから、そんな事で怒らないよ。それより、お母さんとお父さんは? 何で一人でいるの? 眼が見えない君を置いて」

「……お父さんは来てないです。……お母さんは、服屋さんに行きました」


 そこで親戚のオジサンは「うーん」と父が何かを考える時と同じ声を出してくれた。オジサンはこれから話しますよ、と伝えてくれているのだ。

 親戚のオジサンは栗栖に向かって、じゃあ、と言葉を作った。

 栗栖はその先の言葉を期待した。ここで一人でいるのは不安だ。自分の事を少しでも知っている人がいるなら、そのほうがいい。

 親戚のオジサンが続けた。


「じゃあ、オジサンと一緒にお母さんを探しに行こっか」


 誰もいないここには、恐怖しかない。

 栗栖には断る理由がなかった。


◇ ◇


 松村栗栖というのは、仮の名前だったらしい。

 栗栖の本当の名前はクリスティーナ。ピコリン星から来た王女だったと知った。栗栖を連れだしてくれたのは、ピコリン星の王子・ハオル様という名前の人だった。

 その事実を知ったのは、栗栖がハオル様のマンションという名の王室に連れてこられた晩の事だった。


 ハオルはこうも言った。

「君の面倒を見ていたのは、悪い奴らなんだ。君にお父さんとかお母さんと吹き込んでいただろう? 彼らはね、そんな存在じゃない。もっと悪い奴らで、君を騙そうとしていたんだ。君を誘拐したんだ」


 初めは嘘だと思った。

 だが五年が経った今、それが本当の事だとわかった。眼が見えてなくたってわかる。栗栖の生活している王室から、栗栖は出なくてもよい。外は怖いところなんだと、ピコリン星では思われているからだ。それにハオルや、臣下のグリューネが良くしてくれる。グリューネは時々、面倒臭そうに私の相手をするが、それでも食事をちゃんと持ってきてくれたり、ハオルがいない時に遊んだりもしてくれた。勉強なんかも見てくれる。ほとんどは何かの本の読み聞かせだったが、グリューネができるだけ丁寧に読んでくれるのは、単純に嬉しかった。


 ハオルが忙しくなったのは知っていた。栗栖を救い出してくれたその数日後から、夜だと思われる空気がひんやりとする時間まで帰ってこなくなった。どうやら他の星との会議なんかがあるから、なかなか帰れないそうだ。でも、ハオルが時々持って帰ってきてくれるアイスクリームは、栗栖の大好物になっていた。不安になった時には、それをいつも食べる。そうすれば頭がひんやりして、少しだけ落ち着くのだ。


 そんな事が五年も続いたある日の事だった。

 グリューネが私を抱きしめて急に泣き始めた。

「……ごめんなさい。……ごめんなさい」

「どうしたのですか、グリューネ。私(わたくし)はグリューネに謝られる事なんてされておりませんの」

 この言葉遣いはハオルから教えてもらったものだ。昔はなんと汚い言葉遣いをしていたのだろう。王女たるもの、このくらいの言葉遣いはしなければならないのだと教えられた。確かに栗栖とグリューネの言葉遣いは全く違っていて、身分の差はハッキリとわかるものだった。


 だが、そんな私の言葉を聞いてもグリューネの抱きしめる強さはきつくなるばかりで、噛み締めるようにごめんなさいは止まらない。

「本当に、どうされましたの、グリューネ? 私はグリューネのおかげで、こんなに素晴らしい生活を送っているのですよ。グリューネは勉強も教えてくれるし、遊んでくれる。私が女王になった時は必ずグリューネを側におきますわ。感謝しているんですもの」

「……ごめんなさい。……警察に行きましょう。……本当はもっと普通に暮らせるハズだったのに、こんな事をしてごめんなさい。……ごめんなさい」


 その後、栗栖はグリューネと一緒に警察に行った。車に乗っている間、グリューネはピコリン星ではない、日本という国の話をした。だが何故それを自分に伝えるのか、栗栖にはわからない。もう行く必要のない国の話をされても、困惑してしまう。それに警察は悪い事をした人が行くらしい。グリューネもハオル王子も悪い事をしていないのだから、何故そんなところに行かなればならないのか、彼女には全く分からなかった。


 そして警察署に着いて、栗栖は保護された。保護というが、何から保護されたのかよく分からなかった。朱鷺ときのようにお友達の少ない動物が保護される事は知っていたが、自分が保護される理由に心当たりがなかった。

 ただグリューネの声が警察の人と話している言葉を聞いて、何かが壊れるような気がした。グリューネはこう言ったのだ。


「もう一〇歳になったのに、まだ空想の中に生きていて、お姫様ごっごをしていのると、本当なら父親と母親と一緒になって遊べるのに、それもできないこの子が可哀想になったんです。悪い事をやったのは認めます。申し訳ございませんでした」

 栗栖はグリューネが謝っているのを聞いて、自分も悪い事した気分になった。もうハオル王子とは会えないのではないか、とそんな気分になった。


◇ ◇


 眼の手術は成功した。おおよそ一年かかった。

 だから栗栖が行った初めての学校は小学五年の教室だった。

 目の前に広がる光景に違和感を覚えた。そこは一般庶民のような人が沢山集まっていて、みんなで笑いあっている。勉強もしている。しかし自分がいるべき空間ではないと思えた。


 栗栖の担任の先生と呼ばれた人にきいてみる。

わたくしにもここで生活しろというのですか? 臣下は? お付きの人間はどこにいますの?」

 この話し方は母と呼ばれる女性にやめて欲しいと言われたが、栗栖はこれこそ王女の証なのだとして、捨てなかった。自分はこの話し方こそ正しいのだ、そう思ってやまなかった。それに入院している時も、看護婦と呼ばれる人達は皆、普通の話し方をしていたから、自分は王女のなのだと確信できた。


 だが担任の先生は栗栖を王女として扱う気はないらしい。

「臣下も、お付きの人もいないの。栗栖ちゃんはここでみんなと一緒にお勉強するの。これから色々困る事もあると思うけど、ちゃんと先生が力になるから、一緒に頑張りましょうね」

 栗栖の名前はクリスティーナだと訂正しようと思ったが、どうせ民草の言う事だ。気にしない事にした。それに国も違えば、星も違うのだ。相手をしようとも思わない。自分の相手ができるのは、グリューネとハオル王子だけだ。早く二人に会えないかな、と窓の外を眺めながら思った。


 それから一般庶民らしい人間たちに混ざって勉強をした。

 栗栖が『知恵遅れ』というあだ名を頂戴ちょうだいするまでしたる時間はかからなかった。


◇ ◇


 小学六年の時に母から大量の参考書を渡された。

 家庭教師もつけられ、今までの遅れを取り返すのよ、と母は躍起になっていた。結果として私立の中学にいける運びになった。


 その頃になると栗栖はピコリン星が存在しておらず、自分も王女ではない事も理解していた。ハオル王子は誘拐犯だったし、グリューネがその母親だというだけで栗栖とは何の関係もない人間だというのも意味としては理解できていた。

 母が教えてくれたのだ。母は何度も栗栖に、まだ取返しがつく、まだ普通の家庭に戻れるの、と告げていた。栗栖はその言葉を聞く度に、その言葉自体が栗栖に向けられた言葉ではない事が何となく理解できていた。


 だからと言って母を困らせる訳にもいかない。家に住ませてくれているし、ごはんも食べさせてくれる。とにかく母の言う通りにして、私立の中学にいく事にした。

 私立の中学に行って良かった点は栗栖の過去やあだ名を誰も知らない事。人間関係はリセットされていて、学校生活が過ごしやすい事は間違いなかった。

 話し方も仕方なく変えた。時々、王女らしい言葉になる事もあったが、努力はしていた。でも、一番良かった事は友達が少なからずできた事だ。他の女の子と初めて普通に昼食を食べられたのは得難い経験だと彼女なりに思えた。

 だがそんな期間は長くは続かなかった。


 入学して初めての夏休みの事だ。クラスの女の子たちと夏祭りに行った。その夏祭りは規模としてかなり大きく、テレビの取材が来る事だってあった。

 その時、街角インタビューを受けたのが事の始まりだった。テレビに映ったのは自分の顔だった。栗栖は何も思わなかった。鏡で見ている自分の顔だ。でもテレビに出た事がほんの少しだけ嬉しかった、とそれくらいだ。


 SNSは違った。

『世界一カワイイ一三歳』『この子の将来、楽しみすぎ』『外人?』『ペロペロしたい』『ホントに一三歳かよ。あり得ないだろ。この子のいる中学に忍び込みたい』『可愛すぎだろww 草生えたわww』


 半分以上は冗談の重ね合わせだっただろう。情報はインターネット上を駆け巡り、大きなトピックになった。

 次の日からずっと男の子から告白され続けた。「好きです。付き合ってください」メールをもらった事もあった。「好きです。付き合ってください」電話を貰った事もあった。「好きです。付き合ってください」どれもこれも同じ言葉なのは、何故なのか。栗栖には何となくわかった。彼らが好きなのは、栗栖ではなく、栗栖の容姿と話題性なのだ。周りがカワイイというから、彼らは栗栖の事がカワイイと思った。それだけの話なのだ。


 その程度で終わってくれるなら問題はなかった。男の子には嫌気が差したけれど、自分がイヤラシイ目線で見られるくらいならまだ耐えられた。

 だが机の上が刃物でギタギタに刻まれている光景には、耐える事ができなかった。見たくもない言葉が書かれている。そういえばネット上で自分の経歴の一部が暴かれていた。それを見たのだろう。こんな事をするのは同性だ。明らかだった。それに目星も大体ついている。クラスの女王格として存在する子だろう。多分、自分よりちやほやされる人間がいる事が気に入らないのだ。

 机の件に耐えられなかった栗栖は、その子のところに行った。ニヤニヤと笑っている何人かに、何故、こんな目に合わなければならないのかと思うと同時に、言ってやった。


 言葉は自然と元の言葉に戻っていた。

「私の容姿が優れている事を恨む前に、自分がブサイクに生まれてきた事を恨みなさい。筋違いもはなはだしいですわ」

 ケンカになった。それも取っ組み合いの。その日の放課後に母が学校に呼び出された。向こうの女の子の親は呼び出されなかった。机をギタギタにしたのが、誰かなんてわからないからだ。結局暴力沙汰になった栗栖だけが取りざたにされ、母が何度も謝る光景を目にした。自分は確かに暴言や暴力を振るったのかもしれない。しかし母が謝る理不尽にはもっと耐えらなかった。違う。母が謝る事がそのまま栗栖の否定になるとしか思えなかった。


 それから母は何度も呼び出された。栗栖は別に悪い事はしていない。起こる理不尽に抗っただけだった。それは世間的には悪い事なのかもしれないというのは、理解していない訳じゃなかった。

 だからなのか栗栖の言動はキツくなる一方だった。栗栖自身、その事にも嫌気がさしていた。なのに男の子からは相変わらず告白され続けた。どうやら本当に容姿と話題性にしか興味がないらしい。

 友達はいなかった。友達は書物だけだった。


◇ ◇


 父と母はどうやら離婚したらしい。

 ある日を境に父は家に帰ってこなくなった。母に愛想を尽かしたのではなく、栗栖の相手をこれ以上できないという事が大きい理由だったようだ。

 高校生になると、母は働くようになった。スーパーでレジ打ちをしているところを見た事があった。


 栗栖は大量の時間を本に費やした為、頭は悪くはない。エスカレーター式だった中学は抜け出して、全く違う高校に入学できた。入学金とかが、かなりの負担になっている事は理解していた。その事がとても居心地が悪い。血は繋がっていても他人なのだ。それも幼少期を共有しなかった他人だ。


 人間はおおよそ五歳までに神経系の八〇パーセントが形成される。その時にその人間の大枠が決定され、その後五歳から一二歳までの間に神経系が一〇〇パーセントまで形作られる。人間はその八〇~一〇〇パーセントの間だけ、技術の『即座の習得』が可能となる。つまり人間としての『ゴールデン・エイジ』を迎える事となる。

 そしてその時に技術を得た自信が、後の性格に影響するらしい。この時、最も大切なものは、子が自発的に行動する為の親からの働きだそうだ。


 栗栖は五歳から一二歳の間でどんな技術を習得し、どんな自信を得たのか。クリスティーナとして過ごして五年。栗栖としては二年だ。親から、仮にハオルとグリューネから得たものと言えば、王女という妄想くらいだ。

 調べた事を後悔した。後悔して、嫌になって、最終的には開き直った。


 自分は栗栖として生きる事が正解なのではなく、クリスティーナとして人生を終える事が正解なのだ。眼を閉じれば今でも、妄想の世界がそこには広がっていた。そう思えた次の日から、言葉遣いを戻した。私服もどこのお姫様が着るのかという、衣装ばかりを着用した。ゴスロリと言われるのは嫌だったからそういうのは避けた。あの辺の人種と一緒にして欲しくない。


 その頃から、母の小言が多くなった。仕事が終わり、家に帰ってきてお酒を飲んでブツブツと何か言っていた。普通の家庭だったハズだった、とか、幸せになれるハズだった、とか。もう嫌だ、と半分くらいヒステリックが入ってるのだろう。それでも食事はくれたし、栗栖が言葉遣いを戻した事にも何の言及もしなかった。母は他人だとしても、母であろうとしてくれた事に感謝できた。


 同級生は学年きっての変人として扱ってくれた。小学生の時と中学生の時の人間関係をリセットできた強みだった。相も変わらず言葉はキツかったから、女の子の友達はできなかった。でも、男の子の友達はできた。彼らにとっては、栗栖の容姿と身体はとても価値があるものなのだろう。栗栖の体はあまり成長しなかったが、それでも良いという人種は多くいた。


 胸を少し触らせてあげたり、少しイヤラシイ言葉を発してあげたら直ぐに友達になってくれた。それは栗栖にとって唯一のコミュニケーションを取る方法だった。それしか知らなかった。


 でも処女だけはあげなかった。あんな奴らにくれてやる処女性はない。結局のところ、お国も違えば、お星も違うのだ。任せる身などない。


 ある夜。栗栖は遊んで帰ってきた。別に遊びたい相手ではなかったが、母と一緒に家にいるというのも少し億劫(おっくう)だったのだ。母はもう小言ばかりだったし、まともに話もできなかった。


 だから帰ってきたのは夜一一時か一二時だったと思う。冬だったのが特に僥倖(ぎょうこう)だったのだろう。寒さとは何とも得難い自然の恩恵なのだ。

 首を吊って死んでいた母の死体は特に腐っていなかった。

 顔だけは苦しみで歪(ゆが)んでいるものの、綺麗なままで死んでいけたのだ。母には掛ける言葉もなかった。とにかく警察に連絡をしないといけないので、連絡だけはした。


 その間、涙は一滴も流れなかった。そこで栗栖は理解した。涙とは慰(なぐさ)めてくれる相手がいて、初めて流す意味を持つものなのだと。

 その後、警察を待つ事も面倒になった栗栖は夜の街へと飛び出した。

 黒い服の男に出会ったのは、その時の事だった。


◇ ◇


 僕のまだ頭が痛む。

 痛いというより、熱い。本当に何なんだ、これは。全身も痙攣してきている気がする。痛みがなくなり、全身が弛緩した瞬間に、一つ気が付いた事があった。これは、電流だ。板垣の言っていた電流とは違うかもしれない。詳しい事は全く分からなかったが、これが電流だという事が何となくわかった。

 

 しかし僕は何を見せられたのだ。

 見ていた映像が誰の過去かなんて考える必要は皆無だろう。

 答えなんてきっと一つしかない。

 だけど、どう思考しても矛盾している。あり得ないのだ。

 ティーナちゃんの過去の内容が、ではない。

 その映像自体が、だ。

 だって普通は同じだと思うだろう。同じで、前後なんてしていないのが当たり前だと思っていた。

 あの映像が本当なら、僕とティーナちゃんは人生の上で会話する事すらなかっただろう。


 なんのイレギュラーか、こんなパーガトリになんて来ているから話す機会があっただけだ。まず歳が離れすぎている。

 まさか二九年も離れているとは思わなかった。

 そうか、そう言えば下着をつけない事が流行っていると、言っていた。

 おかしいハズだ。

 そんなものが流行る訳がない。

 少なくとも、


 そう考えれば僕の見たあの映像が本当だったのだ。

 胸が急速に締め付けられた。認めたくない。やはり時代が違うなんて考えられない。

 現実逃避をしたくなる。

 でも、を見たら認めない訳にはいかなかった。

 あの人――。

 そうあの人だ。

 ティーナちゃんの母親は。

 部屋で首を吊っていた彼女の母は。

 少し以上に老けた、だったのだ。


◇ ◇


 僕の頭痛は再発した。

 激痛と共に、一度息を吸い込むと、次の瞬間には牢屋の一画に戻っていた。息を吹き返したかのように、僕は大量の空気を吐き出した。何度も浅い息を吐き出す。どうにか落ち着けていく。俯けになりながら鉄網に肩から持たれている僕。余裕ができるまでに数十秒かかった。


 その一瞬あと、耳に同じような乱呼吸するような息遣いが聞こえてきた。

 牢屋の鉄網に掴まりながら、どうにか顔を上げた。ティーナちゃんもまた僕と同じようにベッドにもたれ掛かりながら、頭を押さえているところだった。何度も息をしている。彼女が頭を振った。僕に気が付いたのか彼女もこちらに視線を向ける。

 まだ落ち着いてはいなかった。

 だからか、瞳には驚愕の色が張り付いていた。眼を大きく見開いて、ゆっくりと時が止まっているかのように僕を見ている。

 彼女もまた僕と同じ映像を見たのだろうか。だから動揺しているのだろうか。

 僕が、ティーナちゃん、と声を掛けた。

 彼女の顔が強張った。


 僕が鉄網に手をかけ立ち上がる。その足で、彼女に近付こうとした。

 すると彼女は僕から遠ざかるように反応する。体がビクっと動き、ベッドを必死に掴んで離れようとした。

 ティーナちゃんはえらく動揺している。彼女は顔を手で隠して、僕を見て、また怯えていた。


 僕がまた近づこうとしたところで、彼女が小さく声を出した。

「あ――」

 彼女が歯を鳴らした。

 ……恐怖している?

 彼女は僕が近づく度に、一歩後ろに下がる。その対峙の距離は変わらなかった。

 ティーナちゃんは自分の顔を掴んだ。細い指先で目を隠すようにしている。だが、ハッキリと僕を見ている。彼女は僕を凝視しているのだ。

 そんな彼女が、僕を見ながら、何も信じられないという風に、声を作った。

 それは僕にも信じられない言葉だった。



「――あなたが、母を殺したのですか、優さん」



 言っている意味が全く分からなかった。

 ……僕が川上零名を殺した?

 何を――。


 突然鳴りだした泣き叫ぶような大音響に、僕の思考がかき消された。

 この音は、報告会の時と同じ音だ。緊急事態が起こったようなアラームだ。

 爆音と言い換えてもいい。心臓に悪い音だった。

 音が止んだところで、ガラガラと病院の手術台が運ばれるような音がする。

 何だ、何が起こっている?

 僕とティーナちゃんがいる牢屋のドアが開いた。鉄がこすれ合わされる音と共に入ってきたのは、緑川さんだった。


「…………」

「……何ですか? 何の用ですか?」

 無表情でそこに立っている緑川さんに僕は問うた。完全に固まっているティーナちゃんが動けない以上、僕が尋ねるしかないような気がした。

「……エジプトの『死者の書』……、……チベットの『死者の書』はどちらも死後の世界を書いたものです……。……しかしこの両方ともが、古代人の夢日記を綴(つづ)ったものだと知っていましたか……?」

「……は?」

「……彼らは『睡眠と夢』が『死』のシミュレーションだと考えていました……。……つまり睡眠中に見る夢は……、……死と同じメカニズムだと考えていたのです……」


「な、何を……?」

「……しかし『夢』と『死』は同じものではありませんでした……。……『死』は一人で創り上げ……、……一人で体験する事が可能でした……。……『夢』とは自分で創り上げておきながら……、……自分にはコントロールできないヴィジョンを体験する事を指します……。……つまり創造者と観測者が別であるという……、……二重の自分が必要になってきます……」

「……イギリスの『ゴールデンドーン』の考え方ですわね」

 ティーナちゃんが声を作った。完全に錯乱していた状態からは戻っているようだ。

「……必要な物は未来でした……。……過去を否定させる訳にはいかないのです……。……だから彼女もまた……、……ここに来ざるを得なかったのです……」


 突然、僕らの後ろにあった牢屋の扉が開いた。金属の擦れる音がする。

 あれは、板垣がいた部屋の扉だ。

 暗くてよく見えない部屋には、病院の手術台のようなものが運ばれていた。カラカラカラとロールの音がする。運んでいるのは二人の黒服の男たち。板垣がいたハズの牢屋の一画に侵入してきた。ベッドの横に手術台を止める。


 何をしようとしている? 何だ、何故か、嫌な汗しか出ない。

 黒服の男たちは手術台の上かかっていたシーツのような物をはぎ取った。

 直後、一人の人間のようなものを担ぎ上げる。暗くてよく見えないけどそれは間違いなく人間なのだろう。人間にしか思えない。それもシルエットからすると多分、女性だ。

 だが顔は見えない。もしかして板垣の代わりにまた一人が運び込まれたのだろうか。


 黒服たちが、担いでいた女性をベッドの上にゆっくりと置いた。彼らはその作業だけを済まして、部屋から離れる。


 僕は動けなかった。次から次へと何が起こっているのか、全く理解できない。

 扉が閉まる金属音がした。

 唯一動けたのはティーナちゃんだった。

 彼女が牢屋の一画の近くにボロボロの足取りで寄っていく。

 牢屋の間にある鉄網に手をかけてヒッと声を上げた。

 まるであり得ない物を見たような動作だった。

 力を失くしていく。彼女はそこで手で鉄網を持ったまま、うなだれるようにしゃがみこんだ。

「……そんな、何で、ですの……――」

 僕には誰が来たのかわからない。

 だがティーナちゃんの次の一言で、全てを理解した。

「――……お母さん」

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