第9話 僕、気を失う。
図書館に変容はなかった。
牢屋に僕の本を置きに帰り、その足で図書館に来た。その間に誰かが来た様子はない。板垣についての本も大テーブルに投げだされている。そのままようだ。
つまり緑川さんの手配で誰かが待ち構えているという事もないようだった。
僕とティーナちゃんと緑川さんが図書館に入って、大テーブルを囲むように立ち止まった。
僕の隣にいるティーナちゃんが一番に声を出した。
「で、ここからどうしますの? 全く目星のない状態ですが。何かアテはありますの?」
緑川さんは、少し俯いて考えている。
その彼女が少しの黙考の末、ポツリと言葉を発した。
「……例えば……、……最も読まれてそうな本を抜き出すというのはどうでしょうか……? ……最も読まれているという事は多くの人の目についた事になります……。……もし仮にパーガトリから出られた人達が共通して図書館に来ていたとしたら……、……多く読まれた本が正解に近い気がします……」
「最も読まれた本とは言いますが、どうやって本が読まれているかを判断しますの? 貸出票のような物はありませんし」
「……はい……。……ですから……、……本の状態が酷い物を抜き出すというのはどうでしょう……?」
「多くの人が読んだから、その分状態が悪くなっている可能性が高い、とそういう事ですか。しかしそれなら、あまり手に取られていないが、えらく古い本も選出する事になり得ますの」
「それは、奥付を確認すればいいんじゃないですか? 何十年も前のものは省くという事で」
僕の提案だ。
「……しかし……、……その中に正解が混じって入れば元も子もないと思います……。……多少古くても調べるほうがいいんじゃないでしょうか……」
「わかりましたの。では、とりあえず状態の悪い本のみを抜き出すという事にいたしましょう。それでは、私は不来股さんと一緒に本を探してもよろしいですか? 私には持てない重い本もありますし」
「……え、ええ……? ……はい……。……構いませんよ……」
僕らは二手に分かれて本を探し始めた。
大テーブルを挟んで左側を僕とティーナちゃん。右側を緑川さんに任せる。
僕はティーナちゃんに付き従うように、本棚に並べられたタイトルへ目を移していく。
脳内には少しばかりの懸念もあった。
また緑川さんの提案だったのだ。彼女が言った事に変な意図は感じられない。むしろ当然の成り行きだろう。だから誘導されているとは思えない。だが、以前に図書館に行くようになった理由も、僕の名前を看破した時も不自然さはほとんどなかった。
僕は既に術中にはまっているのかもしれない。
「それ、ボロボロではありませんの?」
ティーナちゃんが僕に体を寄せながら指摘した。彼女は僕に右腕を絡ませているが、どういうつもりなのだろうか。どころか、彼女の左手が僕の五指をしっかりと握っている。ちょっと痛い。手汗をかいている彼女の手は少し温かった。
結局僕が片手で本を本棚から取り出さなければならなかった。大した重さではないものの、少々やりにくい。
「折角、向こうから接触したくれたんですの。この機会を不意にするのは下策かと思ったのです」
僕がハードカバーの本を本棚から取り出すと同じタイミングで、彼女がポツリと漏らした。僕が彼女を見てみる。ティーナちゃんは胸の前で手をギュっと握りしめていた。
――そうか、だからここまで手を握ってくるのか。
だが、正直、僕としては何故ここまでティーナちゃんになつかれているのかが分からない。何度も考えているが僕は彼女の信頼を勝ち取るような事をしただろうか。いや、全くしてない。僕がこの牢屋に来て行った事はただ彼女の言いなりになり、右往左往していただけだ。
僕がどんな顔をしていたかわからない。
ティーナちゃんは僕を少し気にしたのか、
「……私、その、人から、し、信用された事がないん、ですの」
とまたポツリと言った。
顔はまさかと思うくらいに真摯な物だった。
僕がティーナちゃんを信用していると思われたのだろうか。まぁ、確かに指示には従ったし、最後まで見なかった紙においても指示通りに動いた。それは僕の頭の回転が少しばかり悪かっただけで、別段彼女を信頼した訳ではなかったのだ。
少しだけ胸が痛んだ。
ちょっと想像だにしていない不意打ちだったので、僕としては罪悪感を覚える。なるだけ早く本棚からハードカバーの本を取り出し、大テーブルに置いていった。
その間もティーナちゃんは僕から一度も手を離さなかった。
概ね古そうな本を集めた大テーブルには三〇冊程がのっていた。
ちょっと
緑川さんも無表情ではあるが、少しだけ嫌そうな顔をしている。
多すぎるのだ。
読むにしても殆どの本が大きいし太い。
これら全てを読むというのは少しばかり以上に面倒だった。
「……あの……、……提案なんですが……、……一番古いと思えるものから読んでいきませんか……?」
僕らはその緑川さんの意見に賛成だった。
ただ、またこれも緑川さんによる提案だった。
だがまだ危惧する段階ではない。
ティーナちゃんもまた同意見なのか、古そうな本を取り大テーブルの上に広げていた。
さて、と僕も椅子に座る。積み上げられた本の中から古そうな本を探してみる。
どれにすべきなのか、僕が悩んでいると、
「……これとか古そうですよ……」
緑川さんが二冊の本を差し出してきた。
確かに古いだろう。古紙独特の匂いが本には染み付いている。本のタイトルだって、二箇所ほど文字が擦り切れていて読めない状態になっていた。『〇〇と××の生態系について』『〇〇と××の未来について』僕が以前にタイトルだけ見ていた本だ。確かにこれらは古い感じがした。
僕は『〇〇と××の生態系について』を大テーブルの上に広げて読み始めた。
するとティーナちゃんは先ほどまで読んでいた本をバタンと閉じ、僕が選ばなかったほうの本を手に取った。
彼女に本の判断基準は彼女なりに何かあるのかもしれない。
ただ僕にはわからない。
平凡な僕はただ普通に読んでいくだけだ。
僕は次こそ読書に集中する事にした。
◇ ◇
『スコットランドのモレイ・ファース沿岸に、貴族の美少女がいたが、多数の縁談を断り、〇〇と不倫の関係に落ちた――』
〇〇の実例として書かれた文書だ。〇〇の部分は本の全てにおいて文章が擦り切れてしまっている。まるでその単語のみ削り取られたように。
『――両親が問い質すと娘は白状した。素晴らしい美少年が夜となく昼となく訪問してきて、彼女と情交するという。しかもどこの誰かはわからない。どこから来るのかもわからない。両親は娘の言葉を鵜呑みにせず、夜這いの男の正体を暴こうと計画を練った――』
なんだ?
〇〇の生態系と書かれているから、動物かと思っていた。だがどうやら人間のようだ。
『――三日後、召使いから男が来ているとの報告があった。両親は家中の扉に施錠し、松明に火をともして娘の寝室に入った。娘が抱いていたのは、およそ想像を絶する醜悪な怪物であった』
――これ、なんの話だ?
『他の者たちも寝室に入ってきたが、その中に聖なる生活を送る司祭がいた。この人物はexorcismus《エクスオルキスムス》に詳しかったので、他の者たちが逃げたり立ち尽くしているさなか、ヨハネ伝を暗唱しはじめた。「そして言は肉体なり」のくだりにくると〇〇は絶叫し、手当り次第の家具に火を放ち、寝具の屋根を破って姿を消した。娘は危機を脱したが、前代未聞の醜悪な怪物を出産した。家門の名誉にかかわるため、この赤子は産婆によって内密に処分された』(「コンペディウム・マレフィカルマ」)
何故か一箇所だけ日本語に訳されていない。意味もわからなければ、何の生物かもわからなかった。そこからイタリアの神学者『トマス・アクィナス(一二二五―七四)』と書かれた縁もゆかりもない人物の見解が書かれていたが、僕には全く理解できない内容だった。
さらに××の実例も記載されている。
『スコットランドのアバディーン近郊の村に、大変な美少年が住んでいた。かれはこのところずっと××に悩まされているとアバディーンの司教に告白した。その××はこの世のどんな女よりも美しく、夜になるとやってくる。鍵をかけた扉もすり抜け、躊躇する青年を手練手管でたらし込み、情交し、夜明けとともに音もなく去っていくというのだ。青年はなんとしてもこの××を追い払おうとしたが徒労に終わった。司教はこの告白を聞くや、青年に対してただちに転居せよと命じた。そして今以上に信仰を心掛け、断食と祈祷に専念せよと諭した。青年が命令に従うと、すぐに××は訪問をやめた』(ヘクターボース「スコットランド伝承」)
この実例もまた動物だとは思えなかった。どちらも男と女と書かれている。なら〇〇と××は人間なのだろうか。
まぁ、間違いなく人ではないだろう。
僕はそこからまだ太い本を読んでいった。だが特にこれといって気になる文章はなく、ただ時間だけが過ぎていった。
◇ ◇
果たして緑川さんの目的はなんだったのだろうか。
僕も緑川さんも、ある程度まで読書を終えるとそれ以上は何もしなかった。読み疲れたというべきか。
そもそも報告会からそれほど時間が経っていないのだ。
少しだけでもいいから休憩が欲しいところだ。
「……そろそろ休みましょうか……。……というより牢屋に戻りませんか……? ……もう私も疲れました……」
緑川さんが提案した。無表情なので疲れは読み取れない。
「私は、これをもう少しだけ読んでみますの。お先に帰ってください。私もすぐに戻りますの」
「何か気になるところでもあった?」
僕がそう尋ねると、いえ、少々、と言葉を濁しティーナちゃんは本を読む作業に戻った。えらく集中している。
とりあえず緑川さんの意見に賛成だった僕は牢屋に戻って寝る事にした。
緑川さんと二人で図書館を出る。扉を閉めて暗い灰色の廊下を二人して歩いた。僕は緑川さんの前を歩く。しかし今更ながらにこの状況にヒヤリとする。彼女が黒服たちと何かしら繋がりがあると疑っている以上、僕はあまり緑川さんと二人ではいたくないし、前に出るべきではない。緑川さんが僕に何かを仕掛けてくるとしたらここだろうか?
僕は歩調を緩め、彼女の後ろになるように徐々にスピードを下げていく。何に備えていても足りないという事はない。
「……何でそんなに怯えているんですか……?」
僕の前をいく緑川さんが振り返らずに尋ねてきた。
「いや、別に怯えているって訳じゃないですよ」
「……じゃあ……、……何でわざわざ後ろに回ったんですか……?」
「いや、それは――」
「――……もしかしてあの録画の件ですか……? ……私の事……、……内通者か何かと疑ってますよね……?」
「――――!!」
「……いえ……、……いいんです……。……あの状況であの画を撮れるのは私しかいないのは明白ですし……」
食堂にいた僕らの会話をやはり聞いていたのだろうか。そうではなくとも気が付くのかもしれない。あの録画映像は本当に緑川さん以外に撮れない。緑川さんはカメラなんて持っていなかったが、今時のカメラは別にカメラと分かる物でなくともいい。最近はペン型のカメラなんかがあるくらいなのだ。
「……でも……、……私は何もやってないですよ……。……カメラなんて持っていなかった……、……なんて言い訳にはならないですか……。……だったらそうですね……。……私もここから出る為に……、……報告会で点を取りにいきました……。……それが証拠にはなりませんか……?」
確かにあそこまでして点を取りたかったのは、どうしても外に出たい事の証ように思える。何か繋がりがあるというなら、あそこまでして点を取らなくとも、融通が利きそうなものだ。
「……逆に私からもいいですか……?」その時、緑川さんが僕に振り向いた。彼女が無表情のまま僕の顔の一点を見つめる。眼だ。彼女は僕の目を見ている。
「な、何ですか?」
「……私は不来股さんを疑っています……。……私は不来股さんを信用できません……。名前を偽った事を始め……、……いつの間にかティーナちゃんを手なずけて……、……板垣さんを退けた……。……私はあなたが何かを知っているんじゃないのかと思っています……」
「……いや、ちょっと待ってください。そんなのあり得ませんよ」
「……じゃあ……、一つ伺いますけど――」
緑川さんが僕に一歩近寄った。彼女はまだ僕の眼を見ている。僕の顔色を窺いもせず、また一歩近づくと、口を開いた。
「――何で……、……板垣さんの過去にあんなに詳しかったんですか……?」
僕がキョトンとしてしまう。
彼女の言が分からない訳ではない。今更そんな事を言われるとは思ってもみなかったのだ。
「……おかしいですよね……? ……私は知りませんし……、……ティーナちゃんだって知りません。……だったら何故……、……不来股さんだけが知っていたのですか……?」
僕はこの時点で少しだけ肩の荷が降りたような気分になる。別に大した荷を背負っていた訳ではないが、ずっと疑心暗鬼になるのは避けられたようだ。
少し笑ってしまった。
緑川さんが珍しく、僕を疑うように顔をしかめた。
僕は焦って、直ぐに言葉と紡ぐ。
今、誤解を生んでも仕方ない。
「いえ、あの過去って別に初めから知っていた訳じゃないんです。僕が知ったのは、僕の本が見つかったのと同じ理由です。あの図書館に僕の過去が書かれた本以外にも、ティーナちゃんの本や板垣の本もあったんですよ」
「……他の人のもあった……?」
「はい。僕が板垣の過去を知っていたのは、板垣の本を読んだからです。そうじゃないと知りませんよ、板垣の事なんて」
「……そう……、……ですか……。……なら……、……不来股さんは本当に何も知らないという事ですね……?」
「ええ、はい」
緑川さんとは協力できるかもしれない。ティーナちゃんが何と言うかわからないが、それでも緑川さんはキュバス達とは関係ないだろうという事がわかった。これで黒服たちの目的を探る方法は、僕より前にいた人間が読んでいた本を探すしかなくなってしまったが、常に気を張っておくよりは幾分かマシに思える。
僕は協力できないだろうかと、緑川さんに打診した。
彼女は少し頷く。
「……じゃあ……、……できるだけ直ぐに動きましょう……。……次の人がいつ牢屋に足されるかわかりませんし……。……もしかしたら板垣さんより面倒な人かもしれませんから……」
そうか、そういう可能性もあるのか。
「はい、わかりました。とにかく一度寝てからですね」
「……はい……」
緑川さんはまた振り返って、牢屋へと歩き出した。僕の前を行く緑川さんにおかしな部分はなかった。
なかったというのに、どこかで変な違和感を僕は覚えていた。
◇ ◇
……私は、食堂に行ってきます……。
緑川さんはそう言って、牢屋から出ていった。そう言えば報告会から後に僕は、もちろんティーナちゃんもアイス以外は何も食べていない。
だが、僕はお腹が空いたといっても、もう何かを食べようという気にはならなかった。
牢屋に戻って、ベッドの上に体を倒す。頭からボフンっと体を沈め、体を休めるとドッと疲れたが湧いてきた。もうこれは即座に寝ることができるな、そう思うくらいには頭が働いていない。そういえば、僕のベッドの上にティーナちゃんの本があったハズだが、あの本はどこにいったのだろうか。一度帰ってきた時に彼女が自分のところに持っていったのか。ティーナちゃんに尋ねてみようかな。本当にどうでもいい思考が頭の中を埋め尽くす。瞼が降りるまで、時間がかからなかった。
「起きてください」
僕の背中からティーナちゃんの声がする。瞼を閉じたばかりだというのに、一体何だというのだ?
「起きろ、この犬ころ!」
僕は仕方なく顔を横にする。左の耳がベッドのシーツに当たった。犬ころと呼ばれて反応する辺り、僕は本当に犬なのかもしれない。
まぁ、そんな事はどうでもいい。
視界の右上にはティーナちゃんが立っていた。
唇を堅く結んでいる。
「どうしたの?」
僕は跳ね起きた。僕は彼女の事は深く理解している訳じゃないけれど、彼女の表情を見ると尋常ではない事は理解できた。俯せになっていた体を横に持ち上げる。座った状態で、彼女の返事を待った。
ティーナちゃんは急いでいるのか。直ぐに返事が返ってきた。
「全てわかりました」
「何が?」
「今から、翠ちゃんの牢屋に入りますわよ」
「はぁ?」
「いいから、早く!」
ティーナちゃんに手をガシッと掴まれる。
問答無用に彼女に手を引っ張られて僕は立ち上がった。
女性側の牢屋に入るには、一度、工場か体育館を経由しなければならない。
牢屋は二つの区画を行き来する事はできるが、反対側に区切られているティーナちゃんと緑川さんの部屋には入る事ができない。本来は位置的に近い工場に寄るべきなのだが、ティーナちゃんは緑川さんが食堂にいると知ると、体育館経由を選んだ。工場に向かうまでに食堂がある。理由はその一点のみのようだった。
僕はティーナちゃん二人で緑川さんの牢屋に立つ。彼女がガチャリと牢屋の扉を開ける。当然ながら僕の牢屋と同じだった。右手にベッドが一つあるだけだ。
ティーナちゃんは真っ直ぐにベッドへ向かった。もちろんベッドしかないのだから、そこに向かうだろう。しかし何をするつもりなのか。何をそんなに急いでいるのか。
彼女は一瞬にして、ベッドの毛布とシーツをはぎ取った。毛布とシーツを巻き取るようにベッドから離し、確認するように激しく、毛布を揉む。同様にシーツも揉む。まるで何かを探しているようだった。それも必死に。時間は有限だと示すように。
「……何、してるの?」
僕がティーナちゃんに尋ねるが、彼女は答えやしない。次に、ベッドの下を探り始めた。始めは覗きこんだ。だがベッドの下は暗くて見えないのだろう。彼女は手を肩のところまで突っ込んで、手の感触のみで何かを探している様子だった。
「……え、いや、ちょっと、ティーナちゃんは何してるの?」
「……ないですの」
ポツリとティーナちゃんが呟く。僕の声が聞こえていないようだ。
立ち上がって、何か憑りつかれたようにブツブツと呟く。
「だけど、ここ以外に隠す場所なんてないですの。なら、何で? 一体どこに?」
何かを探している事は明白だった。
僕は、何が何だかわらかなくなった。不安ばかりが募る。良くない事が起きている事くらい僕にだって理解できた。
「ティーナちゃん――」呼びかけると、ようやく僕を見てくれる。「――何を探してるの?」
「……本ですの。翠ちゃんの本」
「……え。いや、それなら緑川さんは持ってないと思うけど」
「どうしてそんな事が言えるのですか?」
「いや、だって、緑川さんは本の存在を知らなかったし」
「……? 彼女がそう言ったのですか? 本の事は知らないと」
「うん。僕が板垣の過去を知っている事を疑問に思っていたみたいで、その事について質問されたから。図書館に全員分の本があるよって教えてあげたくらいだし」
「それはいつ、そんな話をしました?」
「さっきだけど……何で?」
「そのさっきに本の事について知った訳ですわよね? その瞬間に彼女は、図書館に引き返すとは言わなかったのですか?」
「うん。納得して、牢屋に戻る事に――」
僕も言っていて気が付いた。
そうだ。おかしい。
ここには過去を変えたいと思う人間のみが集まっていると言っても過言ではない。板垣が嫌がったように、ティーナちゃんが本を僕のベッドから移動させたように、また僕が過去を知られたくないと思うように、緑川さんも過去に何らかの想い、あるいは負い目があるハズなのだ。
ならば、何故その本を自分で確保しておかない。図書館に確実にあるのだと言われて、何故見られたなくいと思わない。あの時僕は違和感を覚えた。その違和は、つまり彼女が過去に執着していない事だったのだ。
なら何故、執着しないのだ。何故、本を手元に置きたいと思わないのだ。
「なかったですわよ。図書館に翠ちゃんの本は」
彼女が続ける。
「私は図書館に残るという名目で、翠ちゃんの本を探しましたの。翠ちゃんは私より前からこのパーガトリにいると言えども、素性は全くわかりません。どんな人間なのか本を読む事で図ろうと試みました。しかし、探せど探せど、本は見つからなかったんですの。だから、もしかしたら、自分の牢屋に既に確保しているかと思ったんですの。だけど――」
ティーナちゃんがベッドに目線を下げた。
ないのだ。本はどこにも。いや、もしかすると牢屋ではないところに隠しているのかもしれない。隠す理由はわかる。だけど、何故僕に嘘をついた。あれがなければ、彼女が本の事を知らないという事を僕は知らないハズなのだ。それに僕が板垣の過去を知った理由も心当たりが付くハズなのだ。
なら、あえてその話をした理由は……。
「……
突然、ティーナちゃんの声が聞こえた。彼女はまるで頭痛が起きたように右手で額を押さえている。先ほどまでベッドを見ていた彼女が急に、苦しみ出した。
何があったのか、と驚いた時点で僕ももう遅かった。
僕の頭にも痛みが走る。
いや、感覚的な事を言うならこれは痛みではない。
熱だ。
まるで沸騰させすぎたコールタールをうなじからぶっかけられたような状態になる。いや違う。内側だ。外側ではなく内側の何かが煮え湯になっている。
激痛どころではない。
僕は倒れそうになった。
牢屋の鉄格子にもたれかかる。
もう立てないと諦観が浮上する。
そこで異様な光景を目の当たりにした。
僕が体を鉄格子に預けたからなのだろう。牢屋に入る手前で立ち止まっていた緑川さんを見てしまった。見えてしまった。
彼女は僕らを見ても、何も感じないロボットように、そこに立ちつくしていた。
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