第8話 僕、気付く。
食堂の長テーブルの上には僕の本が投げ出されていた。
ティーナちゃんが言うには、板垣はいつもこの食堂で昼を過ごしていたらしい。
僕らは牢屋に一度戻って食堂にきた。食堂は入って直ぐに、調理場が見える。ここにはキュバスではないが黒服の男が朝昼晩と調理をしているとのこと。キッチンらしく調理器具も色々あった。調理場から正面に長椅子が九つ縦に置かれている。椅子は長テーブル一つにつき、八席。つまり七二席あった。
こんなに必要なのだろうか?
食堂はいたって普通の場所だった。
何となくだが、僕の会社の社員食堂を小さくしただけの感じだった。
僕は僕の過去が書かれた本を回収した。概ね予想できた事だが、板垣を僕の本を途中までしか、むしろほとんど読んでいなかったようだ。食堂にあるナプキンをハードカバーに挟んではいたが、六ページ目で止まっていたのだ。
ようやく何となく落ち着いた気分だった。僕は長テーブルの椅子を引いて、腰を落とした。調理場から一番近い席だった。
「はぁ、良かったよ」
「優さんは、過去をそこまで知られたくなかったのですか?」
ティーナちゃんが僕に質問した。
彼女もまた、僕の向かいに座った。
「うん。まぁ、僕の過去自体は別に知られてもいいと思う。僕はさ、ある事で必死になっている女の子に向かって、怖いって言っちゃったんだ。本当はその子の事が心配だから、何としても止めようとしたんだけど、曲解されてさ。裏切り物だと言われたよ。で、売り言葉に買い言葉で、幸せになんかなれないって言い返したから、その後本当に大変な事になった。その大変な事はさ、その女の子に関わる事だからさ。あんまり他人に知られたくなかったんだ」
「あの、別に内容は聞いていないのでよろしくてよ。興味もありませんし」
「そうだね。まぁ、ティーナちゃんはペラペラ喋る人間じゃないとも思ったからさ」
「優さんはそんなのばかりですね」
「……そんなのばかり?」
僕はティーナちゃんに寛容的な態度を今まで全くとったことがない。というより僕が彼女を信頼できたのは、報告会が終わってからだった。彼女の中で何らかの勘違いが進行しているのだろうか。
「では、とにかく、さっき話したようにまず黒服たちの目的について考えなければいけません。何かありますか?」
ここに来る途中、ティーナちゃんが言った。僕らがここを出たいのならば、彼らのルールにのっとるなら、まず『質問と答え』を探すしかない。しかしキュバスを含む黒服たちの目的がわからない。『質問と答え』を僕らに探させて、僕らに何を望んでいるのか。あるいは、僕らが『質問と答え』を探したところで彼らが何のメリットを得られるのか。メリットがなければ、こんな手の込んだ事はしないだろうというティーナちゃんの意見は的を得ていると僕も同意できた。
「今を変えて欲しいと言っていました。それに僕らの過去が何故か、文章化されていますし、僕らに過去を直視して、自分の生き方を変えろと言いたいんじゃないですか? 黒服達は」
「それのどこに、彼らのメリットがあると?」
そう言いながら、彼女は席を立って、調理場に向かっていった。彼女は調理場の中にある冷蔵庫を開ける。そこには業務用に大きなアイスのカップがあった。彼女はそこから調理場にある、名称は知らないがアイスを取る丸い金属の器具を使って、アイスを皿によそおう。
皿を持って、椅子に座った。スプーンでアイスを口に運んだ。唇がプルンと揺れた。
「マジマジと見ないでくださいの」
「よく冷蔵庫にアイスがあるなんて知ってたね」
ティーナちゃんは首を傾げた。ゴスロリ衣装から細くて初雪のように白い肩が少しだけ覗けた。
「あの、もしかして知らないのですか?」
「え、何がですか?」
「ここ、欲しいと思った物を探すと出てくるのですよ」
「はい?」
「例えば優さんを縛っていた縄。あ、今度、首に縄を付けさせてもらえませんでしょうか。とてもお似合いになると思いますが。おや、話がずれました。多分、翠ちゃんが持ってきた縄は、欲しいと望んだから出てきたのです。それに図書館の下で鉛筆を私が出しましたでしょう。あれも欲しいと思ったから出てきたのです。まぁ、出てこない物もあるのですが、ヒントとかでですね。出る出ないの法則に関して私は何も知りません。とにかく唐突に物が出てくるのです、ここ」
あり得ないだろう、そんな事。
「優さんも何か、望んでみればいいですの」
そう言われても、僕が今欲しいのはここからどうやって出るかの答えだ。
それかもしくは過去を変える答えだ。もちろんもう過去は変えられないと知っているが。あと僕は積極性が欲しい。昔、積極性さえあれば僕はあんな事は起こらなかったと思うのだ。
しかし、あれ? なら黒服たちは何故料理をしているのだ? 望んだ物がでるなら料理をする必要がない。
…………。まぁ、いい。とにかく。
「……今はいいですよ。それよりさっきのメリットの話ですけど。例えば黒服たちは僕らを更生させる為の組織だったりとか?」
「結局、彼らにはメリットがないような気がしますけど。それにそんな事をするのは、公的機関かそれに準ずる組織でしょう。ならもっと健全だと思いますの」
確かに。
黒服たちの目的についてまとめようとしても全く答えが出ない。いや、出そうにない。それにティーナちゃんは自分で言い出した割りにアイスを食べているし。
あ、アイスをスプーンから服にこぼした。
ゴスロリっぽい衣装の胸元にバニラアイスがべっとりと乗っていた。
ティーナちゃんがそのアイスに眼を落とす。
僕に目を向けた。
「舐め取ってもらえます?」
「なに、言ってるんだ?」
「いえ、犬が出来たのだから、何か犬らしい事をやって欲しいと思いまして。私は構いませんよ。どうぞ」
ティーナちゃんが手を広げてニコリとした。
どうぞ、と言われて、はい、やります、と返す人間がいるだろうか。
僕の体は前のめりになり、長テーブルを超えて彼女の胸元へと伸びていた。舌先が彼女の襟元にかかる。胸元はもう少し下だ。僅かに触れた舌先に甘酸っぱい味覚が感じられた。汗だろうか。人間臭い匂いはどうしてもしている。けど、それが不快な匂いかというと、これは全く違う。
視覚と味覚に対して嗅覚を表す言語はほとんどないと言われているがそんなアホの極みのような感想をすっ飛ばしてもこれだけは言いたいむしろ言わなければならない。
――素晴らしい。
僕が相当気持ち悪い事はさておき、僕の舌先が胸元にいきかけてチラリと見えた。襟からその中が。ゴスロリ衣装っぽいと言えども、ただのドレスだ。襟元は少し緩くなっていて少し覗けば中が見える。
僕は驚いて、体を離した。口は直ぐに驚きを体現した。
「な、何で下着つけてないの!?」
「はい? 最近流行っているではないですか。そんな事も知らないのですか?」
何を中世フランスの金持ち貴族の就寝前みたいな事を言っているんだ、この子は。僕はそんな流行り知らないし、聞いた事もない。それとも最近の学生には下着を付けない事が流行っているんだろうか。どんな社会だよ。良い社会だ。いや、もしかしたら彼女は間違った知識を持っているのかもしれない。けれどそれを否定したところで何か生まれる訳でもあるまいし、僕はスルーに徹する事にした。やましい気持ちなんて別になかった。うん、ない。
「そうなんだ」
僕が努めてニコやかに返答したら、何か気に障ったのか彼女は自分の胸元に落ちたアイスを自分の手ですくった。指に付けてえらくねっとりと舐めた。
「私、耳と鼻が異常に良いのです。その上で優さんに匂いが結構な好みなんですの。だからちょっとでも近づいて欲しいと思っただけですのに……」
何だろうか、僕に欲情して欲しいのだろうか。
そもそも匂いって……。
嗅覚の好き嫌いは遺伝子レベルで決まるらしい。パクチーがその良い例だ。
あれ? この話は誰かからの受け売りだったような気がする。果たして僕は、この話を誰から聞いたのだったか?
「まぁ、どうでもいい遊びはここまでにしておきますの。どうやって黒服たちの目的を見つけるかという問題の解決方法については、一応考えております。しかし……」
「しかし?」
「イマイチ確証がありませんの。いえ、違いますの。藪(やぶ)蛇(へび)で地雷など踏みたくないと言いますか。とにかくその方面から問題を解決する事に幾何(いくばく)かの躊躇いはあります」
「どんな方法ですか?」
「録画の件ですの。翠ちゃんが行ったであろう録画です。何であんな事をしたのか。何で協力したのか。もしくは無自覚でやっているか。なんであろうと聞いてみない事には何もわかりません。彼女が黒服たちと繋がりがあった場合、何か聞き出せるかもしれないですの――」
納得はできた。
緑川さんの方面から攻めてみるというのも確かに手ではあるだろう。同時にそれを躊躇ってしまう理由もわかる。彼女に手を出した結果、それが何かの
「――翠ちゃんに話を聞いてみますか? 私は、やってみるべきかと思いますの」
僕はなんと言うか、
返事に迷う。
ティーナちゃんはあくまで協調路線でいこうとしてくれているようだ。
僕が僕なりに答えを出そうとした。
その瞬間だった。
「……あの……、……私もお話に参加してもいいですか……」
くぐもった声が聞こえた。
僕は調理場の扉を見る。引き戸が閉まっている。その向こうから緑川さんが話しかけてきたようだ。
僕の心臓は止まっていた。
「……あの……、……ダメですか……?」
直後、心臓は動き出した。バクンバクンと節操がない。
声がまだ続いた。
「……お話に参加してもいいですか……。……板垣さんがいなくなりましたし……、……これからの事を話したほうがいいと思うんです……」
「…………」
ティーナちゃんすら動いてなかった。僕はこの部屋に緑川さんを入れることが反対なのではない。僕はまず彼女に問いたい、どこから聞いていたのだ。
「ええ、よろしくてよ」
ティーナちゃんが答えた。
ちょッッ――。
僕が声に出そうとするが、その前に緑川さんが部屋の引き戸を開けた。
「……すみません……」
小声で調理場に足を踏み入れる。もっさりとしたボブカットに、黒縁眼鏡。彼女はどうやら着替えてきたようだ。先ほどまでは作業着だったが、青いチェックのネルシャツに紺色のスラックスを履いていた。
彼女が僕の横の席に座った。
僕の肌が針か何かでチクリ刺されたような感覚だった。
「で、これからの事を話したほうがいい、というのはどういう事ですの?」
ティーナちゃんは物怖じしていないようだ。目を閉じ、アイスを優雅に口に含みながら問うた。しかしどうやらお人形さんモードらしい。翠ちゃんと呼ぶくらいだから親しくしているのだろうと勘違いしていた。その辺は女の子同士だから、何かあるのかもしれない。
「……あの……、……えっと……。……それは私もどうするか考えているところで……、……例えば黒服さんたちの目的を探るとかは……、……どうかと思いまして……」
「あら、それは奇遇ですの。私たちもそうしようと思っていたところでした。しかしあまり思いつきませんの。翠ちゃんはどんな方法が思い付きましたか?」
「……あてがあるという程にはないのですが……、……図書館に行くのはどうでしょうか……?」
「……図書館ですの?」
「……はい……。……言いましたよね……?」緑川さんが僕を横目に見た。「……不来股さんが来る前にいた人がよく図書館に通っていたって……。……だからやっぱりそこに何かがあるのかなって気がして……」
「構いませんよ。では行きましょうか」
そう簡単に返すと、ティーナちゃんは立ち上がった。彼女は僕の目の前で立ち上がると、一瞬だけ僕の眼を見た。直ぐに逸らしてスタスタと行ってしまう。
僕について来いと言っているかのように思えた。
「……不来股さんもきますよね……?」
緑川さんが顔を横にし、無表情な目で僕を射抜いた。何かに縫い付けられたように僕の体は固まってしまう。
「……いきますよね……」
念を押され、僕は立ち上がるしかなかった。
そこで、ふと、思い出した。ぶるっと体が震えた。
前も緑川さんが主体になって図書館に行こうと言い出したのだ、と。
いや、もっと言うなら、武藤和也という僕の偽名を見抜いたのも緑川さんだった。
彼女は初めから知っていたのかもしれない。僕の名前を。だからアナグラムになっている僕の名前に気が付けた。つまり緑川さんは僕たち三人をあの瞬間、誘導したのだ。
そして僕らはまた図書館に行こうとしている。彼女は僕らに何をさせようと言うのか。
僕の前には暗雲が立ち込めているようにしか思えなかった。
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