第6話 僕、板垣の過去を知る。
僕は縄からようやく解き放たれた。
しかしそれは縛っていた対象が縄から別の物に変化しただけだった。いや、ここでは物ではなく者か。僕は囚人から犬ころにランクアップもしくはランクダウンしていた。
松村さんが僕に命令した。
図書館に行きますわ、と。
どうやら彼女は僕が縛られている間、図書館で本を探していたらしい。
その時、松村さんはある本を見つけた。
彼女は僕の『不来股優、一七歳の後悔』を見つけた時、こう思ったそうだ。
何故、不来股優の本だけがあるのかと。
どうして不来股優の過去だけ開示されなければいけないのか。
そこで彼女は思い至った。もしかして、不来股優の本だけが図書館にあったのではなく、たまたま一番最初に見付かったのが不来股優の本だったのではないか、と。
そしてその予想は的中していた。
松村さんの本もまた図書館の中に存在していたらしい。
あの牢屋に持ってきていた本がそれだそうだ。
だから僕らは、今、板垣についての本を探していた。板垣の過去を知る為に。いやもっと正確に言うなら、板垣の過去を知る事で板垣を徹底的に
例えば僕らは少々淫らな行為に及んだ。何故、電流が流れなかったのかはわからないが、確かに報告会で報告されるであろう行為を行った。その証人を板垣に仕立て上げないといけない。しかし板垣は直接見ている訳ではない。ならば証人が確実に反証されない状態に持っていって、その上で便乗させないといけない。
ならば何が必要なのか。
簡単だ。
状況証拠が完全な場合と、板垣が何としても僕を嫌っている事だ。
もっと言うならば彼が僕にマイナス三点を取って欲しいと思わせなければならない。そのトリガーとして最も適切な感情は怒りではないか。それが松村さんの考えだった。
つまり板垣に冷静さを失わせる。三点を確実に取りたい状況で、しかし僕を蹴落とす為なら一点でもいいと思わせるようにする。
それが大切だった。
だから煽るのだ。
ここにいる連中は僕を含めて、過去に何かを抱えている。指摘されたくないであろう過去を変えたいと思っている。僕は板垣の過去を知って、板垣を怒らせる必要があったのだ。
僕と松村さんは本を探していた。そうそうに見つけなければならないのは確実だった。脱走と脱走幇助もまたマイナスポイントだろう。板垣か緑川さんが、僕が牢屋にいない事を気付く前に行ってしまわないといけない。
僕は大急ぎで丁寧に一つ一つ本棚を眺める。だが板垣という字はない。スカスカな本棚だから確認し忘れというのもまずないだろう。
「ありましたわ」
松村さんの声が聞こえた。
図書館の僕とは丁度対角線上くらいの位置の彼女がいる。
本棚から松村さんが本を取り出そうとする。しかし異様な程に大きい。彼女の力では取り出せそうになかった。いわんや、仮に取り出せたとして、持つ事が果たしてできるだろうか。そのくらい大きなハードカバーだった。
本を取り出すのを諦めた松村さんが、直後僕を見やった。僕を人差し指のみで手招きする。何だろう僕は犬なのか。いや、犬なのだ。僕は図書館の真ん中に鎮座している大テーブルを迂回して、彼女の近くまで寄った。
「遅いですの」
「すみません」
僕がブスッとした声で返事をすると、彼女はとても嬉しそうに顔を輝かせた。理解が全くできない。頬を赤くさせる意味が何一つわからなかった。
と、そこで違和感を覚えた。何に対してなのかはわからない。松村さんと対峙していて、少しおかしいものを感じたのだ。
僕が頭を捻ろうとする。
彼女が僕をまたジッと見た。
どうやら催促しているようだ。僕は違和感を
やはりというべきか。茶色のがっしりとしたこの本は重い。読むにしても大テーブルの上で読まなければ腕がつってしまうだろう。下手をすると百科事典の倍をほどあるそれを、僕は大急ぎで大テーブルまで運んだ。
ドンッと音を立てる。
直後に松村さんが命令する。
「開いてもらえすまか?」
いつの間に僕と隣に来ていた松村さんの命令にとにかく従った。
「この本、確か、目次がありますの。最初の方を開いてもらえますか?」
「……何で知っているんですか?」
「ええ。私の本と装丁が同じなのです。ならば中身の構造もきっと同じでしょう。そう推測したというだけの話ですの」
「……僕の本とも装丁が同じ感じでしたね。そう言えば」
「ええ――」僕がページを一つ二つと開いていく。「――ああ、そこですの」松村さんが止めた。
そのページには目次が並んでいた。縦書きで、最も左端の目次は、『はじめに』から始まり、板垣が生まれてきてからの歴史が振り替えられるようになっているようだ。年齢が書かれている。
「この本の始めの方は然したる事は書いておりませんでしたわよ。だから、そうですの、八九六ページを開いてもらえますか?」
目次には『板垣大輔の失敗』とある。ここは年齢による記述ではない。
これが板垣の過去の悔いている事なのだろうか?
僕はそのページを開く前に少しばかり
人の過去を勝手に調べてしまったもいいのだろうか、と。
だが、板垣もまた僕の本を読んでいるのだと思えば、僕の
それに板垣だ。
例えばこれが僕の親友であるとか、好きな人であるなら勝手な事は慎むべきだろう。だが板垣なのだ。僕にとってもどうでもいいどころか、本人そのものにおいては嫌いにあたる。
いや、あんな性格を好きな人間なんて存在するのだろうか。
いないだろう。
僕は免罪符を得て、ページを開く事にした。
「早くしなさいの。この犬ころ」
松村さんが隣で僕のお尻をつねっていたので、僕は早々にページを開く事にした。
僕らはそこに書かれている文章に二人して目を通した。
板垣という男を攻撃する為に。
◇ ◇
板垣大輔は頭を抱えていた。
どこで間違えたのか。
その日は朝から後悔と諦念が絶えず彼の胸に押し寄せていた。
ダイニングキッチンの床に一人ポツンと座っている板垣。彼は周囲を見回した。
カウンター越しに見える多くの家具がなくなったキッチン。コンロはかろうじて残っている。しかし冷蔵庫や電子レンジ、食器棚はなくなっていた。
そんな物は必要なかった。
彼は離婚に同意したのだから。
もう一年も経つ。元妻と娘がいなくなり、それくらいにはなるだろう。慣れた風景ではあった。だが、その風景を見ると、家族がそこにあったという事を強く意識させられる。
だからこんな事になったのだ。
娘にもう一度会おうなんて思わなければ、暴行事件になんてならなかった。
違う。板垣自身が悪い事は理解していた。どこまでも子供だったのだ。だが、諦める訳にはいかなかった。
◇ ◇
板垣が娘を偶然、道で見かけたのは半年ほど前だった。
中学三年生だった娘は、当然ながら高校生になっていた。
時間はもう五時くらいか、彼女は下校している途中だった。偶然出会ったのだ。
いや、偶然ではないのかもしれない。板垣自身がわざわざその近く歩いていたような気もする。仕事もやめてしまった板垣の頭の中には娘の顔と声しかなかったのだ。
娘はその時、みすぼらしい恰好をしていた訳ではない。だが、ところどころ苦労を掛けているのはわかった。特に、半年前、娘が中学三年生の頃に板垣がプレゼントとしてあげたスマホケースを使っていた事だ。別段ボロボロという事はなかったが、ところどころ割れていて、もう交換時期にきている事は明白だった。
だから板垣が一万円を財布から取りだしたのは、当然の事だった。
娘は驚いていた。目を見張って、何事かとあんぐり口を開けていた。それでも偶然を装って取り出した一万円にはそれ相応の価値があった。
次に出会った娘のカバンが変わっていた。娘の高校はカバンが自由なので、新しいのを購入たしようだった。スマホケースはそのままだった。
そうして板垣の懐から娘と会う度に一万円が消えていった。仕事もしてないというのに。
娘に会って半年。板垣は援助を続けた。娘はその度に手を挙げて喜んだ。
だがスマホケースは変わっていなかった。
とうとう貯金が切れそうになった。板垣は、家にあったものを売り始めた。一番初めはタンスだったか。もう売りすぎて板垣は覚えていない。家具はそこそこのお金になった。
たまたま彼が娘に会った日の事だ。
娘はデジカメが欲しいと言った。高校生くらいになると欲しくなるのだろう。板垣はデジカメは所持していなかったが、彼が持っていたカメラをあげた。
娘はデジカメが欲しかったのだろう。カメラは要らないと言われた。板垣は、なら売って金にしても構わないと答えた。だが、それでも娘は要らないと言った。そのカメラは板垣が大切にしていた物だと知っていたから、貰う事ができないと答えたのだ。
しかし、もう板垣には必要のないものだった。カメラの中身に想いを馳せようと、それはもう過ぎ去ったという事を理解していたのだ。だから強引に板垣は押しつけた。
だから。
すると。
娘は板垣にスマホケースを差し出した。
娘はこう言ったのだ。
お父さんが大切な物を渡すなら、交換という意味で自分も大切な物を渡す、と。
その娘の行動が心の奥底からスマホケースが大切な物であるという事を示していた。
板垣は娘の為に別の新しいスマホケースを買う事を決意するまで然したる時間はかからなかった。
スマホケースなんてせいぜい二○○○円くらいだ。どうとでもなるだろう。
そう思っていたが、残っていた家具と家電が大した金にならない事も理解していた。使い古して、ボロボロだった。それに売りに行くのにもお金がかかる。電車代だって必要なのだ。二○○○円という利益は出なかった。
だから、板垣は一人の老人に眼をつけた。
その老人は一人で暮らしていた。
その老人は毎昼、外に出ていた。
その老人は家が裕福そうだった。
娘のスマホケースの為だ。
板垣の中で計画は完璧だった。お金さえ盗って逃走してしまえば、それで良かった。なのに、その老人に見つかったのは完全に誤算だった。
そうして、板垣は老人に暴行を働いた。老人は畳の上で血を流して倒れていた。怖くなって即座に家に帰った板垣は頭を悩ませていた。
どうも通常の精神ではいられない。違う。違う。違う。さっきは自分が悪いと思ったが、自分は悪くない。そう思うようにした。自己は正当化された。人に何を言われようと、暴言で返せるだろう壁は作れた。しかし頭がおかしくなりそうだった。娘のスマホケースを渡せなければならない。しかし自分が捕まったらどうなるか。娘に類が及ぶ。何に使ったのかと問われも答えるつもりはないが、相手は警察なのだ。伏せきれる自信はない。
だから彼はバーに足を運んだ。
酒がないとやっていられなかった。
そこで黒い服の男で出会ったのは偶然だった。
◇ ◇
僕は板垣の本を読みながら息を飲んだ。
「どんな理由があろうとも、犯罪に走る人間は最低のクズですの」
「だけど、板垣は娘にスマホケースを渡そうとして……」
「それでプレゼントを貰っても嬉しくありませんの。そんなのは、誰もが思う事です」
「……それは、わかってるけど……」
僕は板垣を同情せずにいられなかった。
確かに犯罪だ。窃盗罪と暴行罪の二つも犯している。どんな理由があろうとも許される事ではない。だが、僕の境遇と重ねずにはいられなかった。
僕は川上零名を裏切った。板垣を同情するのは、それを正当化したいからなのだろうか。あの時はすべきだと思ったから、そう動いたのだ。だが、それが人を傷つける行為であるなら、やはりそう動くべきではなかったかもしれない。他人事なら、そんな答えを出すべきだろう。今でも思い出す記憶の中では、それが間違っていたのか、正しかったのかも、もうわからない。犯罪に走っていないだけ、板垣よりはまだマシだというだけだ。
僕は着用している作業の胸のところをギュッと握った。
「どちらにしろ、これで板垣を煽る事では可能ではありませんの?」
「それは……」
確かに僕はそう約束した。だけどどうやって煽る。いや、どんな気分で煽る。娘の為に犯罪に走ったクソ野郎とでも言えばいいのか。
僕らはそうして、図書館の大テーブルの上で固まっているとくぐもった声が聞こえきた。
「おいおい。図書館にはいやしねぇだろ!」
「……―――――……」
板垣の声だ。それにもう一人受け答えしている人間が確かにいる。あまり聞こえてこないところを考えれば、緑川さんだろう。
僕は、突然胸が跳ねたような気がした。
違う。
思い出したのだ。
――これ以上マイナスポイントを取られてはいけない。
脱走した僕と、脱走幇助した松村さん。
それは間違いなくマイナスポイントだ。
僕は咄嗟に図書館内に視野を広げた。奥に扉。手前の開けた場所の四面を埋め尽くす本棚。だが本棚の全ては埋まっていない。
――隠れる場所なんてない。
探していると図書館の扉が開かれそうになった。
視野をさらに広げる。何がある? どこがある? どうすればいい?
頭の中が過熱されていく。
すると僕の腕が急激に引っ張られた。
下からだ。松村さんが全体重をかけて僕を引き摺りおろした。
彼女は大テーブルの中に入ろうとしていた。
考えれば当然で、隠れる場所なんてそこしかない。
僕は転げるように大テーブルの中に入った。
その大テーブルの両端は大きい木版に挟まれている。外から大テーブルの中は見えないようになっていた。
僕は息を潜めるようにそこに身を縮こめた。隣にいる松村さんは僕の口をしっかりと塞いでくれている。柔らかい肌にちょっとドキリとした。同時に彼女は片手で大きすぎる本を抱えていた。
「ほれ、見ろ。誰もいやしねぇ。いる訳ねぇだろ。拘束から逃げたって図書館なんて来ねぇよ。だいたいどんな用があるんだよ。こんなところによ」
「……いえ……、……まだ入ったばかりですし……、……わからないと思うんですけど……」
「けっ。いる訳ねぇだろ。どこにいんだよ。隠れる場所になんてねぇんだからよ」
「……あそこは……?」
「テーブルの下だぁ? あんな分かりやすいところに隠れる奴いねぇだろ。あそこに隠れるとしたらよっぽどバカだ。見つけてくれって自分から言っているようなもんじゃねぇか」
「……そうですかね……?」
緑川さんよ、そのまま板垣に押されてくれ。
僕の呼吸がとても近くに聞こえている。冷や汗をかいている気分だった。
松村さんを横目にみると、彼女はジッと何かを考えているようだった。何故、こんな時に冷静でいられるのか。よくわからない。
とにかく祈るしかない。僕がそう考えて、手を合わせた瞬間。
無慈悲にも、緑川さんの声が聞こえてきた。
「……でも、一応……」
僕の心臓が破裂しそうになっている。
足音が近づいてきた。
大テーブルの下から緑川さんのらしい、ほっそりとした足が見えた。
椅子の向こうだ。
どうやら大テーブルの横の側面に今は立っているらしい。
彼女が椅子を引いた。
僕は目を閉じるように祈った。しかし実際のところ目は閉じられない。ただ顔が引きつっている事だけを自覚できた。
テーブルの上からヌッと緑川さんの顔が現れた。無表情だ。僕らの視界に収めているというのに、彼女は何も反応しなかった。
彼女がもう一度、顔を上げた。
「……いないようです……」
緑川さんにしては大きい声で、板垣に報告する。
僕はテーブルの縦の側面にある木の板にもたれながら、ジッと固まってしまっていた。いや、何が起こったのか理解できない。
見られた? いや、見られてないのか? 何で? だって無表情だったし。え、でも――。
椅子を戻した緑川さん。足を入口のほうへ向けた。
「だから言ったろうが。時間のムダじゃねぇか。ふざけんなよ」
板垣の文句が聞こえた。何で、納得してしまえる。というか何で、緑川さんの虚偽の申告をしたのだ。
「……そうですね……」
図書館の扉が閉まった音がした。テーブルの下で僕は固まってしまっている。
何となく、本当にたまたま松村さんをチラリと僕は見た。
彼女は頭を下げ、右手をアゴにあてて考えたまま動かなくなってしまった。
何がなんだかわからないまま僕はジッとしている。
すると突然、泣き叫ぶようなアラームが鳴り響いた。
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