第4話 僕、絶望する。
僕を本棚に押し付けまま、板垣が口にした。
「あ? て事はカズッち……じゃなくて不来股優さんはよぉ。偽名を使っていたって訳だ。そういう事でいいんだな。あ?」
僕は武藤和也が偽名である事を明かした。こうなってしまってはそうする以外に道はなかった。
「で、何でそんな事をした?」
板垣が僕を問うた。板垣だけではない。緑川さんも、少し見えにくいが松村さんも僕を
僕の思考が行き交う。息と共に言葉を吐いた。
「……あの状況で本名を明かす奴なんていないだろ」
「あ? こっちは本名だっての。舐めてんのか?」
「……別に舐めては、いないですけど」
「それもアナ……なんだったか、咄嗟に思いつかないような事をしやがって」
「……アナグラムです……」緑川さんが訂正する。
「うるせぇ。何だっていい。そんなの普通思いつかないだろ」
「……以前に使った事があったから咄嗟に口にしてしまっただけですよ」
「以前に使ったって、お前、何している人間なんだよ」
「…………」
「言いたくねぇってか? まぁいい。どちらにしろ、信用できない奴だって事はわかった。お前らもそう思うだろ?」
板垣が緑川さんと松村さん呼びかけた。
「……ええ……。……信用という点におきましては……、……少々……」
緑川さんが僕をチラチラと確認しながら、控え目に言う。
松村さんは少し躊躇った後、僕から目線を外してゆっくりと頷いた。
「って事はだ――」板垣が僕に振り返って言う。「――カズッち、いや、ユウッちを拘束させてもらおうか」
「はぁ?」
「当たり前だ。共同生活って言ったろ。そんなとこでお前みたいな信用できない奴を放置できる訳がねぇだろ。何されるかわかんねぇしよ」
「いや、待ってくれ」
「待つもクソもねぇよ。言い訳は全部、報告会で聞いてやる」
「……報告会?」
「ああ? 知らねぇのか。そりゃそうか。誰も説明してねぇんだな。まぁいいさ。簡単に言えば俺達の生活態度をあの黒服の男に報告するだけだ。そうすりゃヒントを貰える。お前が言うヒントを探すより効率的な事が行われてんだよ、既に。それよりも、だ」
板垣は右ナナメ後ろにいる緑川さんに振り返った。いや正しくは彼女の持つ本にだ。
「あの本には何が書かれている? というより何だ、自著か?」
「……自著なんて書いてる訳ないだろ」
「知らねぇよ。だがお前の行動を見る限り、読まれる訳にはいかないだろう事は明白だ。そうだよな? ユウッちは一度、本を開いて閉じたんだからよ」
――そこから見てたのか、コイツッッ。
「なぁ、何が書かれている?」
「…………」
「言えない事が書かれているって訳だな」
その言葉に僕の体が咄嗟に反応した。板垣の拘束を外そうする。だが外れない。どれほど暴れようと板垣の体勢のほうが有利な状況にあった。僕は板垣を睨みつけた。
「おいおい、そんなに睨むなよ。悪いのお前なんだからよ。しかし、危ねぇ奴だな。こりゃ尚のこと拘束しないとダメだろ。なぁ、お前らもそう思うだろ?」
板垣がニヒルな笑みを浮かべながら、緑川さんと松村さんに呼びかけた。だが二人とも反応しない。二人とも目を泳がせた。
「お優しいこった。けど別になんら意思表示はしてぇね。どうしたいのかは、わかんねぇな。ならよ、いっちょ多数決でも採ってみるか?」
「…………」
「この中でユウッちを拘束しないほうがいいと思うヤツ手を挙げろ」
「……お前ッッ。言い方が卑怯だぞッッ」
「はッ! 名前を偽(いつわ)る奴に言われたくねぇな!」
僕は板垣の後ろにいる緑川さんと松村さんに視線を送った。だが二人とも下を向いたままだ。当たり前だ。この雰囲気の中、真っ向から反対する人間はいないだろう。ましてや反対する理由がない。僕以外には。
「三対〇。決まりだな。おい、グリングリン、松村! こいつを縛るようなものを持ってこい!」
と二人に指示した。
緑川さんだけが一言もなく図書館を出ていった。
◇ ◇
僕は牢屋に縄で縛られていた。
ベッドの正面に僕は正座させられ、両手は広げる形で括り付けられている。場所はベッドの反対側。つまり板垣の牢屋側に面した鉄網にべったりと正座で磔にされていた。
縄を持ってきたのは緑川さんだった。食堂から持ってきたらしい。そんな物が食堂にあるのか?
いや、そんな事はどうでも良かった。
僕の視界にはあの本しか映っていない。今正面にいる板垣が小脇に抱えている本しか。あれは。あの本は読まれてはいけない。僕の事が書かれているだけなら、然して気にもならないだろう。だが、あの本は――。
「とりあえず、あれだ。ユウッち。あと何時間後かは知らねぇが、報告会の時間になったら拘束を解いてやる。じゃないと報告会にいけねぇしよ」
板垣の声が聞こえた。僕の真正面で顔を近づけてくる。
僕は睨め返した。
「…………」
「おいおい、怖い目つきだ。こりゃホントに拘束して正解だったぜ」
「……黙れ」
「おいおい。そんな口をきいてもいいのか?」
「……何のつもりだよ」
僕は板垣から目を離さなかった。彼は僕の本をパラパラとめくりだした。
「あ? 決まってんだろ? ユウッちは想像力が皆無なのか?」
僕の内側から何かが噴出する。薄暗いが燃えるような何かが確実に現出していた。僕は両手の縄をどうにかハズそうとする。だが抵抗に意味はない。手首くらいは動かせても、縄は外れない。身体を前のめりにする事ができても、それだけで終わる。たとえ炎が顕現(けんげん)し、その身を焦がしても、行き所の無い空回りを起こすだけだった。結局、僕はその激しい炎を鎮火するしかなかった。同時に、僕の脳裏にはチラリと見たページの一部が浮かんだ。
熱されていた僕の胸が一瞬だけ空洞になったような気がした。ダメだ。僕は自分を抑えようとする。考えてはいけないのだ。
僕は積極的に誰かを助けようとする事ができない人間なのだ。
正面にいる板垣が僕を
「何、一人で二十面相みたいな事してんだよ。そんなに焦るって事は、よっぽど読まれたくない事が書かれてんのか?」
「…………」
「だんまりって事は正解って事でいいんだよな? そりゃ、楽しみだ」
「…………どういう意味だ?」
「だからさっき言ってやっただろ? 想像力は皆無なのかって。わかんだろ――」
僕にもう怒りはなかった。ただただ僕の胸が冷気をまとった空洞に支配される。抵抗する気力さえも失われつつあった。
板垣が何か言葉を発した。
僕の耳には何も入ってこなかった。
ただ何を言っているのかは十全に理解できた。理解せざるを得なかった。
板垣はそれから何か二三言、呟いて牢屋から出ていった。
しかし僕はもう何も気にならなかった。
僕に聞こえているのは僕の息遣いと、絶望という空耳だけだった。
◇ ◇
あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。
一時間にも一分にも感じられた。
ハッキリとしない。
僕にとってあの過去は知られてはいけないものだった。それ以上に僕が好きだった川上零名という人物をさらに裏切る事に繋がる。今ではもう彼女の事を好きになってはいけないが、そういう気持ちがない訳じゃない。
違う。僕はまだ彼女が心配なのだ。それも無責任に心配なのだ。結婚式に呼ばれたからだろう。忘れていた方が良かったのもしれない。
僕は牢屋に繋がれながら、ただぼんやりと何もできないまま過ごした。
平行に吊り上げられた肩が限界にきていたが、それすらも他愛のない事だと客観視していた。
僕の意識が
僕が顔を落としていると音が聞こえてきた。
牢屋の鉄格子が開く音だ。ギィと鉄の耳を
数時間後に報告会というものだと板垣が言っていた。
板垣が僕を呼びにきたのだろう。僕はそう思って顔をぼんやりと怠慢(たいまん)に上げた。
そこで僕は目を疑った。僕の窮屈な視界の中には全く予想外の人物が映っていたのた。
松村さんだった。
僕の口は開きっぱなしになっているだろう。
その松村クリスティーナは、もう既に着替えを済ましていた。
緑色のフリルの付いた作業着が、いつしかボリュームのある黒いドレスに変わっている。下手をしたらゴスロリと言うべき服装。西洋人形のような彼女が、よりさらにその印象を強くしていた。さらに松村さんは何故か僕のことが書かれた本と似た装丁の本を小脇に抱えていた。
そんな彼女が僕の目の前にあるベッドまでやってくる。小脇に抱えていた本をヒザに置くように座った。ヒザの上の本をめくっていく。
――一体、何をしにきたのか。
彼女がこれと言ってなんのアクションも起こさないまま、時間だけが過ぎた。松村さんは本を読んでいる。よくこんな暗い牢屋で読めるものだと感心はしないものの、関心は抱く。歓心は全くしない。
ただただ僕は訝っていた。
すると松村さんが本に目をむけたまま、口を開いた。
「監視をしておけと板垣に言われたんですの。私だけ優さんを縛るのを手伝いませんでしたので。罰として」
透き通った、それも清流のような声だった。
松村さんには僕を監視しようという意図は全く感じられない。
そうは言っても、彼女もやはり板垣や緑川さん達と同様に僕を信用していないだろう。
実は、彼女が入ってきた時、僕は少しながらに期待した。板垣ではなく松村さんが来たときに僕はもしかして解放されるのではないかと、淡い幻想を抱いた。だってちょっとは僕を可哀想だとか思うかもしれないじゃないか。だがそんなものは本当に意味のないまやかしでしかなかった。彼女らとしても僕のような得体に知れない人間を助けようなんて微塵も考えないだろう。
僕は顔を伏せた。
するとまた透き通った清流が声をかけてきた。
「もちろん、建前ですけれど」
僕が言葉の意味をイマイチ飲みこめないまま、顔を上げる。松村さんを見上げた。しかし彼女は本に目を落としたまま、微動だにしない。パラリとページをめくった。
何を考えているのか全く読めない。
――建前とはどういう意味だ?
誰が何の為に建前を並べなければならない?
「本音がおわかりになりますの?」
その時初めて、松村さんが顔を上げた。僕と目を合わせて、笑みに顔を歪めた。
その一瞬で僕に悪寒が走った。
――……猫を被っていた?
彼女が、監視が建前だ、と言った瞬間少なくとも僕はさらに期待はした。この状況を抜け出せるのではないか。板垣から本を回収できるのではないか。そのような事が頭にはよぎったのだ。
だが、そんな儚すぎる想像をこの松村さんの顔からは想像できない。
嫌な想像のみが頭の中で回転していく。
松村さんが僕を見ながら笑みを深めて、声を作った。声の清流が僕を支配しようと動きだした。
「多分、わかりますわよね? わざわざ私が監視なんて建前を使った時点で」
「…………」
「縄、解いて差し上げますわよ」
「…………」
「そんなに怖がらないでくださいませ。私、そんなに酷い事はしませんわ。ただ優さんがとても可哀想で縄を解きたくなっただけですのよ」
僕は一歩下がりたい衝動に駆られた。縄で縛れていなければ、間違いなく後ずさっていたことだろう。だがあろうことが松村さんは近寄ってきた。
ベッドから降りて、僕の目の前で中腰になる。
するといきなり僕のヒザに手を這わせた。
ツーと撫でるように僕のヒザを触って笑みを作る。
僕は一気に鳥肌が立った。
ダメだ。この子に関わってはいけない。
僕は目を泳がせてたまらず、口を動かした。
「な、縄と解いてもらえるんですか?」
「ええ、もちろんですの」
「じゃ、じゃあ、その、早めに解いてくれたら、後は僕はちょっと板垣に用があるの――」
「もちろん、条件がありますの」
松村さんの声が僕の声を
僕が松村を直視した。
蛇に睨まれたカエルのように動けなくなった。
まだ彼女は笑っている。
松村さんがフフッと声を作る。
「
その台詞は断る事そのものを断っていた。
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