第3話 僕、ヒントを探す。

 好奇心、猫を殺す。


 イギリスのことわざだったように思う。

 九つの魂を持った中々死なない猫ですら、好奇心が原因で死んでしまう事があるという、背筋がヒヤッとする言葉だ。僕はその言葉の意味を今更ながらに理解する事になった。


 軽い気持ちだった。ちょっと変わった薬なだけかもしれない。希望があるかもしれない。過去を変えられるのなら、可能性に賭けてみるというのも手なのかもしれない。言ってしまえば全て好奇心だ。だが僕は殺された訳じゃない。まだ生きている。

 僕は白い餅のような物体がライン上を流れていく工程を観察しながら、そんな物思いにふけった。今、僕は工場のような場所にいた。いや、これはまさしく工場なのだろう。小規模というだけで、機械から機械に白い餅のようなものが流れていく様は、テレビでみるお菓子の工場そのままだった。


僕は緑の作業着を着用しながら、白い物体が流れていく様子をつぶさに観察する。特別に小さい物のみを弾けと教わったが基準がわからない。流れてくる白い餅のような物体はほぼ均一に見える。特に小さい物など発見できなかった。


 僕は参考までにとベルトコンベアーの向こう側にいる板垣に視線をやる。彼も仕事としてここにいる。緑の作業着だって着ている。しかし彼はラインを観察する事をやめ、一人何かを口ずさみながら指揮者ごっこ遊びに興じていた。どうやら真面目にやるつもりはさらさらないらしい。


 僕はバカらしくなって、白い餅が流れてくるラインを見張るのをやめた。

 全くもって意味がわからないくらい状況に流されて僕はここにいた。あのキュバスとの会話の後、僕はパーガトリという施設の中にある工場に強制連行されたのだ。それも板垣に。しかも義務だからとか何とか。

 ちなみにその間、脱出できるような窓はなかった。


「何だよ?」

 突然、板垣が話しかけてきた。いや僕が板垣を見つめていたからだろうか。彼が何か文句でもあるのか、という具合で僕に牽制けんせいしてきていた。


「いや、特に何も……」

「はぁ。カズッち。お前初日なんだからサボるなよ。俺なんかを見つめるんじゃなくてちゃんとライン上を見つめろよ。ちなみに俺は一応これでも仕事してるんだぜ。遊んでる訳じゃないんだよ。……まぁ、あそこまでやれとは言わないけどよ」


 そう言って板垣は松村さんを顔で指した。

 松村さんはライン上における僕と同じ側に立っていた。僕と距離はあったが隣と言っていいのかもしれない。


「あれほどの美少女がこんな工場にいるもの滅多に見れない光景だろうけどよ、そんな美少女が工場のラインをジッと飽きる事なく見つめているというのも、なかなか凄い光景だろ?」

 僕は板垣の意見に全面的に同意だった。

 松村クリスティーナは誰が見ても美少女と形容するだろう。高貴な雰囲気を漂わせているのがまた、美しさに拍車を掛けているのだろうと思えた。


 それに彼女は精巧なお人形さんのようでもあった。

 青みがかった黒髪ツインテの縦ロール。瞳は完全に青で、肌もパウダースノーのように白い。声からして一〇代後半かと思っていたが、もしかしたら中学生くらいかもしれない。


 松村さんはそんな容姿をしながら、僕等と同じ緑の作業着を着ていた。そのギャップが彼女の本来持つ、生まれながらの美しさを際立させているように思える。

 作業着には何故かフリルの改造がいたるところに施されていたが、そんな華美な装飾など必要ないよう思えた。


しかしそんな彼女がライン上を穴が空くかというくらいに見つめている。会話は出来そうにないけど、真面目な子なのだという事は如実に理解できた。


「なんですの?」

 松村さんが、僕と板垣に向かってそう疑問した。

 当たり前だ。彼女からしたら二人のオッサンに見つめられている格好になる。気持ち悪い事この上ないだろう。僕は、突如頭を振って否定した。


「い、いや、別に……」

「聞こえていましたの。見ないでいただけます? 下品な視線と会話でわたくしけがれてしまいますの」

 ――この高慢こうまんチキめ。真面目な子だと、少しでも好感を覚えた僕がバカだったようだ。


「スゲェキツイ娘だけど、成長した姿が楽しみだろ?」

 するとにやけた顔で板垣が話し掛けてきた。

「…………。……板垣さん。あ、いや。やっぱ、いいです」

 なんか話をするのが面倒になってきた。


「何だよ。言いたい事があるなら言えよ。それとガッキーって呼んでくれてもいいんだぜ」

「いえ――」板垣においては無視しても面倒なのかもしれない。多分この男は僕が発言するまで僕が何を言おうとしたのかしつこく訊いてくるだろう。僕は仕方なく、「――松村さんの年齢を知っているんですか?」疑問に感じた事を正直に言った。もちろん、あんたは最低最悪だなという言葉は伏せておく。


「多分、十七だろな。確かそんな事を言ってた気がするぜ」

「……テキトーに言ってませんか?」

「いや。全く。で、何でそんな事を訊いてくるんだよ。まさかあれか? 手を出せる年齢なのか探りを入れたのか?」

「いや、誰がそんな事――」

「悪いことは言わない、やめとけって。特に夜這いなんかしたら、目も当てられないぞ。これは俺じゃなくて、前にいたやつが深夜にどうにか松村のいる区画に入ろうと画策(かくさく)したんだけどよ――」


 聞いてないよ。それに俺じゃなくてっていう部分が引っかかる。どう考えても板垣以外にそんな非常識な事を思い付く奴を想像できない。

「――どれだけ頑張っても鉄網が壊れねぇ。あの鉄網は難攻不落の要塞みたいになってやがる。それでもそいつはこの工場から鉄網を切る道具を作って、執念で行為に及ぼうとしたんだがよ。そこでそいつの身体に電流が流れたんだ」


「はい? 電流?」

「ああ。電流だ。鉄網に流れたんじゃない。そいつ自身の身体を巡るようにビリビリってな。それで気を失ってしまってよ。朝に目が覚めるまでそのままだった。あれは痛かったぜ。スタンガンなんてもんじゃねぇんだ。激痛が走ると同時に気を失ってしまうんだから、起きた瞬間よく生きてたな、って思ったよ。あ、いや、もちろん俺の話じゃねぇぞ」


 やっぱりお前の話じゃないか。それにしても電流?

「それは突然流れたんですか? それも鉄網経由じゃなくて?」

「ああ? 詳しい事は知らねぇよ。でもその時鉄網を触ってた奴が別にいてよ。そいつには電流が流れてこなかったって話だ。だから何経由かまでは特定できねぇよ」

 その言い方だと、何経由もないだろう。

 僕等の身体の中に電流を流す機械が設置されている事にならないだろうか。いや、現段階では答えの出しようがない。板垣の言うように電流が流れだした場所は特定できないのだ。


 ――いや、待て。

 僕はそれより重要な事に思い至る。確かめるように板垣に質問を投げた。

「板垣さん。その電流ってどういう条件で流れるんですか?」

「ああ? ああ、多分というかこれは俺の経験による推測だが、女性に不埒ふらちな行為を行おうとしたら流れるみたいだぜ」

「それは牢屋の中のみの話ですか?」

「いや。この工場でも、どこでも同じだ。場所なんて関係ねぇ。んで、それがどうかしたのかよ?」


 この男は気が付かないのだろうか。

 もし不埒ふらちな行為を行おうとした瞬間に必ず電流が流れているというのなら。それがどんな場所でも関係ないとしたら。

 僕等は常に監視されているという事なのだ。


◇ ◇


 あまり不用意な発言は控えたほうがいいようだ。


 いや、不用意どうこうではない。なにより、ここから出る算段をつけるべきではないだろうか。罰則もあり給料にもならない仕事をさせられる。過去を変える事ができない場所だというのなら、ここに留まっておく理由もない。


 僕は工場での仕事が終わった後、板垣と体育館のような場所でキャッチボールをしながらそんな事を考えていた。ちなみに昼ごはんを食べた後は、お昼休みだそうで、僕は板垣に連れられてここに来た。何故キャッチボールをしているのかは分からない。板垣に誘われただけだ。

 しかしこの体育館には全員集まらないといけないのか。特に何をする訳でもなく体育館の端で松村さんと緑川さんがチョコンと座っていた。特に滅茶苦茶美少女の松村さんが青い瞳で僕をジッと見ている。少しやりにくい。

 そんな中、突然左手のグローブに板垣からの送球が来た。


「おう‼ 上手いな、カズッち‼ よく瞬時に反応できたな‼」

 板垣が能天気な声を出している。あの男には遠慮というものがないのだろうか。というより僕が気付いていないと思ったのなら一声くらい掛けろ。

 僕は板垣へちょっとキツめに返球した。


「おおぅ! いい球なげるじゃねぇか」

 板垣がどこか兄貴面をしながらはしゃいでいた。僕は無視する。板垣のその能天気さに少しだけイライラとした。キャッチボールではなくもっとやるべき事があるだろう。思考の途中でまた板垣から返球がきた。僕がグローブで受ける。受けた球を眺めた。


「……あの、板垣さん」

「あ? 何だよ?」

「その、何でこんな事してるんですか、僕ら?」

「はい? カズッち、キャッチボールに意味なんてある訳ないだろ。高校球児の練習ですら肩慣らし程度の意味じゃねぇか。まぁ、でも、強いていうなら運動だな」

「いや、そんな事を言ってるんじゃなくて。何で、このパーガトリっていう施設から出ようとしないんですか? こんな運動している時間があったら、僕は出る方法を探したいんですが」


「あー。そういう意味か。意味ねぇから、そういうの。『質問と答え』だろ? そんなの普通にやって探せる訳ねぇじゃねぇか。いいからささっと球を投げろよ」

 僕は仕方なく板垣に送球する。そのまま言葉を発した。


「板垣さんも出る為の条件は同じなんですね」

「ああ、当たり前だろ。そこの松村も緑川も同じのハズだぜ。あいつら以前からいる奴らも同じ条件だったから」

「だったら尚の事、探しにいきませんか。その『質問と答え』っていうのを。皆で探したほうが見つかりやすそうじゃないですか」

「ああ? 散々やったっての、そういうのは。見つかんねぇよ、なんも」

「でも、わかんないじゃないですか。キュバス――」そういえばこれは偽名だったな。「――あの黒い服の男がヒントは出すって言ってた訳ですし」

「ああ、もう。うるせぇなぁ! 教えてもらえねぇんだよ、そういうのは!」


 大声を張り上げた板垣。彼は僕に思い切り返球してきた。

 僕の心中線を狙ったような速球を僕はグローブでどうにかキャッチする。


 ――危ないだろ。何だよ。

 そう思って、口に出そうとしたがやめておいた。


 板垣が「ああ、もう、やめだやめだ!」とグローブを手から外し、「クソつまんねぇキャッチボールになっちまったじゃねぇか。んだよ、新人にクセに口答えすんなっつーの!」とグローブをそのまま体育館の床に叩きつけたからだ。

「いや、ちょっと――」

 僕がどこかに行こうとする板垣を止めようとした。

 だが板垣はヒネた不良のように、僕を睨みつけて言った。


「んだよ、まだなんかあんのか?」

「まだって、まだ何も終わってませんよ」

「うっせーな。俺の中では終わったんだよ。いちいち掘り返すな。うっとうしい」

 鬱陶うっとうしいのはどっちだよ。僕は一呼吸入れて、どうにか落ち着く。


「あの、でもヒントがあるっていうなら、この施設内とかにもあるんじゃないですか?」

「ああ? 施設内たってよ、食堂に体育館に工場に図書館に映像室に、他にも色々あるんだぜ? で、そっからどうやってヒントを探せって言うんだよ。ない可能性のほうが高いからな、俺の経験上。それとも何か? ヒントのヒントでもまず探せって言うのか? アホらしい」

「でもやってみないと――」

「やったことあるから言ってんだよ! なんのとっかかりのない状態で探し物とか不可能だったんだよ!」

「じゃあそのとっかかりを――」

「どこにあんだだよ! 出せよ今すぐ! 出せねぇんだろ! あ? ほら、出してみろよ!」


 僕は閉口するしかなかった。確かにとっかかりになるものなんてない。だけど意見を出し合うだとか、知恵を絞るだとか、そういう努力もしてみるべきだろう。工場で働くのは午前中だけで、後は自由時間が続くというのなら、やってみるべきだ。前向きに考えてそうすべきだと僕は思っているが、板垣は完全に拒否している。なら今すぐに板垣が納得する根拠を出さなければ話が進まないが、僕にそんな根拠など出せるハズもなかった。


 僕が完全に口を閉ざしたのを見て、板垣がケッと鼻で笑ってどこかへ移動しようとした。


 するとその瞬間だった。

 僕と板垣の間を縫うように、か細い小さな声が、体育館の端ほうから聞こえてきた。



「……ありますよ……。……ヒントのヒント……」



 咄嗟に僕と板垣が視線を入口の近くに持っていく。

 入口の横の端で体操座りをした緑川さんが、僕らに向けてそう口にしていた。

 緑川さんは無表情だ。もっさりとしたショートヘアに眼を隠すような黒い大ふちの眼鏡。細すぎる体は、すぐ骨が折れそうに思えた。何を考えているのかわからないような無表情で僕と板垣を見つめかえしていた。


「なんだって?」

 板垣が余計な口を挟むなとばかりに言葉を放つ。

 緑川さんは板垣にひるまず淡々と答えた。


「……だからあるんです……。……ヒントのヒント……」

「はぁ? 笑わせんなよ、グリングリン。何でお前がわかんだよ。どんな場所にいっても部屋のスミでビクついてるような女に何がわかるってんだよ」

「……いえ、私がわかる訳ではないでんすよ……」

「なら、誰がわかるんっていうんだよ? あ? 言ってみろよ」


 緑川さんが僕をチラリと見たような気がした。目線だけだが、確かに僕を意識したように思える。何が言いたいのか。

 僕が彼女を見つめていると、緑川さんは少しのタメ作るように息を吸った。

 次の瞬間、彼女は消え入りそうな声で、しかししっかりと発音した。

「……む、武藤和也さん来る前にパーガトリにいた人が知っているんです……」


◇ ◇


 緑川さんに導かれるように、僕と板垣が並びながら廊下を歩く。


 やっぱり窓はない。薄ぼんやりと蛍光灯が光る灰色の廊下が続いてるだけだ。

 少し後ろに仏頂面の松村さん続いていた。彼女は会話に参加してこようとはしない。ただ僕らの後ろをトクトクと歩いてきているだけだった。遅れている理由は歩幅が小さいからだろうか。わからない。


 僕がそんな事を意識していると板垣の鬱陶しい声が聞こえてきた。

「カズッちが来る直前までいた奴ってあいつだろ? あのコスプレ野郎」

「……はい……。……そうです……」

「コスプレ野郎、ですか?」

「あ? ああ、なんか侍というか武士というか、そういうコスプレした奴だったな。えらく気合いも入っててよ、言葉遣いも古いんだ。『拙者は』とか使ってたな。そういや」

「……漫画とか、映画の見すぎなんですよきっと……。……気持ち悪い……」

 地味に辛辣しんらつな言葉を無表情でおっしゃる。


「で、何でその人が知ってるんですか? というか今はいないんですよね?」

「……ええ……。……だけど彼がこのパーガトリを出る直前に……、……急に図書館に通い出したんです……。……板垣さんは以前にヒントを探したと言ってましたけど……、……図書館は重点的に探しましたか……?」

「あ? 図書館なんて本しかねぇだろ? ほとんど探してねぇよ」

「……だったら何だったんだよ、さっきのキレ方は」

「あ? なんか言ったか?」

「……いえ」

「……とにかく着きました……」


 前をいく緑川さんが足を止めたそこ。そこには灰色の廊下に似合わない大きい扉があった。イギリスの王宮とかにありそうな華美な扉で、両開きである。緑川さんが両手でゆっくりと開いた。重そうである。全開にしたところで、彼女は僕らにチラリと視線をやって、そのまま入っていった。板垣も続く。僕も図書館の中に入ろうとした。


 しかし急に後ろから音がした。

 振り向いてみる。後ろの松村さんは右手のヒジを左手で押さえ所在なさげに立っていた。


「行かないんですか?」

「……直ぐに、行きますわ。お先に入ってください」

 青みがかった黒髪をフルフルと振った松村さん。彼女は僕から視線を逸らして下を見ていた。何故そこまで距離をとっているのか。気にはなったが、しかし図書館に入る事を優先した僕は彼女を放置してそこに入った。扉を一歩くぐる。


 開けた視界には二十畳ほどの空間が映っていた。中規模ビルのワンフロアというところか。図書館というにはあまりにも小さい。名ばかりだ。入口以外の四面を本棚が埋め尽くしているが、蔵書量はあまり多くないように見える。本棚がスカスカどころか、何も入っていない本棚すらあった。


 部屋の中心にある大きな四人掛けテーブルを間に挟み、板垣と緑川さんが会話をしていた。

「で、どこにヒントがあるんだよ?」

「……いえ、そこまでは……」

「あ? 何だよ、それ? お前何の為にここに来たんだよ」

「……いえ……、……だから……、……ヒントのヒントしか知りませんし……」

「ふざけんッッ――」

「板垣さんはもういいから、僕らでヒントらしきものを探しましょう。本しかない訳ですし、本でしょう多分。気になるタイトルがあったら、この大テーブルの上に置いていくって事で」


 板垣は本当に話を聞いていたのか?

 僕は緑川さんに声を掛けてみる。彼女は無言で無表情で頷いた。僕と緑川さんが分かれて本棚に近付いていった。


「ちッ、クソメンドクせぇな」

 結局、板垣も探し始めた。


 だったらつべこべ言わず初めから探せよ。


 そのすぐあと、松村さんも図書館に入ってきて本棚の前に立って本を探している様子だった。彼女は趣旨を理解しているのだろうか。無言だが背表紙のタイトルを見ている辺り話は聞こえていたのだろう。耳が良いようだ。

 僕も本棚に並べられた書籍の背表紙を見ていく事にした。


『〇〇と××の生態系について』『〇〇と××の未来について』謎の本が二冊あった。〇〇と××の部分は掠れていて読めない。使い古されている事に間違いはなかった。本来何が書いてあるのかわからなかった。他にも『正教会、カトリック、プロテスタントの違い』とかの宗教関係の本も並べられている。だが別段気になる本はない。そのコスプレ野郎というのは何故そこまで図書館に通っていたのか。大した蔵書量でもないし、特別に好きな本でもあったのだろうか。


 僕が一段一段と本棚を探していき、三段目に差し掛かるタイミングでおかしなタイトルの背表紙を見つけた。



不来股優こずまたゆう、十七歳の後悔』



 ――……何でこんな本がある。

 僕の喉が一瞬で干上がった。目を疑う。これは夢か何かなのか。


 改めてもう一度その本を見てみる。緑色のハードカバーをした背表紙。確かに書かれている『不来股優』と。英題も書かれている。不来股優の部分はローマ字だ。


 喉はカラカラなのに、嫌な汗だけは滲んだような気がした。ごくりと唾をのみ込んだ僕はそのハードカバーを本棚から恐る恐る取り出した。手の上に広げてパラパラとめくる。一瞬にして『カメラ』という単語が飛び込んできた。僕は咄嗟に本をパタリと閉めた。


 クラッと眩暈めまいがした。一度大きく呼吸する。バレていないかと、周りを窺った。松村さんは背表紙に集中している。緑川さんは本をパラパラとめくっている。板垣は探しているのかどうかすら分からない程、本棚の前をうろちょろしているだけだった。


 咄嗟に僕は緑のハードカバーを、着ている作業着の中に隠す事を思い付いた。本が見られないように身体を丸めこみながらズボンとベルトで本を挟む。半分くらいは隠れただろうか。残りは上着でどうにか見えないようにした。

 その刹那だった。


「おい、何を隠した」

 僕は瞬時に振りかえった。

 板垣が僕からは遠い本棚の前から僕を真っ直ぐに見ていた。

 彼は回り込むように僕に近付いてくる


「今、何か隠したよな? 何を隠した?」

 僕の行動の不審さを指摘した。

「……いえ、隠してませんよ」

「いや、隠しただろ。俺は見てたぞ」

 余計な事をッッ――。


 板垣はさらに僕の近くによる。振り返った僕は後ずさってしまう。だが板垣はそれでも詰めてくる。僕の後ろには本棚しかない。逃げ場がない。左右を確認したが、緑川さんと松村さんが何事かと、僕を見ているのがわかった。どちらにしろ逃げられない。


 僕がそんな迷いを見せていると、板垣に作業着の胸倉を掴まれる。服をたくしあげられた。アッサリと本を引き抜かれてしまった。

「なんだ、こりゃ? なんて読むんだ?」

「……どうしたんですか……?」

 緑川さんが僕等に寄ってくる。松村さんは遠巻きにするように僕を見ていた。


「コイツがこの本を隠したんだよ」

「……何ですか……、……この本……? ……というより……、……何て読むんですか……? ……ふ……、……くる……? ……題から察するに人名のようですけど……」

「で、何だこの本は?」

「……いや、別にそんな、何の関係もない本ですよ」

「関係なかったら隠さないだろ? それにこの『不来股』ってのは何だ? 人の名前か?」

「…………」


 僕は答えられなかった。板垣から視線を外す。答えられる訳がなかった。答えてしまったら一気に信用を失くす。僕の事なんて誰も信用しなくなるだろう。

 板垣が依然として僕を詰めるようににらんでいた。


 だが僕は一切口を開くつもりはない。このまま黙ってどうにか時間が過ぎるのを待とう。

 僕がそう決断した時だった。



「それ『不来股こずまた』と読むんですのよ。母の古い知り合いにそんな苗字の方がいましたの」



 松村さんの声が聞こえた。

 板垣と緑川さんの後ろ。彼らの背に隠れるているかのように、彼女は言った。

 板垣が振り返る。


「で、それで、何でカズッちがそいつについて書かれた本を隠さなきゃならねぇ?」

「そんな事知りませんわよ」

「ちッ、相変わらず使いもんになんねぇお人形さんだな」

「ッッ――。私は――」

「……あッ……‼」


 緑川さんが突然声を上げた。

 僕の心臓が跳ねた。咄嗟に緑川さんに視線を向ける。

 緑川さんが何かに気が付いた。

 ローマ字で書かれていたら、気付く事もあるだろう。


 マズイ。

 マズイ。

 マズイ。

 マズイ。マズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイ――。


「あ? 何だ急に喘(あえ)ぎ声を出しやがって。誰もてめぇのなんか聞きたくねぇんだよ」

「……いえ……、……その……、……わかったんです……」

「何がだよ」

「……不来股優が何なのか……」

「どういう意味だ?」

「……この不来股優っていう名前……――」


 緑川さんが表紙見ながら、続きを口にしようとする。僕が緑川さんの口を押えようと本棚から身体を離した。しかし直ぐに本を手放した板垣に押さえつけられる。

 ジタバタ暴れた。だが拘束は解かれない。僕は本棚に釘づけになった。

 そんな僕を見た緑川さんが本を拾うと何のためらいもなく口にした。



「――……アナグラムになっているんですよ……」


 

「アナ……? 何だって?」

 板垣が僕を押さえつけながら緑川さんに問う。

 彼女は表紙を指差しながら続けた。


「……アナグラムですよ……。……この表紙を見てください……。……英字でタイトルが書いているじゃないですか……。……その中で不来股優だけはローマ字でつづられているじゃないですか……」

「あ。ああ。それがどうした? 人の名前なんだから当たり前だろ」

「……KOZUMATA YUと書かれていますよね……。……アナグラムです……。……つまり文字を並べかえるんです……。……Mを一番初めに……。……次にU……。……その次はT……――」

 緑川さんが説明を始める。


 板垣と松村さんがその説明に耳を傾けている。

 O、K、A、Z、U、Y、A。

 一つ一つを指で示していく。緑川さんが全てのローマ字を正しい順番に並び替える。

 板垣と松村さんが理解した瞬間、僕を咄嗟に仰ぎ見た。

 僕は視線を逸らす。だが最早意味がない。何も言えない。心臓を止めたように固まったいた。するとそんな僕にトドメさすように緑川さんが、最後の一撃を口から放ったのだ。

「――……つまりMUTO KAZUYA……。……カズッちさんの名前になるんですよ……」

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