第2話 僕、牢屋にて。

 国が国を征服した後、二つの選択肢があるという。

 一つは征服をした国をまるで箱入り娘のお姫様のように扱うか。

 もう一つは完全に植民地化し、家畜のように扱うか。

 そのどちらかだと偉人は言う。


 でも、そんな教訓をわざわざ偉人がのたまわなくても、僕にだってその二つの選択肢しかない事がわかる。

 そして僕のような凡人が考え付くのはいつだって後者のほうだ。

 だから僕は今の状況に理解が追い付かなかった。

 こんな宙ぶらりんの状況は、果たしてどういう意図が隠されているのか。僕は目覚めた瞬間に、そんな現実感のカケラもない感想を抱いた。


 僕は今、何故か牢屋の中にいた。

 それも一つの牢屋を鉄網で四分の一に区切っただろう、一部屋に。

 僕はその一部屋、いや区画と言ったほうが適切か。その場所でベッドの上に寝かされていた。

 なんだが頭がボーとしている。何かおかしい。

 僕は無意識にポケットを探ってみた。


 携帯がない。財布もない。何かやったか? 薬を飲んで? 路上で寝ていたとか。いや全く記憶にない。思い出そうと首を捻ってみても身体が痛むだけだった。

 すると突然、隣区画の牢屋から声が聞こえてきた。


「おぅ、新入り! ようやく落ち着いたのか?」

 男の、それも中年っぽいガラガラとした声だ。

 僕の右隣りから聞こえてきた。そちらを見ようと顔を向けたが、牢屋自体が暗く、男の顔が見えなかった。

 男が調子よく続けた。


「って、ここからじゃ見えねぇな。よっと」

 男の影がベッドから降りたような気がした。多分こちらに向かってきている。足音がしていた。確実にこちらに来ている。

 男が鉄網の前までくると、ヌッと姿を現した。

 男は中年というには少し若い。人好きしそうな笑み。見ようによっては三〇代くらいに見える。だがきっと四〇代だろう。ところどころにシワが寄っている。それに僅かに髪が薄い。灰色のよれたスーツが余計に四〇代に思わせた。実際のところ年齢はイマイチ判別がつかなかった。


「俺は、板垣大輔っていうんだ。おしいところがカッコイイだろ。ガッキーって呼んでくれてもいいぜ」

「…………?」

「いや、みなまで言わなくてもいい。わかる、わかるぜ、その気持ち。一体ここはどこなんだ。何が起こっている? 何で牢屋なんだ。色々疑問は尽きないと思うが、とにかく自己紹介といこうぜ。これから共同生活になるんだからよ」

「…………」

「おいおい、反応してくれよ。まさか、あれか、今度の新入りは声に障害を抱えているとか?」

 あまりに無神経すぎやしないのだろうか。


「……僕は、普通に喋れますよ」

「おお‼ そりゃ良かった‼ まさかと思って、少しだけ後悔しちまったよ。喋れない奴に、声に障害が‼ なんて最低だろ?」

「……ええ、まさに最低ですね。それは」

「だろ? 良かったよ、俺。最低な奴にならなくて。で、新入り。お前の名前はなんていうのさ? ずっと新入りって呼ぶのも面倒だろ?」

 面倒かどうかはさておき。何なんだ、この状況は。顔も見た事もない最低男に絡まれている。それも牢屋で。僕的には自己紹介より今の状況を知りたかった。


「……あの、ここって何なんですか?」

「ああ、分かってる。分かってる。その質問をしたい気持ちはとてもよく分かってる。だけど先に自己紹介といこうぜ。質問なら後でいくらでも答えてやるからよ」

「…………。……む、武藤です。武藤和也(かずや)。武士の武と藤の花の藤。和算の和に、これ如何(いか)ほど也(なり)みたいに使う也(や)です」

「じゃあ、お前さんはカズッちな」

「は?」

「で、俺の隣の部屋。部屋っていっても牢屋の四分の一だが。カズッちにとっては対角線上にいるのが、松村クリスティーナ」

「あの、勝手に人を紹介しないでいただけますこと。あなたのような下賤げせんな者に呼ばれる名前なんてありませんわよ」


 僕の対角線上方面から女の子の声が聞こえた。

 声だけで判断するならかなり若い。まだ一〇代後半くらいだろうか。透き通るような声に若干の鋭さが加わったような声音(こわね)だった。


「それからカズッちの隣――」板垣は全く気にしていないように続けた。「――もちろん俺じゃない方の隣の部屋にいるのは、グリングリン。声は小さいけど、意外と会話に参加してくるツンデレ娘だ」

「……グリングリンじゃありません……。……私の名前は緑川翠みどりかわみどりです……。……それに何ですかツンデレ娘って……。……かつて私がツンデレな事ありましたか……? ……ないですよね……。……なに訳の分からない事言っているんですか……。……いえ、板垣さんには何を言ってもムダですね……。……黙ります……」


 本当に消え去りそうな声だった。多分注意深く聞いてなければ、耳に入ってこないだろう。こちらもなんとなく一〇代くらいのような気がした。

「な、意外と会話に参加してくるだろ?」

 板垣が楽しそうにそう言った。

 そして付け加えるように、

「まぁ、そういう事だから、これからよろしくな。カズッち!」

 と言ってまるで全てが収まったかのように締めくくった。

 僕からしてみれば、問題は一切解決できていなかったというのに。


 ◇ ◇


 僕はとにかく状況を知りたい。

 というよりこんな牢屋にいる理由なんて一つもないのだ。

 僕は最も話が訊きやすそうな板垣に話しを振ろうとした。


「あの……――」だが話しを振るまでもなく板垣が僕の声に反応する。鉄網のすぐそばにある得意顔が急に興味津々の笑顔になった。ニヤニヤしている。気持ち悪い。「――ここってどこなんですか?」


「ああ、やっぱりそれ訊くよな。訊いちゃうよな。だったらこの板垣大輔が教えてやろう。ここは、牢屋だよ」

 コイツ、人をおちょくってんのか?

「待て、待て。そんな怖い顔すんなよ。なんだよ、ちょっとしたジョークじゃねぇか。ユーモアのない奴だな。まぁいいや。んで、ここがどこか、って質問だよな?」

「はい」

「知らん」

「は?」

「だから、知らないんだって。ここが何県何市何区の何町で何番地です、なんて知ってる訳ねぇだろ」

「……え、でも、質問ならいくらでも答えてやるって、さっき……」

「そりゃ知ってたら答えてやるよ。むしろ俺が知りてぇよ。ここどこなんだよ? ん? 答えてみろよ。な、答えらんねぇだろ? 知らねぇもんは答えられねぇんだよ」

「……あ、はい」


 多分コイツと話しても時間の無駄だ。

 僕は板垣をメインターゲットから外して、松村さんという女の子? に声を掛けた。


 今も牢屋の対角線上にいるだろう。

 鉄網の向こうの影に問う。

「あの、松村さん」

わたくしを松村と呼ぶな」

「…………。……えっと、クリスティーナさん?」

「私をクリスティーナと呼ぶな」


 だったら何て呼べばいいんだよ。

 なんだか松村さんとは話が合わないような気がした。どころか話しすらできないような気がした。

 僕は最終的に緑川さんと呼ばれる女性に話しかける。


「あの、緑川さん?」

「…………」緑川さん。

「…………」僕。

「あのー。もしもし、緑川さん?」

「…………」


 緑川さんの区画で影がガサリと動いたような気がした。だが何も答えてはくれない。どうやら意図的に無視されているようだった。

 意外と会話に参加するツンデレ娘じゃなかったのかよ。あれか? もしかしてツン期なのか? だとしても全くもって嬉しくない上に状況を選べと言いたい。


 どうすりゃいいんだよ、この状況。

「あー、そいつらに話し掛けたって無駄だぜ。だって知らねぇんだから。答えようがねぇよ」

 また板垣が話しかけてきた。

「そもそもな。ここにいる期間は俺が一番長ぇんだ。質問があればとにかく俺に訊け! な! 知ってる限りで答えてやるからよ」


 何故か急に兄貴面してきた。うっとうしい事この上ない。だけどまともに会話が成り立つのが板垣しかいない以上、板垣に質問を投げなければならないのは明白だった。


 僕は浅く息を吐く。板垣に尋ねた。

「……こここがどこかは分からないのは分かりました。何か変な日本語だけど分かりました。じゃあ出る方法は? こんな牢屋にずっといるんですか? そんな訳ないですよね。ここから出る方法も知らないって言うんですか?」

 僕は何となく板垣はまた知らねぇと答える気がした。この男は多分口だけで何も知らないのだろう。


 だが予想に反して板垣は、

「あるよ」

 とケロッとした表情で答えた。

「はい? ……何が?」

「だから、出る方法」

「え、嘘? こ、ここから……?」

「はぁ? カズッちが訊いてきたんだろ。ここ以外どこがあんだよ」

「いや、けどさ……」


 板垣達は出てないじゃないか。出る方法があるんだとして、出ていないという事は板垣も松村さんも緑川さんもここが好きなのか? そんな風には決して思えないけど。

 僕は、じゃあ、と前置きして板垣に言った。


「どうやって出るんですか?」

「簡単だよ――」そう言って板垣がまたニヤニヤと笑いながら、僕を指さして続けた。「――そこにスイッチがあるのがわかるか?」


 板垣は僕を指差していた訳ではなかった。

 僕の後方。灰色の壁の事を言っていたようだ。

 僕はベッドの上に座りながら、身体をねじって後ろに視界をやった。


 確かに何かがあった。赤いボタンというべきだろうか。火災警報機の非常ベルに似ている。しかしこれがどうしたというのだ。


「それを押してみろ」

 後ろから板垣の声が聞こえる。

「いや……」

 僕は振り返って板垣を見る。まだニヤニヤしている。

 なんなんだよ。


「いいから押してみろって。別に危険な事は何もねぇから」

「けどさ……」

「一番長い俺が言うんだ。安心しろって」

 なんだがもう面倒臭くなってきた。

 板垣と話す事がではなく、板垣に話し掛けられる事がだ。


 僕は仕方なく壁際まで寄った。ボタンに手を掛ける。しかし押しても大丈夫なのだろうか。不安になるが、板垣がジッとこちらを見ているのがわかる。

 もうどうにでもなれ、とやけくそになりながら僕はボタンを押した。

 その瞬間だった。

 ガンっと大きな音がした。急に物体が動いた音だ。いや違う。明確に言える。ベッドの足を向ける方で扉か何かが開いたのだ。


 驚いて身体をすくませていた僕はそっと、そちらをうかがってみる。体をベッドの足の方向へ乗り出す。暗くてよく見えなかったけれど、そこには隠し扉のようなものが開いたのか、暗い空間が続いていた。


「な! 危険な事は何もないだろ? ただ単純に外に続く扉が開いただけだ」

「……これが外に出る扉だっていうんですか?」

「だから、さっきからそう言ってんじゃねぇか」


 そうは言うが明らかにおかしいだろう。牢屋の中に外へ出る道があるなんて。なんの為の牢屋なんだよ。


 僕はいぶかった。

 そもそもこんな簡単に出られるのなら、何故板垣達は外に出ない? それが最もおかしいじゃないか。


 だけど僕の事なんてお構いなしという風に、板垣が言った。

「まぁ、一回その道に入ってみろよ。それも経験の内だ」

 またニヤニヤしている。もう板垣なんてどうでも良かったけれど、行動する前にこれだけは聞いておきたい。

「行くのはいいけど、こんな簡単に外へ出られるのなら、なんで板垣さん達は外に出ないんですか?」

「いちいちうるさい奴だな。いいから行ってみろって。別に危険はなんもなぇから。それともビビっちまってるのか?」


 ビビるとかビビらないとかの問題じゃないだろ。

 僕はもう板垣の相手をするのが億劫おっくうになって、扉の向こうへ行く事にした。


 僕はベッドから立ち上がる。

 暗い空間の前に立った。

 少しだけ足がすくんだ。

 目の前の暗い空間はまるで全てを飲みこもうしているようだった。永遠に漆黒が続き、外ではなくどこか別のところ、それこそ地獄なんかに続いているんじゃないかとすら思えた。


 だが、それでも外に繋がっていると板垣は言う。

 今はその発言を信じるしかない。信用に足る人物かもわからないけど。


 僕は息を深く吸って一歩を踏み出した。左足から暗闇へと入っていく。

 僕がそうして二歩三歩と踏みしめていくと、後ろから声が聞こえた。

 ガラガラとした声。多分板垣だ。

「ちゃんと質問に答えられるといいな」

 なんだかよく分からない言葉を投げかけられたが、僕はとにかく暗闇の奥へと進みだした。


◇ ◇


 暗闇は案外短かった。

 というより暗順応というべきなのか。視界は徐々に確保されていき、道なんかはハッキリと見えだした。

 僕は壁に手を突きながらゆっくりと進む。

 壁に手をついて歩きだして二分くらいで壁にぶつかった。


 いや、それは壁ではなかった。

 多分、扉である。光が長方形にかたどった何かから漏れている。さらに薄ぼんやりとした視界の中で金属らしい取っ手が見えた。やはりこれは扉なのだ。僕は取っ手を手にとり、ガチャリと捻る。扉を開けた。


 すると明るい場所に出た。

 先ほどまでとは違い、異常なくらい白い蛍光灯に照らされた部屋が出てきた。なんだがドラマとかで見た事がある。

 その部屋は刑事ドラマなんかで出てくる面会室に似ていた。似ているどころかまるっきり面会室だった。


 部屋の中央にはガラスの区分けがしてあり、中央には声が聞こえるよう円状に穴がいくつか空いている。

 その手前には黒いパイプ椅子があった。多分ここに座れ、とそういう意図なのだろう。しかし座ってどうしろと? 僕は一体誰と面会しろというのか。僕が困惑していると、ガラスの向こうにあった扉が急にガチャリと開いた。


 人が出てくる。

 僕が咄嗟に顔を上げる。ある男が部屋に入ってきた。


「は?」

 思わず声が出た。

 部屋に入ってきたのはあのスーツの男だったのだ。マフィアのような男は部屋の中だというのに、黒いハットを被ったまま感情のわからない笑顔を張り付けていた。スーツの男がガラスの向こうで大きい欠伸を漏らす。

「ああ、もう来られましたか。お早い事で。それともあれですか? 意味も分からずここに来ましたか? せっかちな事です」


「お前ッ‼」

 スーツの男の態度がスイッチになったのか、僕の中で何かが弾けた。

 僕はガラスの区分けまで勢いよく近寄る。声を放った。

「お前ッ‼ なんだよここはッ‼ 僕をどこに連れてきた‼ 何だよ牢屋って‼ こんな話は一つも聞いていないぞ‼」

「そんなに息を荒立てないでください。それに私は嘘なんて一つも言ってませんよ」

「ふざけるなッ‼ お前は薬を飲んだら過去が変えられると言っただけだ‼ こんなところに連れてこられて、牢屋に入れられるなんて一つも説明しなかったじゃないか‼」


 スーツの男がわざとらしく溜息を吐いた。

 異常なくらいカンに触った。

「おいッ‼ 話を――」

「まぁ、お待ちください。順を追って説明しますので。そんな剣幕で詰め寄られたら私も説明しにくいですよ。それとも何ですか? このままあなたが怒鳴りつくすだけで終わりにして欲しいですか? 構いませんよ私は。このまま退席させてもらっても」

「ッッ…………‼」

「私の話を聞きたいのなら、どうぞお掛けください。そちらのほうがあなたも楽でしょう」

「…………ッッ」


 クソッ。

 僕は仕方なく男の言う事に従った。ガラスの区分けの手前にある黒いパイプ椅子に乱暴に座る。だからと言ってスーツの男の言に僕は従い続ける意思はない。そういう意味を込めて僕は男を睨んだ。


「そんなに睨まないでください。でも、あなたは話がしやすくて助かります。板垣さんなんて一時間近くは怒鳴り散らして、話が全く進まなかったくらいですし――」

 あの男がそういう態度に出ている姿を容易に想像する事ができた。

「――まぁ、今はあまりその話は関係ありませんね。では、話を始めますか。と、その前にまずあなたの言った言葉の中に訂正が二点あります。まずそこからお話しましょうか」


「…………」

「まず、ですが。私の名前はお前ではありません」

「……そんなの分かっていますよ」

「はい。普通の方はわかっていただけますが、偶に変な方もいらっしゃいますので」

「…………――」どうだっていい。だけど呼称がないのもやりづらい。僕はじゃあ、と尋ねた。「――じゃあ、なんて呼べばいいんですか?」


「そうですね。我々の名前としては、ドリーム・キャッチャーと呼んでもらいましょうか。そんな名前の組織という事で。そしてさらに私個人を呼称するなら、うーん、キュバスでどうでしょう」

「どうでしょうって……――」別に僕としてはドリーム・キャッチャーであろうと、キュバスであろうと呼び方の定義をしてくれるならどうでもいい。この物言いだとどうせ偽名だろうし。「――特に問題は……」


「なら決まりです。私の名前はキュバスです。どうぞよろしくお願いします」

「……よろしくお願いします」

「では訂正の二点目といきましょうか。私は過去を変えられるなんて一言も言っていませんよ」

「……いや、そんな事はない……ハズ、ですよ。確かにあなたはあのバーで僕に言ったハズだ。過去を変えられると」

「いえ私は『今』を変えられると言ったんです。『過去』だなんて、そんな言葉を放った覚えはありません」

「同じじゃないですか。過去を変えなければ、現在は変わらない。そうじゃないですか? それに仮に『今』を変えられると言ったのかもしれませんが、何も変わってないじゃないですか」


「おや? あなたの日常は牢屋に入れられる事が普通だったのですか?」

「…………」

「そうでないとしたら、『今』が変わったという言葉もあながち嘘じゃないでしょう。もちろんそういう意味ではありませんが」

「じゃあ、どういう意味で言ったんですか?」

「今はお答えできません」

「いや、それはおかしいでしょう。説明してくれるんじゃなかったんですか?」


 僕がそう詰問するようにガラス越しのキュバスに問う。

 だがキュバスは何も言わず僕を見つめた。底の読めない笑顔を張り付けたまま、彼の口は動きそうにもなかった。どうやら答える気は毛頭ないらしい。


「……わかりました。もういいです。それを答える気がないのだったら、まず今の状況を説明してください」

「ご理解いただけて感謝の極みです。今の状況というのは、牢屋に入れられている事ですよね? 簡単です。あなたは牢屋に入れられているんですよ」

「だからッ、その理由を説明してくれって言っているんです‼」

「おや? 私に退席してくれと言っているんですか?」

「…………ッッ。すみません。説明してください」

「いいでしょう。何故あなたが牢屋に入れられているのか。これにはとてもシンプルな理由があります。答えて欲しい質問があるからです」

「はい?」

「だから質問ですよ。あなたに質問があるんです。その質問に対してあなたには解答を答えていただきたいんです」


 意味がよくわからなかった。いやキュバスの言葉の意味がわからなかったのではない。そんな事をする意味と意義が全く想像できなかったのだ。もし質問があるとしたら、それこそあのバーで尋ねてくれればそれでいい。僕だってわかる限りで答えるだろう。そんな事の為に何故わざわざ牢屋に入れられなければならないのか。

 僕は最早能面ではないのかと思えるキュバスの笑みに向かって、バカバカしくなって言った。


「なら、今その質問をしてくださいよ。僕が答えられる限りで答えますから」

「いえ、それはあなたが考えるんですよ」

「…………?」

「わかりませんか――」

 キュバスの能面が崩れた。彼の口の端がニヤリと歪む。笑い顔というのは全く変わっていないというのに歓喜に溢れているような気がしたのだ。キュバスが突然、両手を広げて大仰に言った。



「――簡単に言いましょうか。つまるところ、あなたには、――」



 キュバスが満足したような顔になって続けた。

「――そんな誰にでもできる、しかしあなたにしかできない事をやって欲しいのですよ」


 …………。

 ………………。

 ……………………。

 そんなの、無理だろう。

 僕は漠然とそう言葉を返したくなった。


 だって僕が求められている行動はつまり、キュバスの考えている事を理解し、その上でキュバスが好む答えを探し出さなければならないという事なのだ。

 出会って間もない人間の思考回路を把握するなんて容易ではない。いや不可能に近いだろう。無理難題を押しつけられただけじゃないか。僕は身動きもできなかった。


「そんな途方もないような顔しないでください。大丈夫です。私の事を理解していただけるようにちゃんとヒントのようなモノを出しますよ」

「……い、いや、そんな問題じゃないでしょ! 不可能じゃないですか、そんなの! そ、それにそんな事をして何の意味があるんですか?」

「一つは答えられます。不可能ではありません。やってやれない事はないと思います。それと、意味があるかどうかという問いに関して言うなら、我々にとっての意味はお答えする事ができません。ですが――」

「……ですが?」

「ですが、あなたにとっては意味がちゃんとあります。何故なら、質問に答えられなければ、あなたはあの牢屋から出られないからです。あの牢屋を含めたこの施設、パーガトリから」

「つ、まり…………」

「答えを探しださなければ、あなたのいるそのガラスの向こうからこちら、つまり外に出る事ができない。そういう事です」


 …………。

 ………………。

 ……………………。


 い、いや、待て。おかしいだろう。何でこんなものに付き合わなければならない。三○過ぎくらいの男の思想をトレースして、好みの答えを探しだすなんて茶番を、僕がなんでしなければならない。というよりそんなもの不可能だ。ここから出す気がないとしか思えない。


 僕が反論しようとしたところでキュバスが席を立った。

「では、私はこれにて。幸運を祈っていますよ」

 黒いハットを被ったまま一礼したキュバスが面会室を出ようとしていた。

「……ま、待て。あの、あれです。か、過去は変えられないのか……」

 僕のその声は弱弱しかったのか、あるいは聞こえないフリをされたのか、キュバスは、

「報告会でまた会いましょう」

 と訳の分からない言葉を残して去った。


 面会室に静寂が訪れた。

 僕はとにかくここから出たい一心で座っていたパイプ椅子をガラスにぶつけてみた。

 ガンとガラスが揺れたが割れそうにはない。その後、僕は何度もパイプ椅子を使ってガラスを叩いた。しかしどれだけ叩いてみてもガラスにはヒビすら入らなかった。

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