幼かった僕、一七歳。

百舌鳥元紀

第1話 僕、飲んだくれ。

 結婚は人生の墓場だ。


 なんて格言めいた事を言う人がいるが、そんな人でも結婚式当日だけは例外だろう。

 これほど暖かく大勢の人間に祝ってもらえる日は、人間の一生の中で一度あればいいほうだ。


 会場に溢れんばかりの拍手。

 友人の出し物。

 恥ずかしくなるような、でも嬉しくなるような若い時のエピソード。


 それら全ては花嫁と花婿を祝福する為のものだ。

 この場を墓場と確言する人間がいたら神経を疑う。もはやそんな人間は結婚式に来る資格がない。


 僕は今日の主役の一人。花嫁である川上零名かわかみれいなの笑顔に見惚れながら、そう思った。

 彼女のほほが上気している。サクランボのように頬を染め、嬉しそうというより幸せそうにしている。


 僕はそんな彼女の隣にいる。

 同級生皆が写真を取ってくれているのだ。

 僕も嬉しそうにしているのだろう。

 零名が幸せそうにしていて、僕が悲惨な顔などするハズがない。

 同級生同士で撮った写真に、僕はこれ以上ない幸福な笑顔で写っている事だろう。


 シャッター音が鳴る。

 そのすぐあと、皆で喋り合った。


 あの時のお前はこんなんだったよな、とか。

 実は俺、あの時誰々が付き合ってたの知ってたんだ、とか。

 そんな昔懐かしエピソードに移行する。


 だがどれもこれも、僕の耳には入ってこない。

 僕の耳に唯一聞こえてきたのは、

「お前、よく、結婚式に来れたよな」

 という一言だった。


 僕は写真を撮り終わった後、新郎新婦から少し離れた場所で彼女らを見守っていた。

 すると友達が、僕にそう言ったのだ。

 その友達は僕に近寄ってくると、さらに続けて軽い口調で話かけてくる。


「それも、隣に写真まで撮りに行ってさ。いや、別に責めてる訳じゃないんだけど、いい根性してるよなって思って」

「……僕だってそう思うよ。我ながら、なんて行動力だとね」

「それを、高校時代に発揮できれば良かったんだけどな」

「……ごもっともだよ」

「まぁ、今更の話だな。もう六年も前の話なんだから」

「…………」


 僕は何も言えなかった。

 今更。

 そう今更なのだ。

 一体いつの時代に想いをせて、僕はわざわざ隣に写真まで撮りに行ったのか。

 僕がはしゃぐように笑っている零名の表情を見た。


 …………。

 ………………。

 ……………………。

 僕は自分の席に戻る事にした。

 純白のテーブルクロスが敷かれた丸テーブル。テーブルの上にはコース料理のメインディッシュがのっている。何かわからないけど肉だ。


 さらに赤ワインがある。僕は滅多に赤ワインなんて飲まない。

 いつもはコンビニで買ったビールを一缶飲む程度のものだ。

 だけど今日は何故か、赤ワインを飲んでは、おかわりをした。飲んでも飲んでも飲み足りない。


 メインディッシュが肉だからだろうか。きっと、多分そんな理由で間違いないだろう。

 赤ワインを飲んでは、僕はそれが自分の血肉となっている気分だった。


 飲んだ。

 飲んだ。


 友達が、

「お前、ちょっと、飲みすぎだよ」

 なんて言葉を掛けてきたが、それでもワインを口に入れる事をやめなかった。


 僕の頭が回らなくなってきた。

 思考が上手くまとまらない。


 しかし、そんな状態になってまで僕は一つの言葉が頭から離れなかった。


 結婚は人生の墓場だ。


 誰が初めに言ったかは知らないが、えらく浸透した格言らしきものだ。

 だけどそんな言葉に僕はもっと素晴らしい格言で言い返そう。

 結婚を墓場だと言い切る浮ついた奴らに伝えてやろう。


 結婚式当日だって人生の墓場だ。


 どうやら僕は結婚式に来る資格のない人間だったようだ。


 ◇ ◇


 気が付いたら、どこかのバーにいた。

 場末という単語がこれほど似合うバーもないだろう。

 箱全体が薄暗く、電灯はチカチカしている。電球くらい替えろよ、接客業だろ。そう思うものの、こんなお店なら仕方ないと思い直した。


 バーには五席ほどのカウンターしかない。そのカウンターにすら僕と、スーツ姿の男と、どこかのキャバ嬢らしき女が座っているだけだ。


 キャバ嬢らしき女はどうやらバーのマスターとの話にご執心しゅうしんなようで、僕が目を覚ましてからずっとマスターと話し込んでいた。

 どうやら愚痴吐き大会を開いているらしい。


 僕は何故こんなところにいるんだろうか。

 記憶がない。ここには結婚式に参加した人間もいない為、僕がどういった行動をとったのかすらわからない。

 今は何時なんだろうか、と疑問しても何故か腕時計がなくなっている為、時間がわからない。高価だったのにと落ち込みたくなるが、結婚式を終えた今、僕の気分がこれ以上沈む事はなかった。


 ――何をしているんだよ、僕は。

 そう溜息を吐きかけた時だった。

 隣に座っているスーツ姿の男が突然話かけてきた。


「で、どうします? お兄さん。あくまで治験ちけんみたいなものだから、安くはしておきますよ」

「……治験?」


「はい、治験です。副作用はないと思いますが、少しだけ苦い想いはするかもしれません。それでも使ってみたいというなら、ぜひ使って欲しいとは思います」

 僕は隣に座っているスーツ姿の男を視界に入れた。

 どこのマフィアかと疑うような黒いハットを被り、全身が黒いスーツで包まれている。顔には笑顔が張り付いていて、親しみやすいというよりは底知れないという印象のほうが際立った。

 歳の頃は三〇から四〇の間くらいだろうか。甘いマスクのせいでイマイチ判別できない。


 僕はこの男と何かを話していたのだろうか。治験なんて言葉が聞こえたし、きっと何か危ない話でもしていたのだろう。そうに違いない。


 僕はどうにか取り繕って、

「あー。いや、やっぱり治験って聞くと怖いですね。やめさして――」

 訳も分からず断ろうとした。

 だが直ぐに男が言葉を挟む。グッと近寄ってきた。

「いえ、治験というのは一種の例えです。先ほども言ったようにですね、この薬は――」男がスーツの内ポケットから内服薬のようなものを取り出した。「――病気を治す訳ではありませんから」


 僕には余計に危ない薬に思えた。病気を治す薬ではない。ならどんな薬なのか。決まっている。ドラッグ的な何かだろう。

「い、いえ。そ、それでも、いいです。やっぱり人から薬をもらうっていうのは抵抗がありますし」

「でもお兄さんは言っていたじゃないですか」

「……何を?」

「結婚式当日だって墓場だって」

「……僕はそんな事を言ったんですか?」

「はい。こうも言っていましたよ。何だって結婚式にいかなきゃならないんだ」

「…………」

「人はお酒を飲むと怖いものですね」

「……い、いや、でも。それと薬を飲む事とは全く関係ないですよね。むしろ薬を飲んだところで何が変わる訳じゃないと言うか、悪化すると思うん――」

「でもお兄さんの最後の一言がなければ、私は動きませんでしたよ」

「…………。……僕は何て言ったんですか?」


 僕は恐る恐る尋ねた。

 何か変な事でも口走ってしまったのだろうか。薬を勧められるくらいだから、おかしくなりたいとでもつい口を滑らせてしまったのだろうか。

 僕は心臓をバクバクさせながらスーツの男の言葉を待った。

 するとスーツの男は僕を見てニコッと一度笑い、こう告げた。


「今を変えたい、と――」


 胸の奥が突然、跳ねた。

 スーツの男が自分に酔っているように続ける。

「――こんな惨めな自分は嫌だ。本当はもっと選ぶべき道があった。なのに選べなかった。だから今を変えたいと、そう言ったのです」

 偽らざる本心だった。

 僕は今の自分がどれだけ愚かな立ち位置かを自覚している。どれほど愚かな選択をし続けてきたのかを悔いている。

 彼女を、零名を傷つけた事がきっと始まりだった。

 そんな事は結婚式より以前からずっと分かり切っていた事だった。


 でも。

 だからってこれ以上を惨めな道を選ぶ必要はないだろう。

「……でも、薬を飲んだからと言って、今が変わる訳じゃないですし。薬に人生を左右されるなんてまっぴらごめんなんです。……だから、いりませんよ」

「薬に人生を左右される、か。まさしくその通りなんです。この薬は人生を左右するものなんですよ」

「だから、いいですって」

「あれ? 私の説明も完全にお酒のせいで抜けていますか。なら仕方ない。もう一度説明しましょう」

「いや、だから――」


 僕は必死に否定をしようとした。

 だがスーツの男は構わず僕に言葉を投げかけた。

「この薬はね。今を治す薬なんです」

「……はい?」

「今まであったでしょう? お兄さんのように後悔するような選択。選んでしまった間違い。少しでも言葉を交わしてさえいれば、掛け違わなかった関係。そういったものを全て治してくれる。そんな薬です」

「……どうやって?」


 まさか過去をやり直す事ができるとでもいうのか。高校時代のあの一七歳の頃に戻ってバタフライ・エフェクトを起こして、零名との関係をやり直せるとでも?

 漫画やドラマの見すぎだ。そんな事はあり得やしない。

 スーツの男はまた少し笑うと、簡潔に答えた。


「飲んでみればわかります」

「飲んでみればって、何ですか? まさか過去を変えられるなんて言うんじゃないですよね。今どきそんなの子供でも騙されませんよ」

「飲んでみればわかりますよ」

「いや、要りませんよ、そんなの。いくら何でも怪しすぎます」

「でも、治せるものなら治したいですよね?」

「……それは――」

「先ほどはお安くしておきますと言いましたが、何だったら無料で提供しましょう。私はサンプルが取れればそれでいいですし。どうぞ」


 男は僕に先ほどの内服薬を手渡した。強制的に僕の手のひらの上に置いて握りしめさせる。

 僕はそれに抵抗しても良かった。良かったハズだった。


「いや、でも……」

「少し私は席を外しますね。最近歳のせいかトイレが近くなってしまって。ああ、それともし私がトレイから帰ってきても飲まれていなかったのなら、返してください。貴重な薬ですので、飲まない人に渡す訳にはいきません」

「いや、だったら――」


 僕が抵抗する暇もなく男は席を立った。本当にトイレに行ってしまった。

 僕はカウンターで一人残された。厳密に言うならキャバ嬢らしき女とマスターはいるが、僕に注意は向けられていない。僕を酔っ払いだとでも思っているのだろうか。完全に無視している。


 とにかく僕は今、誰にも見られていなかった。

 手を広げた。手のひらの中にある内服薬。粉状で危ない薬のように思える。

 でも過去を変えられる薬だとするなら……。


 ダメだ。

 ダメだ。


 僕は持っていた薬をカウンターに置いた。こんないかにも危ない薬を飲む訳にはいかない。スーツの男がトイレから帰ってきたら、こんな薬は返そう。

 そう思ったものの、手はカウンターの内服薬から離れなかった。


 …………。

 ……少しくらいは、いいんじゃないだろうか。


 そう。少しくらいはいいのだ。それが中毒にならなければ、もし過去を変えられる薬じゃなかったら、二度と飲まなければいいだけの話だ。

 僕は薬の袋をジリジリと破いた。心臓はバクバクと脈打っている。

 袋がパカリと口を開け、中にある白い粉が直に見る。

 カウンターにあったグラスには酒が注がれていた。多分、焼酎だ。


 僕はその焼酎の中に粉を注いだ。

 誰にも見られてはいけないような気がして、キャバ嬢らしき女とマスターを確認したが、やはりこちらに全く注意を割いてはいないようだ。

 僕は思いっきりグラスを仰いで、一気に飲んだ。


 味は何ともなく、普通の芋焼酎だった。

 僕自体に何の変化も見られない。

 トリップする事もなさそうだ。

 ――何だ、こんなものか。

 僕がそう嘆息した瞬間。


 バタンと音がした。僕は振り返る。スーツの男がトイレから戻ってきたのだ。

 直後、僕の意識がグラッと揺れた。

 突如の酩酊めいていがくる。そして刹那の内に意識した。


 これで意識が過去に戻るのだろうか。そうして過去をやり直す事ができるのだろうか、と。僕の胸の内が少しだけ膨らんだ。

「ああ、飲まれましたか」

 スーツの男がまた僕の隣に腰を下ろす。

 彼は満足そうだった。

 僕は確かめるように尋ねた。


「……これで僕は過去に戻って、過去を変えてくればいい訳だな」

「はい?」

「はい? って、さっき……あにゃたが」


 何だ?

 急にろれつが回らなくなってきた。

「いえ。私はそんな事一言も言ってませんよ――」スーツの男は僕の意識が遠のいていくのをまるで楽しんでいるかのように「――いいですか。これは今を治す薬です。過去を変えられるなんてそんな都合の良いものがある訳ないじゃないですか。漫画やドラマの見すぎですよ」とニヒルな笑みを浮かべながら僕に告げた。


 ふざけんな。

 僕はその言葉を口に出せないまま、ガクンと意識を失った。

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