特別編・最終話 妖怪画家
僕の身に、ごく最近あったことだ。
書籍版『夜行奇談』の見本が、家に届いた。
段ボール箱を開けて、厚手のビニールに
新刊を出す時はいつもそうだが、やはり長い準備期間を経て形になったものだけに、とても感慨深い。
特に今回は、自分の趣味をダイレクトに反映させた作品だ。また、初のソフトカバーでもある。僕は新鮮な感動とともに、さっそく束の中から、自分用の一冊を抜き出した。
実物を手に取って真っ先に目が行くのは、やはりそのカバーのデザインだ。
薄い影に覆われた全面を、色とりどりの線で描かれた妖怪達が埋め尽くす。さらに、そこに重なるようにして、「夜行奇談」のタイトルと僕の名前が、大きく白文字で抜かれる。
本の下部に巻かれたオビも、白地に赤と紫の文字が躍るもので、カバーのデザインと調和している。いや、このオビも含めて、一つのアートと言えるかもしれない。
僕は『夜行奇談』のお洒落な装丁に満足し、これを自室の本棚の一番目立つ位置に、表紙を正面に向けて飾った。
それから日付が変わった深夜のことだ。
僕が自室のベッドで寝ていると、ふと眠りが浅くなったタイミングを見計らったかのように、何かが聞こえてきた。
「……ぽう」
声だ。
「……した。……こし」
子供の、か細い声に聞こえる。
「……とし。……また」
何かを、ぶつぶつ呟いている。
もちろん、うちに子供はいない。
何だろうな――と寝惚けた頭で奇妙に思いながら、僕は再び深い眠りに引き込まれていった。
声は、次の夜にも聞こえた。
「……ぽう」
「……した。……こし」
「……また。……とけ」
か細い、脈略のない音が並ぶ。
もっとよく聞こうと思ったが、眠気が勝り、そこで意識が飛んだ。
声の内容が分かったのは、さらに次の夜のことだ。
ちょうど夜更かしをしている時だった。
時計の針が午前三時を指し、そろそろ寝なければと、自室に移った。
部屋の明かりを消し、ベッドに横たわる。
そこで――聞こえた。
「……ぬっぺっぽう」
はっきりと、声は、そう言った。
「……あかした。……みこし」
「……ねこまた。……ぬりぼとけ」
「……かまいたち。……てんぐ」
そこまで続いてから、声はピタリと途切れた。
耳を澄ませたが、それ以上は何も聞こえてこない。
僕は、すっかり汗が引いた体を震わせながら、恐る恐る起き上がった。
部屋の明かりを点ける。もちろん、誰もいない。
しかし――これでようやく、声が何を言っていたのかが、はっきりとした。
僕は本棚に目を向けた。
『夜行奇談』が飾られている。
そのカバーを見つめながら、掠れた声で、僕は呟いた。
「……ぬっぺっぽう。……
そう、これだ。
夜ごと、謎の子供の声が繰り返していたもの――。
それは、『夜行奇談』のカバーに色とりどりの線で描かれた、妖怪達の名前だったのだ。
朝になってから、僕は改めて『夜行奇談』を手に取り、考えた。
ぬっぺっぽう。赤舌。見越。
しかし一方で、おかしなこともある。
カバーを飾る妖怪は、この七体だけではないのだ。
オビを外せば、おとろし、
つまりあの声は、これらの隠れた妖怪達の名前を、読み上げていないわけだ。
と言うことは――声を防ぎたければ、逆にすべて隠せばいいのではないか。
僕はさっそく、このアイデアを実行してみることにした。
方法は至って簡単だ。『夜行奇談』にブックカバーをかけ、覆ってしまうのである。
正直、せっかく気に入っている装丁を隠してしまうのは、心苦しかった。しかし、夜ごと怪異に悩まされている以上、仕方ないことだ。
ブックカバーは、以前書店でつけてもらった紙製のものが取ってあったので、それを使うことにした。
僕は、薄茶色のカバーで本を大事に包み込むと、それを本棚の元の位置に戻した。
表紙側が正面を向いて飾られる。すでに意味はないものの、僕なりの、ちょっとした未練だった。
そして次の深夜――。
今夜は安眠できるはずだ、と確信しながら、僕は明かりを消してベッドに横たわった。
真っ暗の部屋の中、目を閉じて体の力を抜く。
次第に意識が、眠りの中に沈んでいく。
だが、そこで。
「……ぬっぺっぽう」
聞こえた。
あの子供の声が。
「……あかした」
「……みこし」
やはり妖怪の名を、一つ一つ読み上げている。
目論見が外れたか。僕がそう思った時だ。
「……おとろし」
今までと違う妖怪の名が、読み上げられた。
「……やまわらわ」
さらにもう一つ、違う名が続く。
おとろしも山童も、どちらもオビの下に隠れている妖怪だ。それがなぜ、ブックカバーで覆った今になって、読まれているのか。
「……ねこまた」
今度は、いつもの名に戻った。
「……ぬりぼとけ。……かまいたち。……てんぐ」
子供の声が、最後まで読み上げた。
いや、違う。まだ続く。
「……わいら」
「……うわん。やまびこ。……やまうば」
「……ひょうすべ。……しょうけら」
まさにすべての妖怪の名を読み上げて、今度こそ、声はやんだ。
僕はもはや起き上がることもできず、そのまま眠気で意識を失うまで、ベッドの上でじっと動かずにいた。
そして、朝が来た。
目を覚ました僕は、憂鬱な心持ちで、本棚にある『夜行奇談』を見た。
「あっ?」
思わず、妙な声が出た。
薄茶色のブックカバーに、鉛筆書きの黒い線が、何本も躍っている。
……いや、線ではない。
妖怪の絵だ。
ぬっぺっぽう。赤舌。見越。おとろし。山童。猫股。塗仏。窮奇。天狗。わいら。
本を手に取って捲ると、そでの部分には、うわん。幽谷響。山姥。ひょうすべ。しょうけら。
計十五体の妖怪の姿が、ブックカバーの表面に、本来の絵の位置に重なるようにして、黒々と描かれている。
ただし、絵師の筆による精細な絵ではない。明らかにつたない、小さな子供が描いたとしか思えないものだ。
溶けたアイスのような、
毛むくじゃらの
牙も爪も、目いっぱいに尖らせた猫股。
瓜を繋げたような、面長で胴長のわいら。
いずれも、子供が記憶だけを頼りに、好き勝手に描いたような代物である。
怖くはない。むしろ、絵だけを見れば、微笑ましい。
なのに、僕はこの妖怪達の姿を眺めているうちに、息が詰まりそうな感覚に陥った。
思い出したからだ。
ブックカバーに描かれた、つたない妖怪画の数々――。
……それは、かつて僕が幼い頃に、紙に見様見真似で描いていた妖怪の絵と、まったく同じものだった。
思えば、夜中に聞こえていた子供の声も、僕の幼少期のものだった気がする。
そんなことを考えながら、僕は落書きだらけになったブックカバーを、本からそっと外した。
……いったいなぜ、こんな奇妙なことが起きたのか。
答えは分からない。怪異を正確に解釈するなど、どだい無理な話だ。
ただ――妖怪が好きで好きで堪らなかったあの頃を思い出して、えらく懐かしい気持ちになったのは、確かだ。
僕は、再び美しい装丁を覗かせた『夜行奇談』を、改めて本棚に飾った。
それからは、怪しい出来事は起きていない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます