特別編・第五話 逆さま
カドカワから刊行されている『怪と幽』という雑誌がある。
一応は文芸誌という扱いになっているが、名前からも察せられるとおり、お化けをテーマにした雑誌である。
もともとは妖怪専門誌の『怪』と、怪談専門誌の『幽』が合体したもので、編集長はRさんが務めている。書籍版『夜行奇談』の担当でもある、旧知の編集者だ。
そのRさんから、本の宣伝のために『怪と幽』誌上に対談を載せましょう、と提案されたのは、五月末のことだった。
対談のお相手は、これまた旧知の文筆家であるMさんだという。やはり気心の知れたかたであるため、僕は二つ返事でOKした。
それからスケジュールのやり取りを進めて、収録日が六月上旬に決まった。
収録場所は、カドカワの本社から近い、レンタル会議室である。何でも社内の会議室に空きがなかったため、急遽そちらを押さえたらしい。
まったく行ったことのない場所だったが、LINEで案内図も送られてきたため、道に迷うことはないだろう――。僕は楽観的にそう考えながらも、収録当日、念のため少し早めに家を出て、目的地の最寄りであるⅠ駅へと向かった。
どんよりと曇った、蒸し暑い日だった。
Ⅰ駅を出て、スマートフォンに表示させた案内図のとおり、細い裏道へ入る。小さな飲食店やオフィスが雑然と並ぶ中、案内図に示されたいくつもの看板を辿りながら、狭い歩道を進んでいく。
やがて、それらしき雑居ビルが見えた。
古びた外壁に無数のひびが走り、そのひびに
僕はもう一度案内図を見て、この場所で間違いがないことを確かめてから、恐る恐る正面のガラス戸を押し開けた。
エントランスに足を踏み入れると、薄暗い無人の空間が、僕を迎え入れた。
空調は、かかっていない。額から溢れた汗が、
案内図によれば、会議室は三階にあるらしい。
エレベーターはない。僕はエントランスの隅に階段を見つけ、そちらを伝って上った。
踊り場を経て、すぐに上のフロアに着く。
だがそこで、「あれ?」と首を傾げることになった。
……そこには、ただ狭い空間があるばかりだった。
階段の終着点であるわずかばかりの床を、無機質な壁が囲んでいる。通路もなければ、上に続く階段もない。おまけに窓もなく、天井の蛍光灯だけが唯一の光源と言えた。
……ここは、二階なのだろうか。
僕は困惑しながら、周囲を見回した。
壁の一部、ちょうど胸の高さぐらいの位置にある一個所が、茶色く正方形に塗り潰されている。よく見ると、そこだけ小さな鉄扉になっている。
もっとも、人が出入りできるほどのサイズはない。おそらく配電盤か何かではないだろうか。
さて――どうすれば、三階に上がれるのだろう。
僕は改めて、それを考えた。
こうして眺めた限り、上に続く階段は、どこにも見当たらない。
ということは、その階段は、フロアの別の位置にあるはずだ。ただし今いる場所から、その「別の位置」に辿り着くことは不可能だろう。
つまり……二階への上がり方を間違えたのだ。
きっとエントランスのどこかに、別の正しい階段があるに違いない。僕は一度、下に戻ってみることにした。
無人のエントランスに戻り、急いで辺りを見回した。
……他に階段は、ない。
……エレベーターのようなものも、見当たらない。
僕はまたも首を傾げた。これだと、今上った階段が正解、ということになってしまう。
「あ、もしかして、ビル自体を間違えたのかな……」
もうそれ以外に答えが思いつかない。思いつかないのだが――。
改めて、スマートフォンの案内図を見る。しかし、やはりこの場所で間違いないようだ。
こうなったら、Rさんに連絡を取るしかない。僕がそう思った時だ。
不意に――おかしなものが、目に留まった。
さっきは気がつかなかったが、階段のすぐ脇の壁に、小さなプレートが貼られている。
『↑B1』
『↓2F』
プレートには、そう書かれている。
……逆じゃないか、と思った。
しかし、何か引っかかるものがある。
今一度階段を観察してみると、今までまったく意識していなかったが、プレートの貼られた脇の壁と、階段との間に、やや広めの隙間が設けられていることに気づいた。
……もしかしたらこれは、通路ではないのか。
僕は試しに、隙間に体を滑り込ませてみた。
腹がややつかえるものの、通り抜けるのは、そう難しくはなかった。
着いた先は、階段の裏側だった。
そこに、地下へ続く別の階段があった。
……いや、地下ではない。「2F」なのか。
半信半疑ながらも、僕は階段を下りてみることにした。
足を一歩踏み出すと、途端に埃っぽく蒸し暑い空気が、全身にまとわりついた。
やはりここも、空調がかかっていないようだ。
蛍光灯は点いているが、パチパチと瞬いて、落ち着きがない。
踊り場を折り返す。
ふと壁面を見ると、窓があった。
外は当然真っ暗だ。地下なのに、なぜ窓があるのだろう。
階段を辿り、「2F」に着いた。
薄暗い、ひっそりとした通路が、そこにあった。
ドアがいくつか並んでいる。人の気配はない。
すぐ横を見ると、階段は、さらに地下へと続いている。
壁にプレートが出ている。
『↓3F』
やはり、ここから三階に下りられるらしい。
……正直なところ、疑いたい気持ちは、山ほどあった。
それでも、他に道はない。
覚悟を決め、僕はさらに階段を下りた。
生暖かい空気がねっとりと、肌に絡みつく。
汗が滴る。
ハンカチで拭きながら、踊り場に立つ。
階下を見下ろすと、下り切ったその先に、閉ざされたドアがあった。
表に、プレートが貼られている。
『会議室』
――ああ、やっぱりここなんだ。
僕はそう思い、最後の階段を下り始めた。
自然と歩調が重くなっているのが、自分でも分かった。
しかし時間が押している。後戻りはできない。
急く気持ちと、不安から来る引き返したい気持ちとが混ざり、吐き気にも似た感覚を覚える。その感覚を、どうにか
……僕はようやく「三階」に下り立った。
ドアノブに手をかけ、そっと押し開いた。
中は、真っ暗だった。誰も来ていないようだ。
入って室内の壁を手で探ると、照明のスイッチらしきものに指が触れた。
パチン、と入れた。
明かりは点かない。代わりに、ぐぉぉぉん、と空調の動き始める音がした。
スイッチは、もう一つあった。これも、パチン、と入れた。
今度こそ、明かりが点いた。
天井の蛍光灯が白く瞬き、室内の様子を照らし出した。
白壁に囲まれた、細長い部屋だ。
足元に
窓は、カーテンが閉ざされている。当然ながら、陽光が差し込んでくる様子はない。
地下にあることさえ除けば、ごく普通の会議室だ。
ただ――。
その光景を見た瞬間、僕は思わずビクッと身を
部屋の、一番奥の白い壁だ。そこに――。
落書きがあった。
マジックで描かれた、丸と棒で構成されただけの、簡素な等身大の人型が、三つ。
それが、なぜか上下逆さまになって、横一列に並んでいる。
頭を床につけ、二本の足を天井に向け、顔には何も描かれていない。
……なぜこんな落書きが、会議室にあるのか。
もはや何が何だか、さっぱり分からなかった。
ただ――ここにいてはいけない、という気持ちが急速に膨らんだ。
僕は急いで照明と空調のスイッチをオフにすると、会議室を出ようとした。
その時だ。
「こっちですよ」
……声がした。
……明かりを消したばかりの、真っ暗な会議室の奥から。
男とも女ともつかない、妙に甲高いだった。
僕は急いで外に出ると、後ろ手にドアを閉め、振り返ることなく階段を駆け上がった。
そして一階の隙間を抜け、エントランスを突っ切り、建物の外に勢いよく飛び出した。
淀んでいた空気が、すっと霧散した感じがした。
そこで、聞き慣れた声がした。
「あれ、東さん、どうしたんですか?」
言われてハッと顔を上げると、Rさんが不思議そうな様子で、路上に佇んでいた。
「何でそんなところから出てきたんですか? 会議室は隣のビルですよ?」
「え? いや、隣って……」
僕はギョッとして振り返った。
見れば確かに、僕が飛び出したビルの隣に、まるで薄紙が張りつくような形で、鉛筆みたいな細長い雑居ビルが建っている。
細い。細すぎて気がつかなかった。
要するに――間違えて隣のビルに入っていた、ということのようだ。僕は。
「思ったより狭そうですねぇ。まあ、入りましょう」
Rさんが笑顔で、鉛筆ビルに入っていく。その後ろを、僕が呆然とした面持ちで続く。
ビル内の階数表示は、普通に上が「2F」だった。
さらに上がった三階には、狭苦しい会議室があって、中を覗くと、すでに対談相手のMさんを始め、記事の作成に携わるライターやカメラマンの皆さんが待っていた。
「こちゃ君、久しぶり。遅かったねぇ」
Mさんが
「間違えて、隣のビルに入ってました」
「そうなん? そそっかしいねぇ」
Mさんが笑う。Rさんも笑っている。
「ところで隣のビルって、何なんですか?」
しかし僕が尋ねると、二人とも真顔で、声を揃えて答えた。
「廃ビルですよ」
「廃ビルやん、どう見ても」
……もし本当に「どう見ても」なら、さすがに僕も、間違って入ったりはしなかっただろう。
不思議に思った僕は、対談が終わった後で、そっと隣の建物を見上げてみた。
そこには確かに、地上三階建てのビルが、荒れ果てた姿で、ひっそりと建っているだけだった。
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