特別編・第四話 地下売り場

 書籍版『夜行奇談』に収録する書き下ろしエピソードを無事提出し終え、それから少し経った、四月下旬のことだ。

 幸い原稿の手直しも大幅には必要なく、あとは著者校を待つのみ、という段階である。しかし担当編集者のRさん曰く、どうやら書籍内で使う図版の準備が難航しているようで、「まだ少しかかりそうです」とのことだった。

 おかげで、少し時間が出来た。僕はこの隙に「カクヨム」での活動を再開するべく、『異世界であった怖い話』という新連載を始めることにした。

 タイトルどおり、ファンタジー世界で起きる怪談を書いたものである。異世界転移を果たした幽霊達が、の怪談の乗りをに持ち込んでしまう……というもので、まあ、一種のおふざけ怪談だ。

 その執筆と並行しつつ――一方で僕は、前々からやらなければと思っていた「あること」を始めようと考えた。

 怪談の勉強である。

 いや、勉強と言うと大袈裟だが、要は「他の人の書いた怪談をもっと読もう」ということだ。

 意外に思われるかもしれないが、もともと僕は、自分が怖がりなせいもあって、これまで実話怪談というものを、ほとんど読んだことがなかった。だからこれを機に、勉強の意味も込めて、きちんと読み始めようと思ったわけだ。

 なので――とりあえず休日、出かけたついでに、本屋へ立ち寄ってみることにした。

 もちろん今時は、ネット上を探すだけでも、良質な怪談がいくつも見つかる。だが今回は、本になっているものを中心に読むつもりでいた。

 純粋に、知り合いの作家さん達が書いた怪談をきちんと読みたい、という気持ちがあったからだ。諸先輩方の胸を借りようというわけである。

 そんなわけで、都内某所へ出かけた帰り道――。

 僕は、ある大型書店に、足を踏み入れた。

 数階建てのビルが、ほぼ丸ごと売り場になっている。小さい頃、家族でこの辺りに来た際に、何度か入った記憶がある。

 もっとも幼少期の記憶に比べると、中はすっかり様変わりしていた。純粋な配置換えや、出版不況による売り場面積の縮小など、いろいろな理由があったからだろう。

 エスカレーターの横の案内板を見る。もちろん「怪談」という区分はないが、おそらく文芸か、人文書の辺りにあるはずだ。

 そう思って、まずは上の方にある、人文書のフロアへ行ってみた。

 人文書の売り場は、人によっては馴染みがないかもしれないが、だいたい宗教や民俗学、オカルトに関連する本は、こういうところに置かれている。妖怪関係の本も、決まってここにある。

 したがって今回も……と思ったのだが、該当しそうな売り場は見つけたものの、怪談の本は置いていなかった。

 となると、やはり文芸だろう。僕はフロアを降りて、文芸コーナーに入った。

 文庫の色とりどりの背表紙が並ぶ棚を目で追いながら、通路を歩いていく。書店によっては、わざわざホラーコーナーを設けてくれているところもあって、そういう場合は目的の本を探すのも楽なのだが、あいにくこの店に、それはないらしい。

 そういう時は、やはりレーベル頼みになる。

 ホラー、特に実話怪談に強いレーベルには、いくつか心当たりがある。僕はさっそく、それらのレーベルの本が置かれている棚を回ってみた。

 ところが――やはり、ない。

 該当する棚を見ても、ごく最近出た怪談本が多少目立つ位置に置かれているだけで、過去大量に出版されてきた既刊本は、まったくと言っていいほど見当たらない。

 期待外れだったのか。それとも、僕の探し方が悪いのか。

 落胆しながら、僕はエスカレーターの前に戻った。

 そして改めて、案内板を見た。

 ――「その他の本」。

 そんな文字が、ふと目に留まった。

 書店の案内としては、なかなか見かけない区分である。

 売り場は、地下一階にあるらしい。

 妙に気になって、僕は地下へ下りてみることにした。

 初めはエスカレーターを伝っていったが、一階で途切れてしまった。仕方なく非常階段を探し、ようやくフロアの片隅にそれを見つけ、さらに下っていく。

 踊り場を過ぎ、地下一階に辿り着く。開け放たれた鉄の扉の先に、薄暗い売り場があった。

 そっと、足を踏み入れた。

 ……畳三畳分ほどの、狭い空間だった。

 入り口を除く三方が書棚になっていて、あとは天井の蛍光灯が、掠れた光を落としているだけである。

 客は、僕以外に見当たらない。

 店員の姿もない。

 もっとも昨今の大型書店は、会計を一階でまとめておこなうところが多く、この店も例外ではない。だから店員がいなくても、おかしくはないのだが――。

「……ぁ……」

 ……何か聞こえる。

 誰もいないのに、ぼそぼそとした声が、どこかから流れてくる。

「……ぁ……ぃぁ……」

 おそらく、この部屋の近くにバックヤードがあって、その会話が漏れているのだろう。

 何だか、居心地が悪い――。

 僕はそう思いながら、周りの書棚を検めた。

 ……真っ先に目に飛び込んできたのは、向かって右側の書棚だった。

 写真集が、一面にズラリと並んでいた。

 表紙を正面に向けた、いわゆる「面陳列」という並べ方である。

 並んでいる写真集は、すべて同じだった。

 丁寧にシュリンクされた大判の表紙に、女の子の顔が、でかでかと写っている。

 ……アイドル、だろうか。それにしては――と、僕は眉をひそめた。

 女の子は、とても幼く見えた。

 肌は真っ白で、生気が感じられない。

 髪は、ぼさぼさに乱れている。

 真っ赤な唇が、半開きで笑っている。

 瞳は黒い。光を反射している様子もない。

 その真っ黒な瞳が、なぜか、左右でバラバラな方を向いている。

 ……薄気味が悪い。

 素直に、そう思った。

 特に気持ち悪いのが、視線だ。真正面から撮影しているというのに、この女の子はレンズを見つめ返すでもなく、左右それぞれの目で、いったいどこを見ているのだろう。

 これでは、アイドルを写したというよりは、まるで――。

 ……ふと不謹慎な単語を連想しかけ、僕はそこで思考を止めた。

 何にしても、写真集に用はないのだ。

 不気味な表紙の群れから顔を背け、続いて反対側、ドアから見て左側の書棚に目をやった。

 怪談が――あった。

 思わず「あっ」と声が漏れた。

 見慣れた、黒や白の背表紙の怪談本が、びっしりと並んでいた。

 いや、怪談だけではない。よく見れば、有名無名を問わずホラー小説やホラー漫画のタイトルが、残る二つの書棚を隙間なく埋め尽くしている。

 まさに、探し求めていた売り場だった。

 僕は軽く興奮しながら、さっそく物色を始めた。現金なもので、つい今まで感じていた薄気味の悪さなど、すっかり忘れていた。

「……ぁ……ぁ……ぃ」

 また何かが聞こえている。しかし、もはや気にならない。

 実話怪談の文庫が並んでいる棚に指を伸ばし、惹かれるタイトルや作家さんの本を、何冊か抜き出した。

 ……と、その時だ。

「ぁぁぁぁぁぁぃ!」

 奇声、としか表現しようのない甲高い声が、売り場に響いた。

 思わず身をすくませる。同時に背後で、ざっ、ざっ、ざっ、と、言い様のないのようなものを感じた。

 僕は恐る恐る、後ろを振り返った。

 ……あの写真集が目に留まった。

 何冊もの表紙に写った女の子の視線が、左右ともすべてまっすぐに、僕を見つめていた。

「ぁぁぁ、ぁぁぁ!」

 女の子の半開きの口から、奇声が溢れた。

 僕は一目散に、地下売り場から逃げ出した。

 息を切らせながら階段を駆け上がり、一階に着いたところで、本を抱えたままだったことに気づいた。

 下に戻しにいく勇気はなかった。仕方ないので、そのままレジに持っていったら、バーコードを通した店員が、不意に顔をしかめて、他の店員とひそひそとやり取りを始めた。

 何かトラブルか、と思ったが、すぐに店員は笑顔に戻り、会計処理を済ませた。

 僕は――釈然としないまま、その書店を後にした。


 果たしてあの写真集は、何だったのか。

 あそこに写っていた女の子は、何者だったのか。

 それ以前に、なぜあの書店では、ホラー関係の本だけが、地下に隔離されていたのか。

 いやそもそも――あの地下売り場は、果たして

 いくつもの疑問が残っていた。しかしあれ以来、問題の書店には足を運んでいないし、真相を探る勇気もない。

 ……ただ一つだけ、どうしても気になっていることがある。

 この出来事があってからというもの、時々、街でを見かけるようになったのだ。

 場所は決まって、地下鉄の構内である。

 通路やホームを歩いていると、ふと一瞬、左右の視線がバラバラな女の子とすれ違うことがある。

 しかし振り向くと、もう誰もいない。

 ……そんなことが、今でもたまに起きている。

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