特別編・第三話 猫爺さん

 書籍版『夜行奇談』の打ち合わせを終えた後、僕が最初に取りかかったのは、「はじめに」と「おわりに」の執筆だった。要は前書きと後書きである。

 ウェブ版に準拠した本編のエピソードと異なり、この「はじめに」と「おわりに」は、書き下ろしとなる。しかも打ち合わせで言われたように、「おわりに」では、得体に関する補足も入れなければならない。

 その他にも、「はじめに」の段階でどの程度得体の正体を臭わせるのか、逆に「おわりに」でどの程度詳細に触れるのかなど、改めて考えなければならない要素がいくつもあった。

 それらを考慮した上で、いざ実際に二つを書いてみると、今度はウェブ版に書かれている内容と矛盾が生じる、という事態が起きてしまった。

 具体的にどんな矛盾かは、敢えてここでは説明しないが――これに関しては、「ウェブ版と書籍版はパラレルなのだ」と考えて、割り切ることにした。

 なので読者の皆様も、もしウェブ版と書籍版を読み比べる機会があれば、あくまで「パラレルだ」と思っていただけると幸いである。

 ともあれ――こうして出来上がった二本の原稿を、担当編集者のRさんに送ったのが、三月の初めのこと。この時点で、まだ本来の締め切りまでには余裕があった。

 そこで、かねてから考えていたアイデアを、改めてRさんに打診してみた。

 ずばり、書き下ろしのエピソードである。

 もともと『夜行奇談』はウェブ小説なので、基本的には、ウェブ上にあるエピソードをそのまま用いればいい。ただ、せっかく読者の方々にお金を払って買っていただく以上、何か購入特典のようなものがあった方がいい、と思ったわけだ。

 しかし『夜行奇談』は、そのの都合上、純粋にエピソードを追加するのが難しい。

 そこで――一部のエピソードを書き下ろしの新作に差し替えよう、と考えた。

 幸いRさんからも快諾をいただいたため、僕はさっそく、この書き下ろしに取り組むことにした。

 まずどのエピソードを差し替えるかだが、これについては、すでにいくつか目星をつけてあった。

 自分で読んでみて不出来だと感じたもの。または、いまいち人気がなかったもの――。そういったエピソードの中から、執筆に充てられる時間も踏まえて、三本を選び出すことにした。

 この選ばれた三本については、ウェブ版と書籍版とで、内容が大きく変わることになる。もっとも、差し替え後の話がどのようなものになるかは、この時点でまったく決まっていなかった。

 とにもかくにも、「得体」とリンクする怪談が用意できなければ、話にならない。さて、何かいいネタはないものか……と考えていると、ちょうど近所に住むOさんという知人から、こんな話を聞いた。

 ――近くの公園に、毎晩「猫爺さん」が出るらしい。

 ……いや、猫爺さんとは何ぞや、だ。

「それって怪談なんですか?」

 僕がOさんに尋ねると、もう少し詳しい話を教えてくれた。何でもこの「猫爺さん」というのは、猫好きのお爺さんの幽霊のことらしい。

「あの公園、野良猫の溜まり場になってるじゃないですか。あれは近所の人達が餌付けしてるからなんだけど――」

 その中でも特に、一日も欠かすことなく餌をやる、熱心なお爺さんがいた。

 一人暮らしで、あまり近所の人とは交流がなかったが、猫が大好きなようで、毎晩遅くに公園を訪れては、一人で餌をやる姿が目撃されていた。

 ベンチに座り、足元に猫の群れをまとわりつかせながら、いつもニコニコ笑っていたそうだ。

 また餌だけでなく、公園の隅に猫の雨除け用の小屋を作り、定期的に新しい毛布を用意するなど、かなり甲斐甲斐しく世話を焼いていたらしい。

 ところがそのお爺さんが、一年ほど前に、突然亡くなったのだという。

 いや、、と言うべきかもしれない。

 春先のことだった。お爺さんの家に回覧板を届けにきた隣家の住人が、冷たくなったお爺さんを発見した。

 警察の見立てでは、心不全によるもので、死後数日は経過していたそうだ。

 しかし、この話を聞いた隣人は、真っ青になったという。

 なぜなら――彼は遺体が発見される前夜、たまたま通りかかった例の公園で、お爺さんの姿を見ていたからだ。

 お爺さんはいつものように、ベンチに座り、足元に猫の群れをまとわりつかせていた。

 だから、数日前から亡くなっていた、というのはあり得ない――。

 隣人はそう主張したのだが、「誰か別の人を見間違えたのだろう」と、特に聞き入れてはもらえなかった。

 しかし――その後も、お爺さんの姿は、時々目撃されているという。

 時刻は、決まって夜の十一時。その公園に行くと、亡くなったはずのお爺さんがベンチに座って、猫をまとわりつかせている……ことがあるらしい。

 もちろん、毎回誰が行っても目撃できるわけではない。しかし「見た」という声は一つ二つではなく、これがいつしか地元の怪談となった――ということのようだ。

「東さん、見にいってみたらどうですか? こういうの、好きでしょ」

 Oさんからそう言われて、僕は「いやぁ」と苦笑を返した。

 ……もちろん、行く気満々だったが。


 その日の夜だった。

 時刻は十一時前。僕は近所のスーパーで遅い買い出しを済ませた後、例の公園に立ち寄ってみることにした。

 夜風が冷たく、散歩には向かない時季だった。それでも、実際に現場を見てみたい、という欲求の方が勝り、寒さはさほど気にならなかった。

 値引き品の食材を詰めたマイバッグを提げながら、ぶらぶらと足を進める。やがて公園の入り口が見えてくる。

 夜の住宅街に、雑木林が黒々と広がっている。公園と言っても遊具の類はあまりなく、遊歩道がメインだ。中を抜けて反対側の通りに出られるため、この時間でも会社帰りの人が、たまに入っていくことがある。

 最初にお爺さんの幽霊を見たという隣人も、きっとそうだったのだろう――。と、そんなことを考えているうちに、僕はふと、数年前にあった出来事を思い出した。

 ……あれは、日本中が新型コロナで騒ぎ出した、その年の春のことだ。

 外出自粛要請の最中だった。

 簡単な散歩ぐらいなら構わない、と聞いていた僕は、日中にこの公園を訪れたことがあった。

 猫の姿は、どこにもなかった。

 どうやら、普段餌をくれる人達が家に籠っているため、猫達もどこかに引っ込んでしまったらしい。すっかり寂しくなった公園を、僕は目的もなく、とぼとぼと歩いていた。

 と、その時だ。

 不意に横手の茂みが、ガサガサと音を立てた。

 見ると、灌木かんぼくの隙間を縫って、何かがよろけるように飛び出してきた。

 鳩だ。

 羽ばたきもせず、なぜかふらふらとした足取りで、僕の目の前に立つ。最初は段差でつまずきでもしたのか、と思ったが、どうも様子がおかしい。

 直後、灌木の隙間から、もう一つの影が伸びてきた。

 何か黒いものが、鳩をバシッと打った。

 猫の手……のように見えた。

 鳩はよろけながら数歩進み、ばったりと倒れた。

 そして、ピクリとも動かなくなった。

 見慣れた動物が突然目の前で絶命した――という事実が受け入れられないまま、僕は恐る恐る灌木の方を見た。

 ……

 一匹の猫が、少し離れた位置から、僕をじっと睨んでいた。

 早く立ち去れ、とでも言いたそうだった。

 餌が貰えなくて、飢えていたのだろう。だから、自力で獲物を仕留めたのだ。

 僕はそう察して、すぐにその場を去った。

 実際のところ、公園内に鳩の死骸がある以上、管理施設かどこかに連絡するべきだったのかもしれない。しかし、もしそれをやって、死骸を誰かに処理させれば――。

 ……僕は、この猫の恨みを買うに違いない。

 はっきりと、そう確信できた。

 だからあの時、僕は逃げるようにして、公園を後にしたのだ。

 今になって、急にそんな出来事を思い出した。

 ……もちろんこの思い出自体は、「猫爺さん」とは、何の関係もない。あくまで、ただの回想だ。

 しかし心のどこかで、何とも言い難い、微かな不安を覚えながら――。

 夜の十一時。

 僕は、公園に足を踏み入れた。

 ひと気はなかった。

 真っ暗な公園の中、わずかな街灯だけを頼りに、遊歩道を進んでいく。

 ヒュウヒュウと風が鳴り、周囲の樹々を唸らせる。

 間もなくベンチだ。暗がりに建つ屋外時計が、目印になっている。

 時計を目指して歩いた。

 緩く弧を描く道を抜け、茂みの陰から覗くと、すぐ先にベンチが見えた。

 ……誰かが、座っていた。

 離れた街灯から届く光が、うっすらと、その姿を浮かび上がらせている。

 お爺さん――のように見える。

 ポロシャツ姿で、ベンチに浅く腰を下ろし、足元に数匹の猫をまとわりつかせているのが分かる。

 だが、生前のようにニコニコとはしていない。

 目はカッと見開かれ、半開きの唇がぴくぴくと震えている。

 ……心なしか、怯えているようにも思える。

 僕は、もっとよく見ようと、身を乗り出しかけた。

 そうしたら――不意に、

 暗がりでキラリと光るその目を見た瞬間、僕は言いようのない恐怖に襲われた。

 慌てて身を引き、急いでその場を離れた。

 公園の入り口に辿り着くまで、僕は振り返らなかった。

 もし振り返れば、今のが追いかけてくるのではないか――。そんな錯覚に襲われていたからだ。

 いや、お爺さんのことではない。

 キラリと光る、僕を睨んだ、のことだ。


 この夜、僕が公園で見たもの――。

 ……それは、老人の亡霊に群がり、一心不乱にその体に食らいつく、飢えた猫達の姿だった。

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