特別編・第二話 喫茶店

 カドカワの編集者であるRさんから、久方ぶりにLINEにメッセージが届いたのは、今年の二月半ばのことであった。

『お待たせしました! ようやく『夜行奇談』の企画が通りました!』

 その一言は、毎年この時季に覚える焦燥感と寒さですっかり気が滅入っていた僕にとって、まさに天の助けだった。

 さっそく打ち合わせの日取りを決め、当日の昼過ぎに、最寄りのJRの駅で待ち合わせた。

 実のところ、Rさんと直接会うのも数年ぶりだった。珍しくスーツ姿で現れたRさんは、「この後夕方から予定があるんで、無闇にスーツなんですよ」と照れ笑いを見せた。

 それから二人で、腰を落ち着けるため手近な喫茶店へ向かった……のだが、あいにく昼過ぎとあって、周辺のチェーン店はどこも満席である。

 どうしようかと思っていると、Rさんがすぐにスマートフォンで、近くの喫茶店を検索してくれた。

「ここ、いいんじゃないですか?」

 そう言ってRさんが指し示したのは、裏道にある、聞いたこともないような店だった。さっそく向かってみると、入り組んだ細道の一角に、確かに喫茶店の小さなドアがあった。

 Rさんがドアを開け、先立って中に入った。後ろから覗くと、細長いながらも意外と奥行きのある店内が見えた。

 壁も床も天井も、茶色い板張りで統一されていて、店全体がほのかに暗い。奥に、店員と思しきせたお婆さんがポツンといて、不愛想な顔でこちらを見つめ返している。

 客は、他にいない。

「二人です」

 Rさんはお婆さんに向かって笑顔でそう言うと、入り口近くにある、衝立ついたてで仕切られた席に、さっさと向かっていった。

 テーブルを挟んで、互いに腰を下ろす。僕は壁側の席、Rさんは通路側の席だ。オーダーを済ませ、飲み物が運ばれてくるのを待って、Rさんが鞄から紙の束を引っ張り出した。

「これ、印刷してみたんですよ。ざっくりと」

 『夜行奇談』である。「カクヨム」に載っているものを、プリントアウトしてきたようだ。

「それでですね……。あっ、面白かったです」

 ふと思い出したかのように、Rさんが照れ笑いで言った。僕も「ありがとうございます」と照れ笑いで返す。今までRさんとは、大勢で馬鹿話をするような場でしか会っていなかったから、こうして一対一で仕事の話をしているのが、何だか照れ臭い。

 ともあれ気を取り直して、本の話だ。

「話数が多くて全部収録するのは無理なんで、『画×百××行』の部分までにしようと思ってるんですよ」

 紙束を捲りながらRさんが口にしたのは、『夜行奇談』の「得体」に関連している、の名前だった。

 すでに「厄落とし編」をご覧になっているかたはお分かりかもしれないが、具体的には、第一話から第五十一話までを指す。これが書籍版の収録エピソードというわけだ。

「これなら、ちょうどいいページ数になりそうですし。それに後半の方で、だんだん不気味なエピソードが増えていくじゃないですか。その上で、最後の五十一話の終わり方も、後味が悪くていい感じなので……。ただ、問題はですね」

 ――「厄落とし編」なんですよ。

 Rさんがそう言ったところで、ふと、喫茶店のドアが開く気配がした。

 冬の冷たい空気とともに、明るい笑い声が入ってきた。

 見れば、二人連れの若い女性客である。彼女達は何やら談笑しながら、通路――Rさんの背後を通って、店の奥の席へと向かっていった。

 二人の姿は、すぐ衝立に遮られて、見えなくなった。ただ談笑する声だけが、続いている。

「厄落とし編、どうやって入れましょうかねえ」

 Rさんが改めて、それを口にした。僕は意識を打ち合わせに戻した。

 ……ウェブ版の『夜行奇談』は、本編と厄落とし編という二つのパートに分かれている。本編は純粋な怪談集だが、その後に続く厄落とし編では、各エピソードの「得体」が明かされるという仕組みだ。

 この形をそのまま書籍版に落とし込むのなら、やはり本編と厄落とし編を分けることになるのだが。

「前にLINEで話した時に、『得体』を前面に押し出すことにしたじゃないですか。でもそうなると、読者は読み始める前から、『得体』がある程度分かっているわけで。厄落とし編はどうするのがいいのかな……って」

 なるほど、Rさんの悩みももっともだ。

 僕が「そうですねぇ」と相槌を打ちながら、何かいいアイデアはないかと考えていると、また喫茶店のドアが開く気配がした。

 入ってきたのは、背広姿の中年の男性だった。スマートフォンで何か聞いていると見えて、耳にイヤホンをしているが、割と堂々と音が漏れている。ラジオ番組のようだ。

 男性は、やはりRさんの後ろを通って、衝立の向こうに消えていった。

 ラジオの音声だけが、しっかり流れてくる。先ほどの女性達の談笑も続いている。

 初めは静かだった店内が、次第に賑やかになってきていた。

「――は入れたいんですよ」

 Rさんが言った。

 絵とは要するに、『夜行奇談』の各エピソードの「得体」に当たる絵のことだ。確かに、これがあるとないとでは大違いだろう。

 ウェブ版の『夜行奇談』には、当然ながら絵が載っていない。これは、「カクヨム」に作品として投稿できるのが文章のみで、画像が添えられなかったからだ。

 しかし書籍であれば、絵の掲載も可能となる。この点は書籍版の強みだろう。

「じゃあ、こういう形ですかね。まず本編があって、その後に厄落とし編が来て、そこに絵と解説が入る……と」

 僕はそう言いながらも、引っかかるものを感じた。

 おそらくだが――そういう本は、のではないか。

 本編を読んだ後に厄落とし編を見て、また本編を見て、交互に眺めて……とやっている自分を想像すると、実にそう思う。いや、自分でそういう作品を書いておいて言うのも何だが。

 ただそうなると……いったいどうすればいいのか。

 考えていたら、またドアの開く気配がして、誰かが入ってきた。

 小さな子供を連れた、若い母親だ。騒ぐ子供をあやしながら、やはりRさんの後ろを通って奥の席へ向かい、衝立の先に消えていった。

 談笑。ラジオの音。母子の声……。すでに店内には、いくつもの音が渦巻いている。

 どこか落ち着かなさを覚えながらも――僕はふと思いついたアイデアを、Rさんに提案してみた。

「いっそ、絵は各エピソードの終わりに入れる、というのはどうです?」

「終わりですか? ああ、例えば第一話なら第一話で、こう話を読んでいくと、最後に『得体』として『××』の絵が載る、と?」

 紙束をパラパラと捲りながら、Rさんが尋ね返す。しかし尋ね返しながらも、すでにその指先は、ページ内の絵のサイズを想定してなぞるような動きを見せ始めている。

「ここに絵が来て、下段に解説……いや、解説はいらないなあ。いらないですよ」

「いらないですか?」

「はい。絵だけで行きましょう」

 自信ありげに、Rさんは言った。彼の中でもイメージが固まったらしい。

「変に詳しく解説を書くと、それはそれで怪談とのバランスが悪くなっちゃう気がするんですよ。だから敢えて絵だけを載せて――それで何となくニュアンスは伝わると思いますよ?」

「確かに、怪談の直後に詳しい解説とかがあっても、興醒めですもんね」

 僕も頷いた。もっとも中には、絵だけを載せてもピンと来ないであろうエピソードもあるが――そういったものについては、あとがきの中で補足してもらえればいい、とRさんは言った。

 ともあれこれで、大きな課題はクリアしたも同然だった。僕達はホッと息をついた。

 それから今後のスケジュールの確認などをして、そろそろ引き上げようか……というところで、僕は不意にトイレに行きたくなった。

 Rさんに一言断りを入れて、席を立つ。衝立で仕切られた向こうに、「TOILET」と書かれたドアが見える。

 そちらへ向かうため、僕は一度通路へ出た。

 視界が、店の奥を捉えた。

 ……誰もいなかった。

「…………?」

 僕は無言で、その場に立ち尽くした。

 女性達の談笑が聞こえる。

 男性のイヤホンから、ラジオの音が漏れている。

 母親が、騒ぐ子供をあやしている。

 ……どれも、はっきりと聞こえる。

 ……なのに、誰もいない。

 僕ば思わずRさんの方を振り返った。通路に背を向けて座っているRさんは、何も気づいていないと見えて、鞄に紙束を突っ込むのに夢中になっている。

 こういう時は――やはり自分も、をした方がいい、のだろうか。

 僕は、いろいろな音が渦巻く無人の店内をぎこちない足取りで歩き、トイレに入った。

 そして用を足して出てくると、すでにRさんがレジの前に立って、お婆さん相手に会計をしている最中だった。

 僕は席に残してあった荷物をそそくさとまとめ、Rさんに先立って店から出ようとした。そんな僕を見て、お婆さんが小さな声で、囁くように言った。

「……気づいたの? ここ、よくから」

 僕は――曖昧な笑顔を返すだけに留めた。


 ちなみに、店を出てからRさんに今の話をしたが、Rさんはキョトンとした顔をするばかりだった。

「そんなことがあったんですか? 全然気がつかなかったです」

「Rさん、通路に背を向けてたから見えなかったかもしれないけど、打ち合わせの途中で何人かお客が入ってきたじゃないですか。そのお客が、どうやら……」

「いや、お客さんが来たのも、気がつかなかったです」

 どうやら、ドアが開いて人が入ってくる気配も、彼らの姿も、後に続いていた談笑やラジオの音も――。

 ……すべて、僕だけが感じていたものだったらしい。

 おかげで表情が強張ったまま、ほぐれそうもない。そんな僕を見て、Rさんは笑いながら言った。

「でも結構いい店だったんで、また来ようと思います」

 それはやめた方がいいのでは、と僕は思った。

 そもそも、僕がトイレに立ったあの時――。

 店内に誰もいなかった、あの瞬間――。

 ……あそこには、店員のお婆さんすら、いなかったのだから。

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