第二百三話 七人迎え、来たる(後編)

 モウサンにまつわる一連の話は、第四十五話「モウサン」から始まり、第五十一話「不可解な話」などいくつかの関連するエピソードを経て、第百二話「モウサン、再び」で完結する。ただ、その内容を簡潔に説明するのは、いささか難しい。

 ……事の発端は、僕がかつて妖怪関係のサイトを運営していた頃、メールで問い合わせを受けた、この質問だった。

『モウサンという妖怪を知ってますか?』

 質問を送ってきたのは、都内在住のMさんと名乗る男性だった。何でも、子供の頃に聞いた「モウサン」という妖怪のことが気になって、調べていたそうだ。

 どんな文献にも載っていないその妖怪について、当時僕は、大した情報は提供できなかった。だがその後Mさんから連絡があり、子供の頃に「モウサン」のことを教えてくれた学童クラブの先生に、会いにいくことになったという。

 ただ――問題は、その「先生」自体が、だいぶ謎めいた存在だったことである。

 名前は不明。顔や声もなぜかMさんの記憶にはなく、学童クラブの集合写真にも写っていない。分かっているのは、女性であることと、貰った年賀状に書かれてあった住所だけだ。

 それでもMさんは、その先生に会いに、N県まで出かけ――。

 ……そこで、連絡が途絶えた。

 いや、あくまで僕のもとにメールが来なくなっただけだから、特に亡くなったり事故に遭ったり、ということではなかったのかもしれない。

 しかし、それから十年も経って、おかしなことが起きた。

 まず、Mさんから新たなメールが届いた。

『モウサン』

 ただそう一言だけ書かれた、奇妙なメールだった。

 それからさらに時を経て――その間にも兆候らしき出来事はあったが――今度は正体不明の老人が、僕の周辺に姿を見せるようになった。

 老人は、僕の知人や友人の前に現れては、こう尋ねたそうだ。

 ――モウサンという妖怪を知ってますか?

 ――あなたは、Yさんですか?

 この「Yさん」というのは、僕がサイトを運営していた頃に使っていた、ハンドルネームだ。

 つまり老人は、僕を捜していたようなのである。

 目的は分からない。ただ僕はこの事態を知って、「老人の正体はMさんではないか」と疑った。

 しかし、僕が以前メールでやり取りしていたMさんは、もっと歳若いイメージだった。もちろんネットを介していた以上、相手の素顔までは分からないが、概ねこの見立ては正しい気がする。

 なのに、なぜMさんは、老人の姿に変わっていたのか。

 ……そもそもあの老人は、人間だったのか。

 僕自身、一度だけその老人に、背後に立たれたことがある。

 そこで話しかけられた。だから、声は聞いた。

 しかし振り向いた時には、誰もいなかった。

 老人は、人ならざるものだったのか。でもそうなると、Mさんはいったい――。

 ……以上。とにかく、分からないことだらけなのだ。「モウサン」の話は。

 もっとも、今からその真相を探る必要はない。

 僕がするべきは、ただ一つ。あの一人目の死者の名前を、特定することだけだ。


 六夜目を終えた二十七日の午前中、僕は今一度、考えてみた。

 今回分かったのは二つ。まず一人目の死者が、おそらく「モウサン」に関係した人物である、ということ。そしてもう一つは、今回加わった六夜目の死者が、ずぶ濡れの若い女であること。

 まず後者から考察する。あの若い女に、心当たりはあるか。

 自問し、少なくともリアルの知人ではないと判断する。あの顔には見覚えがない。となると、やはり怪談絡みの人物だろう。

 非業の死を遂げた若い女、ずぶ濡れ。その他、いくつかの特徴――。

 僕は少し考えてから、ある話を思い出した。

 第百七十七話「書くな」だ。

 この話は、ライターのAさんから聞いたものである。彼が実録犯罪のドキュメンタリー本を執筆していたところ、ある殺人事件(詳細は伏す)について書いた箇所だけが原稿上から消えてしまう――という怪現象が、何度も起きた。

 しかもその後Aさんは、事件の被害者である女性の幽霊と思しきものを見ている。そしてその幽霊の特徴は、僕の夢に出てきた六夜目の死者と、一致しているように思う。

 僕はAさんに連絡を取ることにした。

 メールを送り、その返事を待つ傍ら、一人目の死者についても考えてみる。

 あの一人目の男は――Mさんなのだろうか。

 一言発した「モ」という言葉。そして、年老いた外見……。

 もし、第百二話「モウサン、再び」で僕の周囲に現れた怪老人の正体がMさんだったとすれば、今回僕の夢に現れた死者も、Mさんである可能性が高い。

 ただ、もしそうなら……Mさんは非業の死を遂げた、ということか。

 しかし彼の姿は、他の死者達と違って、亡くなった時の様子を再現しているわけではない。

 徐々に姿が変わっているのだ。

 服が汚れ、年老い、頭が肥大化し――。

 だが、それは「死」とは言えない。

 ……だ。

 その言葉が浮かんだ途端、思わず背筋がぞくりとした。

 いったいMさんは、どうなってしまったのだろう。

 亡くなったわけではないのか。あるいは、に陥ったのか――。

 考えながら、僕はリビングのテーブルに、新しい半紙を置いた。

 ここに、七人の名前を書かなければならない。

 Mさんの名前はどうすればいいだろう。彼からのメールに書かれてあったのは、本名だろうか。それともハンドルネームか。

 ……いや、たとえ本名でなくとも、問題ないのかもしれない。現に二夜目の死者であるX氏は、ペンネームだ。

 僕は筆を執り、この時点で判明している名前を六つ書いた。

 Mさん。X氏。「一輪車」の男の子。「二人いる」の女子大学生――彼女については、名前を二度書いた。そして、「異久那土いくなどサマ」の犠牲になった××君。これで六人である。

 あとは、昨夜の夢に現れたずぶ濡れの女だ。彼女の本名については、すでにライターのAさんに問い合わせてある。彼からの返事さえ来れば、これで七人の名前が揃うはずだ。

 もっとも、僕が見た夢は、あくまで六夜目まで。もしかしたら次の「七」の付く日に、さらにもう一人の死者が加わる可能性もあるが――。まあ、その時はその時だ。

 僕は覚悟を決め、Aさんの返事を待った。


 Aさんからの返事は、翌日来た。

 その文面を読む限り、Aさんは僕を、だいぶいぶかしんでいるようだった。

 まあ、いきなり『例の殺人事件の被害者の本名を教えて下さい』などと書いて送ったのだから、無理もないだろう。

 当然ながら、理由を求められた。Aさんとしては、僕が怪談上で被害者の本名を公開するのではないか、という不安があったのだろう。

 だから僕は、もちろんそのようなことはしない、と返事をした。怪談を書く際には、人名・地名の類はすべて仮名に置き換えているし、その原則を破るつもりはない。

 ただ、それでも理由を言わなければ、教えてくれることはなさそうだった。

 僕は仕方なく、こう返した。

『供養が必要になりました』

 ……これは、嘘ではない。

 あくまで「七人むかえ」のことは、伏せておいた。

 しかしAさんは、幸いこの一言で納得してくれたようだった。おそらく彼は、こう考えたのだろう。

 例の女の幽霊が、僕のもとにも現れたのだ、と――。

 もちろん、誤りではない。誤魔化すような形にはなってしまったが、こうして僕は無事、被害者の本名を教えてもらうことに成功した。

 もっとも、メールのやり取りが長引いたため、時期はすでに翌月になっていた。

 七夜目まで、もうわずかな時間しか残されていない。僕は清書に移った。

 テーブルにまっさらな半紙を広げ、丁寧に、七つの名前を書いた。月が替わってから、六日目のことである。

 そんな折、突然D君からメールが来た。

『明日会えないか?』

 なぜよりにもよって、七夜目直前のタイミングで言ってくるのか――と思ったが、僕は了承の返事を送っておいた。

 今夜、この身が生き延びることを信じて。


   *


 ――×月七日。七夜目。

 結論から言えば、

 いかだに、新たな死者が乗っていた。

 八人目……。いや、正しくは、これが七人目なのだろう。

 女だった。

 頭の上半分が潰れていて、顔立ちは分からなかった。

 体つきは若い。大量の血を吸った服の裾が、重そうに垂れている。

 しかし何よりの特徴は、その両腕に絡みつく、異様な代物だった。

 ――へびだ。

 色鮮やかな大きな蛇が二匹、女の左右の腕に、ぐるりと巻きついている。

 僕は震える目で、女の潰れた顔を、もう一度見た。

 彼女の顔に辛うじて残された唇が、ニヤニヤと笑っていた。

 ――おーい。

 死者達が叫んだ。

 ――おーい。

 女も叫んだ。

 ――モ。

 一人目の死者――すでに面影のないぎょうと化していたが――だけが、いつものとおり、違う言葉を吐いた。

 彼らを載せた筏は、岸から一メートルもない距離をゆっくりと流れ、川下に消えていった。


 そしてまた、僕は目を覚ました。

 汗で冷たくなった額を拭い、起き上がる。

 今見た夢の中身を、頭の中で反芻はんすうする。

 ……七人目がいた。悪夢は、まだ終わりではなかった。

 しかし十日後、確実に終わりを迎えるだろう。

 僕は深く息を吐き、それから枕の下に手を伸ばした。

 指が半紙に触れる。死者達の名前を書いたものだ。もしかしたら今夜が最後かもしれないと思い、念のため準備しておいたのだが――どうやら本番は次回ということらしい。

 この半紙の上にもう一人、さっき夢に出てきた女の名前を書き加えなければならない。しかしそれさえクリアできれば、「七人迎え」から逃れることができるのだ。

 そう思いながら僕は、枕の下から半紙を引っ張り出した。

 ……じゅっ、と水の噴く感触が、指に走った。

 半紙が、濡れている。

 汗か。だがそれにしては、濡れ方が尋常ではない。

 嫌な予感がして、僕は急いで部屋の灯りを点けた。

 明るくなった寝室で、手元の半紙を見る。

 ……真っ黒だった。

 水気をたっぷりと含み、すっかり墨がにじんでいるのだ。

 ただし、書かれている名前は、辛うじて読み取れた。

 ……を除いて。

「そんな……」

 僕は愕然がくぜんとして呟いた。

 しかし考えてみれば、これは必然だった。

 そう、僕が失念していただけだ。死者の中に一人、人物がいたことを。

 どうあっても書かれることを拒む、極めて厄介な幽霊が混じっていたことを。

 ――

 ふと耳元で、その幽霊からそう囁かれた気がして、僕は小さく悲鳴を上げた。


   *


 眠気がぶり返すこともなく、朝が来た。

 僕はしょうすいし切った顔でベッドを出ると、窓から差し込む陽の光の中で、黒く滲んだ半紙を改めて眺めた。

 七つの名前のうち、一つだけが完全に読めなくなっている。ライターのAさんから聞き出した、六夜目の死者――第百七十七話「書くな」に出てくる女の幽霊の名前だ。

 ……これだけは、

 書いても、そこだけが消えてしまうからだ。

 僕は途方に暮れた。

 八夜目まであと十日。それまでにすべての死者の名前を書けなければ、僕はあの世に引っ張られてしまう。

 なのに――このままでは、名前が揃わない。

 ふと、頭の中が真っ白になりかけた。

 意識が断たれ、すべての思考が放棄されそうになった。

 いや、いっそ本当に放棄すれば、とても楽になれるのだろう。

 ……でもそれは、死を意味する。

 僕は踏み止まった。

 考えるべきなのだ。何としても、生き延びる道を。

 僕は気を取り直し、ひとまずこの問題を後に回すことにした。

 なぜなら、突き止めなければならないことが、もう一つ出来たからだ。

 もちろん、昨夜の夢に現れた、真の七人目の死者の名である。

 僕はその特徴を、今一度思い出してみた。

 若い女。潰された頭。

 そして――蛇。

「ああ、『ヘビコさん』かな……」

 僕はかすれた声で、ぼそりと呟いた。

 蛇という要素から真っ先に思い浮かんだ話がある。第百十八話「ヘビコさん」だ。

 ある青年が小学生時代に体験した、不気味なクラスメイトにまつわる話である。

 周囲から「ヘビコさん」と呼ばれていたそのクラスメイトは、見た目は美しい少女ながら、いくつものおぞましいエピソードを持っていた。

 彼女をいじめたり叱ったりした者達は、何かで、ことごとく不幸な目に遭った。

 時に精神に異常を来し、時に命さえ落とした。

 それはおそらく、彼女の「素性」に原因があるのだろう。その素性とは――。

 ……いや、これはあまり深入りするべき話ではない。それよりも今大事なのは、七夜目の死者が「ヘビコさん」の話に登場する誰かだ、ということだ。

 しかし――いったい誰なのだろう。

 僕は改めて「ヘビコさん」の話を読み返してみた。

 ……該当しそうな人物はいない。

 話の中で、ヘビコさんの怒りを買って亡くなった人は何人かいるが、どれも七夜目の死者とは、年齢や性別が違うように思える。

 それに、そもそも死因が噛み合わない。

 夢の中に現れた女は、頭の上半分が潰れていた。だが、そんな亡くなり方をした人物は、この話には出てこない。

 どういうことだろう。実は「ヘビコさん」とは関係ない、別の怪談に出てくる人物なのか。しかしあの蛇の存在がある以上、他に考えられないのだが……。

 そう悩んでいたところで、僕はふと思い出した。

 夢の中に現れたあの女の、表情を。

 潰れた頭の下半分に辛うじて残されていた、唇の形を。

 ――ニヤニヤとした笑み。

 不意に背筋が冷たくなった。

 なぜ頭が潰れながら、彼女があんな笑みを浮かべていたのかは、分からない。しかし理由など、どうでもいい。

 重要なのは、、ということだ。

「まさか……」

 僕は呟き、それから急いで、ある人の連絡先を捜し始めた。僕に「ヘビコさん」の話を教えてくれた知人である。

 すぐに確かめなければならないことができた。

 もし僕の推測が正しければ――。

 ……七夜目の死者の正体は、おそらく、ヘビコさん本人だ。


   *


 そもそも僕に「ヘビコさん」の話を教えてくれたのは、実際に恐怖を体験したご本人ではない。彼の、学生時代の先輩である。

 今回僕が連絡を取ったのも、その先輩の方だ。

 果たしてヘビコさんは本当に亡くなっているのか……。それを確かめるためだ。

 とは言え、とりあえずメールで質問を送ったものの、すぐに返事が来るわけでもない。もどかしく思いながら待つうちに、次第に陽が傾いてくる。

 そこで――僕はふと、D君との約束を思い出した。

 そう言えば、今日会うことになっていたのだ。すっかり失念していたが、待ち合わせの時刻は夕方なので、今から出発すれば間に合うはずだ。

 僕は急いで身支度を整え、家を出た。

 向かった先は例によって、D君の職場近くの喫茶店だった。ところがいざ着いてみると、肝心のD君がまだ来ていない。

 店員に空いた席に通され、とりあえず紅茶をオーダーする。それからスマートフォンを取り出して、D君に『先に店に入ったよ』とメッセージを送ると、すぐに『ごめん、遅れる』と返事が戻ってきた。

 そこへ紅茶が運ばれてくる。一口すすり、僕はようやく息をついて、軽く目を閉じた。

 思えば、昨夜はほとんど睡眠を取っていない。こうして目を瞑っていれば、少しは疲れが癒えるかもしれない。

 暖房の温もりが心地よい。次第に目蓋を開けるのが億劫になってくる。

 このまま眠ってしまいそうだ――。

 そう思った時だ。

 どこかで、がした。

 ――トン。

 僕は、はっと飛び起きた。

 慌てて周囲を見た。……だが、普通の店内の光景があるばかりである。

 気のせいか。

 僕はポケットからパスケースを取り出し、中に犬の写真が入っていることを確かめた。

 ……大丈夫だ。これがある限り、異久那土サマのさわりは防げる。

 そう自分に言い聞かせ、パスケースをポケットに戻す。そこへ、「おーいあずま」と、聞き覚えのある声が飛んできた。

 見れば、D君が着いたところだった。僕はひとまず安堵した。

 ただ、彼には報告しなければならないことが、いくつもある。さてどう切り出したものか、と思っていると、D君の方から話を振ってきた。

「悪いな東。東が書いたっていう怪談、まだ読んでないんだわ」

「……いや、それはまあ、べつにいいよ」

 今は作品の感想を聞いていられる気分でもない。

 僕はD君のオーダーが済むのを待って、いきなり核心に入った。

「実は、七夜目が終わったばかりで――」

「だろうなぁ。だからこのタイミングで会っておきたかったんだ」

「それで、全員の名前を書きたいんだけど、問題が起きて――」

「落ち着けよ東。あのさ、何度も繰り返しになって悪いんだけど」

 、とまたもD君は僕に言った。

 僕は、強く首を横に振った。

「そうか」

 D君は僕の反応を確かめると、深く溜め息をついた。

「じゃあやっぱり、実際に遭ってるんだな。『七人迎え』に」

 仕方ない、とでも言いたげである。僕はそこで、改めて彼に現状を詳しく説明した。

 一夜目から七夜目まで、すべて僕が過去に書いた怪談が関わっていること。また、それらの障りが、少なからず僕の身に起きていること――。

 特に、今一番問題になっている「書くな」については、端折はしょらずに詳しく話した。

 実際に「カクヨム」にアップしたテキストも、スマートフォンから見せた。D君は難しい顔でそれを一読すると、僕にこう言った。

「どういうことなんだろうな」

「どう、とは?」

「この幽霊、何で自分のことを書いてほしくないのか、って思ってさ」

「たぶん、そっとしといてほしいんじゃない?」

 D君の疑問の意図を酌み切れないまま、僕は適当に答えた。

 しかし実際のところ、これが正解だと思う。何しろ彼女は殺人事件の被害者だ。騒がれたくない、蒸し返されたくない――。そんな感情から、自分に関わる文字を消しているのだと考えれば、納得が行く。

 だがD君は顔をしかめ、手にしたスマートフォンを僕に突き出した。

「じゃあ何で、?」

 ……言われてみれば、もっともな疑問だった。

 確かにそうだ。もし問題の幽霊が、自分に関わる文字を片っ端から消してしまうのであれば、そもそも僕が第百七十七話「書くな」を公開することは、できなかったはずだ。

 この矛盾を、どう説明すればいいのか――。僕は少し考え、こう答えた。

「たぶんだけど、この殺人事件については、かなりぼかして書いたからじゃないかな」

「ああ、つまり詳細は伏せたから、と?」

「うん。僕が書きたかったのは、あくまで『文章が消える』っていう怪現象がメインだったからね。……まあ、そもそも事件の詳細自体、あらましぐらいしか聞かされていなかったんだけど」

 そう、だから被害者――六夜目の死者――の名前も、つい最近知ったばかりだ。

 ……と、そこまで考えて、僕はふと思った。

 もしも、だ。

 もしも、僕がこの「七人迎え」から逃げ切ることができた時、僕は何をするか。

 ――今回の一連の事件を、かもしれない。

 いや、間違いなくそうするだろう。ということは、「書くな」の幽霊についても、改めてその詳細に触れることになる。

 特に、彼女が夢の中に出てきた時の描写などは、かなり具体的なものになるはずだ。

 だが――それは、自分の死に触れられたくない彼女にとって、ボーダーラインを超えてしまうものなのかもしれない。

 ……そうか。だからあの幽霊は、自分の名前をかたくなに消しているのか。

 ようやく分かった気がした。

 となれば、僕が彼女の名前を書くためにするべきことは、一つしかない。

 今回の一件を怪談として書かないこと――。これに尽きる。

 この点を誓っておけば、彼女はきっと名前を書かせてくれるはずである。

 ……と思う。もちろん断言はできないが。

 僕の表情が和らいだからだろうか。D君は不意に手を上げて店員を呼ぶと、ナポリタンを注文した。

 僕も便乗して、腹に溜まりそうなものを頼む。それから紅茶を飲み干したところで、D君がこう言った。

「この『書くな』って話なんだけどさ、まだよく分からんのよ」

「何が?」

「いや、書いたものが消えるって言っても、消えているのは原稿の一部だろ? このライターさんの手持ちの資料とかは、消えてないんだろ?」

「うん。そこまでは消えてないんじゃないかな」

「警察とか裁判の資料も消えてないよな?」

「実は消えてました、ってなってたら大事おおごとだけど、今のところそういう話は聞いてないね」

「じゃあ、何が基準で消えたり消えなかったりしてるんだ?」

 なるほど、この疑問ももっともだ。僕は首を傾げた。

 何か彼女なりのルールがあるのだろうか。自分について、「これは書いていい」「これは書くな」というルールが……。

 その時だ。ふとD君が、合点が行ったように呟いた。

「ああそうか。そういうことなのかな」

「何か気づいた?」

「ああ。今思ったんだけどな。『書くな』っていう話の中で幽霊が消していたのは、本の原稿だろ? 出版されて世に出回るものだ。それがアウトだったんじゃないか?」

「なるほど……」

 つまり、本になるから駄目だった、ということか。

 だいぶ幽霊の気持ちが分かってきた気がする。確かに、自分の死をセンセーショナルに、まるで娯楽作品であるかのように扱われれば、腹に据えかねるだろう。

 もっともこのことは、今まで多くの怪談を書いてきた僕にとって、耳の痛い部分でもあった。

 ……その後食事を終えた僕達は、店を出て、駅に向かって歩き始めた。

 道すがら、D君がこんなことを言った。

「なあ東。……実は、俺も見たんだよ。『七人迎え』の夢を、だいぶ前に」

「それなら知ってる。て言うか、何でずっと否定してたんだよ」

 今さらな告白を聞いて、僕は半ば呆れて尋ね返した。

 D君は、しかめっ面で答えた。

気がしたんだ」

「何で?」

「…………」

 D君は無言になった。

 視線が周囲を探っている。すでに駅前に着き、辺りは大勢の人でごった返している。

 まるで、周りに聞かれるのを恐れているかのようだ。

 だから僕は、それ以上この話には触れなかった。

 D君も、すぐに話題を、当たり障りのないものに切り替えた。

 そして、そのままごく普通に別れた。

 僕は帰りの電車に揺られながら、D君の言葉の意味を考え続けることになった。


 その夜、日付けが変わってから、僕は恐ろしい夢を見た。

 ただし、「七人迎え」ではない。

 人が殺される夢だ。

 どこかの暗い民家で、若い男が、若い女の首を絞めていた。

 女は美しい顔を歪め、ニヤニヤと笑っていた。

 事切れても、笑い続けていた。

 男は何か呟きながら、金槌で、女の頭を潰し始めた。

 顔の上半分が血に染まっていく。

 それでも女は、ニヤニヤと笑い続けていた。

 僕はその光景を、天から見下ろしながら――。

(……蛇はどこだろう)

 そんな他愛のないことを、ずっと考えていた。


   *


 ――×月八日。

 日常生活を送る傍ら、ヘビコさんの情報を待った。

 昨夜見た夢が、頭から離れない。

 あの殺された女は、間違いなく七夜目の死者だ。

 ……あれが、大人になったヘビコさんだろうか。

 ……それではあの夢が、ヘビコさんが死んだ時の光景なのだろうか。

 ……では、あの男は誰か。

 そんなことを考えつつ、過去の取材ノートを引っ張り出してくる。

 ここには、ヘビコさんの本名が書かれている。実際に書いた怪談の中では「Bさん」としておいたが、これが、僕が求めている最後の名前かもしれない。

 その後夜になって時間ができたので、僕は改めて、新しい半紙にすべての死者の名を書き直した。

 「モウサン」のMさん。「未練」のX氏。「一輪車」の男の子。「二人いる」の女子大学生二人分。「異久那土サマ」の××君。「書くな」の女。そして、「ヘビコさん」のBさん。

 それから昨日のD君との会話を思い出し、「このことは絶対に怪談にしません」と、声に出して誓った。

 なお、ヘビコさんの情報は来なかった。

 やがて日付が変わり、僕は床に就いた。


 ――×月九日。

 また、女が殺される夢を見た。

 女はニヤニヤ笑いながら、男に絞め殺されていた。

 そして死んだ後、また起き上がった。

 ……昨日見た夢と少し違っていたが、これがどういうことかは、よく分からなかった。

 その後朝になってリビングへ行くと、テーブルの上に置いてあった半紙が、すっかり黒く滲んでいた。

 一昨日と同様、「書くな」の女の名前だけが消えている。誓っても無駄だったのか。それとも、心が足りていなかったのか。

 僕は頭を抱えながらも、もう一度同じものを書いた。

 ヘビコさんの情報は、まだ来ない。


 ――×月十日。

 またも、女が殺される夢を見た。

 絞め殺されて、また起き上がっていた。

 ……あれはヘビコさんだろうか。

 ……ヘビコさんは、殺されても死なないのだろうか。

 ……死なないのなら、なぜ「七人迎え」として現れたのだろう。

 そんなことを考えていたら、男が女の頭を潰し始めた。

 ……夢はそこで途切れた。

 朝になって目を覚ました僕は、すぐにリビングに行ってみた。

 昨日名前を書いた半紙が、やはり黒く滲んでいる。

 改めて文字の状態を確かめる。判別可能な名前はごく一部で、それ以外は辛うじて目を凝らせば読める程度だ。ただし「書くな」の幽霊の本名だけは、どう足搔あがいても読むことができないレベルまで消えてしまっている。

 これでは堂々巡りだ。何とかしてあの幽霊の許しを得ないと、「七人迎え」を防げない。

 いっそ、第百七十七話「書くな」も、ネット上から削除してしまうべきか――。

 ……と、そこまで考えたところで、僕はふと、おかしなことに気づいた。

 そもそも第百七十七話については、何の問題もないはずだ。なぜなら、である。

 そう、もし僕の書いた怪談が、彼女の気に入らないものであれば、それは自動的に消えてしまう。そういうルールだ。

 でも――だとしたら、やはりおかしい。

 ……なぜ彼女は、半紙に書かれた自分の名前を消しているのだろう。

 もし今回の件を怪談にされるのが嫌だというなら、僕が実際にその怪談を書いた時に、それを消してしまえばいいだけではないか。

 この矛盾は、いったいどう説明すればいいのだろう。

「……よし、試してみるか」

 考えた末に、僕は「実験」をしてみることにした。

 簡単なことだ、今から実際に、その怪談を書いてみるのである。

 もちろん公開が前提だ。その上で、もしあの幽霊が僕の怪談を気に入らなければ、原稿は自動的に削除されるだろう。

 僕はさっそくワープロソフトを立ち上げ、執筆を始めた。

 一から順番に書くと時間がかかるので、取り急ぎ、「書くな」の幽霊が夢に現れた第六夜の部分を書いてみる。

 ただし彼女の詳しい外見描写や、殺人事件の詳細は、作中では触れずにおく。これは、明らかにボーダーラインを超えると思われるからだ。

 そして黙々とキーボードを叩くこと数十分。必要な部分をひととおり書き上げたので、僕はその原稿を保存し、一度ソフトを終了させた。

 それから十分ほど待って、もう一度原稿を開いてみる。

 ……文章が消えた様子はない。すべて、先程のまま保存されている。

 ということは、怪談にしても問題ないのか。

 僕は首を傾げた。「書くな」の幽霊が半紙の名前を消してしまうのは、てっきり今回の件を怪談にされるのを嫌がっているからだ、と思っていたが――。もしかしたら、他に理由があるのかもしれない。

 僕は改めて、黒く滲んだ半紙を眺めながら、その理由を考えた。

 彼女はいったい何を嫌がっているのか。「公開されること」ではないのか。だから半紙の名前を消したのではなかったのか――。

 ……その時だ。

 不意に強烈な違和感が、胸に湧き上がってきた。

 ――幽霊は、怪談を消さなかった。

 ――消しているのは、半紙に書かれた自分の名だ。

 しかし公開されるのが嫌なら、半紙の名前を消したところで意味がない。

 なぜなら――「七人迎え」を防ぐのに用いた紙は、からだ。

 この紙は八夜目を終えた後、八つに折って土に埋めてしまう。したがって、ここに書かれた名前を消す理由は、あの幽霊にはないはずなのだ。

 ……なのに、これはどういうことだろう。

 そう考え込んでいたところへ――突然スマートフォンが鳴り響いた。

 電話の着信だ。画面には、ある知人の名前が表示されている。他でもない、僕に「ヘビコさん」の話を教えてくれた人だ。

 ようやく返事が来たようだ。僕は慌てて電話に出た。

『――東さん、お久しぶりです』

「あ、はい。ええと……」

 挨拶も満足に返せないまま、僕は急いで要件を再度話した。即ち、ヘビコさんはすでに亡くなっているのではないか――。

 その問いに知人は、どこか抑揚よくようのない声で、『はい』と肯定した。

『今年の初めでした。突然』

「あの、死因は……?」

『他殺です』

 案の定、そんな答えが返ってきた。

『旦那が――あいつが、やったんですよ』

 とは、おそらく「ヘビコさん」の話に登場する主人公のことだろう。

 聞けば、その彼はすでに逮捕されているという。ちなみに殺害方法についても尋ねたが、知人は知らないようだった。

 ――きっと、首を絞められ、頭を潰されたんだ。

 僕はそう確信した。

「でも、どうして殺したりなんか――」

『……さあ。でも事件の少し前に、あいつから相談を受けました』

「どんなですか?」

『警察にも話したんですけどね。何でも、今奥さんが妊娠していて、検査の結果、もう殺すしかない、と――』

「…………」

 それを聞いて、僕は絶句するしかなかった。

 常識的に考えれば、殺人の動機としては滅茶苦茶だ。しかし――を踏まえると、ご主人の追い詰められた心情が理解できてしまう気がする。

 いやもちろん、だからといって、人をあやめていいはずがないのだが……。

 僕は居たたまれない気持ちになりながら、ひとまずその話を脇へ置き、もう一つの大事なことを尋ねた。

 ヘビコさんの、本当の名前である。

 一応過去の取材ノートにはBさん(仮名)と書かれているが、それが正しいのかどうか、この場ではっきりさせておきたい。

 すると知人は少し考えてから、こう答えた。

『結婚して姓が変わっていたので、亡くなった時は、あいつと同じ姓でしたね』

 ――そうか。

 確かめておいてよかった。すっかり勘違いして、旧姓で書いていた。

 僕は冷や汗をかきながらも、安堵した。

 それから礼を言って通話を切ろうとすると、ふとスピーカーの向こうで、何かが聞こえた。

 ……赤ん坊の泣き声、だろうか。

「あれ、お子さんいましたっけ?」

 僕が尋ねると、知人は答えた。

『ああ、奥さんから托されましてね』

「……え?」

、私が育てることになりました』

 何を言っているのか――理解するのに時間がかかった。

 気がついた時には、僕は何か適当な言い訳をして、通話を切っていた。

 遅れて指が震え出した。知人の今の抑揚のない声が、耳にこびり付いている気がして、しばらく耳を押さえながら蹲った。

 ……そう言えば、蛇は頭を潰さない限り何度でも蘇る、という俗信があった。

 ふとそんなことを思い出し、背筋が凍りついた。

 ――もう彼らに関わってはならない。

 吐き気を覚えるほどの恐怖に苛まれながら、僕は強く思った。

 その後ようやく気持ちが落ち着いた時には、すっかり陽が沈んでいた。

 僕は半紙に、姓が変わったヘビコさんと、それ以外の死者達の名前を書いた。

 ――しかし、またこれも消えるかもしれない。

 憂鬱になりながら、横目でカレンダーを確かめた。


 ――×月十一日。

 この日、ヘビコさんの夢を見ることはなかった。

 しかし悪夢が続いていたせいだろう。すっかり寝つけなくなったようで、夜中にふと目が覚めた。

 ……同時に玄関の外で、何かが鳴っているのが聞こえた。

 ――トン。

 その瞬間、ひやりとした感覚が、全身を走った。

 聞き間違いであることを祈りながら、耳をそばだてた。

 ――トン。

 ――トン。

 やはり、だ。

 異久那土サマ――。完全に止んだわけではなかったのだ。

 もちろん犬の写真が飾ってあるから、玄関から入ってくることはないだろう。しかし、だからこそああやって、ドアの外から隙を窺っているのかもしれない。

 僕は目を固く閉じ、音が消え去るのを待った。

 だがその後も、音は途切れることなく、ずっと鳴り続けていた。

 僕は生きた心地がしなかったが、次第に眠気がまさって、やがて意識を失った。

 ……再び目を覚ましたのは、朝になってからだ。

 音は、止んでいた。

 ただしテーブルに広げておいた半紙の方は、案の定濡れて墨が滲み、判読できない状態になっている。

「どうすりゃいいんだよ……」

 絶望に満ちた声で呟きながら、僕は黒くなった半紙を睨みつけた。

 しかし――そこでふと気づいた。

 昨日に比べて、墨の滲み方が弱くなっているのだ。

 偶然か。それとも、何か意味があるのか。

 僕は確かめてみようと、ごみ箱から前回の半紙を引っ張り出してきて、見比べてみた。

 そして――すごい手がかりに気づいた。

 ……そもそも前回は、一見して判読可能な名前は一部のみ。それ以外の名前は、「書くな」の幽霊が完全に読めない状態で、他の名前も、目を凝らしてようやく読み取れる程度だった。

 ところが今日は、墨の滲み方が弱まった結果、前回読み辛かったが、完全に判読可能になっているのだ。

 ……他でもない、ヘビコさんの名である。

 彼女の実名は、前回まで旧姓で書いていたところを、今回は婚姻後の姓に改めてある。

 もしこれが、偶然でないとしたら――。

「まさか……?」

 半ば思いつきに等しい説を、僕は口にしてみた。

 しかし、突然ヘビコさんの名前が読めるようになったことを考えると、この可能性は捨て切れないのではないか。

 僕はすぐさま、他の名前についても確かめてみた。

 今回一見して判読可能な名前は、ヘビコさんの他に二人いる。「未練」のX氏と、「一輪車」の男の子だ。

 もし僕の仮説が正しければ、この三人の名前は「正解」ということになる。

 一方で滲み方が強く、目を凝らさないと読めないのが、「モウサン」のMさん、「二人いる」の女子大学生、「異久那土サマ」の××君の三人。そしてまったく読めないのが、「書くな」の幽霊――。

 ……これは試してみた方がいいかもしれない。いや、むしろ他にすがれる可能性がない以上、試すべきなのだ。

 僕はすぐさま墨と筆を用意し、新しい半紙に名前を書き始めた。

 修正すべき候補として真っ先に思いついたのが、「二人いる」の女子大学生だ。僕は彼女の名をりちに二つ書いていたが、これは一つでいいかもしれない。

 まずはそこだけを改め、一晩様子を見てみることにした。


 ――×月十二日。

 やはり深夜に目を覚ますと、玄関の外で、トン、トン、と音が鳴り響いていた。

 もし「七人迎え」を退けられたとしても、今後はずっとに付きまとわれるのではないか――。そう考えると、気が気でない。

 ともあれ朝になり、テーブルの上の半紙を確かめてみると、予想どおりの結果が待っていた。

 女子大学生の名前が、判読可能になっている。

 やはり――正しく書けば、読めるようになるのだ。

 でも、いったいなぜなのか……。考えてみたが、どうもこれという理由が思い当たらない。まさか、幽霊が親切でヒントを出してくれているわけでもないだろうが。

 ……まあ、今は考えても仕方がない。それよりも、次の半紙を用意するのが先だ。

 現時点でエラーが出ている名前は、「書くな」の幽霊も含めて三つ。さて、どう修正すればいいのか。

 例えば、「異久那土サマ」の障りを受けた少年。彼は××君だと思っていたが、これが実は間違っているとしたら――。

 僕は急いで一枚のメモを持ってきた。ここには、先日の「異久那土サマ」の取材で書き記した、他の生徒達の名前がある。

 もしかしたら、実際に五夜目に現れたのは××君ではなく、ここに書かれた「他の誰か」だったのかもしれない。だとしたら、半紙の××君の名前も、正しい人物に置き換えなければならないだろう。

 しかし、誰が正解なのか……。僕は迷った末、結局すべてのパターンを書いてみることにした。冷静に考えれば、「一夜に一枚だけしか試してはいけない」というルールはないのだ。

 ついでに「モウサン」のMさんについても、修正点を考える……と言いたいところだが、あいにく彼については、何をどう直せばいいのか、皆目見当がつかない。

 あとは「書くな」の幽霊だが――。そもそも彼女は、公開しないことが前提のこの半紙を、なぜ頑なに滲ませ続けているのか。

 ……やはりまだ、僕には理解が足りていないようだった。


 ――×月十三日。

 トン、トン、という怪音で夜中に目が覚めた。

 どうやらが現れるのは、この時間だけらしい。それでも家の中に入られなければ大丈夫だろう、と思っていたのだが――。

 ……翌朝起きて、玄関に飾ってある犬の写真を確かめると、額縁ごとになって床に落ちていた。

 僕は青ざめた顔で、額縁を元の形に戻した。

 ちなみに窓側の方は、今のところ問題なかった。玄関に犬の写真を増やすべきかもしれない。

 そう思いながらリビングに行くと、昨日書いた半紙が、どれも黒く滲んでいた。

 しかもあろうことか、「異久那土サマ」の犠牲になった少年達の名前――要するに昨日書き改めた部分――が、きれいに全滅している。つまり、すべて誤りだったということだ。

 僕は愕然としながら、墨で汚れた半紙を眺め、しばし考えた。

 ……やはり、××君で正解な気がする。

 改めて、そう思った。人違いの可能性を考慮して別人の名前を書いてみたものの、当時の写真で顔を確かめている以上、「××君」の部分が間違っているとは考えにくい。

 では――何が不味かったのか。

 それとも、「正しく名前を書けば読めるようになる」という解釈に誤りがあるのか。

 結論が見えないまま、僕は普段の仕事に戻った。

 一方で、合間合間に犬の写真を飾り直すのも、忘れなかった。新たに二枚増やし、すべてピンで額縁ごと壁に固定した。

 その後夜になり、僕は半紙を広げ、またも考え込んだ。

 ……何か書かなければいけない。実験を休めば、貴重な一夜が無駄になってしまう。

 考えた末、五夜目の死者は××君のまま、一夜目のMさんの方を直してみることにした。

 と言っても、明確な修正案があるわけではない。ただ、彼がハンドルネームだった可能性を踏まえ、メールに書かれてあった名前と近いもの――例えば同音異字やアナグラム――を思いつく限りピックアップし、それを片っ端から半紙に書いた。

 ……しかし実際のところ、どうもピンと来ない。Mさんについては、もっと違う着眼点が必要な気もする。

 だが、あと数日で、それを見つけ出せるだろうか。

 気持ちがいているのが、自分でも分かった。


 ――×月十四日。

 またも夜中の怪音に目を覚ました。

 僕は少し躊躇ちゅうちょしてから、そっとベッドを抜け出した。

 本当なら、頭から布団を被ってしまいたいところだった。しかし昨夜、はドア越しに、犬の写真に干渉している。もしまた今夜同じことをされて、写真を破られたりでもしたら、いよいよが家の中に入ってくるかもしれない――。

 そう考えると、とてもベッドにろうじょうしている気分にはなれなかった。

 僕は寝室を出ると、廊下の電気を点け、恐る恐る玄関に向かった。 

 ――トン。

 ――トン。

 ドアの外で、が弾む音が聞こえる。

 その音に合わせて、壁に取り付けた額縁が、ミシミシと揺れている。

 僕は、手で額縁の一つを押さえた。

 ――トン。

 ――トン。

 外の音は、鳴り止まない。

 手の中で、額がミシミシと唸る。

 そのうちに、他の二つの額が壁から剥がれ、床に落ちた。

 ……上下逆さまに、だ。

 僕は生きた心地がしないまま、残る最後の一枚を、懸命に死守しようとした。

 だがその時だ。

 不意に――外の音が止んだ。

 息を殺し、じっと耳を澄ませて様子を窺う。しかし、例の音が聞こえてくることはない。

 もしかしたら、今夜はもう去っていったのだろうか。

 僕はそう思い、ドアスコープから、そっと外を覗いてみた。

 ……

 が、ドアの外から、じっとこちらを見つめていた。

 僕は慌ててドアから顔を離すと、犬の額縁を手で押さえたまま、その場に立ち尽くした。

 ――この場を離れたら、額縁を落とされる。

 そう思うと、とてもベッドまでは戻れない。

 ――だが、夜明けまでこうしているつもりか。

 そう自問したが、他に最善な方法など思い浮かばなかった。

 結局それから数時間、僕は玄関で額縁を押さえながら、夜明けを待つことになった。

 やがて鳥のさえずりが聞こえてくる頃、もう一度ドアスコープを覗くと、そこにはもう何もいなかった。

 僕はベッドに戻り、犬の写真が入ったパスケースを胸に抱いて、眠りに落ちた。

 ……その後目が覚めた頃には、すっかり昼になっていた。

 テーブルの上に並べた半紙は、今回もすべて黒く滲んでいた。

 しかし――不思議と絶望は感じなかった。

 ある確信めいたものを覚えながら、僕は墨を用意し、半紙に死者達の名前を書いた。

 ただし五夜目の死者――××君の名前だけは、普通には書かなかった。

 半紙を百八十度回転させ、ように、名を書いた。

 ――おそらく、これで間違いないだろう。彼はもう、普通の姿勢ではいられないのだから。

 夜中に見たドアの外の光景を脳裏に浮かべながら、僕はそう思った。

 あの時、外にいたもの――。

 ……それは、××に、他ならなかったのだ。


 ――×月十五日。

 夜中にまた、あの音で目が覚めた。

 今夜も玄関で額縁を押さえなければならない。そう思ってベッドから出ようとしたところで、僕はハッとした。

 音が、近い。

 ……から聞こえている。

 まさか――玄関を突破されたのか。

 僕は青ざめた顔で、ベッドの近くに置いておいたパスケースを手に取った。

 それから寝室のドアを塞ぐため、急いで周りにあるものをかき集める。バッグ。本の山。脱ぎ散らかした服――。後から思えば、もっとマシなものを用いるべきだったが、何しろ気が動転していたから、あまりまともな判断などできなかった。

 とにかく雑多なバリケードを築き、僕は真っ暗な寝室でパスケースを抱いて、息を殺し続けた。

 ――トン。

 ――トン。

 音が、寝室の外を行き来している。

 ……僕を捜しているのか。

 手足の先が、じわじわと冷たくなってくるのを感じる。それでも、身じろぎすることすらできない。

 もし少しでも動けば、ドアの外にいるに気づかれてしまう――。そんな気がする。

 ……いや、ではない。××君だ。

 僕はドアスコープから見た顔を思い出し、頭の中で呼び方を改めた。

 ××君だ。逆さまの××君が、すぐそこまで来ている。

 どうすれば去ってくれるだろう。「七人迎え」の供養に成功すれば、もう現れなくなるだろうか。

 それとも――そんなこととは無関係に、今後も現れ続けるのだろうか。

 その場合、僕は最終的にどうなるのか。

 ……ふと、自分が逆さまの化け物になって夜道を徘徊しているところを想像し、思わずゾッとした。

 僕はまだ、人でいたい。

 切にそう願いながら――やがて僕は眠りに落ちた。

 ……明け方になり目が覚めた時には、音は止んでいた。

 恐る恐る寝室の外に出たが、何もいない。ただ、窓側に飾っておいた額縁が、上下逆さまに落ち、中の犬の写真ごと真っ二つに割れていた。

 なるほど、こちらから侵入されたのだ。玄関ばかりに気を取られて、窓側の守りを固めるのを、すっかり失念していた。

 僕は冷え切った体を、駄目押しのように震わせた。

 その後、朝湯に浸かり、朝食に熱い紅茶を飲んで、どうにか体が温まった。

 この八夜目間近という局面で、家で普通に凍死などしたら、冗談にもならない。僕は苦笑し、それからリビングのテーブルにあった半紙を確かめた。

 ……昨日逆さまに書いた××君の名は、消えていない。やはりこれで正解だったのだ。

「あと二つか」

 いまだ黒く滲んでいる二つの名前を見つめ、僕は呟いた。

 Mさんと、「書くな」の幽霊だ。

 ただ、今日は十五日。もう時間が残されていない。

 もしこのまま正解が出せなければ、僕はこの誤った名前を枕の下に敷いて眠ることになる。その場合、幽霊が半紙を滲ませて名前を消し、「七人迎え」の供養は失敗する――。

 ……さて、どう回避すればいいだろうか。

 Mさんの正しい名前が分からない。さらに「書くな」の幽霊に至っては、そもそも始めから正しい名前を書いているのに消えてしまうから、どうしようもない。

 正直、詰んだ気がした。そう、自分の頭では、これが限界なのだ。

 僕は――D君に連絡を取ることにした。


 その日の夕方、例によって喫茶店でD君と落ち合った僕は、前置きなどすっ飛ばして、すぐさま本題に入った。

 とにかく知恵が欲しかった。Mさんと「書くな」の幽霊、この二つを正解に導くための知恵が。

「東、そういう時はもっと早く連絡しろよ」

 D君は、笑うでも怒るでもない、何とも言えない表情で僕を叱咤してから、静かに考え始めた。

「……俺が気になるのは、その女の幽霊の行動だな。東が言うように、なぜに公開しないものを消したがるのか……。それに、間違っている名前があったら消して教えてくれるっていうのも、まったく意味が分からんな」

「親切でやってくれているわけじゃないと思うんだけど」

「まあ、親切なら『七人迎え』の一員にはならんだろうしな」

 そんな軽口を挟みつつも、D君は真剣な目つきで考えている。そんな彼を前にして、僕も何か思いつかないかと、懸命に知恵を絞ってみる。

「公開しないものを、なぜか消す……。間違っていたら、なぜか消す……」

 口に出して呟く。いや、ただ呟いただけで、思考はまったく進んでいない。

 と、不意にD君が、真顔でこんなことを言った。

「つまり、……と?」

「いやそれ、疑問点をそのまま組み合わせただけじゃん」

「けど、そういうことだろ。他に考えようがない」

 思わずツッコミを入れた僕に、D君は大真面目に言い返した。

 まあ、推理小説的な発想としては、アリかもしれない。しかし「間違っていたら公開される」とは、どういうことか。僕は尋ねた。

「仮にさ、僕が間違った名前を紙に書いたとする。で、それを枕の下に敷いて眠った結果、僕は供養に失敗して、『七人迎え』にあの世に連れていかれる――。で、ここからどういう流れで、紙に書いた名前が公開されるんだ?」

「……あ。……ああ、そうか。東、だ」

 適当に話を展開させた僕に、D君が目を見開いて言った。

「まさにだ」

「え、どれ?」

 意味が分からず、僕はキョトンとする。D君は興奮した面持ちで、説明した。

「つまりさ、八夜目を終えた後に紙がどうなるかは、全部お前の生き死にに懸かってるんだよ。お前が助かれば、紙は土に埋められる。だから絶対に人目には触れない。でも助からなかったら、どうなる?」

「……紙を埋める人がいなくなる?」

「そのとおりだ。で、お前は変死体で発見されて、お前の関係者なり警察なりが寝床を調べる。そして当然、枕の下に紙を見つける。ここで――幽霊の実名が、んだ」

「…………」

「死んだお前の枕の下から、故人の名前がリスト化された謎の紙が出てくるんだ。見た人は誰だって不審がる。警察が事件性ありと判断して調べる可能性は低いかもしれないが、少なくともお前の関係者は、紙の正体を気にして調べるだろう。そうなれば、今度はお前と近しい妖怪好きやホラー好きの間で、噂になる恐れが出てくる」

 ――怪談を書いていた男が自宅のベッドで変死し、枕の下から、複数の故人の名前を書いた紙が出てきた。

 なるほど、確かに、に好まれそうな話だ。

「だから女の幽霊は、それを防ぐために、事前に自分の名前を消している――。そう考えれば、筋が通るんじゃないか?」

 D君はそこまで言うと、息をつきつつ、僕の反応を窺った。

 僕は頭の中で、今の彼の言葉を懸命に整理してみた。要するに――「書くな」の幽霊の目的は、あくまで自分の名前を、世間の興味本位の視線から守るため。だから、僕が半紙に正解を書けず八夜目に死ぬことが確定しているうちは、自分の名前を消すことで、目的を達成しようとしている――ということか。

「じゃあ、彼女以外の名前をすべて正しく書けば、彼女の名前も消えない、と……?」

「ああ。そういうことになるんじゃないか?」

 D君が頷く。僕は彼の考えを信じることにした。もちろん、半信半疑で済ませるほどの時間が残されていないから、というのもあるが。

 さてそうなると、突き止めるべき名前は、一つに絞られたことになる。

 Mさんだ。これについても、今この場で知恵を借りてみよう――。そう思った時だ。

 D君が、ふと表情を引き締めた。

「実は東、俺からも言わなきゃならないことがあってな」

「何?」

「いや、俺の思い過ごしならいいんだが――」

 ……そしてD君は、僕にを話した。

 それは「七人迎え」について、彼が長らく口を閉ざしてきたことに関する話だった。

 だがそこで、僕は思い知らされることになる。

 自分が取り返しのつかないレベルで、のだ、と……。


 帰宅した時には、だいぶ遅い時間になっていた。

 いろいろと考えなければならないことがあった。しかし僕はひとまず、今夜の「守り」を固めることにした。

 急いでネット上で犬の写真をかき集めると、印刷して、家中のそこかしこにペタペタと貼りつけた。

 これで異久那土サマの害をしのげるだろうか。いや、もしも無理ならば、もはや命運尽きたと腹を括るしかないのかもしれない。

 それから僕はテーブルに半紙を広げ、Mさんの名をどう書くか、懸命に考え始めた。

 これもD君に知恵を借りられればよかったのだが、それは叶わなかった。あの後彼から聞かされた話が重すぎて、到底怪異の検証ができる空気ではなくなったからだ。

 なのでMさんについては、今から僕が、自分の力で考えなければならない。

 ……頭の中に、夢に出てきた異形の姿が浮かぶ。

 次第にボロボロになっていく服。老化し、肥大化する顔。

 あれは明らかに、普通の亡くなり方ではない。

 いや、他の死者達が、自分が亡くなった時の姿で現れていることを思うと、毎回少しずつ変異を繰り返しているMさんは、もはや「亡くなった」かどうかすら怪しい。

 前にも思ったことだが――彼の場合は、いわゆる一般的な「死」ではなく、「死と同等の何か」に陥ったのかもしれない。

 ……それは、どんなものか。

「いやいや、今はそんなことを考察している場合じゃ……」

 首を横に振り、筆に集中しようとする。しかしどうしても、あの不気味な姿が頭にこびり付いて離れない。

 あれは――なのだろう。

 もはや人間とは呼べない姿だった。

 Mさんは、人間ではなくなったのか。

 そんな突飛なことが起こり得るのか。

 しかし僕の夢の中では、はっきりとそれが暗示されている。

 そこで僕は、ふと思った。

 ……もしも人間が人間でなくなったのなら、それはまさに、「死と同等」と言えるのではないか。

 つまりMさんは、何らかの理由によって、図らずも異形の存在に変わり果てた。それを非業の死と見なされた結果、彼は「七人迎え」に組み込まれた――。

 いや、突飛だ、突飛すぎる。

 だいたい人間でないなら、何になったというのか。

 ……そこまで考えたところで、一瞬頭の中が真っ白になるような感覚が走った。

 僕は――おそらく今の疑問に、正確に答えられる。

 だが、答えるのが恐ろしい。

 もし答えを示せば、僕はMさんを取り巻く一連の異様な怪異に、再び足を踏み入れることになってしまう――。そんな気がする。 

 ……しかし、それでも僕は、Mさんの正確な名前を書かなければならない。

 ……あの夢に出てきた異様な姿が何なのかを、ここにはっきりと、示さなければならない。

 気がつけば、いつしか手が震えていた。

 その震える手を叱咤し、僕は筆を握り締め、ゆっくりと半紙の上に墨を落とした。

 覚悟を決め、一夜目の死者の名前を、こう書いた。


 モウサン


   *


 ――×月十六日。

 久方ぶりの熟睡だった。

 怪しい物音に悩まされることもなく目覚めた僕は、朝日の差し込むリビングで、昨夜半紙に書いた名前を確かめた。

 どれも、消えていない。

 全部で七人。「書くな」の女幽霊の名前も含め、すべてがきれいに残っている。

 ……正解したのだ。あとは今夜、この紙を枕の下に敷いて眠れば、僕は「七人迎え」の悪夢から解放されるだろう。

 安堵し、少し涙ぐんだ。

 それからD君にお礼のメールを送り、ようやく一息ついた。

 ふとテーブルのそばを見れば、没になった半紙が山のようになっている。念のためにと捨てずに取っておいたのだが、今夜を乗り切ったら、すべて処分することになるだろう。

 一方玄関と窓には、大量の犬の写真が貼ってある。こちらは、いつになったら片づけられるのか。

 昨夜は熟睡できたが、何も来なかったのだろうか。僕はそんな疑問を抱きつつ――。

 パソコンのワープロソフトを立ち上げ、『ぎょうだん』のファイルを呼び出した。

 ……昨日D君と会った時に言われたことが、頭に蘇る。

 なぜD君は、自身が「七人迎え」の夢を見たことを、隠していたのか。

 なぜ僕に「思い込みではないのか」と、何度も念を押したのか。

 そして――彼の話を聞き終えた時、僕は思い知ったのだ。自分が取り返しのつかないことをしたのだ、と。


 昨日D君と「書くな」の幽霊について議論を終えた後。彼は不意に表情を引き締めて、僕にこう切り出した。

「東、お前の怪談、読んだんだよ」

「え? ああ、ありがとう」

「まあ、全部読んだわけじゃなくて、タイトルを眺めて拾い読みしただけだけどな。で――お前、も書いていたんだな」

「もしかして、『七人迎え』の話?」

「ああ」

 頷いた後D君は、慎重に言葉を選ぶようにしながら、僕に言った。

「あの話は――、と俺は思う」

 それから彼は、かつて起きた「七人迎え」の事件を振り返り、こう語った。

 ……そもそもD君は、彼の同僚から相談を受けた「七人迎え」を、まったく信じていなかった。

 理由は、人が「七人迎え」に遭う条件だ。「自分と関わりのある七人が非業の死を遂げる」というのは、職業や災害体験によっては、案外簡単に満たせてしまうものである。

 では、条件が簡単だと、どうなるか。

 当然、多くの人が「七人迎え」に遭うことになる。

 ところがその割には、「七人迎え」という怪異は、まったく世間に知られていない。問題の同僚の故郷であった、ごく一地域に伝わるのみだ。

 したがってD君は、こう判断した。「七人迎え」などという怪異は実際には存在せず、同僚が悩まされている悪夢も、ただの思い込みによるものだろう――と。

 ところが、だ。

 問題の同僚が「七人迎え」を防ぎ切れないと知って姿を消した後、今度はD君が、「七人迎え」の夢を見始めた。

 信じていなかったはずのものが、現実に現れてしまった。

 なぜか。……D君は、こう考えたという。

「俺が心のどこかで『七人迎え』を信じてしまったから、だと思う」

 ――怪異は、知らなければ現れない。信じなければ障らない。

 ――しかし、知り、信じてしまえば、どこまでも追い詰めてくる。

 だから「七人迎え」は、あくまでローカルな迷信として、一地域に封じ込めておかなければならなかったのだ。さもないと、D君が遭ってしまったように、今後際限なく世間に広がってしまうからである。

 そこでD君は、自分が見た「七人迎え」を、否定することにした。

 もし肯定すれば、いずれ他の誰かに伝播してしまう。それを防ぐには、怪異に遭ったことそのものを、否定するしかなかった。

 僕に詳細を尋ねられても、はぐらかし続けた。

 僕が「七人迎え」の夢を見始めても、思い込みだと言い聞かせ、この悪夢を強制的に中断できないかと試みた。

 しかし結果的に、僕は悪夢を見続けた。仕方なくその相談に乗っているうちに――D君は知ってしまったのだ。

 この僕が、すでに「七人迎え」の出来事を怪談として書き、ネット上に載せていたことを。

 ――『夜行奇談』第百五十六話「七人迎え」。

 これが、僕のしでかした「取り返しのつかないこと」の、一つ目である。


 D君から指摘されたのは、ここまでだ。しかし僕にはもう一つ、取り返しのつかないことをしてしまったのでは、という不安がある。

 それは――この『だ。

 ……僕の夢に現れた「七人迎え」の死者達は、いずれも、僕が『夜行奇談』の中で採り上げてきた人物だった。

 ただし場合によっては、顔どころか名前すら知らない相手である。

 にもかかわらず、彼らは夢に現れた。ただ「怪談として書いたから」というだけで、僕は彼らと関りを持っているものと見なされてしまった。

 もちろん物書きである以上、自分の書いたものに相応の責任が発生することは、理解している。だから、僕が結果的に数多の怪異と関わりを持ってしまったというなら、そこは受け入れるしかない。

 ただ――不安なのだ。

 怪異を書けば、怪異と関わる。

 ……では、は、どうなのか。

 僕の書いた怪談を読んだ読者もまた、数多の怪異と関りを持ってしまったのではないか。

 そして、すでに「七人迎え」に遭う条件を、満たしてしまったのではないか。

 しかも、万が一読者が「七人迎え」に遭い、その夢の中に『夜行奇談』で採り上げた人物が現れてしまった場合――。

 

 なぜなら、作中に登場する人物の名前は、すべてだからだ。

 ただし僕は、今からでもすべて本名に置き換えて公開し直す、というような行為は、絶対におこなわない。それはプライバシーの侵害になるし――何よりそんなことをすれば、「書くな」の彼女が黙っていないだろう。

 ……以上が、僕がしでかした「取り返しのつかないこと」の、二つ目である。

 さて――。

 もちろん、無責任にすべてを放棄するつもりはない。

 始末はつけるつもりだ。ただ、まずは読者に、きちんと状況を伝える必要がある。

 皆さんはすでに手遅れです、と――。あまり言いたくはないが、そこを避けて済ませるわけには行かない。

 そう思い、僕はすぐさま今回の一連の事件を、怪談として書き始めた。

 すでに「書くな」絡みのパートはある程度書いているし、他の日にあった出来事も、その都度簡単に文章にまとめてはいる。だから、これらを今日中に繋いで、作品として仕上げる。

 文字数は相当多くなるだろう。せめて前後編の二つぐらいには分けたい。

 その上で――末尾に注意書きとして、きちんと怪異の回避策を示し、それを投稿するのだ。

 ただ念のため、予約投稿にした方がいいかもしれない。……万が一今夜を乗り切れなかった時のために。


 すべての作業を終え、予約投稿の準備を終えた時には、夜の十時を回っていた。

 もっとも、原稿がすべて完成したわけではない。この後控えている「×月十七日」の部分は、まだ空白のままになっている。

 今夜を乗り越えたら、改めて何か加筆すればいいだろう。その場合は、もっときちんと推敲すいこうもしたい。そのためにも、予約投稿の日数には猶予を持たせてある。

 僕は息をつき――そこで不意に空腹を覚えた。

 そう言えば、今日はろくに食べていない。

 まだ日付けが変わるまでには間がある。近所のスーパーが開いているから、少し買い出しに行こう。

 そう思い、のろのろと家を出た。

 夜道は、肌寒かった。

 心地よさよりも不快感を煽るような、荒々しい夜風に身を竦ませながら、サンダル履きの足を速める。

 辺りにひと気はない。……しかしこういう夜道では、よくと聞く。

 不意に――肌が粟立った。

 今にも何かが起きそうな予感がした。長らく怪談ばかり書いてきた弊害かもしれない。

 ――信じるな。

 ――ただの思い込みだ。

 そう自分に言い聞かせながら、夜道を進む。

 その時だ。

 ――トン。

 ……が、聞こえた。

 後ろからだ。

 ――トン。

 ――トン。

 間違いない。が追ってきている。

 僕は慌ててズボンのポケットに手を突っ込み、パスケースを取り出そうとした。

 ……だが、ない。

 家に忘れてきたのだ。そう気づいた瞬間、僕は走り出した。

 から逃れるために。だがそうはさせじと、音も迫ってくる。

 ――トン。

 ――トン。

 もう、すぐ背後まで来ている。気配でそう分かる。

 このままでは捕まる――。

 ……そう思った時だった。

 不意にどこからか、けたたましい犬の吠え声が聞こえてきた。

 同時に背後の音が、ぴたりと止んだ。

 足を止め、恐る恐る振り返ると、そこにはもう何もいなかった。

 どうやら命拾いしたらしい。僕は安堵し、上がった息を整えて、元来た道を引き返し始めた。

 すでに食欲は失せていた。早く家に帰りたかった。

 犬は、まだどこかで吠え続けている。心の中で感謝しつつ、僕はとぼとぼと夜道を進む。

 汗ばんだ肌に、夜風が染み込んでくる。自然と身が震える。

 犬の声が止まない。いったいどこで吠えているのだろう。

 僕は何とはなしに、耳をそばだてた。

 荒々しい夜風の音に交じって、吠え声が響く。

 まるで狂ったようなその声に、ふと新たな恐怖心が芽生える。

 助けてもらったというのに。しかし、これ以上は聞きたくない。

 僕は再び足を速めた。

 吠え声が止まない。

 ……何だか、こちらに近づいている気がする。

 ……それも、後ろからだ。

 体中に緊張が走った。自ずと聴覚が、犬の正確な位置を捉えようと、研ぎ澄まされる。

 吠え声が、近づいてきている。

 夜道をまっすぐに、僕の方へ向かって。

 いや、あれは犬の声なのだろうか。

 ……どことなく、違っている気がする。

 犬に似ているが、何か別の声にも聞こえる。

 強いて言うなら――

 まるで、人が犬の声を真似ながら吠えているようだ。

 そう感じた刹那――僕は、過去に自分が書いた、を思い出した。

 それは、今回の「七人迎え」のとも、少なからず関係している話だ。

 吠え声は、もうすぐ後ろまで迫っている。

 ――逃げなければ。

 そう思い、足をさらに速めようとした。

 その時だ。

 吠え声が、ぴたりと止んだ。

 僕のすぐ背後で。

 そして――それに代わって、誰かの声が囁きかけてきた。

 聞き覚えのあるしわがれた声で、こう問われた。

「……モウサンという妖怪を知ってます?」

 僕はその問いに、頷くわけには行かない。

 しかし、もはや誤魔化せないのかもしれない。

 そう、半紙にを書いてしまった以上、僕は「彼」を直接見た上で、「あなたを知っているのだ」と認めたことになるのだから。

「……あなた、Yさんです?」

 そう囁かれ、後ろから肩をつかまれた。

 冷たい、屍のような手で。

 僕は悲鳴を上げ、思わず振り返った。

 ……だがそこには、何もいなかった。

 ただ冷たい夜風が吹き荒れる道が、どこまでも延びているだけだった。

 僕はぞくりと身を震わせ、急いで家に帰った。

 そして――今この原稿に、夜道での出来事を加筆している。

 ……これから先、僕はどうなるのだろう。

 おそらく異久那土サマの障りは、もう起きないはずだ。

 なぜなら今も窓の外から、あの犬に似た吠え声が、聞こえ続けているからである。

 せっかく「七人迎え」を退けることができそうだというのに、最後の最後で、一番得体の知れない怪異を――しかも以前から僕を付け狙っていた厄介な代物を――呼び寄せてしまった。

 もはや僕は、逃げられないだろう。

 ……間もなく日付が変わる。

 きっと明日も、僕は生きている。

 恐怖に怯えながら、生き続ける。

 いつか末路が来る、その時まで。


 ――×月十七日。

(生きていれば、ここに加筆すること)


   * * *


 ※注意


 この話及び『夜行奇談』の怪談は、すべてフィクションです。いずれも実際に起きたことではないため、読者の皆様は、これを絶対に信じないで下さい。

 もし信じてしまった場合、それが理由でいかなる事態に陥ったとしても、僕の方では責任を持てません。

 ですので、繰り返し言います。

 この話及び『夜行奇談』の怪談は、すべてフィクションです。

 絶対に、信じないで下さい。


 絶対に、絶対に、信じないで下さい。

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