第二百二話 七人迎え、来たる(前編)

 僕の身に起きたことだ。


 ある夜、こんな夢を見た。

 僕は夢の中で、巨大な運河のほとりに佇んでいた。

 黒みがかった紫の空はどこまでもくらく、遠目に映る街並みもまた、漆黒に染まっている。なのにその下を流れる川の水だけが、なぜか異様に青く輝いて見える。

 冷たい空気に身を震わせながら、僕は不安な面持ちで、彼方に目を凝らした。

 この景色を、僕は以前、どこかで見たような気がする。

 ……いや、見たのではない。のだ。

 ……十日ごとに奇怪な夢にうなされていたという、ある人から。

 僕が今見ている景色も、あの夢と同じなのだろうか。

 もしそうなら――この後、いかだが流れてくるはずだ。

 僕がそう思っていると、不意に上流の方に、何かが現れた。

 ……果たして、筏だった。

 丸木で組まれた三畳分ほどの広さの筏で、それが漕ぎ手もいないのに、川の中心に沿って、ゆっくりと下ってくる。

 中央に、誰かが佇んでいる。

 見覚えのない男だった。

 開襟シャツにスラックスいう出で立ちで、歳は四十代ぐらいだろうか。

 血色の悪い顔で僕をじっと見つめ、そしてゆっくりと唇を動かした。

 …………。

 声は、聞き取れなかった。

 僕が見守る中、男を載せた筏は、ゆっくりと下流に消えていった。


 ……そこで目が覚めた。

 鼓動が荒れているのが、自分でも分かった。

 異様に冷え切った手足を擦りながら、僕は体を起こした。

 そして、今見た夢の中身をじっくりと思い返し、乾いた声で呟いた。

……」

 記憶を巡らせ、今日が何日だったのかを思い出した。

 ――二〇××年×月七日。

 これからお話しする長い怪異譚。その一夜目である。


   *


 七人むかえ――と呼ばれる怪異がある。

 詳細は、第百五十六話「七人迎え」に書いたが、簡単に言えば、死をもたらす夢の類だ。

 自分と関わりのある七人の人間が非業の死を遂げると、彼らが夢の中に現れる。

 一夜目に一人、二夜目にもう一人、三夜目にもう一人……と毎回一人ずつ増えていき、最後に七人が夢の中に揃うと、次――即ち八夜目に同じ夢を見た時に、自分もあの世に引っ張られてしまうという。

 この死を回避するためには、現れた七人の名前を筆で紙に書き、その紙を八夜目に枕の下に敷いて眠る。そうすると、夢の中で彼らの名前を呼び返す形になり、それが供養となって、自分は助かる――ということだ。

 なお、この夢は決まって、毎月「七」の付く夜に見る。即ち、七日、十七日、二十七日である。

 さて――。

 ……僕が見た夢は、本当にこの「七人迎え」だったのだろうか。

 一夜目から明けた翌日、僕はずっと、そのことを考えていた。

 以前「七人迎え」の事件に関わった時から、すでに数年が経っていた。しかし僕自身がこんな夢を見たのは、昨夜が初めてだ。

 もちろん不安ではあった。しかし一方で、「たまたま似た感じの夢を見ただけではないか」と疑う気持ちがあったのも、事実だ。

 疑う理由は、二つある。

 一つ目は、筏に乗っていた男だ。

 ……まったく見覚えがないのだ。彼の顔に。

 そもそも「七人迎え」として現れる死者は、自分と関わりのある人物に限られている。だから、見知らぬ男が筏に乗ってきたところで、それは「七人迎え」ではない、ということになるはずだ。

 そして二つ目は、その男の言葉だ。

 夢の中に現れた男は、最後に唇を動かし、僕に向かって何かを言おうとした。

 もしこれが「七人迎え」なら、前例にならって、「おーい」と呼びかけてきただろう。

 しかし僕の夢に現れた男の口からは、そんな言葉は出てこなかった。

 だから――やはり、「七人迎え」ではない、と思うのだ。

 もっとも、この二つ目の理由は、決して確実なものではない。

 あの夢の中で僕は、男が「おーい」と叫ぶものと思って、身構えていた。だが、仮に男が別の言葉を叫んだとしたら、僕の耳は先入観に邪魔されて、それを認識できなかったのではないか――。そんな気もするのだ。

 ……あの男は僕に向かって、何を言ったのだろう。

 男の唇は動いていた。何かを言ったのは、間違いないのだが。

 そして――もしこの夢が本当に「七人迎え」の一夜目なら、とても不味いことになる。

 僕は、あの男に見覚えがない。

 男の名前が分からない。

 ……したがって、八夜目に訪れる死を、回避できない。

 そういうことになってしまうのだ。

 ただ、だからこそ、僕は否定したかった。

 あの夢は「七人迎え」でも何でもない、ただのよく似た悪夢だったのだ、と。

 そう思っているうちに――日にちが経ち、が巡ってきた。

 ×月十七日。二夜目である。


 その時も、僕は同じ運河の畔に立っていた。

 寒さに震えながら上流に目をやると、彼方から筏が流れてくるのが分かった。

 ……二人、上に佇んでいる。

 一人は前回と同じ、あの男である。

 ただ心なしか、着ている服が、前よりも汚れているように見える。

 もう一人は――やはり、見知らぬ男だ。

 歳はおそらく三十前後。短く刈り込まれた髪に、表情のない顔。身には、くたびれた紺のトレーナーを着ている。

 首に巻きついたベルトは……あれが死因だろうか。

 僕が死者二人の様子をつぶさに観察していると、彼らは僕に向かって、ゆっくりと唇を動かした。

 …………。

 ――おーい。

 二人目の男の声だけが、冷たい運河に響いた。


 僕は目を覚ました。

 今見たばかりの夢を思い返し、汗ですっかり冷たくなった額を拭う。

 二人目の「おーい」という言葉が、はっきりと耳にこびりついている。

 やはり――「七人迎え」に違いない。

 僕は灯りの消えた寝室で、ひとり戦慄わなないた。


   *


 僕が高校時代からの友人であるD君に連絡を入れたのは、その翌朝のことだ。

 彼は以前、僕に「七人迎え」の話を持ち込んできだ人物である。

 あの時は、彼の同僚が「七人迎え」の夢に悩まされていて、D君の紹介で僕に助けを求めてきた。その過程で僕も「七人迎え」なる怪異の存在を知った、というわけだ。

 ちなみに、その同僚が最終的にどうなったのか、僕はよく知らない。七夜目を迎えた朝に突然退職し、音信不通になってしまったからだ。ただ、決して良い結末は迎えなかったのだろう、という気はしている。

 なお、さらにその後日、D君自身も「七人迎え」の夢を見たようなのだが――。

 あいにくその辺の詳しい話は、当時何度D君に尋ねても、何も教えてもらえなかった。

 D君が口をつぐみ続けた理由は、分からない。ただ、少なくとも彼は、今日こんにちまで健在である。もしあの時「七人迎え」に遭っていたのだとしても、回避には成功しているはずなのだ。

 だからこそ――何か助けになってくれるかもしれない。

 僕はそう考え、彼にメールした。

『例の夢を見た。会って話ができないか?』

 平日の朝という忙しいはずの時間帯だったが、幸い返事はすぐに来た。

 D君が仕事を終えた夕方以降、彼の職場近くの喫茶店で落ち合うことになった。僕は気もそぞろに夕方が来るのを待って、現地に向かった。

「よう、久しぶり」

 D君はすでに席に着き、サンドイッチをかじっていた。これが夕食なのだそうだ。

 僕も適当に食べるものを注文すると、さっそく本題に入った。

 D君に伝えた内容は、概ね先に書いたとおりである。話を聞き終えたD君は、しかめっ面でコーヒーを一口すすると、「なああずま」と、表情を変えずに言い返してきた。

「あの時も言ったと思うけどな。俺は、『七人迎え』なんて信じてないんだよ」

「いやいやいや、何言い出すんだよ。君も夢に見たんだろ?」

「あれは……たまたま、そういうよく似た夢を見ただけだ」

 あからさまに誤魔化した、としか思えない様子で、D君は首を横に振った。

 彼の意図が分からない。ただ何らかの理由で、「七人迎え」を肯定したくない――。そんな感情は伝わってくる。

「D君、君が見てなくても、僕は見たんだよ。だから相談に乗ってくれよ」

 僕は困り果てた風を表情でアピールしながら、泣き落としにかかった。いや、実際困り果ててはいるのだが。

「……夢に出てきた二人に、心当たりはないんだろ?」

「うん、ない」

「じゃあ、この後出てくるかもしれない五人に、心当たりは?」

 つまり、僕の身の回りで非業の死を遂げた人間があと五人いるか、という質問だろう。

 僕は――少し考えてから、「さあ」と首を傾げた。正直なところ、そこまで大人数の友人知人が不幸な亡くなり方をした覚えは、ない。

「じゃあ東の思い込みだよ。そいつは『七人迎え』じゃなくて、ただのそれっぽい夢だ」

 D君は笑い飛ばすように、そう言った。もっとも、僕も退かなかったが。

「僕も最初はそう思ったよ。でも、一度ならまだしも、二度も見るか? しかもきっちり、七日と十七日に」

「それは単に、『今夜は七の付く日だから見るかもしれない』っていう不安が招いた結果じゃないか? 俺が言いたいのは、気にするな、ってことだよ。気にすればまた夢に見る。気にしなきゃ見ない。そういうことだと思うぞ。……ああ、ただ――」

 ただ――と、そこでD君は言葉を切った。

 僕が続きを待っていると、彼はこちらから軽く目を逸らし、言った。

「夢に出てきた男が誰なのか……。気になるなら、調べてもいいとは思う。それはまあ、東の自由だからな」

「いや、調べたいのは山々だけど、手がかりがゼロだし」

「ただし、調べる時は――」

 僕の台詞を無視して、D君は言葉を続けた。

「――『七人迎え』のことは、人に話さない方がいい」

 それを、どうしても伝えたかったらしい。

 まあ、僕も同感だ。そんな話を誰かにしたところで、僕の妄想だと思われるのがオチだろう。

 ともあれ、この日はこれ以上、「七人迎え」の話をすることはなかった。

 互いにささやかな近況を語り合い、最後に手を振って別れた。

 ……もっとも、これで僕の一日が終わったわけではなかった。

 夢に出てきたあの二人が何者なのか――。一刻も早く、それを突き止めなければならないのだ。

 帰宅した僕は、すぐさま複数の友人に連絡を取った。

 いずれも、小学校や中学校が同じだった相手ばかりだ。中には長らく疎遠だった人もいたが、今はそれを気にしている場合ではない。

 目的はただ一つ。僕のかつての同級生の中に、亡くなった人がいないかどうか。それを探るのだ。

 ……夢に出てきた二人の男は、どちらも顔に見覚えがない。しかし、例えばもし彼らが、昔の同級生だったらどうか。

 僕が記憶しているのは、彼らの少年時代の顔だけだ。もし彼らが大人になってから、何らかの理由で他界し、「七人迎え」となって現れた――とすれば、誰だか分からないのも無理はない。

 ……いや、小学校と中学校だけでは不充分だ。園児時代のことも調べた方がいいかもしれない。

 そう考えながら、僕はとにかく無闇に、旧友達にコンタクトを取った。

 もっとも、彼らに「七人迎え」のことを打ち明けたりはしなかった。D君にそう言われたから、というのもあるが、やはり奇異な目で見られるのが嫌だったことが大きい。

 何しろ「亡くなった同級生がいないか調べる」という、他者から見たら不審極まりないことをしているのだ。なのにその理由が得体の知れない怪談話では、さすがに無視されかねない。

 だから、あくまで理由は語らずに、探りを入れていった。

 もちろん、返答はすぐには来なかった。それでも数日が経つと、少しずつ情報が集まってきた。

 結果として――残念なことに、すでに他界した同級生は、ごく少数ながら存在していた。

 僕ははかない気持ちを抱きつつ、卒業アルバムで該当者の顔を確かめた。そして、「この顔が大人になったらどうなるか」を、懸命に頭の中でシミュレーションしてみた。

 ……しかし、違う。

 僕の夢に出てきた男達はいずれも、亡くなった同級生とは別人のように思える。

 では――誰なのか。

 僕は続いて、家にあった何冊もの古いアルバムを確かめてみた。もしかしたら、幼少期の僕を撮影した写真の中に、夢の男も写っているのではないか――。その可能性を考えたからだ。

 家族とその友人。遠い親戚。近所の人。いろいろな大人達の姿が、アルバムにあった。

 ……しかし、夢の中の男達に該当する顔は、やはり見つからなかった。

 僕は、絶望に陥りそうになるのを堪え、懸命に他の可能性を探った。

 そして――次第に分からなくなってきた。

 そもそもD君にも指摘されたことだが、僕の周りに、普通の亡くなり方ではなく「非業の死」を遂げた人物が、七人もいるだろうか。

 仮にあの二人の男がそうだったとして、「七人迎え」が現れる条件を満たすには、あと五人が必要だ。しかし、すでに亡くなっているという同級生の人数を足しても、到底七人には及ばない。

 ……もしかしたらD君の言うとおり、ただの思い込みなのかもしれない。

 ……僕が見ているのは「七人迎え」でも何でもない単なる悪夢で、したがって右往左往するだけ無駄なのかもしれない。

 そんなことも考え始めた矢先だった。

 ……三夜目が、訪れたのは。


 そして――この三夜目こそが、僕に重要な手がかりをもたらすと同時に、真の恐怖の始まりを告げた日でもあったのだ。


   *


 二〇××年×月二十七日。「七人迎え」、その三夜目。

 僕の夢に現れた三人目の死者は、男の子だった。

 見た目から小学生ぐらいだと分かった。ただし、顔には相変わらず見覚えがない。

 男の子の体は、ところどころが潰れ、赤黒い血に染まっている。

 しかし何より印象的だったのは、その両脚だ。

 ……ひざから下が、無かった。

 ただ無残に引き千切れた痕があるだけだった。

 男の子は、存在しないはずの両脚で身を支え、筏の上にふわりと浮かんでいた。

 僕は――その凄惨せいさんな死に姿を前にして、思わず視線を逸らした。

 自ずと、先の二人の男に目が行った。

 ……一人目の様子が、前とはまた少し違っている気がした。

 服の汚れが増している。さらに心なしか、顔が老け込んできているようだ。

 なぜだろう、と奇妙に思いながら、二人目の方も確かめた。

 しかしこちらは、前と変わった様子はない。

 首にベルトを撒きつけたまま、表情のない顔で、僕を見つめている。

 この二人はこの二人で、いったい何者なのだろう。

 いや、それよりも、男の子の正体を考えた方が早いだろうか。

 何しろ、あんなにも特徴的な死に方をしているのだ。本気で考えれば、思い出せるかもしれない。

 誰だ、あの子は。

 誰だ、あんな死に方をしたのは。

 僕はあの子と、いつどこで関わったのだ。

 そう考えるうちに――。

「……あ」

 

 僕は、ハッと目を見開いた。

 同時に、三人の唇が動いた。

 …………。

 ――おーい。

 ――おーい。

 僕に呼びかけ、そして下流に消えていった。


 そこで目が覚めた。

 気がつけば僕はベッドの中で、ガタガタと震えていた。

 まるで寒風に当たっていたかのように、全身が冷たくなっている。しかしこの震えは、そういう寒気とはまた次元の違うものだ。

 怖い。身を起こすことすら、怖い。

 その恐怖をどうにか紛らわせようと、僕は口を開き、無理やり声を出した。

「あ……」

 意味のある言葉など出ない。それでも、少しだけ気力が戻った。

 僕はベッドから這い出し、部屋の灯りを点けた。

 そして、呟いた。

「……だ」

 他に思い当たる人物はいない。だから、きっと間違いない。

 ただそれでも、、という気持ちの方が上回ってしまう。

 ――どうしてあの子が、「七人迎え」に加わっているのだろう。

 ――直接会ったこともない子なのに。

 ――いや、もしかしたら、あとの二人も……?

 考えるうちに、再び震えが襲ってきた。しかし、その震えを止めることはできなかった。

 僕は震え、そして考え――。

 ついに、「ああっ!」と叫んだ。

 思い出したのだ。を。

 友人でも知人でもないため、今までまったくノーマークでいたが――。そう言えば僕は、過去に彼の顔をはっきりと見ている。

 僕は急いで、別室にある本棚へ向かった。そして奥の方から、一冊の本を引っ張り出す。

 裏表紙を捲ると、そこに顔があった。著者近影だ。

 ……それが、あの二人目の男だった。


 順を追って説明しなければならない。

 まずは、三人目の死者である男の子の正体からだ。

 彼の姿は、とても特徴的だった。おそらく交通事故か何かで、ああなったのだろう。

 ただし僕の周りには、ああいう亡くなり方をした子供は、いない。

 幼少期の友達ではないし、今の友人知人の子供でもない。

 では、あの子は誰なのか。

 実は――僕と直接面識があるわけではない。

 ただ、以前聞いたことがあるのだ。

 交通事故という「非業の死」を遂げたあの子が、幽霊となって現世を彷徨さまよっているという話を。

 そして、それをのだ。

 

 ――第百七十二話「一輪車」。

 あの子は間違いなく、この話に出てくる幽霊なのである。

 そして――そう考えた結果、二人目の死者の正体にも気づいた。

 彼の場合は、著書に顔写真が載っていたので、決定的だった。

 第六十二話「未練」に登場する、X氏である。

 彼は自尊心の塊であったことから、それが災いして作家としての道を断たれ、自ら死を選んだ。しかしその後、幽霊となって、編集者達の周りで幾度となく目撃された。

 僕の夢に出てきた二人目の死者は、このX氏で間違いなかった。

 ということは――一人目の死者も、同様の可能性が高い。

 僕が『ぎょうだん』の中で書いた、誰かなのだ。

 これは大きな手がかりだ。しかし一方で、「どうして」という気持ちが渦巻いているのも、確かだった。

 僕は、あの死者達と直接関わりがあったわけではない。

 あくまで話に聞き、書いただけだ。

 なのに――彼らは「七人迎え」として、僕の前に現れた。

 本当に、ただなのに。

 ……いや、それは僕の考えが甘いのかもしれない。

 一度でも書いてしまったら、もう他人ではいられない――。おそらくは、それが怪談というものなのだろう。

 ……しかし、僕が書いた怪談の数は、優に百を超える。

 僕は今や、そこに登場するすべての怪異と、関わりを持ってしまったのだろうか。


   *


 それから僕は、普段の仕事や生活の合間を縫って、『夜行奇談』を読み返し始めた。

 もし今後も「七人迎え」の死者がこの中から選ばれるとしたら、あらかじめ候補を頭に入れておいて、損はない。

 また並行して、すでに正体が分かっている二人についても、その名前を特定する必要があった。

 これについては、まずX氏から始めた。

 僕が知っている彼の名前は、あくまでペンネームだ。しかし今必要なのは、おそらく本名の方である。

 僕はさっそく、知り合いの編集者にメールで問い合わせてみた。もっとも、その人はX氏の本名を知らなかったようで、『他に知ってそうな人に聞いてみます』と、すぐに返事があった。

 そして翌日、改めてX氏の本名が、メールで送られてきた。これで一歩前進だ。

 ただ――そのメールには、こうも書かれていた。

『でも、どうして本名なんか知りたいんですか? 気をつけてくださいね。あの人、まだ成仏してないんで……』

 ……僕は、その部分には敢えて反応せず、ただお礼だけを返信しておいた。

 一方「一輪車」の男の子については、案の定難航した。

 そもそも、この話を僕に聞かせてくれた男性は、問題の男の子を直接知っていたわけではない。あくまで一時的な赴任先で、その幽霊に遭遇しただけだ。

 試しにご本人にもメールで問い合わせてみたが、『さあ……』と困惑した返事が返ってきただけだった。

 ただ、男の子が事故で亡くなった場所なら、当時の同僚から聞いて知っているという。僕はさっそくその場所を教えてもらうと、とりあえず過去の報道から、男の子の実名を探ってみることにした。

 事故現場の地名を手がかりに、ネット上に残っている記事を検索していく。すると、該当場所での事故のニュースが、何件も引っかかった。

 ……そう言えば、あそこは事故多発地帯なのだ。

 僕は心の中でそっと手を合わせると、それらの記事を順番に当たり、被害者が子供になっているものをピックアップしていった。

 結果、該当しそうな記事を、三件まで絞り込むことができた。ただ、被害者が実名で報道されているのは、そのうちの一件だけである。

 さすがにこの方法では、まだ特定は難しい。しかしこれらの記事を取っ掛かりにすれば、例えば事故のあった日付けなどから、さらに情報を辿っていくことはできるはずだ。

 僕は、話者である男性に再度連絡し、該当記事の内容を伝えた上で、『当時の赴任先で知り合った方達から、何か情報を聞き出せませんか?』と尋ねてみた。

 相手は、当然ながら不思議に思ったようだ。

『どうして、あの男の子の名前が知りたいんですか? ……下手したら、?』

 しかしその質問に、僕は曖昧あいまいに答えることしかできなかった。

 ……それから数日が経って、彼から『この子じゃないですか?』と、一人の男の子の名前が送られてきた。何でも、当時の同僚達に問い合わせて分かったらしい。

 送られてきたその名前は、奇しくも報道にあったものと、ぴたりと一致していた。

 僕はお礼のメールを送り、ホッと一息ついた。

 これで――X氏と、「一輪車」の男の子。二人の名前が確定したわけだ。

 俄然元気が出てきた。僕はさっそく、これらの名前を紙に書くことにした。

 もちろん八夜目はまだ先だが、べつに早まって書いてはいけないというルールもないだろう。それに、今のうちに筆に慣れておく意味もある。

 僕はさっそく近所のホームセンターに行き、筆と墨汁、半紙などを調達してきた。そして、それらをリビングのテーブルに広げ、義務教育以来の筆書きに挑んだ。

 紙に書く名前は七人。そのうち一人目は正体が分からないので空白のまま、隣に二人目と三人目――X氏と「一輪車」の男の子の実名を、並べて書いた。

 大してきれいな字ではないものの、何とも言えない妙な達成感があった。

 残るは五人。絶対に名前を突き止めてみせる――。

 僕は改めて、そう心に誓った。

 ちなみに名前を書いた半紙は、テーブルの上に広げたままにしておいた。


 ……異変が起きたのは、日付けが変わった深夜のことだ。

 僕が寝室のベッドで横になっていると、不意に玄関の方から、妙な音が聞こえてきた。

 ――ゴンッ。

 ――ゴンッ。

 何かがドアに、繰り返し当たっている。

 いったい何だろう、と身を起こしかけたところで、僕はハッと気づいた。

 ……のだ。

 一輪車のペダルを漕ぐ、が。

 事故の記事を調べ、名前を突き止めた、僕のもとに。

 ――ゴンッ。

 ――ゴンッ。

 ドアの音は、止む気配がない。

 もしあのドアを開ければ、そこには靴の裏にペダルを貼りつかせた血まみれの両脚があって、たちまち家の中に飛び込んでくるだろう。そして廊下を駆け抜け、ベランダからどこかへ去っていくはずだ。

 ……そう、音を止めたければ、この方法以外にない。

 幽霊を迎え入れるか。それとも、我慢するか――。

 迷った結果、僕は頭から布団を被り、聞こえぬふりを決め込むことにした。

 我ながら情けない話だった。

 ――ゴンッ。

 ――ゴンッ。

 音は、僕が眠りに落ちるまで、ずっと鳴り続けていた。


 翌朝目を覚ますと、すでに音は止んでいた。

 僕は恐る恐る、玄関のドアを開けてみた。

 ……何もいない。

 不意打ちで脚が飛び込んでくる、というようなオチもなく、ただいつもの朝の景色があるばかりだ。

 僕は安堵し、それからドアの表側を見た。

 ……小さな血の跡が、点々と散っていた。

 悲鳴を上げるほど凄惨ではないものの、何とも言えない嫌な光景を目にして、僕はただ顔をしかめた。

 ――いや、これだけで済んだのだから、幸いだろう。

 そう自分に言い聞かせ、おとなしく雑巾でドアを拭いた。

 ところが――その後リビングに行ったところで、僕は今度こそ「あっ!」と声を上げることになった。

 とんでもない事態が待ち受けていたからだ。

 昨日僕は、このリビングのテーブルで二人の名前を半紙に書き、そのまま広げておいた。

 しかし今、その半紙の上に、何やら汚らしいものが、べったりと付着している。

 ……鳥のフンだ。

 白と茶色の――いや、直接的な描写は控えるが、明らかに鳥のフンと思しきものが、広げた半紙の上に落ちているのである。

 ただ、もちろん僕の家では、鳥など飼っていない。また戸締まりもしっかりしてあるから、外から入り込んだはずもない。

 にもかかわらず、だ。

 僕は眉をひそめ、改めて半紙を睨みつけた。

 せっかく書いた名前の一つが、フンのせいでにじみ、消えかかっている。

 X氏の名前だ。

「鳥――。そうか、鳥か」

 僕は独りごちた。そう言えば、X氏は生前、小鳥を飼っていたという。

 その小鳥はX氏の死後行方が分からないが、時々出版社に入り込んでいるのを目撃されている。まるで、X氏の亡霊が乗り移ったかのように……。

 もしかしたらこのフンも、X氏の仕業かもしれない。

 しかし――だとすると、X氏は自らの意志で、自分の名前を鳥に汚させた、ということだろうか。いったい何のためにだ。

 ……何にしても、汚れた半紙をこのまま放置しておくわけには行かない。僕はそれをごみ箱に捨てると、テーブルの上をきれいに拭き清めた。

 何で起きて早々、掃除に追われているのかは分からないが――。

 それから改めて新しい半紙を広げ、もう一度筆で、二人の名前を書き直した。

 これで元どおりである。僕はひとまずリビングを離れ、仕事や家事など、普段の生活に戻った。

 ……ところが、だ。しばらくして再びリビングを覗くと、書き直した名前の上に、またもフンが落ちている。

 やはり、X氏の名前のところだ。

 僕は唖然とし、それから仕方なく、再度半紙を捨てた。

 おそらく何度書き直しても同じだろう。長い間怪談に触れてきたせいか、「だいたいこうなるだろう」というのが予測できてしまう。

 ただこのままだと、僕はX氏の名前を書くことができない。

 つまり――「七人迎え」がもたらす死を、回避できないわけだ。

 半ば途方に暮れる想いで、僕は椅子に座り、じっくりと考えた。

 ……X氏の意図も謎だが、もう一つ、現時点で分かっていないことがある。

 一人目の男だ。

 あれは、誰なのだろう。

 思えばあの男は、。明らかに、他の死者とは違う点がある。

 普通、「七人迎え」の死者は、彼らが亡くなった時の姿で現れる。

 例えばX氏はベルトを首に巻いているが、彼は自殺のはずだから、おそらくあのベルトで首を吊ったということだろう。また一輪車の男の子も、事故に遭った時の無残な姿を、そのまま再現している。

 いや、今回だけではない。かつて第百五十六話「七人迎え」で、D君の同僚が見た夢でも、死者達は自分が亡くなった時の姿で現れていた。

 にもかかわらず――。

 僕の夢に出てくる、一人目の死者。あの男だけが、この法則を見事に破っている。

 一夜目、初めて彼を見た時は、ただ血色が悪いだけだった。

 ところが二夜目になると、着ている服が、前よりも少し汚れていた。

 そして三夜目。服がさらに汚れ、顔が老け込み始めた。

 ……そう、あの男は、

 いや、それだけではない。そもそもあの男は他の死者達と違って、「おーい」と呼びかけてくることもない。

 もっとも唇は動いているから、何かを言ってはいるのだろう。これは、一夜目を見た直後にも思ったことだ。

 さて――あの男は、誰なのか。

 どういう亡くなり方をしたら、あのような不可解な様子になるのか。

 ……考えなければならないことが、山積みだった。

 僕は憂鬱な気持ちで、部屋のカレンダーに目を向けた。

 ――×月三日。

 着々と、四夜目が近づいている。

 次は、誰が夢に現れるのだろう。

 そして、目覚めたら目覚めたで、どんな怪異をもたらすのだろう。

 暗澹あんたんたる気持ちで、僕はその時を待つしかなかった。


   *


 ――×月七日。

 四夜目が巡ってきた。

 死者を載せた筏は、その日もやはり現れた。

 ただしそれを見た時、僕は思わず我が目を疑った。

 ……、乗っているのだ。

 まだ四夜目だというのに、なぜ一人多いのか。慌てて顔触れを確かめた。

 筏は前よりも岸に近づいている。よく目を凝らさずとも、彼らの顔ははっきりと分かった。

 一人目の死者。これは、前よりもさらに老け込んでいる。それに心なしか、髪の量が増えているように思う。

 二人目、X氏。三人目、「一輪車」の男の子。これは両者とも変わらない。

 問題は、今回増えた二人だ。

 どちらも、女である。

 髪は短く、歳は若い。当然顔に見覚えはない。

 ただ――だ。

 顔、髪型、体格、服装。それに、ぱっくり裂けた首筋と、そこから噴き出したおびただしい血の痕まで――。

 二人の女は、何もかもが瓜二つなのだ。

 その様を見て、僕はピンと来た。彼女達の――いや、の正体には、ちゃんと心当たりがある。

 僕が見守る中、死者達の唇が動いた。

 …………。

 ――おーい。

 ――おーい。

 ――おーい。おーい。

 いっせいに、呼ばれた。

 ただし一人目の男だけは、何か違うことを叫んだように思えた。

 何を言ったかまでは、聞き取れなかった。もう少し筏がこちらに近づいてきたら、分かるだろうか。

 僕は歯痒い想いで、消え行く筏を見送った。


 目を覚ますと、まだ真夜中だった。

 しかし僕は、すぐさまスマートフォンを操作し、自分が投稿した『夜行奇談』にアクセスした。

 確かめるエピソードはもちろん、第三十四話「二人いる」だ。

 今現れた二人の瓜二つの女――。あれは間違いなく、この話の中で不可解な死を遂げた女子大学生だろう。

 読み返しながら、彼女の名前を思い出そうとする。本文中では「Bさんの姉」としか表記していないが、確か取材時にそのBさんから教えてもらい、ノートに書き留めておいたはずだ。

 だから、情報収集を焦る必要はない。その点では、今までの三人よりも気が楽だった。

 もっとも今回の場合、彼女を「一人」としてカウントするのか、それとも「二人」なのかは、悩むところだが……。

 もちろん、すぐに結論づける必要はない。ただ、曖昧なまま放置しておきたくもない。

 そんなことを考えながら、もう一度ベッドに横たわった。

 ……静かな夜だ。今夜は、「一輪車」の男の子は来ないらしい。

 いや、そもそもあの子は、さほど積極的に人前に現れることはなかったはずだ。「七人迎え」とは関係なく、純粋に一人の幽霊として(?)見れば、比較的無害な存在なのだろう。

 もちろんX氏だって、本来なら気味が悪いだけで、実害はだいぶ薄い。ただ今回の「七人迎え」という現れ方が特殊なだけだ。

 さて――どうすればX氏の本名を書けるのか。

 悩みつつ、僕は再び眠りに落ちた。


 X氏について「答え」が分かったのは、それから二日後のことだった。

 前回名前を書いた時からさらに三度、半紙を鳥のフンで汚されていた。しつこく繰り返されるX氏の妨害に、僕はかなり頭を悩ませたのだが――。

 ふと、気づいたのだ。

 もしかしたらX氏は、本名ではなく、を望んでいるのではないか、と。

 ……そもそも彼は、作家であり続けたいという未練から、幽霊となって出版社に現れている。ということは、本名では駄目なのだ。

 ――。それが、X氏の求める名前に違いない。

 そう思って、半紙に書く彼の名前をペンネームに変えてみたところ、鳥の害は呆気なく止んだ。あまりに呆気なさすぎて、少し腹が立つレベルだった。

 さて、あとは「七人迎え」の対処方法が、ペンネームでも許されるかどうかだが――。おそらくこちらは問題ないだろう。

 死者達の名前を紙に書くのは、そこに供養の意味があるからだ。ならばむしろ、死者本人が望んでいる名前でなければ、効果がないとも考えられる。

 だから、X氏の名前はペンネームで書く――。この形で進めるべきだろう。

 難題が一つクリアできて、僕は安堵した。

 さらにその数日後、D君から電話を貰った。前回会った後、ずっと僕のことを気にしてくれていたらしい。

は、まだ見ているのか?』

 そう聞かれたので、僕は素直に頷いた。

 今までに書いた怪談が関係してしまっていることも、打ち明けた。もっともD君は、『東って怪談書いてたっけ?』と、ややずれた反応を返してきたが。

 どうやら『夜行奇談』のことは知らなかったらしい。僕は苦笑し、「今度暇な時にでも読んでみてよ」とだけ言っておいた。

 D君は『ふーん』と気のない返事をした後、こう続けた。

『でもな、あくまで東の思い込みだっていう可能性は、頭の隅に入れておいた方がいいぞ』

 彼は、今なお合理的な結論を求めているようだった。

 それから二、三ほどやり取りした後、最後にD君は、こんなことを尋ねてきた。

『ところで東、昨日俺の職場の近くに来てた?』

「いや、行ってないけど?」

『ふーん、そうか。じゃあ見間違いか』

 一見、他愛のない会話である。しかし――僕は思わず、ぞくり、とした。

 ……もう一人の自分が目撃された。

 ……「」だ。

 これが死の予兆ではなく、ただのD君の勘違いであることを祈りながら、僕は電話を切った。

 さて――。

 すでに七夜のうち、半分は越えた。

 現在名前が判明中の死者は三人。正体不明は一人目のみ。

 順調……と言えるかどうかは分からない。たとえ一人でも名前が欠ければ、僕は終わりだからだ。

 早急に一人目の正体に辿り着く必要がある。だが、不安はそれだけではなかった。

 僕はこの短期間で、X氏と「一輪車」の男の子という、二つの怪異を体験してしまっている。

 もし今後もこの調子で、僕が死者の名前を突き止めようとするたびに、該当する怪異に見舞われるとしたら――。いずれ、とんでもないことになるのではないか。

 ……残る死者は、あと三人。もはや、が現れないことを祈るしかない。


   *


 ――×月十七日。五夜目。

 僕の祈りは、むなしくも届かなかったらしい。

 夢の中、流れてきた筏の上に、新たな死者が佇んでいる。

 ……いや、それを「佇む」と表現すべきかは分からない。それほどまでに、「彼」の姿勢は独特だった。

 ――頭を下に。

 ――足を上に。

 上下逆さまになって、折れた首を支えに、丸木の上に垂直に立つ。

 ……一目見て、どの怪談に関係する者か分かった。

 しかし、人名をすぐに特定することはできない。

 なぜならの中では、かなり多くのかたが亡くなっているからだ。

 ……あの怪異は危険だ。関われば、即さわる。

 それでも僕は、今からに挑まなければならない。


 ――異久那土いくなどサマ。

 その怪異の名である。


   *


 異久那土サマというのは、西日本某所に古くからある石碑の名だ。

 飾りっ気のない小さな石柱の四方に、「異」「久」「那」「土」の四文字が彫られている。だから「異久那土サマの碑」と呼ばれている。

 詳しい謂れは分からない。ただ、この石碑に関わった者は、ことごとく恐ろしい目に遭っているという。

 ……曰く、井戸や用水路に頭から落ちて亡くなった。

 ……曰く、上下逆さまの子供が、トン、トン、と頭で弾みながら追ってきた。

 ……曰く、その逆さまの子供に付きまとわれた後、行方知れずになった。

 このように、命に関わるレベルの出来事が、頻発したそうだ。

 僕が『夜行奇談』の中で「異久那土サマの碑」を採り上げたのは、第百六十二話でのことである。題名もずばり「異久那土サマ」としたその話の中で、僕は石碑に関わり恐ろしい目に遭った人達の話を、オムニバス的に紹介した。

 これらの話を僕に教えてくれたのが、Tさんという男性だった。

 問題の石碑は、そのTさんの実家の近くにあるそうだ。ただTさん自身は、すでに同県内の都心部に住所を移しており、現地からは離れている。

 そんなTさんのもとを僕が訪ねたのは、「七人迎え」の五夜目を終えてから幾日も経った、日曜日の昼過ぎのことだった。

 目的はもちろん、僕の夢に現れた五人目の死者の名前を、特定するためである。

 ――以前伺った「異久那土サマ」の話について、もう少し詳しい内容を知る必要が出てきました。

 ――ついては、あの話の中でお亡くなりになった同級生の顔写真があれば、拝見させて下さい。

 先方には、事前にメールでそう伝えておいた。

 もっとも、その理由までは明かさなかった。「七人迎え」の話は人にしない方がいい、というD君の忠告に従ったからだ。

 それでもTさんから色よい返事があったのは、幸いだった。結果、日曜日に僕の方からTさん宅を訪ねることになったわけだ。

 本当ならすぐにでも向かいたかったのだが、何しろ互いに仕事がある上、住んでいる場所もバラバラだから、簡単には行かない。おかげで朝一から新幹線に乗る羽目になってしまった。

 久方ぶりに会ったTさんは、相変わらず独身のままだった。ただ、数年前から犬を飼い始めたようで、寂しさはまったく感じていないという。

 それはともかく――僕達はさっそく本題に入った。

「亡くなった同級生の顔写真が見たい、とのことでしたね」

 Tさんはそう言うと、高校時代の卒業アルバムを持ってきて、僕に見せてくれた。

 開かれたページには、各クラスの集合写真が載っている。卒業間近ではなく、新年度に撮影されたものだという。

 ……つまり、卒業を待たずして亡くなった生徒も、写っているわけだ。

 Tさんはその中から、何人かの生徒を指し示した。

 いずれも男子ばかりだ。僕はその顔の一つ一つを、じっくりと確かめていく。

 あの時――僕が「七人迎え」の五夜目を迎えた時、夢に出てきた上下の死者は、少年の姿をしていた。

 歳は十代の半ばほどで、高校生ぐらいに見えた。

 上下逆さまの高校生――となると、やはり「異久那土サマ」の話で採り上げた男子生徒達のことが、真っ先に思い浮かんだ。

 彼らは異久那土サマの碑にバイクをぶつけてしまい、その結果、に追い回され、事故に遭い亡くなったという。そのうちの一人が、きっと五人目の死者に違いない。

 僕は、夢で見た顔を思い出しながら、写真の少年達と比較していった。

 ……ところがどういうわけか、該当する人物が見当たらない。

 内心焦りながら、もう一度見直す。しかし、やはり夢に出てきた人物は、彼らのいずれにも当てはまらないように思える。

 ……見当違いだった、ということだろうか。

 一瞬絶望的な気持ちになった。それでも諦め切れずに写真を見つめていると、不意に一人、それらしき顔が目に入った。

 ちなみに、Tさんが指し示した生徒ではない。

「あ、この子は……?」

「ああ、それは××君ですよ」

 Tさんは僕の質問に、声を潜めて答えた。

 ××君という名前には、聞き覚えがある。確か、僕が「異久那土サマ」を執筆した際に、「I君」という仮名に置き換えた名だ。

 もっとも、彼は事故で亡くなったわけではない。

 いや、亡くなったかどうかも、定かでない。

 ……消えたからだ。

 家族ともども、ある夜家から忽然こつぜんと姿を消してしまい、以来見つかっていないという。だからTさんも、彼を指し示しはしなかったのだろう。

 とは言え――やはりの××君の顔は、「七人迎え」として現れた五人目の死者によく似ている。であれば、やはり亡くなっているのではないか。

 僕はそう思ったが、口には出さなかった。

 それから念のため、亡くなった他の生徒達についても名前を聞き、メモに控える。すると、その様子を眺めていたTさんが、ふとこんなことを尋ね返してきた。

「東さん、犬は飼ってますか?」

「え? いえ、ペットは飼っていませんが」

「犬、飼った方がいいですよ」

「はあ」

 げんな顔で生返事をした僕に、Tさんは声を潜めて、さらにこう言った。

「――異久那土サマ、来なくなりますから」

 そんなことがあるのか、と目をしばたたかせた僕に、Tさんは満面の笑みを浮かべ、頷いてみせた。


 Tさんと別れた後、僕は東京に戻るため、再び新幹線に乗った。

 このような日帰りでの遠出は初めてで、だいぶ疲労感が強い。それでも座席に着いてすぐに眠らなかったのは、少しでも早く状況を整理しておきたかったからだ。

 今日――五夜目の死者の名前が判明した。

 これで、名前が分からないのは三人。まだ見ぬ六夜目と七夜目、それに、いまだ正体の見えない一夜目の人物である。

 ……今一度、先日の夢の光景を思い出してみる。

 昏い運河の上流から流れてくる筏。その距離は、以前よりも岸に近づいている。

 筏の上には、六人の死者が佇む。

 一夜目から現れた、正体不明の男。

 二夜目から現れた、第六十二話「未練」のX氏。

 三夜目から現れた、第百七十二話「一輪車」の男の子。

 四夜目から現れた、第三十四話「二人いる」の女子大学生。……これは、

 そして新たにもう一人、上下逆さまの少年がいた。その正体こそ、第百六十二話「異久那土サマ」で行方不明になったという、××君だったわけだ。

 さて――ここで気になることが二つある。

 まず一つは、一夜目の男の正体だ。

 開襟シャツにスラックスという服装のその男は、一夜目に現れた時は、まだ四十代ぐらいに思えた。

 ところが二夜目以降、彼の姿は少しずつ変化している。

 服が汚れ、顔が老いていく。さらに四夜目には、髪の量が少し増えていた。

 そして前回の五夜目。あの時は、逆さまの少年に気を取られていたため、男の姿をはっきり観察できたわけではなかったが――。

 確か……ように思う。

 そう、まるで写真の顔の部分だけを拡大表示させたかのように、明らかに全身のバランスがいびつになっていた。

 いや、もしかしたら四夜目の時点で、その兆候はあったのかもしれない。髪が増えたように見えたのは、頭の肥大化が原因だったわけだ。

 とは言え――なぜこの男だけが、他の死者達と違って、毎回少しずつ変化しているのか。その理由は分からないままだ。

 さらに言えば、死者達が僕に「おーい」と呼びかける時、この男だけが何か違うことを叫んでいるのも引っかかる。

 次回こそは、聞き取らなければならない――。僕はそう思った。

 続いて、気になる二つ目は、死者の人数だ。

 五夜目を終えた現時点で、すでに六人がいる。もちろんその理由は、四夜目の女子大学生が、二人いたからだ。

 さて――見た目には瓜二つの彼女達を、「二人」とカウントするべきか。それとも、あくまで四夜目に現れた「一人」と見なすのか。

 もともと「七人迎え」のルールでは、毎回死者が一人ずつ増え、七夜目で七人が揃うようになっている。そして八夜目で、この七人がターゲット――即ち僕を、あの世に引っ張るわけだ。

 しかし今のままだと、七夜目を待たずして、六夜目に七人が揃ってしまう。そうなると、タイムリミット自体が一回分、前倒しになる恐れが出てくる。

 これにすきなく対応するためには――僕は七夜目までに、死者全員の名前を紙に書いておかなければならない、ということになる。

 言い換えれば、数日後の六夜目で、すべてが決まる可能性があるわけだ。

 出揃った全員の正体を見破れば、僕は助かる。

 逆に、もし一人でも分からない人物がいれば――。

 ……憂鬱な気持ちになりながら、僕はうつむいて視線を落とした。

 膝に載せたスマートフォンを操作し、カレンダーを表示させる。

 まるで、自分の余命を確かめているような気分である。

 と……そんな時だ。

 不意に、新幹線の走行音が途切れた。

 突然の静寂が、キーン、と僕の耳を貫いた。

 ただ、車両が停止した様子はない。何事だろう、と僕は顔を上げようとした。

 ……首が、動かない。

 あれ、と思いながら視線を泳がせる。

 目は動く。しかし持ち上げようとした頭は、なぜだか強張って、ピクリとも動かない。

「あ……」

 突然の異変に漏れかけた声は、その一言だけで立ち消えた。

 唇が、動かなくなった。

 慌てて、手で触れようとする。しかし、指先が辛うじてうごめく程度で、腕そのものはまったく動かせない。

 気がつけば足までも、石のように硬直している。

 ――金縛りだ。

 他に表現しようがないほど、完璧な金縛りだ。

 もしや、全身の疲れが一気に爆発したのか。そう思った刹那。

 ――トン。

 何か、聞こえた。

 ――トン。

 ――トン。

 何かが床を打ち付ける音、だろうか。

 それが僕の後方から、車内の通路に沿って近づいてくる。

 ……

 すぐにその単語が、頭をよぎった。

 ――トン。

 ――トン。

 そう、おそらくこの音だ。

 他の乗客からの反応はない。僕にしか聞こえていないのか。いや、そもそも乗客の気配そのものが、完全に消え失せている気がする。

 しかし音だけは確実に、こちらへ向かっている。

 逃げなければ、と思った。

 だが、体が動かない。

 ――トン。

 ――トン。

 近い。

 もうすぐ、俯いた僕の視界に、音の主が入ってくるに違いない。

 やはり、上下逆さまなのだろうか。

 ということは、僕と視線が合ってしまうのか。

 そうなったらきっと、僕は無事では済まない。

(犬……)

 ふと思い出した。

 Tさんが言っていた。犬を飼っていれば、異久那土サマは来ない、と。

 いったいいつからそんな回避方法が生まれたのかは、分からない。以前Tさんから話を聞いた時は、犬に関する話題などなかったはずだ。

 それでも、他にすがれるものはない。

 犬。今この場に、犬が必要だ。

 ――トン。

 ――トン。

 もうすぐそこまで来ている。急がないと。

 僕は微かに動く指で、膝の上のスマートフォンに触れた。

 多少おぼつかないが、操作はできる。急いでネット上を検索し、適当に犬の動画を呼び出した。

 音量を最大にして、再生した。

 静かな車両に、犬の吠え声が響いた。

 ――トン……。

 音が、ぴたりと止んだ。

 消えたのではない、動きを止めただけだ。

 すぐ間近から――座席を一歩出た通路から、の気配を感じる。

 ……まだ、そこにいるのだ。

 犬がさらに吠える。

 僕は相手と視線が合わないように、瞳を出来るだけ窓側に向け、じっと耐えた。

 早く立ち去れ、早く立ち去れ、と願いながら、耐え続けた。

 やがて――停車駅を告げるアナウンスが、車内に流れた。

 同時に、フッとの気配が消えた。

 途絶えていた走行音が響き、僕は弾みで顔を上げた。

 ――動ける。

 しかしその途端、今まで堪えていた震えが、一気に全身を走り抜けた。

 額から汗が噴き出し、心臓が荒れ狂ったように脈打つ。

 僕は指をぶるぶると小刻みに震わせながら、スマートフォンに触れ、犬の吠え声を縮めた。

 気がつけば、乗客達の気配も戻っている。おそらく、大音量で動画を見ていた僕に、白い目を向けていることだろう。

 ともあれ――まずは助かったのだ。

 僕は額の汗を拭い、ほっと一息ついた。


 その後、駅に着いてから家までの道を、僕は犬の動画を流しながら帰る羽目になった。

 おかげで何事もなく無事に帰宅できたが、これから先、外出する時は必ずこの動画を再生し続けなければならないのかと思うと、気が遠くなりそうだった。

 異久那土サマの障りは、いつまで続くのだろう。

 そもそも、いつか終わるものなのだろうか。

 いずれにしても、僕の住む家はペット禁止である。どう対処すればいいのか。

 ……考えた末、僕は伝統的な方法に頼ることにした。

 絵である。

 怪異を防ぐために動物が必要なら、その動物を絵に描いて飾ればいい。要は、代用品を用いるわけだ。魔除けの手法としては古くからある、由緒正しいやり方である。

 さっそくネット上から適当な犬の写真をプリントアウトし、それらを額に入れ、玄関と窓のそばに飾ってみた。

 ついでにお守りとして持ち歩けるように、パスケースに入るサイズのものも用意した。まあ、自分のペットでもない、知らない犬の写真を持ち歩くというのも、妙な話だが……。

 それでも、効果はあったのかもしれない。とりあえずこの状態で数日過ごしてみたが、異久那土サマの障りらしきものは、一切起きなかった。

 ――しかし、なぜ犬なのだろう。

 後日、僕は改めて疑問に思った。

 もしかしたら、「異久那土サマ」という得体の知れないものの正体に関連しているのだろうか。

 Tさんは、その正体が分かったのかもしれない。だから犬を飼い始めた、と――。

 ……仮説はいくらでも立てられそうだった。しかし、今は異久那土サマに深入りしている時ではない。

 間もなく六夜目を迎える。もしかしたら、ここで現れる死者が、最後の一人かもしれないのだ。

 気を引き締め、僕はその時を待った。


   *


 ――×月二十七日。六夜目。

 この日も僕は、夢の中で運河の畔に立ち、流れてきた筏と相対した。

 筏の位置は、僕が立つ岸から、すでに二メートルほどしか離れていない。毎回少しずつ近づき、ついにここまで来た。

 おかげで筏の上の顔触れも、より生々しく見える。

 首にベルトを巻いたX氏。膝から下がない男の子。首が裂けた二人の女子大学生。逆さまの少年――。

 この五人は、特に変化はない。問題は、あとの二人だ。

 まず確かめなければならないのは、今夜追加された七人目の死者である。

 ……女だった。

 歳若く、全身がぐっしょりと濡れている。

 服装や、推測できる死因については、伏す。

 とにかくその様を記憶に焼きつけながら、僕はもう一人の正体不明の人物――一夜目に現れたあの男の方を見た。

 ……またも、姿が変化していた。

 歳は、もはや老人のそれだった。

 頭部の肥大化が治まらず、まるで巨大なカボチャのようになっている。

 顔の色も、血の気の失せた青白い色から一転して、赤黒く濁っている。

 服はすでにボロボロで、もはや見る影もない。

 僕はかたを呑みながら、男を見つめた。

 目が合う。男の唇が動いた。

 僕はとっさに耳を済ませた。ただ男の言葉だけを、正確に聞き取るために。

 同時に死者達の口が、いっせいに開いた。

 ――おーい。

 ――おーい。

 ――おーい。おーい。

 ――おーい。

 ――おーい。

 X氏からずぶ濡れの女までの六人の声が、僕を呼ぶ。しかしそれに交じって、一人目の死者が何を言ったのか。僕は聞き逃さなかった。

 彼は確かに、こう叫んだ。

「――モ」


 そこで目が覚めた。

 急いで体を起こしかけ、不意に眩暈めまいを覚えて、僕はもう一度枕に頭を沈ませた。

 ……聞こえたのは、「モ」という一言だけだ。しかし手がかりとしては、これで充分だった。

 そう、あの男が具体的にどの怪談と関わっているのか、これではっきりした。


 ……おそらく、「モウサン」だ。


 (続く)

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