第百四十二話 岩の上に
S県に在住の、Oさんという二十代の男性から聞いた話だ。
Oさんの職場の近くに、大きな公園がある。
もともと小高い丘だった場所を整備して造られたもので、緩やかな勾配のそこかしこに樹々が茂り、自然が溢れている。休日ともなれば、友達同士や家族連れなど、グループの利用者で賑わう。
そんな公園に、Oさんが初めて足を運んだ時のことだ。
ちょうど仕事がスムーズに片づいた、天気のいい水曜日の夕方だった。
春半ば、まだ陽が沈み切るには、早い時間である。それでも平日ということもあって、さすがに利用者の数はまばらになっている。
ひと気の少ない坂道を、Oさんはゆっくりと登り始めた。
道は大部分が舗装されているが、時折、土に踏み石が並ぶだけの細い枝道も見える。どうやら、林の中を通り抜けられるようになっているらしい。
Oさんは、何とはなしに、手近な枝道に足を踏み入れてみた。
途端に、左右の樹々に夕陽を
見上げると、くねくねと曲がりくねった勾配が、丘の上に向かって続いている。
先の方は樹の陰になって分からないが、登れば頂上に出られるのかもしれない。
Oさんは、そのまま足を進めてみた。
階段状の踏み石を辿り、林の奥へ向かう。
時折、丁寧に刈り揃えられた草むらに、花々が
そんなことを考えながら歩くうちに、次第に暗さが増してきた。
陽が落ちつつある。
背の高い樹々が、まるで迫るように、視界を影で染めていく。
少し心細くなり、Oさんは足を速めた。
その時だ。
ふと――何かが聞こえた。
……う、う、う。
……う、う、う。
登り道の先から、風に交じって、それは聞こえてくる。
……う、う、う。
……う、う、う。
どことなく、人の声に思える。
それも、泣いている声だ。
……う、う、う。
……う、う、う。
静かに、まるで押し殺すように――。くぐもってはいるが、やはり泣き声で間違いない。
Oさんは足を止め、道の先に目を凝らした。
樹々の隙間にチラチラと、何か白いものが見える。
――誰かいる。
――向かうべきか。それとも、戻るべきか。
一瞬迷う。正直なところ、夕暮れの林道で泣いている人に出くわすのは、あまり気味のいいものではない。
しかし一方で、放ってはいけないという気持ちもある。
相手はなぜ泣いているのか。もしかしたら、怪我でもしているのではないか。あるいは何か辛いことがあって、誰かの助けを必要としているのかもしれない。
そう思うと、やはり引き返すのは気が咎めた。
Oさんは恐る恐る、再び進み始めた。
……う、う、う。
……う、う、う。
泣き声は近い。
よく聞くと、女の声だと分かる。
石段を踏み締め、樹に沿って曲がる。
声の主は、もう、すぐそこにいる。
……う、う、う。
……う、う、う。
Oさんは、せめて様子だけでも窺おうと、樹の陰からそっと前方を覗き込んだ。
大きな岩が見えた。
緩やかに曲がる道の脇の草むらに、いくつもの切り株に囲まれて、大人の背丈ほどもある真っ白な岩が、でんと座している。
形は楕円で、まるで巨大な卵を横に寝かせたかのようにも見える。
その、岩の上に――。
……少女が一人、立っていた。
……なぜか、
……はっきりと、体をこちらに向けて。
Oさんはギョッとして、思わずその場に立ち尽くした。
しかし、目が合った様子はない。少女は長い髪を後ろにだらりと垂らし、泣き腫らした顔をくいっと上げ、虚空を見つめるように佇んでいる。
――泣いているのは、この子か。
見た目は中学生ぐらいだろうか。顔は青白く、充血した目がカッと見開かれている。
身には、ぞろりとした長いワンピースを
足は裸足だ。
揃えた爪先が、ピンと伸びている。
一方で肩には力が入っていないのか、両腕は
どことなく――嫌な姿勢だ。
ふと何かを連想しかけ、Oさんは無意識のうちに、それを抑え込んだ。
……う、う、う。
……う、う、う。
少女は
声をかけるべきか、迷う。
少しだけ、そばに寄ってみた。
少女の視線は動かない。ただ岩の上で、まっすぐに宙を見つめているばかりだ。
――やり過ごそう。
改めて、Oさんはそう思った。
薄情かもしれない。しかし心のどこかで、「この子に関わってはいけない」という警告が、本能的に鳴り響いている。
Oさんは一歩下がると、そのまま岩の前を通り過ぎようと、再び歩き出した。
と――。
……すっ、と少女が回った。
爪先立ちのまま、体全体をOさんの方に、クルリと向け直してきた。
え、と思いながら、もう数歩進む。
……すっ、と、やはり少女の体がこちらを向く。
Oさんは思わず、少女を見上げ返した。
彼女の視線は、あくまで虚空を見つめている。姿勢や立つ位置が変わることもない。
しかし体の向きだけは、揃えた両足ごとクルクルと、確実にOさんを追って動いている。
まるで方位磁針の針が、手近な磁石に引かれるかのようである。
その動きを見て、Oさんは強烈な違和感を覚えた。
――おかしい。
普通、人が姿勢を固定して全身で振り向こうとすれば、両足を細かく動かすか、左右の足のどちらかを軸にして回る必要がある。
しかし――あの少女は、爪先立ちの足首を、一切動かしていない。
回る軸が、左右のどちらかに寄ることもない。
にもかかわらず、すっ、すっ、と、滑らかにこちらに向き直っている。
まるで岩の上に立っているのではなく、微かに浮き上がっているかのように――。
そう考えた瞬間、Oさんはゾクリと身を震わせた。
つい今しがた連想しかけて抑え込んだものが、再び蘇る。
――少女のあの姿勢。
――爪先を伸ばし、顔を上げ、両腕を力なく垂らした、あの姿勢。
あれは……首吊りだ。
Oさんは走り出した。
急いでその場から逃げるように。
……う、う、う。
……う、う、う。
背中からは少女の嗚咽が、いつまでも聞こえ続けていた。
後日、Oさんは職場の先輩から、このような話を教えてもらった。
もう二十年以上前のことだが、例の公園の岩の上で、中学生の少女が首を吊る事件があったという。
その時、少女は
相手が誰なのかは、本人が口を
いずれにしても――ただ一つ言えるのは、周囲からの視線に苦しむ彼女を、誰も助けようとはしなかった、ということだ。
家族は、厳しく問い詰めるばかりだった。
相手の男性も、名乗りを上げることすらなかった。
結果、少女は死を選んだ。
その死に場所が、いつものデートコースだったのは、もちろん偶然ではないのだろう。
少女は岩の上に立ち、頭上の枝をしならせて、縄を掛け――。
……そして、亡くなったという。
まるで、岩の上に爪先で佇むかのような、
ちなみにお腹の子供も、助からなかったそうだ。
その後――。
事件の再発を防ぐため、岩の周囲に立つ樹は、すべて切り倒された。
岩には供養のためか、時折花が供えられた。しかし、それも今は途絶えている。
なお当初は、少女の幽霊が出るという噂も流れたが、いずれも面白半分の出鱈目だった。
だから――本物を見たのは、何も事情を知らないはずのOさんが初めて、ということになるのだ。
……この話を聞いてOさんは、居たたまれない気持ちになった。
あの時少女は、なぜ自分の前に姿を現したのだろう。
そして、なぜこちらを向き続けたのだろう。
実はOさんには、一つ思い当たる節があるという。
……Oさんには両親がいない。物心ついた時には児童養護施設にいて、そこが自分の家だった。
もし少女の子供が今も生きていれば、Oさんと同じぐらいの歳になっていたはずだ。
それを考えると――少女がOさんの前に現れた理由が、何となく理解できるのである。
以来Oさんは、週に一度は仕事終わりに公園に行って、あの大岩に花を供えているという。
またその傍ら、少女の交際相手が誰だったのかを、調べている。
相手が分かったところでどうするかは、決めていない。ただあの少女は、Oさんが彼の正体を突き止め、再びここへ連れてくることを望んでいる――。そんな気がしてならないのである。
少女は今も、大岩の上で泣き続けている。
いつか泣きやむ日が来ればいい、とOさんは願っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます