第百三十一話 牛がいる
動物の怪異――と聞いて、皆さんは真っ先に、どんな動物を思い浮かべるだろうか。
昔ながらの狐や狸。馴染み深い猫や犬。あるいは、蛇やクモといった、時代を超えて
いわゆる「怪を為す」とされる動物には、実にいろいろな種類がある。ただ、現代の怪談に登場するものとなると、やはり限られてしまう。
例えば狼やカワウソは、かつては
また絶滅しておらずとも、カエルや
ところが――その一方で、ある一風変わった動物が、しばしば異形の化け物として、今の世に語られることがある。
……牛だ。
例えば関西の某山では、牛の顔をした赤い着物の女がハイウェイに出没し、これに遭遇したバイク乗りは必ず事故に遭う――という噂が、古くからある。
また第二次大戦中には、人面牛身の怪物が現れて、敗戦と疫病の流行を予言したという。
他にも、「牛をタイトルに冠した恐ろしい怪談があるが、語ると障りがあるため、その内容は誰も知らない――」という、何ともつかみどころのない奇妙な都市伝説なども、存在している。この都市伝説そのものも、ある意味で牛にまつわる怪談と言えるだろう。
……今回ご紹介する話も、そんな「牛の怪談」の一つだ。
K府に在住の、Mさんという男性会社員から聞いた話である。
Mさんが仕事帰りに、ひと気のない住宅街の夜道を歩いていた時だ。
ちょうど近所の四つ角に差しかかろうとしたところで、ふと見えたその四つ角に、何やら奇妙なものがいることに気づいた。
……牛だ。
黒い大きな牛が一頭、街灯の下で脚を折って腹這いになり、じっと
突然の光景に、Mさんは思わず足を止めた。
――どうしてこんなところに牛がいるんだ。
当然そんな疑問が、真っ先に頭をよぎった。
牧場ならいざ知らず、ここは住宅街のど真ん中である。何かの見間違いではないか、と目を凝らす。
しかしそこにいるのは、やはり紛れもなく、牛だ。
――どこかの飼育施設から逃げ出してきたのか。
そうとしか考えられない。もっとも、この近くに牛を飼っている施設があるという話は、聞いたこともないが……。
何にしても、ここで立ち尽くしているわけにもいかない。
Mさんは、どうしたものかと迷った。
家に帰るには、あの四つ角を突っ切っていかなければならない。
しかし――牛がいる。
近寄るのは危ない。もしそれで牛を刺激してしまったら、無事では済まないはずだ。
ならば、回り道をして帰るか。……いや、それよりも先に、警察に「路上に牛がいる」と通報するべきか。だがその場合、自分はここを離れてもいいものか。
……悩みつつ、遠巻きに牛の様子を眺める。
牛は、ピクリとも動かない。
しかし、その一抱えもある巨大な頭は、じっとMさんの方を向いている。
明らかに――こちらを見ている。
Mさんは、不意に恐怖を覚えた。
戻ろう、と思った。
今急いでこの場を離れなければ、取り返しのつかないことになる――。なぜだかそんな気がしてならない。
Mさんは体を正面に向けたまま、そろり、そろり、と
牛の視線が、こちらの動きを追っているのが分かる。
絶対に立ち上がるなよ、と念じながら、距離を空けていく。
……幸い牛は、微動だにしなかった。
Mさんは程よいところでクルリと背を向けると、元来た道を、小走りで引き返した。
牛が追ってくる気配はなかった。Mさんは、そのまま人通りのある場所まで向かい、そこから別の道を辿って家に帰った。
警察には通報しなかった。あの場を離れたことで通報しそびれてしまったから、というのが理由だったが――とは言え、あれほど目立つ代物だ。たとえ自分が通報しなくとも、他の誰かがするだろう。
そう思って、その夜は深く考えずに寝た。
翌朝のことだ。
Mさんは、昨夜の牛のことが気になって、ネット上で
何しろ住宅街に牛が現れたという珍事だ。絶対に話題になっていると思ったのだが――。
……しかしネット上のどこにも、そんなニュースはない。
有名どころのSNSにもいくつか目を通したが、やはり、該当する話題などない。
だとすると――結局あの牛は、誰にも見つからないまま、どこかへ去ったのだろうか。
何だかしっくり来ない話だ、と思いながら、Mさんはその日も仕事に出た。
……ところが駅へ向かう途中、例の四つ角に差しかかったところで、またも足を止めることになった。
牛がいたわけではない。
ただ、青いビニールシートが、路上の一角を隠すように張り巡らされている。
よくテレビのニュースや刑事ドラマで出てくる光景だ。周囲には、警察の車両も停まっている。
気になって、その辺にいた野次馬に話を聞いてみると、どうやら昨夜遅くに、仕事帰りの男性がこの場所で暴漢に襲われたらしい――と分かった。
犯人は近くに住む、被害者とは面識のない男だという。そちらはすでに捕まったが、被害者の方は重傷だそうだ。
とんでもない事件である。しかしこの話を聞いて、Mさんは思わずキョトンとした。
――牛は関係ないのか。
真っ先に頭をよぎったのは、そんな感想だった。
何とも言えない想いを抱いたまま、Mさんはその場を後にした。
この事件は、とりあえずここで終わった。
Mさんが再び「牛」を見たのは、それから数箇月後のことだ。
場所は、会社の最寄り駅の前にある、大きな交差点だった。
夕方、会社を出て駅へ向かっていたMさんは、ちょうど彼方にその交差点が見えた途端、思わず息を呑んだ。
雑踏の中、横断歩道の端に――。
……牛がいた。
黒い巨体をアスファルトに落とし、腹這いになって、またこちらをじっと見つめていた。
だが周囲の人々は、ごく普通に歩くばかりで、誰も牛に反応しようとしない。
――あの牛は、自分にしか見えていないのだ。
Mさんはそれに気づくや、とてつもない不安に駆られた。
このまま交差点へ向かうのが恐ろしくなり、すぐさま回れ右をして、急いでその場を離れた。
それから近くの喫茶店に入り、コーヒーを飲んで気を落ち着かせた。そして、一時間ほどして外へ出て、もう一度駅へ向かった。
すでに交差点に、牛の姿はなかった。
……代わりに、救急車とパトカーが何台も停まっていた。
それと破損したトラックが一台、歩道に乗り上げているのが見えた。
Mさんは、思わず立ち尽くした。
詳しいことは分からないが――何かとんでもない事故があったのは、確かだ。
もしさっき自分が、あのまま交差点に向かっていたら、どうなっていたか……。
Mさんはそれを思い、心底からゾッとしたという。
Mさんが得体の知れない牛を見たのは、今のところ、この二度だけである。
牛は、Mさんに危険を報せていたのか。
それとも――ここに来い、と誘っていたのか。
……Mさんは、後者だと考えている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます