第百三十二話 廃屋の少女
Nさんという女性が、まだ中学生だった頃の話だ。
ある夏休みの夜。Nさんは、ふとしたことから父親と口論になり、家を飛び出した。
家出――と呼ぶほど大層なものではないが、自分なりの抗議のため、一晩は帰らないつもりでいた。
ただ、問題は行き先だ。勢いで飛び出したため、まったく考えていなかったのである。
とりあえず携帯電話で、片っ端から女子友達にメールを送ってみた。しかし、どこも家族の目があるからと、泊めてくれそうにない。
駅前に行けば、二十四時間営業のカラオケ店があるが、さすがに中学生一人では、利用を断られるに違いない。
それに、繁華街では警察の目も多い。一晩きりの家出で補導されるのはごめんだ。
Nさんは少し思案し、それから同じクラスのA君という男子に、相談のメールを送った。
A君は交際相手……というわけではないが、普段から何かと仲がよく、二人で遊ぶことも多い。ただ、さすがに男子相手に泊めてくれというわけにもいかないから、あくまで「相談」である。
返事はすぐに来た。『徹夜でよければ付き合う』とのことだったので、さっそく近くの公園で落ち合うことにした。
だが、いざ待ち合わせ場所に着いてみると、A君の姿がない。
早かったかなと思いながら、しばらく待ったが、やはりなかなか現れない。
向こうも家を出る口実が必要なのかもしれない――。Nさんがそう思っていると、不意に空が光り、ゴロゴロと低い唸りを上げ始めた。
雷だ。嫌な予感がして空を仰ぐ。同時に案の定、ポツポツと雨が降り始めた。
Nさんは顔をしかめた。一応家を飛び出す際に、必要そうなものを小さなリュックに入れて持ってきたが、あいにく雨具までは入っていない。
とりあえず木陰に移る。だが、雨脚は次第に激しくなりつつある。枝の隙間から容赦なく雨粒が落ち、着ているシャツやショートパンツに染み込んでくるのが分かる。
「最悪……」
呟きながら、雨宿りできそうな場所を求めて、辺りを見回す。
……と、すぐに一箇所、目に留まった。
公園近くの裏道にひっそりと佇むそれは、元は何かの倉庫だったらしい。しかし今は打ち捨てられて、地元の中学生の溜まり場になっていると聞く。
確かA君も、何度か出入りしていると言っていたはずだ――。Nさんはそれを思い出し、元倉庫である廃屋へと向かった。
着く頃には、髪から靴の中に至るまで、すっかり全身がぐしょ濡れになっていた。
倉庫は、正面のシャッターこそ閉ざされていたが、裏口のドアに鍵はかかっていなかった。Nさんはさっそく中を覗いてみた。
……灯りはない。人の気配もない。溜まり場といっても、常に誰かがいるわけではないようだ。
Nさんはドアを開け放ったまま、数歩だけ中に踏み込んだ。雨宿りだけなら、ここで充分だ。
持ってきたタオルで顔や腕を拭き、それからA君の携帯電話に、『近くの例の倉庫で雨宿りしてる』とメールを送った。これで、あとは彼が来るのを待つばかりである。
ようやく人心地ついた。Nさんは改めて、倉庫の奥に目を向けてみた。
――暗い。当然ながら、まともに視界に映るものは、ほとんどない。
ただ、天井近くの窓から差し込む薄い夜灯りのおかげで、古びた台車や朽ちた木箱の山がそこかしこにあるのは、何となく分かる。
長い間放置されているからだろうか。
しかしそれよりも気になるのは、気温だ。広さがあるせいか、屋内だというのに、妙に肌寒い。おかげで、濡れたシャツ越しに、冷気がじわじわと染み込んでくる。
着替えたいな、とNさんは思った。一応夏場で汗をかくだろうからと、替えのシャツはリュックに用意してある。
携帯電話を操作し、ライトが点くことを確かめる。それから念のため、入り口のドアを閉めた。
薄暗い中、小さなライトが、頼りなさげに足元の床を照らす。
この灯りだけで着替えるのは至難の業だ。しかし、さすがに倉庫内の電気は生きていないだろうから、これで行くしかない。
ドアの内側のノブに、携帯電話のストラップを引っかけ、簡単な照明にする。そしてリュックを探り、替えのシャツを引っ張り出そうとしたところで――。
……ふと、足音が聞こえた気がした。
外からではない。倉庫の中だ。
とっさに耳を澄ませる。
パタパタパタ……と、屋根を叩く雨音が鳴り続けている。
時折、雷鳴が轟く。
だが確かに、それらに交じって、タン、タン、と誰かの足が床を刻むのが聞こえる。
Nさんは一度着替えの手を止め、携帯電話を持ち直した。
――誰かいるのだろうか。
用心しながら、周囲の様子を探る。
次第に目が慣れてきたからだろう。最初は見えなかった倉庫内の構造が、朧げに分かる。
……奥に、鉄骨で組まれた階段がある。正面をこちらに向ける形で、まっすぐ上に延びている。
見上げると、これまた鉄骨と金網で組まれた後付けの中二階が、倉庫の天井付近に広がっているのが分かった。
足音は――どうやら、その中二階から聞こえている。
外に出た方がいいかも、とNさんはとっさに思った。
しかし、ドアノブに手をかけようとした時だ。
不意に空が
その一瞬――足音の主の姿が、はっきりと見て取れた。
……少女だ。
歳は、自分と同じ中学生ぐらいだろう。服装もほぼ同じ、シャツとショートパンツという姿で、階段の天辺に佇んでいる。
髪は長い。顔は――遠目には、整っているように見えた。
光が消え、闇が戻る。一瞬目に焼きついた少女の姿は、再び暗がりに溶け込み、それから
と、その雷鳴に合わせて、突然――。
タンタンタンタンタンタン!
階段が、激しく踏み鳴らされた。
ハッとしてライトを向けると、少女が猛然と駆け下りてくるところだった。
ぐるりと目を剥き、鬼気迫る凄まじい形相で、まっすぐこちらに。
「きゃっ!」
Nさんは思わず悲鳴を上げ、後退った。
背中がドアに当たる。少女はすでに一階のフロアに降り立ち、こちらに近づきつつある。
腕を伸ばし、両の手を開き、Nさんにつかみかからんばかりに、向かってくる。
Nさんはもう一度悲鳴を上げ、その場に
だが、少女が今まさに、Nさんに触れようとしたところで――。
……フッ、と姿が消えた。
まるで、テレビの映像が不意に途切れたかのように、一瞬で闇が戻った。
Nさんは、恐る恐る辺りを見回した。
少女の姿は、どこにもない。
足音もしない。聞こえるは、ただ雷雨の響きだけだ。
今のは――何だ。
頭の中で自問する。しかし実際のところ、答えは分かっている気がした。
――幽霊か。
素直にそう思った。他に思い様がなかった。
ゆっくりと立ち上がる。寒気と
早く逃げよう――。
もう雨宿りどころではない。急いでここから出ようと、ドアノブをつかんだ。
だが――今度はそのドアノブが、なぜか動かない。
「え、ちょっと、何で?」
思わず呟いた声が、すでに涙交じりになっているのが、自分でも分かる。
しかしどんなに力を込めても、ドアノブはガタガタと無意味な音を立てるばかりで、一向に回ろうとしない。
何かの弾みで鍵がかかったのか。それとも、何らかの悪意か。
Nさんは焦って、内側からドアを叩いた。
頑丈な金属音だけが、虚しく響く。叩くのをやめて体ごとぶつかってみたが、結果は変わらなかった。
荒い息をつき、立ち尽くす。そこでようやく、手に携帯電話があることを思い出した。
すぐさまA君に、『倉庫に閉じ込められた』とメールを送った。
……送り終えたところで、バッテリーが切れた。
「最悪……」
涙声で呟いた。今度こそ、本当の「最悪」だった。
一応先程のメールで、自分がこの倉庫にいることはA君に伝えてある。だから、助けが来るのは時間の問題のはずだ。
しかしそれまでの間、どれほど心細い思いで待てばいいのだろう。
Nさんは途方に暮れながら、冷えた己の体を掻き
雨の鳴る音が続いている。
時折空が轟く。
――帰りたい。
Nさんが、そう思った時だ。
タン、と階段で音が鳴った。
タン、タン、と、続けて鳴る。
ハッとして見ると、またあの少女が階段を下りてくるところだった。
「ひっ」
喉から息が漏れる。Nさんがドアに背を付けると同時に、少女が階段を駆け下り出した。
タンタンタンタンタンタン! と鉄骨が荒れた音を立てる。
少女が凄まじい勢いで迫ってくる。
刹那、窓の外で空が光った。
ぐるりと剥いた目。裂けんばかりに開かれた口。そのいずれもが、赤黒い色で縁取られている。
少女は頭から、
最初に見た時には無かった血だ。
Nさんは恐怖のあまり、その場に尻餅をついた。
少女はそんなNさんに向かって、手を伸ばしながら迫り――。
……触れようとしたところで、またフッと消えた。
胸の鼓動が激しくなっているのが、自分でも分かった。
肌が冷や汗にまみれている。それでも気を落ち着かせようと深呼吸すると、埃と焼け焦げた臭いが喉を刺激し、激しく
思わずえずきそうなほどの咳を終えた後、Nさんはふらふらと立ち上がった。
ドアは、相変わらず開かない。
だったら窓から出られないか、と見上げる。いずれも高い位置にあるが、中二階に上がれば届くかもしれない。
しかし――中二階に行くためには、あの階段を上らなければならない。
Nさんは少しの間悩み、それからおずおずと、倉庫の奥に向かって足を踏み出した。
暗がりの中、一歩歩くごとに埃が舞う。靴の先に何かが当たる。
階段は近い。見上げる。
同時に
……また、あの少女がこちらを見下ろしていた。
今度はシャツまでが、鮮血に染まっている。
Nさんが固まると同時に、少女が階段を下り始めた。
ゆっくりと。そして次第に速く。激しく。
Nさんは逃げ出した。
少女が追ってくる。
タンタンタンタン! と足音が背後に迫る。
――追いつかれる。
Nさんがそう覚悟した時だ。
少女が、追い越した。
Nさんの横をすり抜け、凄まじい形相で、ドアへと向かっていく。
そして、ドアノブに手を伸ばそうとしたところで――またフッと消えた。
……そこでNさんは、ようやく気づいた。
あの少女は、自分に迫っていたのではない。
倉庫の入り口に向かっていたのだ。
そして、ドアに近づいたところで、必ず消えてしまう――。おそらく、そういう動きを繰り返しているのだろう。
Nさんは、荒れる呼吸をどうにか抑え、ドアから離れた位置へと移った。
積まれた台車の陰に身を隠す。暗がりの中でも、階段からドアまでの様子が、朧げに窺える。
――ここにいれば大丈夫なはずだ。
そう思いながら、階段の上を見た。
……少女が、また現れた。
雷光が閃く中、今度は全身が血に染まっているのが分かった。
顔も、手も、足も、すべてが赤に濡れている。
思わず目を背けたくなるような姿で、しかし少女はやはり階段を駆け下り、ドアに向かって手を伸ばす。
そして、フッ、と消えた。
Nさんは――今一度、ゾクリと身を震わせた。
心なしか、寒気が増している気がする。
……A君は、まだ来てくれないのだろうか。
……そもそも最後のメールは、無事届いただろうか。
電源の入らない携帯電話を見つめ、Nさんはキュッと唇を噛み締めた。
同時に空が閃いた。
またも段上に、少女が立った。
……見れば少女には、首が無かった。
欠損した体で、彼女は階段を下り始めた。
タン、タン。
タン、タン。
タンタンタンタン!
ガン! ガン! ガン!
さっきまでは聞こえなかった異音が、足音に続く。
走る少女の足元を、何かが追うように、一緒に転がり落ちているのが分かる。
――首だ。
Nさんが見守る中、少女は己の首とともにドアに向かい――。
やはり、フッ、と消えた。
もうこれ以上観察する勇気はなかった。
Nさんは、新たに身を隠す場所を求めて、さらに離れた場所へと移った。
積まれた箱の陰へ。ここからだと、もうドアは見えない。
視線を上に向ける。辛うじて、中二階の様子は分かる。
そこに、首と両腕の無い少女が佇んだ。
見たくないと思い、Nさんは目をギュッと閉じた。
タンタンタンタン!
ガン! ガン! ガン!
音が階段を駆け下り、ドアに向かい、そして消えた。
……少し間を置いて、次の音が響いた。
ガン! ガン! ガン! と――。
もはや足音と呼べるものが無かったのは、やはり次の欠損が起きたからか。
だが、確かめる勇気はない。Nさんはただ物陰で蹲り、息を殺して、すべてが終わるのを待つことしかできなかった。
自分は今、何に遭っているのだろう――。
ひたすらに、それを考えながら。
……新たな異変を覚えたのは、その時だ。
キィン、と刺すような冷たさが、不意に全身を襲った。
同時に、焼け焦げたような臭いが、一段と強まる。
ガン! ガン! ガン!
また、少女が階段を駆け下りる音が響く。
しかし今度は、それだけではない。
……ゴォン。
……ゴォン。
何か別の音が――。
低く重々しい、まったく別の音が――。
少女を追って、後に続くのが分かった。
二つの音は階段を下り、もつれ合うようにして、ドアに向かう。
そして。
「あぁぁぁぁぁぁ」
まるで断末魔のような、とてつもない悲鳴が、倉庫内の空気を震わせた。
それは、Nさんが初めて耳にした、少女の声だった。
Nさんは、静かに意識を失った。
……それから、どれほどの時間が経っただろうか。
目を覚ますと雨音はなく、窓からは朝の光が差し込んでいた。
夏特有の蒸すような空気で、肌が温まっているのを感じる。昨夜の寒気は何だったのか、と思いながら、ゆっくりと手足を
自分の体に異常がないことを確かめてから、Nさんは、そっと立ち上がった。
少女の姿はどこにもない。
ドアへ向かう。恐る恐るノブを回すと、あっさりと開いた。
外には誰もいなかった。
ちょうど通りかかった近所の人が驚いて話しかけてくるまで、その場で泣き続けた。
その後警察に保護されたNさんは、無事家に帰ることができた。
両親からはあれこれ言われたが、今は叱られることが、不思議と苦にならなかった。
昨夜の恐怖体験は、後でA君にだけ話した。
ただ――そこで分かったことが、いくつかある。
一つは、Nさんが侵入した倉庫だ。
あそこは、地元の中学生が溜まり場にしている倉庫とは、まったく別だったらしい。
つまりNさんが勘違いしていたわけだ。一方でA君は、そうとは気づかずに正しい方の倉庫に行ってしまい、結局Nさんを迎えには来られなかったという。
また、それとは別にもう一つ、こんなことも分かった。
……あの倉庫では、過去に一人の少女が失踪しているというのだ。
その少女は、Nさんと同じように家出をし、その後突然の雨に降られて、倉庫に駆け込んだという。
彼女が中に入る様子は、近所の人が目撃していた。これは、近くの防犯カメラにも映像が残っていたから、間違いない。
だが不可解なのは、ここからだ。
捜索願を受けた警察が防犯カメラの映像を追った限り、少女がその後倉庫から出てきた様子は、まったくなかった。
裏口はもちろん、正面のシャッターや窓からの出入りもなく、少女を連れ出せそうな別の人物が後から訪れた形跡もない。
にもかかわらず――倉庫の中には、誰もいなかったという。
つまり、少女は倉庫の中で、忽然と消え失せてしまったことになる。
……結局捜査の甲斐もなく、少女は見つからないまま、事件は迷宮入りとなった。
Nさんが見たのは、その失踪した少女の幽霊だったのかもしれない。
――中二階から駆け下り、ドアへ向かい、消える。
彼女は、倉庫から外へ逃げ出そうとしていたのだろうか。
全身を血に染め、バラバラになりながら。しかし何かに追われ、捕まり、絶叫し――。
……少女が見せたあの一連の「再現」は、何を表していたのだろう。
何を、Nさんに訴えかけていたのだろう。
考えても、分からなかった。
ただ一方で、Nさんは過去の事件を知って、ふとこんな錯覚を抱いてしまったという。
――もしあの時、自分が物陰に隠れていなかったら。
――あるいは、窓から逃げようと中二階に上がっていたら。
――自分も、あの少女と同じ運命を辿っていたのではないか。
もちろん、あくまで錯覚である。
ただそんな気がしてならない、というだけの話だ。……あくまで。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます