第百三十話 おててつないで

 I県で漁業を営んでいるEさんが、まだ新米だった頃に体験した話だ。

 夜間に船を出していた時のことである。

 波の静かな夜だった。

 海上に船を停め、集魚灯を点けて魚をおびき寄せていると、不意に先輩の一人が「灯りを消せ!」と叫んだ。

 わけも分からぬまま、集魚灯を消した。

 つい今まで真昼のように明るかった周囲が、瞬く間に夜へと引き戻される。その中で、船に据えつけられているライトだけが、わずかに光のしるべを残す。

 すべての灯を消さなかったのは、夜間航行のルールを順守してのことか。

 だが少なくとも、その場で事情を問いただせる雰囲気ではなかった。

「……音を立てるな」

 先輩に静かに言われ、Eさんはおとなしく頷いた。

 全員が息を殺していた。

 やがて――船の真正面に、が現れたのが分かった。

 わずかなライトが、その姿をはっきりと捉えた。

 ……子供だった。

 小さな幼い男の子が、ニコニコと笑いながら、船の真正面を――黒い海の上を、よちよちと歩いている。

 しかも、一人ではない。

 その子に手を繋がれて、後に別の子が続いている。

 そちらは、女の子だ。

 やはりニコニコと笑い、男の子に手を引かれて、同じようによちよちと歩く。

 もう片方の手が、後ろに伸びている。さらに別の子の手を繋いでいるのだ。

 次はまた、男の子だった。

 先頭の男の子と、まったく同じ顔をしていた。

 その男の子もまたニコニコと笑い、女の子に手を引かれながら、もう片方の手で、まったく同じ顔の女の子の手を引いていた。

「…………」

 Eさんは全身を汗で濡らしながら、その異様な光景を、黙って見つめ続けた。

 手と手を繋いで連なった子供達は、ただニコニコと笑いながら、ゆっくりと船の前を横切っていく。

 光の途切れた闇の中から現れ、わずかなライトを浴びて歩き、また闇の中へと消えていく。

 しかも、いつ果てるとも知れない。

 男の子と女の子は、交互に、どこまでも連なっていた。

 船は動かず、ただ時間だけが過ぎていった。


 それから――何時間が経っただろうか。

 最後の一人が、光の中を横切っていくのが見えた。

 もう後ろに、子供はいなかった。

 Eさんがそれを見止めた刹那――不意に船のエンジンが動いた。

「逃げるぞ!」

 先輩が叫んだ。

 船が揺れ、一気に前へと飛び出した。

 無限にも思えた悪夢のような時間から、Eさんを乗せた船は、ようやく抜け出したのだ。

「大丈夫だったか?」

 先輩に尋ねられ、Eさんは頷いた。

「最後に変なもの、見なかったか?」

「変なものって何すか?」

「……見なかったなら、大丈夫だ」

 先輩はそれ以上は、何も言わなかった。


 先輩の言葉の意味をEさんが知ったのは、それから一週間後のことだ。

 あの夜、同じ船に乗っていた乗組員の一人が、海に落ちて亡くなった――との報せが入った。

 先輩と一緒に葬儀に出たEさんは、先輩から、こう囁かれたという。

「あいつは、見ちまったんだろうな。一番最後の子供が、ところを……。おい、Eは本当に、何も見てないよな?」

 そう尋ねられ、Eさんは何度も「見てません!」と、繰り返し答えたそうだ。

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