第百八十三話 どこかで鳴る

 N県に在住の、主婦のIさんから聞いた話だ。

 もう五年以上も前に、Iさん夫婦が、中古のマンションを購入して引っ越した時のことである。

 土曜の昼間に荷物の移動を終え、午後からは片付けと、隣近所への挨拶回りに追われた。その疲れもあって、夜には二人とも早々に寝室に移り、ベッドに入ったのだが――。

 眠っている最中、隣で寝ているはずのご主人に不意に体を揺すられて、Iさんは目を覚ました。

 重たい目蓋を瞬かせて、枕元のデジタル時計を睨むと、午前一時を少し回ったところである。

「どうしたの?」

 Iさんが尋ねると、ご主人は隣で身を起こしたまま、小声で答えた。

「何か……変な音がしない?」

 言われて耳を澄ませる。……と、確かにどこか遠くで、ご主人の言う「変な音」が鳴るのが分かった。

 ……チィーン。

 まるで金属を打つような――という回りくどい喩えは、不要だった。

 どう聞いても、仏壇のの音だ。

「ほらこれ。さっきから数分置きに鳴ってるんだよ」

 ご主人が、顔をしかめて言った。

 Iさんは「ふうん」と気のない相槌を打ち、もう一度耳を澄ませる。

 ……チィーン。

 また鳴った。

 と言っても、音は微かなものだ。

 そもそもこの家に、仏壇はない。おそらく隣の家で鳴らしているものが、壁越しに響いてきているだけだろう。

「べつに、気にするほどうるさくないじゃん」

 無理やり起こされたこともあって、半ば不機嫌に、Iさんは言い返した。

「いやでも、こんな時間だよ?」

「寝ちゃえば気にならないってば」

「寝られないってば。気になって」

 何となく言い合いになりかける。と、それをいさめるかのように、また――。

 ……チィーン。

 鳴る。

 二人は口を噤み、揃って軽く溜め息をついた。

 ご主人はベッドから下りると、「トイレ」と呟き、寝室を出ていった。

 ――まったく、新居に移って早々に喧嘩だなんて。

 Iさんは不満半分、反省半分で、改めて横になった。

 ……チィーン。

 また、りんが鳴った。いつまで鳴らしているのだろう。

 ぼんやりとそう思いながら、何度かりんの音を聞き流していると、ご主人が足早に戻ってきた。

「寝よう」

 どこかそわそわとした落ち着かない様子で、ご主人は言った。

 もちろんそのつもりだ。Iさんは、さっさと目を閉じた。

 直後、ガチャッ、と鳴ったのは、ご主人が寝室のドアの鍵をかけたからだろう。

 どうしてわざわざそんなことをするのかな、と思いながら、Iさんは眠りに落ちていった。

 ……チィーン。

 相変わらず止まない、りんの音を聞きながら。


 Iさんが、ご主人からおかしなことを聞かされたのは、翌朝のことだ。

 朝食後、今日の買い出しの内容をメモにまとめていると、突然神妙な顔で、ご主人がこう切り出した。

「あのさ、昨日の夜中に俺、トイレに行ったじゃん」

「うん」

「その時気づいたんだけど……」

「何?」

「あの、チィーン……って音」

「うん」

「……うちの中で鳴ってた」

 その言葉の意味をIさんが理解するのに、数秒ほどかかった。

 それから思わず顔を上げ、耳を澄ませた。

 ……変な音は聞こえない。

 朝の陽射しが差し込むリビングは、外のありふれた喧騒が、ささやかに流れるのみである。

 しかしご主人の顔は、目に見えて青ざめていた。


 ご主人の言うには、こうだ。

 昨夜、寝室を出てトイレに向かう途中で、チィーン……と、またりんが鳴った。

 寝室で聞いていた時よりも、だいぶはっきりしている。

 いったいどこで鳴らしているんだろう、と思いながらトイレで用を足し、廊下に戻る。そこでもう一度、チィーン……と聞こえたところで――。

 ふと、疑問に思った。

 ……もし、よその部屋の音が壁越しに伝わっているのだとしたら、この音以外にも、いろいろな生活音が響いてこないとおかしい。

 しかし、日中や夕方はどうだったか。

 夜はどうだったか。

 隣近所の音が気になるようなことが、一度でもあったか。

 そもそも夜中とは言え、大音量とは思えない仏壇のりんの音が、なぜ壁越しにここまではっきりと響いてくるのか。

 ……何となく嫌な感じがして、ご主人は廊下の真ん中で、足を止めた。

 奥に目を凝らす。灯りの消えた真っ暗なリビングと、それに隣接する和室が、ぼんやりと視界に浮かぶ。

 ……チィーン。

 また、鳴った。

 はっきりと聞こえる。

 ――

 途端に、それに気づいた。

 同時に、ゾクリ、と背筋を悪寒が走った。

 ご主人は慌てて寝室に戻ったが、とりあえずIさんが怖がらないように、朝を待ってから打ち明けようと考えた。それで、念のため寝室の内側から鍵をかけ、とにかく眠ることに努めた――というわけだ。


 話を聞き終えたIさんは、半信半疑で、リビングと和室を見回した。

 特に音の出そうなものは、ない。

 強いて言えば、リビングにテレビが置いてあるぐらいだが、寝ている間は、当然スイッチを切ってある。

「勘違いじゃないの?」

 Iさんは笑ってそう言ったが、しかしご主人は、頑なに首を横に振るばかりである。。

 とにかく、間違いなくうちの中で鳴っていた――。その一点張りだ。

 Iさんは仕方なく、ご主人と二人で、家の中を調べてみることにした。

 リビングと和室を中心に、仏壇のりん――あるいはそれに似た音が鳴りそうなものを、探していく。だがやはり、それらしきものは、どこにも見当たらない。

「どこかにおふだか何か、貼ってない?」

 ご主人が怯えてそんなことを言い出した。どうやら、完全に怪奇現象だと信じているようだ。

「ないよ、そんなもの、どこにも」

 Iさんは、和室の押し入れの中まで覗きながら、呆れて答えた。

「その布団をどかしたら、実は奥の壁に……とか」

「ないってば。そんなものがあったら、布団をしまう時に気づくでしょ」

 とにかく――ないものはないのだ。

「ねえ、もうこれぐらいにしとこうよ。まだ片付けも終わってないんだしさ。また今夜変な音がしたら、その時考えよう。ね?」

 Iさんがそう言うと、ご主人も渋々ながら、ようやく頷いた。

 日中は、この話題はそれっきりで終わった。


 その夜のことだ。

 日付を跨いで、午前零時をだいぶ過ぎた頃である。

 Iさん夫婦が寝室のベッドで横になっていると、不意に――。

 ……チィーン。

 りんの音がした。

 隣でご主人が、そっと身を起こす。Iさんも続いて、頭をもたげた。

「……まただね」

 二人で小さく視線を交わし、耳を澄ます。

 ……チィーン。

 やはり、聞こえる。

 ご主人がベッドを出て、恐る恐るドアの方に向かう。Iさんも、後を付いていく。

 ドアを開けると、灯りの消えた真っ暗な廊下が、目の前に現れた。

 ……チィーン。

 はっきりと、聞こえた。

「……ほら、うちだよね?」

「……みたいだね」

 わずかに躊躇ちゅうちょした後、Iさんは頷いた。

 確かに――実際に聞いてみると、うちで鳴っているとしか思えない。

 二人はゆっくりと、リビングに向かって歩き出した。

 ……チィーン。

 音が、近くなる。

 リビングに踏み込み、灯りを点ける。しかし、何も怪しいものはない。

 ……チィーン。

「和室かな」

 耳を済ませながら、Iさんは小声で呟いた。

 ご主人が頷き、隣接する畳敷きの部屋を覗く。

 だがやはり、怪しいものは見当たらない。

 ……チィーン。

 音は、まだ鳴り続けている。

 あとは――見ていない場所は、押し入れだけだ。

 ご主人が、緊張した面持ちで、押し入れに近づいていく。

 そして、閉ざされたふすま越しに、耳を押し当て――。

 ……チィーン。

 鳴った瞬間、ご主人が、さっと飛び退いた。

「……この中だ!」

 泣きそうな顔で、こちらを見た。

 Iさんは臆さず、すぐさま押し入れの前に歩み寄ると、ご主人を押し退け、サッと襖を開いた。

 ……何もなかった。

 ただ朝に見た時と同じく、布団や衣装ケースが詰め込まれているだけである。

 何となく拍子抜けして、二人は顔を見合わせた。

 音は、もう止んでいた。


 それから二人は、押し入れの中をきちんと調べてみた。

 しまってあったものをすべて引っ張り出し、懐中電灯で中を照らす。しかし、板張りの壁や天井に、おかしなものは何一つ見られない。

 お札はもちろん、妙な染みや血の跡などもない。いや、そんなものがあれば、マンションを購入する前の下見の段階で、気づいていたはずだ。

 それとも――どこかに盲点があるのか。

 そう考えた刹那、Iさんは、「あっ」と小さく叫んだ。

 ……一つ、思い浮かんだのだ。

 押し入れの中で、普通ならばまず目に入らない部分――。

 さっそくそれを確かめるため、身を屈め、押し入れの中に入り込んでみた。

 そして振り向いたところで――。

「……うわ、あった! だ!」

 そう叫びながら、全身から嫌な汗が滲み出るのが、自分でも分かった。

 Iさんはすぐさま押し入れから出ると、ご主人に言って、襖を外してもらった。

 そして、裏返す。

 同時にご主人が悲鳴を上げた。

 ……襖の裏側に、赤いペンで、経文きょうもんがびっしりと書き殴られていた。


 翌日Iさんは、この部屋を扱っていた不動産屋に電話をして、襖の一件を話した。

 果たして怪奇現象のクレームなど相手にされるだろうか、と少し心配だったが、意外にもあっさりと、謝罪とともに襖代を出してもらえることになった。

 もっともこれは、あくまで襖のに気づかなかったことに対する謝罪だったのかもしれない。

 ともあれその後、押し入れの襖をすべて張り替えたところ、怪しい音はまったく聞こえなくなったという。

 しかし――それでも謎は残る。

 ……なぜ前の住人は、あんなところに経文を書いたのか。

 ……なぜそれを、残していったのか。

 ……そして結局、あの音は、だったのか。

 真相は、分からないままだ。

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