第百八十四話 モーニングコール
宿泊施設でお馴染みのサービスに、モーニングコールがある。
客が起床する時間を前もって決めておくと、施設側がその時間に電話で起こしてくれる――というもので、近年は、設定時刻になるとオートで自動音声電話がかかってくる、という形が主流だ。
しかし、かつてモーニングコールと言えば、宿の従業員が直接客の部屋に内線を入れる、というやり方が、当たり前だった。
この場合、客側があらかじめフロント等に「明日××時にモーニングコールをお願い」などと声をかけ、その時間に電話してもらうわけである。
今から思えばずいぶんとアナログな方法だが――これは、そんなアナログなモーニングコールが一般的だった頃の話だ。
もう三十年ほども前。Hさんという男性が一人旅でN県を訪れ、ある格安旅館に飛び込みで泊まった時のことだ。
案内された部屋は、何とも古めかしい空気が漂う和室だった。
畳は茶ばみ、壁は
それでも、所詮は一人きりの貧乏旅行だ。宿にありつけただけ良しとするべきだろう――。Hさんはそう思い、素直にその部屋で一夜を過ごすことにした。
食事と風呂を済ませ、読書で時間を潰し、
枕元に腕時計を置き、テレビに足を向け、布団に潜る。
布団は柔らかだったが、枕はどこかしっとりとしていた。しかし明かりを消すと、体が疲れていたのか、すぐ眠りに引き込まれた。
そして――夢を見た。
恐ろしい夢だった。
……しかし、具体的に何がどう恐ろしかったのかは、後になってみると一向に思い出せないのだ、という。
そもそも、夢の内容そのものも、
ただ記憶にあるのは、今寝ている和室の梁から何かが縄でぶら下がり、頻りに揺れていたということ。
その何かはよく見ると、縄でがんじがらめに縛られていて、結び目の周囲が痛々しく
そしてその何かが、ずっずっ、ずっずっ、と揺れながら縄を伸ばし、次第にHさんの布団に近づいてきていたこと。
それだけだ。
……しかし、そんなHさんの悪夢も、決して長くは続かなかった。
あともう少しで何かが布団に届く、と思った瞬間、突如けたたましい音が、Hさんの目を強引に覚まさせたからだ。
『――おはようございます。モーニングコールです』
思わず跳ね起きたHさんが、枕元にあった黒電話の受話器を取ると、そんな仲居と思しき女性の声が耳に流れてきた。
「……ああ」
モーニングコールを頼んだ覚えなどない。もしかしたら、他の客が頼んだのに、仲居が電話をかける部屋を間違えたのかもしれない。
とは言え、どのみち悪夢から救われたのは確かだ――。Hさんはそう思いながら、一つあくびをした。
外はまだ薄暗い。いったい何時だろう、と枕元に置いてあった腕時計を手に取る。
針は、午前四時を指している。
「ずいぶん早いな。何でこんな時間にモーニングコールなんか……」
いっそもう一度寝直そうか、と思い、Hさんは腕時計を枕元に戻した。
……そこで、ふと気づいた。
そう言えば――なぜ枕元に電話があるのだろう。
この部屋の電話は、テレビの隣に置いてあったはずではないか。
そう思って足側に目を向けると、確かにそこにはテレビと並んで、ひびの入った黒電話がある。
Hさんは、「あれ?」と、もう一度枕元を見た。
……あるのは、腕時計だけだった。
つい今しがたモーニングコールを鳴らした黒電話は、もう影も形もなかったということだ。
果たしてHさんが手にした黒電話は、どこから現れて、どこに消えたのか。
そしてあのモーニングコールは、誰から誰に向けて、かかってきたものだったのか――。
Hさんは三十年経った今でも、時折この出来事を思い出しては、不思議な気持ちになるそうだ。
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