第百七十六話 タトゥー

 知り合いのライターから聞いた話だ。

 彼の友人に、N先生という皮膚科の医師がいる。そのN先生のもとに、ある時、奇妙な患者が訪ねてきたという。

 患者は、若い男性だった。

 歳は二十代半ばで、覚えやすい特徴として、体のあちこちにタトゥーが入っている。

 おそらくその男性の趣味なのだろう。タトゥーはどれも、十字架を始めとした宗教的モチーフをデザイン化したもので、出来栄えもよく、まるで洗練されたアートのようにも見える。

 ただ――だからこそN先生は、すぐにと気づいた。

 いくつもあるタトゥーの中に、一つだけ、明らかに異質なものが混じっているのだ。

 それは、目立つ右手の甲に入っていた。

 ただの片仮名である。

 アキヨ――と書かれている。

「……これ、消してほしいんです」

 男性は、どこか抑揚に欠ける調子で、そう言った。

「この、『アキヨ』という名前の部分ですか?」

「……はい。名前に見えますか?」

「名前じゃないんですか?」

「……いや、名前だと思います。……元カノの」

 そう言って、男性は押し黙った。

 何だか奇妙な言い回しだな、と思いながら、N先生は改めて、「アキヨ」という文字を確かめた。

「この字は、いつ頃入れられたんですか?」

「……入れてません」

「はい?」

「……俺が入れたんじゃないんです。なんか一昨日、朝起きたら、突然これがあって」

 右手の甲を汗で湿らせながら、男性は答えた。

 そして、返答に困るN先生を無視して、自ら事情を語り始めた。

 ――一昨日の朝、目が覚めたら、手の甲にこの文字が入っていた。

 ――以前付き合っていた女の名前と同じものだ。

 ――当然、自分がこんなタトゥーを入れるはずがない。

 ――寝ている間に誰かに入れられたのかと思ったが、常識的に考えて、あり得ない。

 ――とにかく気味が悪いから、消してほしい。

 この話をどこまで信じればいいのか、N先生は迷った。

 眠っている間に、前の恋人の名前が、タトゥーとなって現れる――。これではまるで、出来の悪いホラーだ。

 ……あるいは、この男性が寝ている間に誰かがペンで落書きした、ということであれば納得できる。

 だが、この「アキヨ」という文字は、見る限り、間違いなく皮膚に彫り込まれたものだ。

 本人が気づかぬ間にタトゥーを入れることなど、果たして可能なのか。

 もちろん麻酔の類を使えば、決して不可能ではないだろうが――。しかし、不可能でなければいい、というものではない。そもそも不自然すぎる。

 逆に自然なのは、この男性がいい加減なことを言っている、と見なすことだ。

 何しろ、この件は明らかに、男女の問題が絡んでいる。他人には誤魔化したいようながあっても、おかしくはない。

 まあ何にしても――それを詮索せんさくするのは、医者の役目ではないだろう。

 N先生はそう思い直した。

 事実、ここに「消してほしい」と言われたタトゥーがある。ならば自分の役目は、あくまでこれを消すことだ。

 続いてN先生は男性に、今後どのような医療的措置を施すかを、リスクも含めて具体的に説明した。その上で、墨を除去することはできても、傷そのものがきれいに消えるわけではない、ということも伝えた。

「構わないんで、消して下さい」

 男性の意志は変わらなかった。


 その後、何度かの治療によって、男性の手の甲にあった墨は、きれいに消え去った。

 すでに「アキヨ」という文字が読み取れることはない。残った傷痕も、白いまだらのようなものがうっすら見える程度で、よほどきちんと観察しなければ、そこにタトゥーがあったとは分からない。

 まさに、まったく問題のない仕上がりだった。

 ……なのに、だ。


 後日、その男性が再びN先生のもとを訪ねてきたという。

「あの、こないだの痕なんですけど」

 そう言って男性が見せた右手の甲には、くっきりと、赤い斑模様が浮かんでいた。

 ……まるで、女の顔のように見えた。

 ……髪を振り乱し、今にも呪いの言葉を吐きそうな。

「これ、明らかにアキヨなんですけど……。やっぱりおはらいとかした方がいいんですかね?」

 急に「やっぱりお祓い」と言われても、そのアキヨさんの事情を知らないのだから、助言のしようもない。

 とりあえず皮膚炎に効く薬を処方し、経過観察してください、とだけ言って帰ってもらった。

 その後、この男性が訪ねてきたことは、まだないそうだ。

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