第百七十七話 書くな

 ライターのAさんから聞いた話だ。

 Aさんは以前、実録犯罪の本を出したことがある。

 過去に起きた犯罪事件の中から、興味深いものを集め、一冊にまとめた本だ。Aさん自身は硬派なものを目指したつもりだったが、出版社側としては、娯楽優先の通俗的な本にしたかったらしい。おかげで、タイトルやキャッチコピーをずいぶんと扇情的なものにされてしまった――と、Aさんが零していたのを覚えている。

 それはともかく、その本を出す過程で、少しがあったそうだ。


 問題の本は、扱うテーマごとに、複数の章に分かれていた。

 そのうちの、「殺人の章」――その名のとおり、殺人事件を題材にした章――を書いた直後のことだ。

 書き上がった部分をメールで担当編集者に送り、次の章の執筆に取りかかっていると、先方からこんな返事が返ってきた。

『先ほど送っていただいた章ですが、予定していたページ数より少ないので、もう一つぐらい扱う事件を増やしていただけないでしょうか』

 ……Aさんは首を傾げた。

 というのも、彼はきちんとページ数を計算した上で、章を書き上げたはずだったからだ。

 とはいえ――いつ何時でも、ミスは起きるものだ。もしかしたら、うっかり計算違いをしたのかもしれない。

 そう思ってAさんは、メールで送った「殺人の章」を、見返してみた。

 ……確かに、ページ数が足りない。

 それも、一ページや二ページどころではない。まるで、章内の数ページ分がごっそり抜け落ちているかのようだ。

 変に思い、じっくりと検めてみた。

 そして――気づいた。

 中の一節が、丸ごと消えているのだ。

 ……それは、昭和の時代にK府で起きた、とある殺人事件を扱った箇所だった。

 府内在住の女子大学生が、自宅の浴室で殺害されたという事件で、犯人は捕まっていない。Aさんは、その犯人の足取りを少しでもつかむべく、入念に取材を重ね、いざ文章にまとめたはずなのだが――。

 ……その事件が、ない。

 どこにも。きれいさっぱり。

 ――冗談じゃない! せっかく書いたのに!

 Aさんは慌てながらも、念のため、取っておいたバックアップファイルを確かめてみた。

 まさかこちらも消えているんじゃ――と、ビクビクしながらファイルを開いたが、幸い、それは杞憂に終わった。

 きちんと、存在していた。K府の事件をまとめた一節が。

 Aさんはホッとして、抜け落ちのない「殺人の章」を、改めて担当に送った。

 ……ところが、だ。

『Aさん、やっぱり足りないですよ、ページ数』

 今度は電話で直接、そんな返事が返ってきた。

「いや、そんなはずは……。ちなみに、今何ページですか?」

『××ページです。というかこれ、午前中にいただいた原稿と、まったく同じじゃないですか?』

「…………」

 どういうことなのか。Aさんは首を傾げた。

「K府の女子大生殺害事件が、追加で入ってませんか?」

『K府の事件、ですか? ……いや、それは入ってないみたいですけど……』

 今度は、担当編集者の困惑した声が、戻ってきた。

 Aさんは事情を説明し、「問題の一節だけを送り直すから、それを原稿内に入れてください」と頼んで、一度電話を切った。

 続いて、バックアップの中から例の箇所を抜き出し、独立したテキストファイルにまとめる。それをメールで送ったところ――。

『すみません。いただいたメール、何も添付されていませんよ?』

 担当編集者からの返事は、やはり不可解なものであった。

 どうやら――何度やっても同じらしい。

 問題の殺人事件を扱った文章だけが、担当の手元に届く前に、消えてしまうのだ。

 文書作成ソフトか、あるいはメールの不具合か。……いや、他の文書に関しては、何も問題が起きていないのだ。不具合の線は薄い。

 だとすると――。

 ……もっと違う、が働いている、ということだろうか。

 正直、深く考えても、分からなかった。

 ただ、とにかく嫌な感じだけが、ずっと心に付きまとっていた。

 Aさんは――仕方なく、代替用の原稿を用意することにした。

 ちょうど、別の似たような事件を取材していたので、それを題材にして一節書き、メールで送った。

 今度は、無事届いたらしい。担当編集者から、すぐに「OK」の返事があった。

 こうして、Aさんは無事、執筆作業を再開できたわけだが――。

 奇妙な出来事は、これで終わったわけでは、なかった。


 それから数週間経ってのことだ。

 Aさんのもとに、担当編集者から、校正用のゲラが送られてきた。

 ゲラとは、簡単に言えば、原稿が実際に本になった時の、ページの見本のようなものである。……もっと厳密な説明が必要であれば、各自検索などしていただきたい。

 ともあれ、このゲラを入念に見返し、修正したい部分があれば赤文字でそれを記して、担当編集者に送り戻す――。これが、いわゆる「著者校正」と呼ばれる作業だ。本を出す前に必ずおこなわれる、著者による最終チェックである。

 Aさんもさっそく、この著者校正に取りかかった。

 机の上にゲラを載せ、じっくりと読み返していく。

 ところどころに赤字を入れながら、やがて例の「殺人の章」に入る。

 ……特に変わった様子はない。穴埋め用に書いた一節も、そのままだ。

 何となく――悔しい、という気持ちが湧いてきた。

 せっかく取材を重ねて書いた稿が、使えなかった。それも、該当箇所だけがピンポイントで消えるという、わけの分からない理由で――。

 そう思うと、せめて「わる足搔あがき」というものをしたくなってくる。

 ……幸いにも、その手段はあった。代替用に書いた一節に、まだ少しだけ、行数を追加する余白があるのだ。

「そうだ。ここに――」

 独りごち、ほんの一段落だけ、Aさんはそこに赤字で、文章を書き加えた。

『なお、この事件に似通った事例で、昭和××年にK府で起きた、女子大生殺害事件がある。本件との関連性は一切ないと思われるが、事件の起きた状況の近似性から、学ぶべき点は多い。ご興味のあるかたは、ぜひ調べていただきたい』

 無理やり捻じ込んだ――と言っても過言ではなかったかもしれない。

 しかしAさんは、とりあえずこれで満足して、著者校正の終わったゲラを、宅配便で担当編集者に戻したそうだ。


 その後、担当編集者から、こんな電話があった。

『Aさん、ゲラをチェックしていたら一枚だけ、濡れて乾いてゴワゴワになったページが出てきたんですけど……。困りますよぉ。何か飲んでて、上に零したりしました?』

「え? いや、そんなはずはないんですけどねぇ」

 ゲラを濡らした覚えはないし、宅配を手配した後で雨が降った記憶もない。そもそも、封筒に入れる前に、防水用のポリ袋で厳重に包んでいる。

「一枚だけ? どのページですか?」

『××ページですね。ほら、あの代替でいただいた一節の、最後の部分。――ここ、赤で何か書き足してます?』

「……はい。スペースがあったんで、一段落だけ」

『そうですか。それ、にじんで読めなくなっちゃってるんですよ」

「…………」

 何なのだろう、この奇妙な既視感は。

 ……データで送れば、そのデータが消える。

 ……ゲラに直接書いても、文字そのものが消える。

 まるで、例の殺人事件について本に書くことを、に拒まれているかのような――そんな気がしてならない。

 奇妙な想いに囚われたAさんの耳に、担当編集者が言った。

『……メールでいいんで、その書き足したっていう文章、三十分以内にこちらにいただけますか? 私の方で赤を入れ直すんで――』

「……いや、ママでいいです」

 ママ、とは「そのまま」――。要するに、追記を入れる必要はない、という意味である。

 ――この事件については、何も書かない方がいいのだろう。

 そう直感し、Aさんは諦めて、脱稿した。


 ……以上。Aさんの身に起きた、「少し奇妙なこと」である。

 しかし――ここまでなら、実は、怪異とは無縁の真相を推測することが可能だ。

 即ち、「担当編集者が意図的に文章を消していた」という真相である。

 実は、彼はK府で起きた事件の関係者(犯人を含む)の一人で、事件の詳細を本に書かれるのを拒んだ。だから、Aさんの原稿を消していた――というわけだ。

 ミステリー的に考えれば、面白い真相だろう。

 ……が、実のところこれは、正解ではないらしい。

 なぜならAさんは、この話をした最後に、こう付け加えたからだ。

「その後、『書くな』って、三日連続で言われたんですよ。風呂場の鏡に映った、びしょ濡れの女から――」


 だから、この話は、もうここまででいいだろう。

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