第百七十五話 玩具箱
女性会社員のIさんから聞いた話だ。
Iさんがまだ園児だった頃、誕生日に母方の祖母が、人形をプレゼントしてくれた。
ふさふさした金髪と無垢な笑顔、小さな体が愛らしい、赤ん坊を模したものである。大きさも、実際の赤ん坊と同じ等身大に作られている。
おそらく、ままごと遊びにでも使ってもらえれば、という意図だったのだろう。
しかしあいにく、Iさんは、この人形が好きになれなかった。
一番の問題は、目だ。
中途半端にデフォルメされた形の目は、当然ながら、明らかに生身の人間のそれではない。にもかかわらず、その異質な瞳が等身大の赤ん坊の顔に付いていることに、どうしても薄気味悪さを覚えてしまう。
まるで、人間のようでいて人間でない、異形の生き物――。
幼いなりにそう感じてしまったIさんは、この人形を一目見るなり、怖がった。
せっかくプレゼントされたものを、あまりに怖がったおかげで、その場で両親からやんわりと叱られた。もっとも、祖母はただ苦笑していただけだったが。
ともあれ――こうして人形は、ままごとはおろか、子供部屋に飾られることすらなく、Iさんの
ちなみに、仕舞ったのは母だ。Iさんとしては、大切な玩具箱の中に、そんな気味の悪いものを入れられるなど、ごめんだった。
――どうしよう。もう二度と箱の
そう思って、Iさんは本気で嫌がったそうだ。
しかし母が取り合ってくれることもなく、人形は収めた玩具箱は、普段どおり子供部屋の片隅に置かれ続けた。
それからというもの、Iさんは絶対に、玩具箱を開けなくなった。
開けたら、あの気味悪い人形と、顔を合わせなければならないからだ。
だから部屋では、玩具で遊ばず、もっぱら絵本を読むようになった。
……ところが、時々奇妙な出来事が起きた。
Iさんが一人で絵本を眺めていると、不意に部屋の片隅で、コトン、と音が鳴るのだ。
何だろうと目をやると、玩具箱の蓋が、わずかにずれている。
不思議に思いながら元に戻すのだが、しばらくするとまた、コトン、と鳴る。
見ると、やはり同じように、ずれている――。
こんなことが、何度も繰り返された。
Iさんは思案して、蓋の上に、お気に入りに犬のぬいぐるみを載せた。
これで安心だろう、と幼いなりに考えたわけだ。
ところが――今度はその犬のぬいぐるみが、独りでに箱から落ちる。
誰が触れたわけでもないのに、突然ポンと弾んで、床に転がる。慌てて拾い、また蓋の上に乗せるが、しばらくするとやはり落ちてしまう。
……それはまるで、箱の内側から「何か」がぬいぐるみに衝撃を与え、突き落としているかのようにも見えた。
さらに、こんなこともあった。
Iさんが幼稚園から帰宅すると、いつの間にか玩具箱の蓋が外され、床に置かれている。
思わずギョッとして箱の中を覗くが、そこに人形の姿はない。
――もしかして、お母さんが捨てといてくれたのかな。
子供心にそう思い、ホッとしたのも束の間――。ふと、自分のベッドの掛け布団が、不自然に膨らんでいることに気づいた。
何だろう、と布団を捲ってみた。
……人形がいた。
まるでIさんを待ち侘びていたかのように、無機質な笑みを浮かべ、ベッドの中に横たわっていた。
Iさんは大泣きしながら、急いで人形を玩具箱に押し込むと、上からしっかりと蓋を閉めた。
……それでも、週に一度ぐらいのペースで、同じことが起こったそうだ。
ちなみに両親は、Iさんがどんなに異変を訴えても、まったく取り合ってくれなかった。
きっと、幼い子供特有の空想だと思われたのだろう。
こうなれば、自分の力で何とかするしかない。
Iさんは、子供なりにうんうんと考え――ようやく「妙案」を思いついた。
玩具箱の蓋をガムテープで固定し、人形を完全に閉じ込めてしまうのである。
他の玩具で遊べなくなるのは残念だが、それでも人形に悩まされるぐらいなら、よほどマシだ――。Iさんはそう考え、さっそく作戦を実行に移した。
箱と蓋の境目にガムテープを押し当て、グルリと一周させた。
こうして固定された蓋は、さすがにもう、独りでに開くことはなかった。
……ただ、時折箱の内側から、コンコン、と何かが蓋を叩くようになった。
だからIさんは、玩具箱を丸ごと、部屋の押し入れに仕舞い込んだ。
それ以降はさすがに、玩具箱の異変に悩まされることは、なくなったそうだ。
……それから年月は流れ、九年後。
Iさんが間もなく中学に上がろうとしていた、春休みのことだ。
いらないものを整理しようと部屋を検めていて、不意に、押し入れの玩具箱のことを思い出した。
――そう言えば、あの人形は、どうなったんだろう。
久々に見てみようか、と思った。
……確かに幼い頃、自分はあの人形に、ずっと怯え通しだった。奇怪な出来事にも、何度も遭遇した。けれど――それも過去のことだ。
相手は所詮、他愛のない玩具に過ぎない。怖い要素など、何一つない。
もしあの人形が奇怪な振る舞いをしたというなら、それは自分が恐怖のあまり、ただ錯覚に陥っていただけの話だろう。
――しかし、今は違う。自分はもう大人だ。
――怯える理由など、どこにもない。
そんな気持ちに突き動かされ、Iさんは、押し入れから玩具箱を引っ張り出した。
蓋を固定したガムテープは、長年のうちにゴワゴワに固まって、手では剥がせなくなっていた。
テープをカッターで裂き、蓋に手をかけようとした。
その時だ。
……コトン、と中から音が聞こえた。
コンコン、と、さらに何かが、内側から蓋を叩いた。
続いて、ドン! という衝撃とともに、蓋が飛びかけた。
Iさんは――すぐに力ずくで蓋を押さえつけると、古雑誌をまとめるために置いてあったビニール紐で、玩具箱をグルグルに縛り上げた。
それから再びガムテープで、念入りに蓋を固定し、箱を押し入れに戻した。
そして今度こそ、二度とそれを開けようとはしなかった。
さらに年月は流れて――今。
大人になったIさんは、親元を離れて、マンションで一人暮らしをしている。
玩具箱は、実家の押し入れに残したままだ。
……しかし、気がかりなことがある。
昨年の年度末に母から電話があって、昔使っていた部屋を掃除した、というのだ。
母は話の中で、玩具箱については一切触れなかった。しかし掃除をしたのなら、押し入れの中にある、厳重に封をされた箱にも気づいたはずだ。
……母はあれを見て、どうしただろうか。
Iさんには、気がかりなことがある。
昨年の年度末から、だろうか。
マンションの廊下を歩いていると、何か小さなものが後ろから、ペタ、ペタ、と這ってくる気配があるのだ。
ちなみに、振り向いて正体を確かめたことは、まだない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます