第百二十五話 赤色灯

 S県に在住のBさんという男性が、体験した話だ。

 小雨の降る、ある秋の夕暮れ。隣県の峠道を、車で走っていた時のことである。

 片側が山肌、もう片側が谷底に通じる崖という、絵に描いたように危うい道だった。しかも薄暗い上に、アスファルトも濡れている。自然と、慎重な走りを強いられることになる。

 幸い、前後に他の車は一台もない。Bさんは自分のペースで、ゆっくりと車を進めていた。

 ……そんな時だ。ふと、前方のカーブの先に、赤い光が見えた。

 赤色灯せきしょくとう――。交通誘導員の振る、棒状のライトである。

 ――事故でもあったのかな。

 そう思い、Bさんはさらにスピードを落として、ゆっくりとカーブを曲がっていった。

 薄闇の中に、赤色灯を手にした誘導員の姿が、じわりと浮かび上がってくる。

 真っ黒なレインコートをまとっている。頭はフードですっぽりと覆われているため、顔や性別までは、よく分からない。

 道路と崖とを区切るガードレールのきわにポツンと立ち、誘導員はしきりに、赤色灯を一方に振り続けている。

 そちらへ寄れ――ということだろうか。

 ……だがBさんは、無意識にハンドルを回しかけたところで、不意に強烈な違和感を覚えた。

 誘導員の指示が、明らかにおかしいのだ。

 赤色灯が――を向いている。

 まっすぐ、垂直に。

 ……いや、もし誘導員の立っている位置が山肌の側なら、何の問題もなかっただろう。ただ単に、「山肌側でトラブルがあったから、ガードレールの方に寄って進め」という意味になるからだ。

 しかし――誘導員は今、崖の際に立っている。

 そこから車を崖側に誘導すれば、車はガードレールを突き破り、谷底に落ちてしまう。

 ――どういうことだろう。

 ワイパーの走るフロントガラス越しに、Bさんは懸命に目を凝らし、誘導員を睨んだ。

 真っ黒なレインコート姿が、夕闇に溶け込むように、佇んでいる。

 ……顔は、見えない。

 赤色灯を振る以外に、動作は何一つない。

 車は徐行しながら、相手のすぐ間近まで来ている。

 ヘッドライトが、一瞬だけ、誘導員を照らした。

 ……見えたのは、レインコートと赤色灯だけだった。

 は、なかった。

 真っ黒なフードの下に顔はなく、赤色灯をつかむ手もない。

 ただ、濡れそぼつレインコートが、まるで生きた人間のように、佇んでいただけだった。

 ……Bさんは、すぐに誘導員から目を逸らし、指示を無視して、慎重に前を通り過ぎていった。

 そして、十メートルほど進んでから車を停め、振り返ってみたが、すでに赤色灯の光は、どこにも見えなくなっていた――という。

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