第百六十二話 異久那土サマ
詳しい場所は伏す。
西日本の某県で教職に就いている、Tさんという男性から聞いた話だ。
Tさんの実家のすぐ近くには、古くから、奇妙な石碑がある。
見た目は飾りっ気のない直方体で、高さは大人の腰ほどしかない。それが、道から逸れた林の草むらの中に、まるで人目に触れるのを避けるかのように、ひっそりと佇んでいる。
もう何十年もの間、誰にも手入れされていないためだろう。表面はすっかり黒ずみ、さながら、打ち捨てられた墓石のようにも見える。
――異
――久
――那
――土
北側から時計回りに追っていくと、そのような順番になる。
だから地元では、この石碑は、「
サマ、と付くのだから、神様か何かなのかもしれない。
そもそも「
……しかし、仮にこの石碑が久那土神を表しているのだとしても、「異」という一文字が余ってしまう。
この余りは、どう見なすべきなのか。「異久那土」もしくは「久那土異」と繋げて読むのか。それとも、久那土とは別の――まさに異なる――ものとして、切り離すべきなのか。
あるいは、「久那土」という繋げ方自体が、そもそも間違っているのか。
いずれにせよ、この四つの文字が何を意味しているのか、謂れを知る者は、すでに一人もいないという。
……ただ、一つだけ確かなことがある。
過去、この石碑に関わった者は次々と、不気味な怪異に見舞われてきた――というのだ。
Tさんが、まだ中学生だった頃だ。
当時、Tさんが通っていた中学に、N先生という人がいた。
初老の社会科教師で、人柄がよく話が面白いため、生徒達からも親しまれていた。
そのN先生が、ある時Tさんに、例の「異久那土サマの碑」について尋ねてきた。
何でもN先生は、趣味で郷土史を調べていて、問題の石碑に興味を持ったのだという。
「ご近所のお年寄りから、何か謂れのようなものを聞いたことはないか?」
そう尋ねられたものの、あいにくTさんが知っていることなど、何一つない。しかしN先生は、特に落胆する素振りもなく、「今度一緒に調べてみるか」と、笑いながらTさんを誘ってきた。
その誘いにTさんが乗らなかったのは――後から思えば、正解だったのだろう。
……後日、N先生から、こんな奇妙な話を聞かされることになった。
「こないだ、例の『異久那土サマの碑』を見にいったんだけどな……」
そう言いながらN先生は、なぜか
草むらの中に佇む石碑を写したものだ。東西南北、それぞれの角度から一枚ずつ。さらに、四方の文字をそれぞれアップで撮ったものを、一枚ずつ。合計八枚から成る。
見たところ、普通の写真だ。これがどうしたというのか。
Tさんが首を傾げていると、N先生は無言で、写真の端を指した。
オレンジ色の数字が、小さく刻まれている。写真を撮影した日付けである。つい先日の日曜日のものだ。
ただ――数字の位置と向きが、おかしい。
「先生、何でこの日付、引っくり返っとるん?」
Tさんは
通常、このような日付は、写真の右下に表示されるのが普通だ。
ところが、先生が見せた八枚の写真は、いずれも日付の表示が、左上に来ている。
さらに言えば、その数字自体も、並びごと百八十度回転してしまっている。
要するに――写真の上下そのものが、逆なのだ。
「気づいたか」
N先生はそう言うと、手にした写真を、クルリと百八十度回転させた。
日付の表示は、本来あるべき形に戻った。
……引き換えに、石碑の天地が、逆になったが。
これではまるで、カメラを上下逆さまにして撮影した、としか思えない。
「先生、これ逆立ちしながら撮ったん?」
Tさんが冗談めかして尋ねると、N先生は苦笑しながら、首を横に振った。
N先生は、あくまで普通に撮影しただけだ、と答えた。ただ現像したら、なぜかこのように、上下逆になっていたのだ、と――。
とは言え、原因など分かり様もない。その時は結局、二人で不思議がるだけに留まった。
……しかし、後でTさんが家族にこの話をすると、祖母が不意に、険しい顔つきになった。
「異久那土サマにゃ、近づいたら、あかん」
そしてTさんに、写真のことは忘れるようにと、きつく言ってきた。
もっとも、その祖母とて、「異久那土サマの碑」が何なのかは、よく知らないようだった。
ただ、この土地で代々忌まれてきたもの――。それだけは、確かだったのだろう。
N先生が
突然学校を無断で休み、行方が知れなくなった。
奥さんに尋ねても、どこへ行ったのか分からないという。少なくとも、失踪した日の朝は、いつもと同じ様子で家を出ていったそうだ。
……ただ、N先生が家を出たとされる時刻から数分後、そのN先生から、奇妙な電話がかかってきたらしい。
受話器を取った奥さんに、N先生は緊張した声で、こう告げた。
「――逆さまの子供が来るかもしれない。絶対に戸を開けるな」
それが、奥さんが聞いた、N先生の最後の声になった。
……N先生の行方が分かったのは、それからさらに五日後のことだ。
N先生は、近くの田圃にいた。
用水路に頭を突っ込んで、逆さまになって、事切れていた。
争った形跡などはなかったため、事故死として処理されたそうだ。
一人残された奥さんは、ずいぶんと沈んでいた。
ところが――一箇月ほど経って、その奥さんが、周囲に奇妙なことを話し始めたという。
「……ここのところ、夜中になると玄関の外で、音がするんよ。トン、トン、トン……って、朝まで、ずっと――」
それが一週間も続いた後、奥さんも不意に、姿を消してしまった。
奥さんの行方は、今も分かっていない。
Tさんが次に「異久那土サマの碑」と関わったのは、N先生の事件から、二年が過ぎてのことだ。
当時地元の高校に通っていたTさんのもとに、ある時、とんでもない報せが飛び込んできた。
同じクラスの生徒四人が、事故でいっせいに亡くなった、というのだ。
話を聞いてみると、どうやら夜道でバイクを乗り回している最中に、転倒したらしい。
二台のバイクに二人ずつ
四人とも地面に頭を打ちつけ、首の骨を折っての、即死だったという。
……これだけなら、不注意な運転が招いた不幸な事故、と言えなくもない。
ところがTさんは、この一件について、I君という男子から、不気味な話を聞かされることになった。
I君は、事故死した四人の遊び仲間だった。
Tさんとは別段親しい間柄ではなかったが、それが四人の
「T、確かお前、異久那土いう石碑のこと、詳しい言うとったな」
「……いや、詳しいわけやないけど」
噂には、少しばかり尾鰭が付いてしまっていたようだ。ともあれTさんが否定する間もなく、I君は真剣な顔で、こんなことを言ってきた。
「こないだ、××らが死んだやろ」
××というのは、亡くなった四人のうちの一人の名である。
「あれ、たぶん異久那土のせいや……」
「……何やて?」
「実は俺ら、十日ぐらい前に林ん中をバイクで走っとって、あの石碑にぶつけたんや。それで、欠いてもうて……」
「え、石碑を?」
「ああ。直接ぶつけたんは××やった。そん時は、みんなで笑い飛ばして、ほったらかしとったんやけど――」
ところが、その直後からだ。
……バイクで走るI君達を、何かが追い回し始めたのだ、という。
彼らがそのことに気づいたのは、深夜の公園でバイクを停めた時だ。
つい今まで鳴り響かせていた排気音が途切れ、耳にわずかな静寂が戻った刹那――。
すぐ後ろの方から、奇妙な音が聞こえてきた。
――トン。
――トン。
――トン。
まるで、何か硬いものが、道路に打ちつけられるような音だ。
何だろうと思い、一同が振り返ると、暗い夜道の彼方から、何かがこちらに近づいてくるのが見えた。
全員が目を凝らし――そして、息を呑んだ。
それは、小さな子供だった。
服などは着ていない。しかし、顔も性別もよく分からない。
……ただ、逆さまなのだ、という。
立って歩くのでも、ハイハイするのでもない。その子供は、足を空に向け、頭を道路に打ちつけながら、夜道を弾んでいるのだ。
――トン。
――トン。
――トン。
そんな音を立て、子供は次第に、I君達のもとへ迫ってくる。
誰ともなく悲鳴を上げた。I君達はいっせいにバイクに跨って、公園を飛び出した。
しかし逆さまの子供は、どこまでも追ってくる。
もういいだろうとバイクを停めても、すぐに、トン、トン、と弾む音が近づいてくる。
結局その夜は一晩中追い回され、ようやく音が聞こえなくなったのは、夜が明けてからだった。
……そして、これと同じことが、次の晩も起きた。
I君はこの時点で、「異久那土サマの碑」の話を思い出したのだという。二年前に起きた中学教師の変死事件と、それにまつわる奇怪な噂を――。
そこでI君は、すぐに××達に、この話をした。
しかし、それが事態の解決に繋がることは、なかった。
「アホらしい。石碑に向かって土下座でもせい、っちゅうんか」
××は顔をしかめて、そう吐き捨てた。
……あるいは、まさにそのとおりにすれば、本当に何とかなったのかもしれない。しかしそんな行為は、××達のプライドが許さなかったようだ。
結局××達は、それからも夜遊びをやめなかった。
ただI君だけが、怯えて家に閉じこもっていた。バイクで走らない限り、逆さまの子供が現れることは、なかったからだ。
……××達が事故死したという報せを受けたのは、それから数日後のことだ。
きっと、あの子供から逃げ惑っているうちに、ハンドルを切り損ねたに違いない――。I君は、そう考えているという。
しかし――本題はここからだった。
「××らが死んでからな。あの逆さまのやつが、うちに来よるんや」
I君は泣きそうな顔で、そう告げた。
夜更けになると、玄関の外で、音がするのだという。
――トン。
――トン。
――トン。
しかし、家族が気づく様子はない。音は、I君にしか聞こえていないようなのだ。
――絶対に戸を開けたらあかん。
とにかくそう思い、すでに二晩をやり過ごした。だが、これからもずっと、この音が続くのかと思うと、気がどうにかなりそうである。
「T、どうしたらええ?」
I君は、懇願するように、Tさんを見た。
もっともTさんとて、満足な答えが分かるわけではない。だからとりあえず、「石碑を直してみたら?」とだけ答えておいた。
その後、I君が石碑の修理を実行したのかどうかは、分からない。
突然、彼と連絡が取れなくなったからだ。
……最後にI君の声を聞いたのは、石碑の相談を受けた、その夜のことである。
十時を回った頃、突然Tさんの家に、I君から電話がかかってきた。
Tさんが出ると、I君は受話器越しに一言だけ、こう告げたという。
「――入ってきよった」
電話は、すぐに切れた。
I君は、その夜のうちに、姿を消してしまった。
……いや、I君だけではない。I君の家族すら、一人残らず家からいなくなったそうだ。
近所の人達は「夜逃げやろな」と噂したが、実際のところどうなのかは、誰も知らなかった。
Tさんも、この件については、ずっと口を
それほどまでに、恐ろしかったからだ。
……ちなみに余談だが、この事件には、後日談がある。
学校で、亡くなった四人の「別れの会」が催された時のことだ。
体育館の正面に祭壇を設け、そこに四人の遺影を飾り、生徒教職員全員で
それから黙祷を終え、目を開けてみると、遺影がすべて、祭壇から落ちてしまっていた。
……どれも、上下が逆さまになっていたそうだ。
Tさんが直接体験したのは、ここまでだ。
しかし、「異久那土サマの碑」にまつわる話は、まだまだあるらしい。
例えば――Tさんの祖母が、まだ若かった時のことだ。
ある女の子が、近所の子供達と集まって、「異久那土サマの碑」の前で遊んでいた。
そんな中、誰ともなく、「だるまさんが転んだ」をやろうと言い出した。
ジャンケンで、女の子が鬼になった。
女の子は石碑の前に立ち、その石碑に顔を押しつけて、目を閉じた。
「だるまさんが、転んだ!」
そう叫び、パッと後ろを振り返った。
そこには――空を向く足が、ずらりと並んでいた。
……一緒に遊んでいた全員が、上下逆さまになっていた。
それがピクリとも微動だにせず、地面の間際から、女の子をじっと見上げていた。
女の子は、思わず泣き出した。
泣いているうちに、次第に意識が
……気がつくと、逆さまだった子供達は、すべて元に戻っていた。
しかし誰一人として、自分は逆さまになどなっていない、という。
結局、女の子が幻を見たのだろうということで、話は収まった。
だが――それ以来、その女の子は常に、幻を見続けるようになったらしい。
「振り向いたらいつも、逆さまの子ぉが
よく泣きながら、そんなことを口にするようになった。
その女の子は一年後に、井戸に頭から落ちて、亡くなったそうだ。
また、こんな話もある。
平成に入る少し前のことだ。どこから話が伝わったのか、オカルト特番の取材として、テレビ局のスタッフが「異久那土サマの碑」を見にきたことがあった。
彼らはまず石碑の前で撮影をおこない、それから地元の人間数人に簡単なインタビューをして、数時間ほどで帰っていった。
ところが、いざ番組が放送されてみると、その時撮影された映像が、一切使われていない。
それどころか、「異久那土サマの碑」に関する話題そのものが、出てこない。
インタビューを受けた一人が不思議に思って、テレビ局に電話で問い合わせると、「申し訳ありませんが、あれはお蔵入りになりました」と返答があった。
何でも、撮影時に録音された音声に、誤魔化せないレベルのノイズが入っていたのだ、という。
――トン。
――トン。
――トン。
そんな音が、石碑を撮っている間も、地元の人がインタビューに答えている間も、ずっと鳴り続いていたそうだ。
……しかし実際のところ、音声のトラブルだけを理由に、ネタが一つ潰れるものだろうか。
もしかしたら、それ以外にも、何かよくないことがあったのではないか――。電話で問い合わせた人は、思わずそう邪推してしまったという。
なぜなら、電話でテレビ局のスタッフと話している間、ずっと受話器越しに、トン、トン……という音が、鳴り響いていたからだ。
ちなみに、その後電話を切る直前になって、不意にスタッフから、こんなことを言われた。
「……そっちでも、鳴ってますね」
電話はすぐに切られたため、意味を問い
以上――。すべてTさんから聞いた話である。
……しかし、当のTさんの身には、何も
不思議に思って、僕がそう尋ねてみると、Tさんは表情を暗くして、こう答えた。
「……私は独身ですが、兄弟は全員結婚していましてね。子供も何人かいます」
「はあ」
「全員、
――障りと言うなら、これが障りなのかもしれません。
Tさんは力なくそう答えた後、チラリと、僕の背後を見た。
そこに何があったのかは――幸い僕には、まだ分からないままだ。
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