第百六十一話 水草

 Kさんという男性が、まだ小学生だった頃の話だ。

 夏休みのある日、幼い弟が「金魚鉢に入れる水草が欲しい」と言うので、近くの池で採ってきてやることにした。

 当時Kさんが住んでいたのはS県の田舎町で、自然が豊富な場所だった。中でも林の一角にあるその池は、水面がびっしりと水草に覆われ、魚やカエルが多くいて、子供心にスポットだったという。

 ただ、ここを遊び場にする子供は、ほとんどいなかった。

 大人達から、固く禁じられていたからだ。

 何でも、以前ここで足を滑らせて水に落ち、亡くなった子がいたらしい。体が水草に埋もれたせいで発見が遅くなり、ようやく異変に気づいた大人達が駆けつけた時には、すでに手遅れだったそうである。

 そんなこともあって、とにかく危険なので、「子供はこの池に近づいてはいけない」というのが、地元のルールになっていた。

 だから――Kさんは、あくまで一人でこっそりと、池に向かった。

 荷物は、虫取り網と虫かごのみである。これなら一見昆虫採集の姿に見えるから、途中で大人に見つかっても誤魔化せる。ちなみに、虫かごは透明なプラスチックケース状のものなので、ここに水草を水ごと入れるつもりだった。

 林の中は蒸し暑く、けたたましいセミの声が飛び交っていた。

 木の根でゴツゴツとした林道を歩き、途中で横道に逸れる。そこから少し草を掻き分けて進むと、すぐに無人の池が現れた。

 池はその一面を、鮮やかな緑にびっしりと覆われていた。

 ハスの葉を小さくしたような浮き草が水面を包み、その隙間を、アメンボやカエルがすいすいと泳ぎ回っている。

 時おりゴボリ、と気泡が弾けるのは、浮き草の下で、巨大な魚が息を吐いているからか。

 Kさんは網を持つと、先端で気泡の辺りをグルリと掻いた。

 たちまち浮き草が散り、水の底を何か黒いものが逃げていくのが見えた。

 Kさんは面白がって、網で水面をつつき回した。

 パシャパシャと水が跳ね、そのたびに、網の先に緑のすじが絡みつく。

 網が次第に重くなってくる。まるで水の中からつかみ返されているかのような錯覚を覚えながら、Kさんは網を引き上げた。

 ずるり、と長い水草が、網に絡まって付いてきた。

 手元に引き寄せ、摘まんで引っ張ると、そこそこまとまった量が剥がれた。Kさんはそれを虫かごに入れ、さらに少し水を加えようと、池の縁に一歩近づいた。

 そこで――ふと視線を感じた。

 ハッとして見上げると、遠くの草むらから、小さな顔が覗いているのが分かった。

 ……女の子だ。

 歳は、弟と同じぐらいか。

 おかっぱ頭で、背の高いあしの隙間から顔だけを見せ、にこにこ笑いながらこちらを眺めている。

 誰だろう、とKさんは訝しんだ。

 近所の子ではない。まったく知らない顔である。

 それに――なぜだろう。妙に見える。

「おーい、誰だ?」

 Kさんは、そう声をかけた。

 女の子は黙ったまま、ただにこにこと笑うばかりだ。

 変なやつだな、と思いながら、Kさんはさらに目を凝らした。

 ……やはり、顔が汚れている。

 泥ではない。

 何か細長い筋のようなものが。女の子の頬に、べったりと張りついている。

 髪の毛か、と思った。

 しかしそれにしては、黒くない。

 どちらかと言えば――に近い。

 ……そこまで観察したところで、Kさんはゾクリ、と悪寒を覚えた。

 何だか女の子の視線が恐ろしくなって、急いでその場を離れようと、池に背を向けた。

 そして、ぬかるみに半ば埋まった運動靴を、グイッと引き上げたところで――。

 ふと思い出した。

 ……女の子のいる、背の高い葦が生えている場所。

 ……あそこは確か、浅瀬のど真ん中だったはずだ。

 Kさんは、慌てて振り返った。

 ……女の子は、もうどこにもいなかった。

 思わず虫網の柄をギュッと握り締める。

 いつの間に絡みついていたのか、指の股で水草が一筋、コポ、と小さな泡を吐いた。


 その後帰宅したKさんは、弟の金魚鉢に、持ち帰った水草を入れてやった。

 弟は喜んで、緑に染まったガラスの鉢を眺めていた。

 ところが――その後Kさんが少し目を離していると、部屋にいた弟が、突然「あっ!」と短い悲鳴を上げた。

 どうしたのかと行ってみると、弟は金魚鉢から離れ、真っ青な顔でガタガタと震えている。

「兄ちゃん、あれ……」

 そう言って弟が、金魚鉢を指す。

 それを見て、Kさんもまた悲鳴を上げた。

 ……顔があった。

 ……金魚鉢の中に、水草にまみれた女の子の顔が、きゅぅっ、と収まっていた。

 それが丸いガラス越しに歪みながら、こちらに向かって、にこにこと笑っている。

 Kさんはもう一度悲鳴を上げると、急いで弟を引っ張って、部屋から逃げ出した。

 それから家にいた母親をつかまえて一緒に戻ってみたが、もう金魚鉢の中に、怪しいものはなかった。

 ただ、何匹か泳いでいたはずの金魚も、なぜかすっかりいなくなっていたという。

 その後Kさんは水草をすべて捨て、以降あの池には、二度と近づかなかった――ということだ。


 ……ちなみに、以前池で亡くなったのは、男の子だったそうである。

 だから、あの水草まみれの女の子が何者だったのかは、今でも謎のままだ。

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