第百十七話 窓の汚れ

 I県に在住の、Oさんという男性の話だ。

 ある年の冬に、県内の賃貸マンションに引っ越した時のことだ。

 Oさんの新居は、三階にある。いわゆる「わけあり物件」として紹介されたもので、家賃が格安なのが魅力だった。

 ちなみに不動産屋曰く、「かなり目立つ汚れがあるので」ということらしい。

 汚れなら落とすなり、汚れている部分を交換するなりすればいいのに――と思ったものの、安いものを敢えて相場どおりに戻す必要はない。そもそも、一度下見をしたが、特に気になるような汚れは見当たらなかった。

 そんなこともあって、Oさんは喜んで、この部屋を借りることにしたのだが――。

 いざ引っ越してきた当日。改めて新居の中を眺めていると、寝室に使おうと思っていた部屋の窓に、気になるものを見つけた。

 汚れだ。

 ……いや、それを本当に「汚れ」と呼んでいいかは、分からない。

 手のひらほどのサイズの、横長の白い楕円だえん――。それが、まるでペンで塗り潰したかのように、ガラスの中央に、べったりと付いている。

 さらに楕円のすぐ真下には、やはり白い縦長の線が、垂直に短く伸びる。

 目を凝らして見たが、染みやカビの類ではない。白い粉のような――おそらくチョークか何かの類で描いたものだ。

 これでは汚れというより、落書きの域に近い。

「……何だこれ?」

 Oさんは顔をしかめた。以前下見をした時には、こんな汚れは無かったはずだ。

 仕方なく、雑巾で窓ガラスを拭いてみた。

 ……ところが、汚れがなかなか落ちない。

 ならばと、力を込めてゴシゴシ擦ってみるが、同じである。

 そこで――ようやく気づいた。

 汚れは、窓の外側に付いているのだ。

 Oさんは窓を開け、雑巾をつかんだ手を伸ばして、外側から窓ガラスを拭いた。

 汚れは、あっさりと落ちた。

 窓はツヤツヤに輝いたが、Oさんの心には、ささやかな不快感が残っただけだった。


 それから数日が経った、早朝のことである。

 夜間に雪が降っていたためか、ずいぶんと冷え込む朝だった。

 目を覚ましたOさんは、寝室に陽射しを入れようと、サッとカーテンを開けた。

 ……汚れがあった。

 真っ白な楕円と、縦長の線――。先日と寸分違わぬ汚れが、これまた窓の寸分違わぬ位置に、くっきりと浮かんでいる。

 Oさんは首を傾げながら、前回と同じように窓を開け、外側に付いている汚れを拭き取った。

 ところが――さらに二日後のことだ。

 やはり雪の降った早朝。カーテンを開けると、また窓の同じ位置に、同じ汚れがあった。

 ……Oさんは、ようやく不動産屋の言っていた意味を、理解した。

 目立つ汚れがある、という説明は、事実とは少し異なる。実際には、「ある」のではない。

 ――「現れる」のだ。

 それも、雪の降った翌朝に、必ず。

 いったいどういう理屈でかは、分からない。ただ、無視しようにも目立ちすぎる汚れなのは、確かだ。

 Oさんはそれからというもの、雪が降るたびに、いちいち汚れを拭き取ることにした。


 それから数週間が過ぎた、ある土曜日のことだ。

 友人達と「鍋をやろう」という話になり、全員でOさんの家に集まった。

 みんなで鍋を囲み、アルコールで盛り上がっているうちに、やがて外では雪が降り始めた。一同は、そのままOさんの家に泊まることになった。

 暖房をかけたまま、リビングに毛布だけを並べての、雑魚寝である。全員が就寝したのは、日付けが替わって二時過ぎのことだ。

 ――ああ、朝になったら、またあの汚れがあるのかな。

 Oさんはそんなことを考えながら、暗くしたリビングの中で、眠りに落ちていった。

 ……後になって友人の一人から聞いた話だが、実はこの直後に、無人の寝室の方で、ガタン、と窓の鳴る音が響いたらしい。

 吹雪いているわけでもないのに妙だ――と、その友人は思ったそうだ。

 ただ、眠っているOさんに無断で寝室を覗くのも気が引けたし、何より音も一度きりだったため、そのまま放っておくことにしたという。

 ともあれ、翌朝――。

 一番に目を覚ましたのは、Oさんだった。

 リビングを出て洗面所で顔を洗い、それからふと思い出して、寝室を覗いてみる。

 カーテンを開けると、案の定、窓ガラスに例の白い汚れが、べったりと付いていた。

 みんなが帰ったら掃除しないとな、と思っていると、そこへ友人の一人が起きてやってきた。

「……あれ、その汚れ、どうしたの?」

 友人が目を瞬かせて尋ねた。Oさんが事情を話すと、友人はいぶかしげな顔で、何やらじっと考え始めた。

「……ねえ、その窓の外って、足場はあるの?」

「ないけど?」

「……なのに、雪の降った朝には、必ず窓の外にがある?」

「うん、そういうこと」

 Oさんが頷くと、友人の顔が、目に見えて青ざめたのが分かった。

「……O君、ここ、ヤバいと思う。せめてこの部屋では寝ない方が……」

「ちょ、待てよ。どうしてだよ」

「だってさ、その形って……」

 横長の楕円と、真下に垂直に伸びた短い線――。

 まるで忌まわしいものでも見るかのように、その白い汚れを指して、友人は言った。

「……だよ、これ」

 額と、鼻筋――。

 それは、人が窓に顔を押し当てて中を覗いた時に、ガラスの表面に密着する二箇所だという。

 ……以来Oさんは、寝室のカーテンは閉ざしたまま、友人の忠告に従って、リビングで寝るようになったそうだ。


 それでもOさんは、まだしばらくは、この部屋に住み続けたという。

 確かに不気味ではある。しかし、所詮は窓の外で起きていることに過ぎない。

 常にカーテンを閉め、寝室を使わないようにしていれば、問題はないはずだ――。Oさんはそう割り切って、家賃の安いこの部屋に、居座り続けた。

 ……やがて、雪の量が格段に増えた、二月のある日のことだ。

 天気のいい朝だった。久しぶりに寝室にも陽射しを入れようと、Oさんは思い切ってカーテンを開けてみた。

 相変わらず、白い汚れがある。

 拭いておこうと思い、窓を開け、腕を伸ばして雑巾で拭った。

 ……ところが、なぜか汚れが落ちない。

 あれ、と思いながら力を込めてゴシゴシ擦るが、やはり同じである。

 仕方なく腕を引っ込め、一度窓を閉め――。

 そこで、ようやく気づいた。

 ……汚れは、いつの間にか、窓の内側に移っていた。


 Oさんは、それから一週間と経たないうちに、部屋を引き払ったそうだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る