第百十六話 居座る
関西に在住の、Oさんという四十代の男性から聞いた話だ。
Oさんはマンション住まいである。Oさんのご両親が新築の頃に購入したもので、当時Oさんはまだ中学生だったが、それから今に至るまで、長らくそこで暮らしている。
ちなみにご両親は、今は別の新しいマンションに移っており、こちらにはOさんだけが一人で残っているらしい。またOさんには姉もいるが、そちらはすでに他家に嫁いでいるそうだ。
時の流れとともに、家族もまた移ろいゆく――ということだろう。
さて、そんなOさんだが、以前から気になっていることがあるという。
……隣室の住人だ。
その人は女性で、名前を仮に「Kさん」としておく。
Kさんは、やはりOさん一家と同じ時期に、隣に住み始めた。歳は当時で三十代の半ばといったところで、Oさんに言わせれば、「えらいセクシー」だったらしい。
何か仕事をしている様子はなかった。普段から派手な化粧と露出度の高い服装で、よく昼間から歓楽街をうろついている姿が見られた。
同居人はおらず、一人暮らしのようだった。ただ、週に一度くらいの割合で、高齢の男性が泊まりがけで訪ねてきていた。
父親だろうか、と最初Oさんは思った。だが、当時高校生だった姉にそれを言うと、クスクスと笑われた。
「アホ、どう見てもコレやん」
そう言って、親指を立てられた。
……どうやら、愛人、ということらしい。
おそらくKさんはもともと水商売か何かで、それを男性が愛人として、マンションに囲っているのだろう――と姉は考えていた。
まだ中学生のOさんにとっては、いささかショッキングな仮説だった。思春期の少年なりに、隣人の色香に少なからず惹かれていた――という事情もあったからかもしれない。
しかし姉のこの見立ては、出鱈目でも何でもなかった。それからしばらくして、隣室で事件があったのだ。
夜中に救急車が来て、泊まっていた例の男性を搬送していったのである。
その時の様子は、Oさんもはっきりと目にしている。ちょうど隣が騒々しいことに気づいて、ドアから顔を覗かせてみたのだ。
……担架に乗せられた男性は、どう見ても全裸だった。
それを心配そうでもなく見つめるKさんは、こちらも裸の上からだらしなくバスローブを
「ハッスルしすぎたんやろね」
姉は下卑た顔で笑っていた。ともあれ――。
男性はそれ以来、訪ねてこなくなった。
代わりに数週間経って、年配の女性が訪ねてきた。
もっとも、Oさんが直接その現場を見たわけではない。家にいた姉から聞いた話である。
姉曰く、どうやらその年配の女性というのは、男性の奥さんだったらしい。しかも弁護士同伴だったそうで、かなり揉めていた、とのことだ。
折しも夏のことで、隣室のベランダの窓は全開だった。おかげで、「出ていけ」だの「ここはウチの家や」だのと、女二人の
当時Oさんはよく理解できなかったが、後になって状況を整理すると、おそらく以下のような感じだったのだろう。
――救急車で運ばれた男性は、助からなかった。
――マンションの名義人がその男性になっていたので、奥さんが相続することになる。
――だがそこには、男性の愛人であるKさんが住んでいる。
――奥さんはKさんに出ていくように言ったが、Kさんは拒否した。
……とまあ、要は泥沼だったわけだ。
いずれにしても、その後彼女達の間でどのようなやり取りがあったのかは、Oさんには知る由もない。法的にどういう裁定が正しかったのかも、詳しい知識がないので分からない。
ただ――結果的に、Kさんはマンションに残った。
騒動のあった後も、特に引っ越すことなく、隣の部屋で暮らしていた。
ちなみに、生活費を稼ぐために水商売に戻ったのだろう。夕方、扇情的な服装で出かけていっては、明け方に帰宅するという日々を繰り返していた。
Kさんの出勤時間は、だいたいOさんが学校で部活を終えて帰ってくる時間と重なっていた。だから廊下ですれ違うことも、何度もあった。
もっとも、Oさんが会釈をしても、向こうはただ一瞥を返すばかりだった。あまり社交的な性格ではなかったのかもしれない。
……その後年月は流れ、Oさんは高校から大学へと進学した。
姉も就職を機に家を離れるなど、家族の日常は、次第に変わっていった。
一方で変わらないのが、隣のKさんだった。
何年経とうと、毎日夕方出かけていっては、明け方戻ってくる。その繰り返しである。
顔を合わせても挨拶がないのも、まったく変わらない。
ただ一点――当然ではあるが――歳だけは、順当に重ねていっていた。
顔は化粧越しに、
かつてほっそりとしていた二の腕は
やがてOさんが就職し、社会人になって数年が経つ頃になると、Kさんには、かつての色香溢れる面影は、すっかりなくなっていた。
それでも相変わらず水商売の服装で出かけていくのが、何だかちぐはぐだった。
そして――この時期からだ。
Oさんが、この隣人について、奇妙に思い始めたのは。
きっかけは、一台のトラックだった。
日曜日、Oさんが近所のコンビニに行って戻ってくると、マンションの下に引っ越し業者のトラックが停まって、次々と荷物を運び出している。
どうやら新しい住人が引っ越してきたらしい。Oさんは特に気に留めず、エレベーターに乗って、部屋に戻ろうとしたのだが――。
しかしその荷物の搬入先を知って、思わず目を丸くした。
そこは、Kさんが住んでいるはずの隣室だった。
業者の応対をしているのもKさんではなく、見知らぬ若い夫婦である。
ちなみにこの夫婦は、後でOさんのところに挨拶に来た。だから、やはり彼らが新たな隣人で間違いないのだ。
表札もいつの間にか、Kさんの姓から違うものに変わっていた。
どうやら自分が気づかないうちに、Kさんはどこかへ移ってしまったらしい。
それを知ったOさんは、寂しいでも切ないでもない、何とも言えない妙な気持ちになったそうだ。
……ところが、である。
それから数日後のこと。Oさんが少し早く仕事を終えて帰ってくると、廊下でばったりと、Kさんとすれ違った。
Kさんは、ちょうど隣室から出てきたところだった。
いつものように、すっかり年齢に釣り合わなくなった服装で、そしてこちらには目もくれず、エレベーターの方へ去っていった。
「あれ、どないなっとん……?」
Oさんは思わず呟いた。
てっきりKさんはすでに引っ越し済みで、今は別の夫婦が住んでいるものとばかり思っていたのだが……。それとも、実はあの夫婦はKさんの親族か何かで、Kさんとも同居しているのだろうか。
何だか気になった。
しかし気になったところで、当人にそれを尋ねられるほど、親しい間柄でもない。
ただ――それからというもの、Oさんは頻繁に、廊下でKさんとすれ違うようになった。
だいたい週に一度か二度。時刻は決まって夕方のことだ。
こうなってくると、やはり同居しているとしか思えない。
とは言えまあ、世の中にはそういう家庭があってもおかしくない。たまたまそれがうちの隣だった、というだけのことだ。Oさんはそう考えて、納得したのだが――。
……しかし、問題はここからだった。
隣の若い夫婦は、数年ほどでよそへ引っ越していった。
入れ替わりで入居したのは、まったく別の中年の夫婦だった。
表札も、もちろん変わった。
にもかかわらず――。
……その後もKさんとは、廊下で頻繁にすれ違うのである。
彼女はいつもどおり、夕方隣室から出てくる。
帰宅するのは、やはり早朝だろうか。
昔と何一つ変わらない。……いや、二つだけ変わった。
一つは、彼女が歳を取ったこと。
もう一つは――隣室には明らかに、すでに彼女とは無関係な人間が住んでいること。
Oさんは、わけが分からなくなった。
しかし、隣の夫婦に直接尋ねようにも、きっかけがない。
ある時、久々に会った姉にこのことを話すと、「それ幽霊ちゃう?」と返された。
……幽霊なのだろうか。
……しかし、Kさんが亡くなったという話は聞いたことがない。
……そもそも幽霊は、歳を取るのだろうか。
真相は知れないままだった。
それからしばらくして、Oさんは朝、たまたま隣の主人と、エレベーターで一緒になる機会があった。
そこで不意に、こんなことを聞かれた。
「あの、ちょっとおかしなこと尋ねますけど……このマンション、妙なもんが出るいう話はおまへんか?」
「……妙なもん?」
「はい。実は、うちに――」
そこまで言ったところで、エレベーターが一階に着いた。顔見知りの主婦が数人、外で立ち話をしているのが見えた。
「すんません。また今度」
隣の主人はそう言って、足早に去っていった。話を大勢に聞かれたくなかったか、それとも純粋に急いでいたからか――。
いずれにしても、この話の続きを聞く機会はなかった。
すぐに夫婦が、よそへ引っ越していったからだ。
……それからしばらくして、今度はまた別の家族が、隣に入居してきた。
Oさんと同年代ぐらいの夫婦で、小さな子供も二人いる。大層賑やかな一家である。
そして――それでもKさんは、毎日夕方になると、隣室のドアから現れるのだ。
Oさんは、間もなく引っ越すつもりだという。
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