第百四十八話 悪い水
二十年以上前に、某市の団地で起きた話だ。
夏場のことである。そこの住人の大多数が、突然腹痛を訴えるという騒動があった。
重さの度合いは人によって様々だったが、症状からして食中毒のように思えた。ところが病院の方で調べても、患者の体から菌の類は見つからず、原因が分からない。
中には入院した人もいたが、そういう人に限って、すぐに回復する。
しかし、回復したなら安心だろうということで、退院して家に戻ると、また症状が再発する。
どうやら団地の中に原因があるらしい――と、当然誰もが考えた。
……また時を同じくして、奇妙なことが起こり始めた。
団地のすべての部屋で、台所や風呂場、トイレといった場所に、大量のカビが発生し始めたのだ。
さらに、夏場だというのに、これらの水回りだけが、異様に肌寒い。
他にも、シャワーの水が肌に当たると痛みを覚えたり、湯船に浸かっていると胸を押さえつけられるような感覚に襲われたりと、入浴中に体の不調を訴える住人が増えた。
作った料理がすぐに傷む、という声も多かった。
また、水道の蛇口を
こうなると、やはり誰もが、「水」に原因があるのではないか、と思うようになった。
……一方で、団地に住むある女性は、同時期に、こんな奇怪な体験をしている。
自宅のトイレに入っていた時だ。
ふとどこからか、ブツブツと、何か呟くような声が聞こえてきた。
男の声だ。ただ、何を言っているのかまでは、聞き取れない。
外の声が、通気口から入り込んでいるのだろうか――。
そう思ったが、よくよく耳を澄ましてみると、どうも声の位置が違う。
……自分が座っている便座の下から聞こえている。
えっ、と思って慌てて腰を浮かせると、
「――動くな」
そんな男の声が、はっきりと耳に響いた。
驚いて便器の中を見下ろしたが、もちろんそこには、誰の姿もなかった。
ちなみに、トイレは水洗式である。昔の汲み取り便所のように、中に変質者が入り込んでいる、というようなことはあり得ないはずだった。
また、こんな出来事もあった。
住人の男性が、蛇口からバスタブに水を溜めていると、途中で独りでに水が止まった。
何かが詰まったのか、と思い、蛇口に割り箸を突っ込んでみると、その割り箸を押し出すようにして、中から骨ばった真っ白な指が、にゅぅっと伸びてきた。
男性が思わず悲鳴を上げると、指は再び蛇口の中に、すぅっと引っ込んだ。
風呂場の蛇口は、それ以来まったく水を出さなくなったという。
こんな騒動が数日続いた後、ようやく市の職員が、団地に隣接する給水塔の調査に訪れた。
実のところ、給水塔のメンテナンスは定期的におこなわれていて、一箇月前にもタンク内を清掃したばかりである。それで市の方も、初動が鈍っていたようだ。
しかし――いくつかの怪異体験はともかくとして――実際に食中毒に似た症状が起きているとなれば、どうしても「水」を調べないわけにはいかない。
さっそく職員が数人で、給水塔に登っていった。
団地の住人達も、下に集まって様子を眺めていたが、そこで突然、タンクを覗いた職員の一人が、「うわっ!」と大声を上げた。
何事か、と住人達の間に緊張が走る。だが職員達は、それ以上は声を上げず、ひととおりのチェックを終えて、すぐに戻ってきた。
当然住人達は、彼らを取り囲んだ。
いったい何があったのか――。その質問に対して市の職員は、こう答えたという。
……とりあえず、水質そのものに大きな問題はなかった。
……ただ、タンク内に誰かが入った形跡があった。
その人物がどこの誰で、いったい何の目的で入ったのかは、分からない。
ついでに言えば、水の中にその人物が浮いていた、というわけでもない。
強いて問題があるとすれば、タンクの底に、落書きが残されていたことだ。
赤い油性のマジックで、漢字でただ一文字。
「怨」――と。
ただし、底一面を覆い尽くさんばかりに、とてつもなくでかでかと――。
……もっとも、いくら油性マジックとはいえ、水の溜まっている巨大なタンクの底に、どうやって文字が書けたのか。
その一点だけは、誰にも説明ができなかった。
ともあれ、その文字を消したところ、水の異変はピタリと止んだという。
この団地は、今でも存在している。
ただ給水塔の方は、時代の流れもあって、すでに取り壊されているそうだ。
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