第百七十二話 一輪車
Bさんという男性から聞いた話だ。
Bさんは以前、仕事の都合で、一時的に関西の某県に移っていたことがある。
滞在期間は二箇月ほどだったため、引っ越しと呼べるほどの仰々しい作業はなかった。ただ必要なものだけをトランクに詰め、せいぜい長めの旅行程度の気持ちで、ひと時の宿に腰を落ち着けたそうだ。
……その、先方に移ってすぐの日から起きた出来事である。
Bさんの新居は、五階建てのアパートの一室だった。
部屋は四階にあり、ベランダからは、裏手の空き地がよく見えた。
四メートル四方ほどの草ぼうぼうの空き地で、周囲を金網で囲われている。人は入れないが、代わりに野良猫の溜まり場になっているようだ。
草むらのそこかしこで丸くなっている猫を眺めながら、「こりゃ夜中はうるさくなりそうだな」と思っているうちに、Bさんはふと、妙なことに気づいた。
……空き地の中に、「円」が描かれているのだ。
まるでミステリーサークルのように――と
いったい何だろう、とBさんが首を傾げていると、その空き地の片隅に、やはり妙なものが転がっていることに気づいた。
……一輪車だ。
子供用の、小さな赤い一輪車である。それが周りの猫を真似るかのように、草の中に、ひっそりと埋もれている。
打ち捨てられて久しいのだろう。今やすっかり
誰かに不法投棄され、そのまま放置されている――といったところか。
別段他愛のない光景だ。しかし、子供用の品が雨ざらしになっているのを見ると、不思議と物悲しい気持ちが湧いてしまう。
――いったいどんな子が使っていたのだろう。
――今はもう一輪車に興味がないのだろうか。
――なぜあんな場所に捨てたのか。
いろいろとネガティブな想像が浮かびそうになり、Bさんはすぐに空き地に背を向けて、ベランダから部屋に戻った。
まだ新居に着いたばかりで、やらなければならないことが山ほどある。見知らぬ一輪車に感傷を抱いている場合ではなかった。
その夜のことだ。
取り急ぎ最低限の生活環境も整い、Bさんが一息ついていた時である。
そういえば猫の声がしないな、と思い、何となく耳をそばだててみた。
そこで――ようやく気づいた。
ベランダの外で、妙な音が聞こえていることに。
……キィキィキィキィ。
……キィキィキィキィ。
何かが
日中は聞こえなかったと思うが、いつから鳴っていたのだろう。
気になって、Bさんはベランダに出てみた。
音はどうやら、例の空き地から聞こえているらしい。
見下ろしたが、近くに街灯がないため、真っ暗で何も見えない。
しかし、音だけは確かに聞こえる。
……キィキィキィキィ。
……キィキィキィキィ。
やむことのないその音は、どうやら空き地の中で、常に位置を変え続けているらしい。左右の耳に伝わってくる強弱の変化から、それが分かる。
しかし、いったい何の音なのだろうか。
あの空き地にあって、軋みながら動きそうなもの――。
……そう思った刹那、Bさんは突然、あるものを連想した。
「一輪車……なわけないか」
試しに口に出し、それからすぐに自分で否定した。
誰かが一輪車を漕いでいる――という想像には、あまりにも無理がある。
あれだけ錆びついて、ペダルすら無い代物だ。それを誰かが、この真っ暗な中で、漕ぎ回れるわけがない。
……もっとも、他に納得の行く答えが見つかるわけでもなかった。
Bさんは、これ以上ベランダにいても仕方ないと思い、おとなしく部屋に戻った。
翌朝、再びベランダから裏の空き地を見下ろしたが、特に変わった様子はなかった。
一輪車は昨日と同じ形で打ち捨てられたままだし、草むらには相変わらず大きな円が描かれ、猫がそこかしこで呑気に丸くなっている。何の代わり映えもない風景だ。
だから、特に気にすることもないと思ったのだが――。
その、二日目の夜のことだ。
あの奇妙な音は、また聞こえてきた。
……キィキィキィキィ。
……キィキィキィキィ。
やはり裏の空き地をグルグル回るように、延々と鳴り続ける。
気にはなるが、正体を確かめるには、直接空き地へ
ただ、さすがにそこまでするのも気が引ける話だった。音など、我慢すればいいだけなのだ。
結局Bさんは、正体を突き止めるのは諦め、テレビを眺めて気を紛らわせることにした。
……音は、真夜中を過ぎても、延々と軋み続けていた。
翌朝のことだ。
ベランダから見下ろす空き地は、やはりこれといって変わった様子はない。
だがその光景を眺めているうちに、Bさんは不意に、またあるものを連想した。
あの円だ。
あれは――もしや、「
一輪車の走った跡が、草の上に、ああして残されているのではないか――。
もしそうだとすれば、あの一輪車は、もう長い間ずっと、空き地の中を走り回っていることになる。
草が潰れ土が剥き出しになるほどに、同じルートの上を、何日も、何日も……。
「……まさかな」
だがあくまで理性的に、Bさんは自分の言葉を、すぐに打ち消した。
いったい誰が、あんな壊れた代物を漕げるというのか。
あの音は絶対に、一輪車のものであるはずがない。
でも……だとしたら、何なのか。
正直、分かるはずもなかった。
ところが――ヒントは後日、意外なところで得られた。
職場の休憩時間中に、他の職員と喋っていた時のことだ。
「Bさんは徒歩で来てるんだっけ」
その年配の職員は、Bさんに向かって、そう尋ねた。
どのような会話の流れから出た質問だったかは忘れたが、Bさんが頷くと、「この辺は事故が多いから気をつけた方がいいよ」と忠告を受けた。
「Bさんが住んでるアパートのそばに、交差点があるでしょ。あそこは特に多いから」
「はあ。気をつけます」
「俺も結構前に、ひどいのを見たよ。小学生ぐらいの男の子なんだけど、友達と公園に向かう途中だったのかな。こう、手で一輪車を押して。それがいきなり、ふざけてその場で乗り始めてね。よせばいいのに、そのまま横断歩道を渡ろうとして、バランスを崩して――」
……そこから先の詳しい話は、やはりよく覚えていない。
ただその男の子は、
一つきりの、命とともに。
その話を聞いた夜のことだ。
――今日も聞こえるのかな。
Bさんが憂鬱になりながら、部屋で耳を澄ませていると、例によってベランダの外から、あの軋み音が聞こえ始めた。
……キィキィキィキィ。
……キィキィキィキィ。
昼間聞いた男の子の話が、どうしても脳裏に浮かんでしまう。
「いや関係ない、関係ない――」
そう自分に、懸命に言い聞かせていた時だ。
不意に――玄関のドアを、何かが叩いた。
――ゴンッ。
Bさんは、慌てて振り返った。
ノックではない。音は、ドアの下の方から聞こえた。
何かが風で飛んできて当たったのだろうか――。
そう思った刹那、また鳴った。
――ゴンッ。
まるで、誰かにドアを蹴られているかのようにも、思える。
Bさんは緊張した面持ちで、耳をそばだてた。
同時に、これまたやむ気配のない軋み音が、空き地から響いてくる。
……キィキィキィキィ。
そこへ、ドアが鳴る。
――ゴンッ。
部屋の玄関は、表通りに面している。裏向きのベランダとは、ちょうど反対側だ。
表と裏。両方から、奇妙な音が響いてくる。
……キィキィキィキィ。
――ゴンッ。
……キィキィキィキィ。
――ゴンッ。
耐えられそうもない。
少なくとも、ドアの音の正体だけでも知りたい。
Bさんは、恐る恐る玄関へと向かった。
ドアスコープから外を覗く。しかしそこには、ただ無人の廊下があるばかりで、不審なものなど見えない。
だが、鳴っているのはドアの下部だ。スコープの死角である。
――ゴンッ。
――ゴンッ。
……やはり、開けるしかない。
Bさんは覚悟を決めると、そっと鍵を外し、用心深くドアを押してみた。
――ゴッ。
一瞬、鈍い音が響いた。
ドア越しに、何かのぶつかる手応えが、確かにあった。
Bさんはそのまま勢いよく、ドアを押し開いた。
途端に目の前に、サッと何かが飛び出してきた。
「ひっ!」
思わず喉の奥から、悲鳴が溢れた。
それは――脚だった。
子供の両脚の、千切れた膝から下だけが、左右揃って、Bさんの真正面を横切った。
脚は、地に付いていなかった。まるで宙を走るように、それはフワフワと漂いながら、頻りに足踏みの動作だけを繰り返していた。
――いや、違う。走っているんじゃない。
――漕いでいるんだ。一輪車を。
運動靴を履いた血まみれの両足首の下に、何かがべったりと貼りついている。それが例のペダルだと気づき、Bさんはとっさにすべてを理解した。
……キィキィキィキィ。
裏の空き地からは、頻りに一輪車の走る音が、聞こえ続けている。
Bさんの見守る中、ペダルを漕ぐ両脚は、そのままフワフワと廊下を走り、どこかへ去っていった。
……キィキィキィキィ。
……キィキィキィキィ。
空き地の音がやむ気配は、やはり一向になかった。
もっとも、Bさんの前に両脚が現れたのは、この一度限りだったそうだ。
もしかしたら、「事情を知る」という行為そのものが、ほんの一瞬だけ、ある種のきっかけを作り出してしまったのかもしれない。
いずれにせよ、その後も空き地の軋み音は、Bさんが元の職場に戻る日まで、毎晩聞こえ続けたという。
……ただ、問題の空き地に街灯がなかったのは、幸いだったのかもしれない――と、Bさんは後で思った。
もしあそこに灯りがあれば、きっと毎晩、はっきりと見えていたに違いないからだ。
膝から下の無い血まみれの男の子が、ペダルを失った一輪車に
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